『子どもが扉をあけるとき・文学論』(松田司郎:著 五柳書院 1985)

8 「歴史小説」の方法

「すくなくともイギリスに限っていえば、歴史小説は児童文学の中で高い位置を占めている」(注1)と言ったのは、タウンゼンドである。
 なるほど、今日までのイギリスをふり返ってみれば、『アイヴァンホー』のスコットに始まり、スティーブンスン、コナン・ドイル、キップリング、トリーズ、ホッジス、ウェルシュ、バーネット、バートン、ガーフィールド、サトクリフ、ヘップナー、ペイトン……と、この分野で活躍してきた定評ある作家たちの名を、数えきれないほどあげることができる。
 もともとイギリスというのは、『天路歴程』や『アーサー王伝説』、『ガリバー旅行記』や『ロビンソン・クルーソー』に代表される血湧き肉躍る冒険小説の好きなお国柄である。そして、当然ながら歴史小説も他のフィクション同様に、子ども読者にとっては、まず何よりも「冒険談」である。
「子どもの本だけで、英国を再建することもできる」というポール・アザールの言葉(注2)はいささか大げさだとしても、三百年の児童文学の歩みの中で、定評ある歴史小説を量産し続けてきたイギリスの状況を見ると、南国に対する北国の想像力の優位さだけでは測れないものがあるのを認めざるを得ない。
 児童文学の中で、特に重要な位置を占める時期の一つに一九五〇年代があるが、(注3)その特色はその年代の最も優れたリアリズムの作品が歴史小説の分野に輩出したことである。バーネットやホッジスやウェルシュなど多くの作家が活躍したが、中でも群を抜いている作家がローズマリ・サトクリフであることは何人も異議をはさまないであろう。
 サトクリフは過去に材をとる理由として、「いまは、生きるにはとても刺激的な時代だと思いますが、私の好みにぴったりとは思えないんです」(一九七三年)(注4)と言っている。サトクリフの好みというのを代弁するように、へスター・バートンは次のように言っている。

  私は一種類の物語にしか関心をもっていない。それは少年少女がなにかおそろしい苦境か危険におちこむが、人の手を借りずにそこからはいだす物語である。
  二〇世紀のイギリスの生活は、少年少女にとってあまりにも安全でありすぎる。歴史の中には、作中の登場人物を危険の試練にさらしたいと考えているような小説家にとっては、血湧き肉躍るようなたくましいプロットがいくらでも転がっている。(注5)

 サトクリフが「刺激的な時代」と言い、バートンが「あまりにも安全でありすぎる」と言う今日の状況に対する表現は、極めて深長に使われているようである。「安全」というのは、生命を脅かされるという荒々しい試練を繰り返し突きつけられるような状況(つまり、少年といえども戦闘に巻きこまれるという過酷さ)からまぬがれているだけであって、今日の子どもたちは心の内部に傷を負っている。権利や処遇や物質的満足と引きかえに、心の絆や自己を見つめる目やとりわけ人生に夢を見る喜びを奪われてしまっていると見える。理性第一の管理社会では、物質的な欲望や刹那的な満足をあおりたてる「刺激的な」ものが氾濫している。それは、自己のうちに蔓延すれば、取り返しのつかない危険をはらんでいる。
 サトクリフやバートンがこう言ったのは一九七〇年代のことであるが、子どもを取り巻く状況は加速度的に変化している。先進国あるいは経済大国を中心に起こりつつあった困難な状況は、世界中に拡がりつつある。家庭内の不和、両親の欠如、離婚、アル中や麻薬による暴力、心身の病いは、想像を越えて深刻な問題を投げかけている。このような現実に対して、いつの時代でもそうであるが、文学は故なき挑戦を投げつけられる。
 とりわけ、ファンタジー(空想小説)やSFやメルヘンや歴史小説といった具体的な現実を土台としない分野については、特に風当たりが強いといえる。しかし、誤まってならないのは、現実をリアルに捉えないからといって、それらが即「現実逃避」になるとは限らないことである。私たちは、現実を離れ違った角度から眺めることによって、その本質に近づくことをしばしば経験していると思う。
 複雑な現実の社会の渦中に生きる人間の具体的な生き方を描写することによって、作者の理想とする人間像を提示することは容易ではない。
「ナルニア国」で著名なC・S・ルイスは児童文学という表現形式が自分に合っているのは「私が書かずにおきたいと思うものを書かずにおける」(注6)からだと言っているが、既にあげたような、社会構造や経済状況や精神の活動といったものが複雑にからみあってでき上がった今日の状況を思うと、子どもの本といえども、具体的な現実をとりだそうとすれば、「書かずにすまされる」領域はもういくらも残されていないと思える。
 猪熊葉子は、このようなリアリズム小説が持っている困難を歴史小説が免れていることが、イギリスにおける歴史小説隆盛の一因とし、更に、

  なぜなら、歴史小説は、すでに起こってしまい、その意義がはっきりと捉えられる過去の事件や、すでに生を終えてしまった人物を素材にして成立するフィクションであるからである。それらの事件の推移や人物の生涯の中に、充実した人生を生きるためには何が必要であり、また何が妨げとなったかを具体的に知ることができるからに他ならない。(注7)

と述べている。
 一九五〇年代以降、サトクリフやペイトンに限らず、多くのイギリスの作家は、思春期の子どもたちに多大の関心を寄せている。それはその年代の子どもたちの心の痛みに分け入ることが、人間にとっての本質的な意味を浮かび上がらせる有効な方法であることが理解されてきたからである。その年代の子どもたちにとって最大の関心事は、「生きる意味」をつかむこと、言い替えれば自己を発見することであり、歴史小説はそれに対して純粋なアプローチを試みる効果的な方法の一つである。つまり、歴史の中には既に生きてしまった人々の多くの貴重な生の記録が存在し、それが時代を越えて、現代の子どもたちに一つの指針を具体的な形で与えることができるのである。
 文学は、児童文学をも含めて、人間の“現実”を描くものである。ファンタジーであっても、歴史小説であっても、然りである。タウンゼンドは「歴史小説のテーマの価値は、それが永久に妥当性があるかどうかによってさだまる」(注8)と明言したが、言い替えれば、それを読む者の現実的な願望を下敷きにしているかどうかということである。
 生き悩む思春期の子どもたちがもとめているのは、優しさや同情や一方的な愛情ではない。自己という「主体」を見つけていく方法であり、それをぶっつけていく「場所」である。模索と懐疑と失望を繰り返しながら、子どもたちは成長する。まさにアイデンティティ(自己確認)の問題が、タウンゼンドのいう「永久に妥当性」があるかどうかという条件の一つであろう。
 サトクリフが「なぜ歴史的世界へ向かうか」と言う問いに答えて、歴史小説を書くのが好きな理由の一つにあげているのは、テーマとしての「純粋な英雄的徳」というものである。サトクリフは、現代にそれを見つけようとしても「稀薄になったもの」しか見つけられないと言っている。(注9)
 サトクリフに代表されるイギリスの作家たちの多くは、歴史の一時期に生きた“人間”の運命を描くことによって、少年期から青年期に向かって成長していく人間のありようを捉えるという、現代小説と共通する作家の課題に取り組んでいるのである。その場合、主人公の人生に対する挑戦において、必要欠くべからざるものとして、しばしば問われるのが勇気や友情、正義や徳性、自己を見つめる目といったものである。
 さて、歴史小説というものがどもような価値を持っているかを眺めてきたわけであるが、ではどのような条件が備わっていれば歴史小説と呼べるのだろうか。
 マリオン・ロックヘッドは二つの条件をあげている。つまり歴史小説は常に二つの問いに答えなければならないとして、「その時、何が起こったか」「人々はどんなだったか」(注10)という問題を提示している。
 これはスミスのいう「ストーリーと時代との融合」である。

  歴史という布地にストーリーは織物のたて糸のように織りこまれていなければならない。
  よいストーリーをもっていると同時に、過去の生活を復元し、現在とはちがう時代の雰囲気・味わいを捉えていなければならない。
  作者が、その時代におこった出来事の背後にひそむさまざまな原動力をよびおこしてみせるのでなければ、つくられたプロットと歴史的背景の間には、何の真の関係も出てこない。(注11)

 歴史小説が子ども読者にとっては、まず何より冒険談であることは既に述べたが、歴史という布地はどの時代をとりあげても、子ども読者には馴染の薄いものであり、なおかつ低年齢の子どもにとっては、時間の遠近や抽象観念を理解する能力は開発されていないといってもよい。
 よって、事件の渦中に読者をひきずりこむようなストーリーの力が要求されるのは言うまでもない。同時に主人公の生きる時代の雰囲気を効果的に伝えなければならない。たとえば、その時代の王や王子や姫、軍隊や兵士や馬や作戦、商人や百姓、家畜や獣、町やお城や乗物などがどんな様子だったかを、ストーリーとからませて描写しなければならない。
 歴史小説は、歴史と文学の両方からその価値を問わなければならないという特徴を持つ文学のジャンルである。故に歴史の事実にある程度の制約を受けなければならないが、史的データを越えて、過去の時代をどう見るか、その見方が問われていることも忘れてはならない。歴史と文学のどちらに重点をおくかという疑問は無意味である。文学である限りは、その本質が歴史ではなく、フィクションにあるのは言うまでもない。あくまでも創作することであり、想像することである。スミスが言及したと同じように、想像力と史料と筆力の結合である。
 時代(歴史)とストーリー(創作)との結合という点で、最もうまく成功している作品の一つとしてタウンゼンドは、ペイトンの「フランバーズ・三部作」をあげている。
 この三部作のテーマは、時代(第一次世界大戦)によって、古い体制、古い生活様式が破壊され、新しい形によって再生されることであり、タウンゼンドは「それ以外のどんな時代にこの三部作を移してみても、作品の力は失われよう」(注12)と言っている。
 さて、歴史小説に対する一般論はひとまずおいて、誰もが第一人者として認めるサトクリフの作品をみてみたい。ローマン・ブリテン三部作と呼ばれる『第九軍団のワシ』『銀の枝』(注13)『ともしびをかかげて』のうち、とりわけ『ともしびをかかげて』を中心に、作品の内側からその方法を眺めてみたい。
 この三部作の背景となっているのは、紀元前一世紀頃にローマ軍がブリテン島を征服し、その後長い間ブリテンを北方の蛮族の牙から守り、ローマ軍の兵士と土着民(ブリトン人)とが徐々に血を混ぜ合わせていく。しかし、四世紀に入ってからローマ軍は次第に勢力を弱め、代わって「海のオオカミ」と呼ばれる蛮族サクソン人が侵入をねらい、争いが繰り返される。
 サトクリフはこの三部作で、ローマ勢力が次第に衰えていくという大きな時代の流れに逆らう立場の人々を登場させている。
『第九軍団のワシ』は、負傷して現役を退いたローマ軍人マーカスが、様々な困難の末、蛮族の手に渡っていた父の所属した軍団の象徴である「ワシ」を奪い返す話である。
『銀の枝』は、皇帝ロウシウスが、サクソン人と組んだ謀反人に殺される時代に、マーカスの血をひくジャスティンとフラビウスは、ローマと連絡をとり、「ワシ」の下に志願兵を集め、激しい戦いの後、蛮族を追い返す話である。
 カーネギー賞受賞作『ともしびをかかげて』は、ついにローマ軍最後の軍団が船で撤退するところから始まる。
 主人公アクイラは、ローマ軍の一〇人隊長であるが、父と同様生まれも育ちもブリテンの土地であり、いわばブリトン人といってもいいくらいのものである。アクイラはローマ軍がブリテン撤退を決め、最後の兵士輸送船に乗り込む間際に脱走する。

  ……急にあらあらしい衝動につきうごかされて、アクイラは火起こし用の道具のしまってある青銅の箱のふたをあけた。そしてヒウチ石と、はがねと、ほくち箱とをとりだし、まるで時とたたかっているかのように、いそぐあまりにはがねで指に傷がつくのもかまわず石をうつと、薪に火をつけた。ルトピエの火は、もう一晩燃えるのだ。
  フェリックスか、アクイラの部下のあの老特務曹長なら、だれがこの火を燃やしているかわかるだろう。しかしそれは問題ではなかった。
 (略)ゴールの岸べからでもこの火は見えるだろう。そして人びとは、「ああ、あれはルトピエの火だ。」といいあうだろう。
  この火は多くのものに対するアクイラの別れの挨拶だった。それはアクイラの生まれ育った世界への別れだった。しかしそれ以上の意味があった。それは闇に対する反抗の印でもあったのだ。

 アクイラは、自分がローマ人ではなくブリトン人であることを悟り、自分自身の場所、つまり自分の一族の所へ帰る。サトクリフはこの主人公の胸の内を、ルトピエの火を自らもう一晩燃え上がらせる行為によって象徴している。火は北方の蛮族に対して自らの土地を守りぬくアクイラの決意でもあったのだ。
 サトクリフは、この自ら帰属する場所の問題を、カーネギー賞受賞に際しての「著者のことば」(注14)で執拗に述べている。つまり、四百五十年にもわたる征服者と被征服者との絆、ローマの兵士(といっても地方軍団は黒海から北アフリカ、さらにウェールズの沼地にいたる間の諸民族)と土着の民ブリトン人との血のまじわり、父方や母方の祖の多様性、複雑性と生まれ育った土地への愛着、未知なるもの、新しいものへの憧憬などによって、アイデンティティの問題を見事に捉え、現代の若者にも説得力を持つにいたっている。
 さて、アクイラは脱走し、父と妹と家族の者の待つ家へ帰るが、二日後にサクソン人に襲われ、農場を焼かれ、父や一族の者が皆殺しにされる。アクイラは蛮族の一撃で倒れ、妹フラビアが金髪の巨人の肩にのせられて連れ去られながら、アクイラに助けを求めているのを目にする。アクイラは、木にしばりつけられ、オオカミの餌食になるところを通りかかった他の掠奪者に奴隷として連れ去られる。北方のジュートランドの農場で三年間屈辱に耐えた後、部落の半分がブリテンへ移動するのにつれられて、タナタスへ戻ってくる。
 アクイラはあれほど考えた末にブリトン人であることを悟ったのに、今や土地も愛する者も奪われ、生きる望みすら失いかける。アクイラに自ら死を選ばせなかったのは、一つは妹フラビアに会いたいという願いであり、ふと耳にした父たちブリトンを守る者たちを裏切った鳥さしのかたきを打つという使命感であった。
 アクイラはサクソンの居住地で思いがけず妹と再会するが、一家を破壊した金髪の巨人との間に子どもをもうけたフラビアは、アクイラ脱走の手助けをするものの、一緒に逃げることを拒否する。
 問いつめるアクイラに対して、フラビアは静かに「いつだってそうじゃありませんか。男たちは戦い、戦いのあとで女たちは征服者たちの手におちるわ」とさとす。
 アクイラは奴隷の首輪をはめたまま一人で逃走し、山中で修道士ニンニアスに会い、食物と眠りをもらい、そして首輪をはずしてもらう。ここでアクイラは、裏切り者の鳥さしがサクソンの王ヘンゲストと手を取り合うブリテンの王ボーティガンに逆に痛めつけられ、修道士のもとに逃げのびて、三日目に死んだことを知らされる。妹の逃亡拒否と鳥さしの死は、アクイラの胸に大きな穴をあけてしまう。
 以後三度の再会で重要な役割を担う修道士ニンニアスに、「父上の信じておられたことを受けつぎなさい」とさとされ、アクイラは、ブリテンの王子アンブロシウスのもとへ旅立つ。
 物語の後半は、アンブロシウスの仲間に加わり、ブリテンを守るため、裏切り者のブリテンの王ボーティガンとサクソンのヘンゲストに戦いをいどむ中で、次第にアンブロシウスにとってなくてはならない側近に育っていくアクイラの姿を描いていく。
 しかし、アクイラの胸にぽっかりとあいた喪失感は癒されることはない。そして生きることの苦しさから無意識に身を鎧い、胸にあいた傷の痛みと相まって、アクイラのその後の人生に暗い影をつくっていく。それは、具体的には、アンブロシウスに勧められた政略結婚の相手、族長の娘ネスとの不和によって表わされる。戦いに明け暮れ、ネスの待つ家を忘れるアクイラ、愛する者との絆を断たれ、異国に無理やり連れ去られたネス、二人の間に生まれた息子にフラビアンとという父の名をつけても、家族という関係は存在しない。
 ブリテンとサクソン側の戦いは、均衡のうちにも波乱を含んでいる時、ブリテン側の有力な長が暗殺され、アンブロシウス陣は分裂し、アクイラの妻たちの国人は引き上げていく。
 しかし、妻ネスは国を捨てて、アクイラと息子をとる。この時初めてアクイラは、妹フラビアを許さねばならないことに気づく。
 物語は、修道士とアクイラの出会いを三度設けることによって、アクイラの心の風景をうつしていく。
 二度目は、サクソンに追われ、逃げのびてきた避難民の中に混じっていた修道士が、アクイラを見て、「少なくとも、まえほどからっぽにはみえませんよ」と言う。
 そして三度目の出会いは、この物語のクライマックスともいえる場面である。雌雄を決する激しい戦いの最中に、アクイラは敵方の若い戦士の顔にひきつけられる。それは妹フラビアそっくりだった。戦いが勝利に終わり、敵の敗残兵がりに喚声をあげている時、アクイラは傷ついた若い戦士を見つける。それは、負傷者の看護に来ていた修道士ニンニアスと再会した直後、彼の住まいに導かれる途上であった。二人はあらゆる手だてをつくし、その戦士を助ける。戦士は自分の母が敵方の将の妹と知ってから心を開き、国へ帰っていく。
 大勝利の祝いの席で、アクイラはブリテンの王となったアンブロシウスに全てを報告し、裁きに身を任せようとする。その時、その場にいた息子フラビアンは仲間を分けて進み出、父の脇に立つ。今まで父に心を開かなかった息子が、父の不名誉を分け合おうとしているーーそのことがふいにアクイラの胸の穴を埋める。アクイラはアンブロシウスによって許され、ネスと息子と三人の家庭という場の大切さを確認する。つまり、「じぶんではどうしてそうなったかわからないふしぎな方法で、アクイラは失ったフラビアをふたたび」取り戻す。フラビアとはもちろん、アクイラの妹の名であるが、ここでは心の拠りどころでもある<家庭>をも意味しているのは当然である。
 結末部分でのアクイラに語りかける、アンブロシウスの側近の一人ユージーニアスの言葉は、物語のテーマを明言している。

 (略)いつかルトピエの火が、最後のワシ(ローマ軍団)が撤退したあと、一夜燃えさかっていたというな。わしはいつもそれが、(略)何かの前兆ではなくて、象徴だったと思うのだよ。(略)われわれはいま、夕日のまえに立っているようにわしには思われるのだ。 (略)そのうち夜がわれわれをおおいつくすだろう。しかしかならず朝はくる。朝はいつでも闇からあらわれる。太陽の沈むのをみた人びとにとっては、そうは思われんかもしれんがね。われわれは『ともしび』をかかげる者だ。なあ友だちよ。われわれは何か燃えるものをかかげて、暗闇と風のなかに光をもたらす者なのだ。

『ともしびをかかげて』のテーマは光と闇である。あるいは死と再生、秩序と自由といってもよい。北方の無知の蛮族(闇)とローマの理想(光)が相対立し、反発し合い、混合し、まじわり、溶けこみ、また火花を散らすという時代(歴史)の状況は、そのまま主人公アクイラの人生の状態でもある。
 サトクリフは、起伏のある劇的なストーリーの中で、時代の動きと主人公の運命とを巧みに重ね合わせることによって、歴史が人間にとって何を意味しているかを鮮やかに浮かび上がらせたといえる。この物語も「フランバーズ」同様、「他のどの時代に移してみても作品の力は失われる」と言えるぐらい、時代とテーマが巧みに融合している。
 物語の終局でアクイラが息子フラビアンによって「光」を取り戻す場面は暗示的である。サトクリフは、勇気や忍耐や英雄的徳性といったものを少年期から青年期にかけて人生に挑戦する武器の一つにあげているが、ここでは私たちが本当に大切にしなければならないのは、人と人の心のつながりであることを訴えているようである。闇が押し寄せ、光との相克対立が繰り返されて歴史が移ろうとも、窮極土地と人間は残る。言い替えれば、歴史は過去と現在との継続であるのだ。長い年月が続いて現在に至ったことを自覚させることと、自分がどこからやってきたかというルーツを感じさせることもまた、現在という狭い地点に生き悩む若い読者たちに、しっかりと自己を見つめさせる力となりうるのである。
 さて、サトクリフの作品を前述した歴史小説の条件とその価値に照らし合わせてみると、いかがなものだろうか。登場人物たち(主人公アクイラ、妻のネス、クマの子アルトス、修道士ニンニアス、アーサー王伝説とだぶるアンブロシウス)が時代(歴史)の中にあって、実に生き生きと鮮やかに描かれているのがわかるのではなかろうか。ここにこそ、「歴史は人である」というサトクリフの信念が表われていると思える。
 幼いころポリオのため足の自由を奪われたサトクリフであるが、目に見える経験よりも目に見えない冒険(想像力)がフィクションにおいてどれほど大切かを、作品でもって私たちに示しているようである。

注1、5、8、12 高杉一郎訳「歴史的なアプローチ」『子どもの本の歴史』岩波書店収録。
注2 矢崎源九郎、横山正矢共訳『本・子ども・大人』紀伊國屋書店。
注3 一般的に一九三〇年の第一期黄金時代に対して、第二期黄金時代といわれる。
注4、9 「歴史と人と状況と」海外作家インタビューシリーズ・英国編(4)『子どもの館』一九七三年一〇月号・福音館書店収録。
注6 清水真砂子訳「子どもの本の書き方三つ」『オンリー・コネクトII』岩波書店収録。
注7 「歴史小説」『世界児童文学概論』東京書籍収録。
注10 清水真砂子訳「子どものための歴史小説」『オンリー・コネクトII』岩波書店収録。
注11 石井桃子ほか訳『児童文学論』岩波書店。
注13 『銀の枝』は一九八四年十月現在、未邦訳である。三部作は、The Eagle of
the Ninth (1954), The Silver Branch (1857), The Lantern Beaver
(1859)第一作と第三作が、猪熊葉子訳で岩波書店刊。
注14 猪熊葉子訳「著者のことば」『ともしびをかかげて』岩波書店、巻末収録。
テキストファイル化田代翠