『子どもが扉をあけるとき・文学論』(松田司郎:著 五柳書院 1985)
2 母であること子であること
イギリスの女流作家、ネズビットの『若草の祈り』(注1)は、引越しをするところから物語が始まる。場所は都会から田舎へであり、ボビーとピーターとフィリスという子どもたちを引率するのは、母さん一人である。引越しのきっかけとなったのは、突然の父さんの官憲への連行という、子どもたちには理解しがたい、そして理解できるような説明のなされない出来ごとである。社会的にも経済的にも窮地に追い込まれた母さんは、三人の子どもとわが身を守るために、それまでに蓄積したものを投げ捨てて、新しい変化を積極的に受け入れることを決意する。
子どもたちが、長旅ののち田舎に到着してお決まりの探検をするあたりは、父さん不在という淋しさと理由のない不安を感じながらも、新しい異質な世界に対する期待と冒険心にあふれている。
物語は、電灯のないランプだけという素朴な田舎暮らしの中で、三人の子どもたちが、まわりにある事物、とりわけ鉄道に興味を魅かれ(この作品の原題が The Railway Children というのもうなずける)遊びの精神を発揮して、彼らなりのやり方で、大人には単調と思える生活に楽しさと喜びを見出す様子を克明につづっている。苦闘する母の中に孤独と悲しさを垣間見る姉のボビー、唯一の男であることを自覚するあまり、母を助けようとするが、失敗ばかりしてかえって母を悲しませるピーター、崖くずれで線路がうまったとき、列車に知らせる旗を作るために姉と共に大切にしている赤地のペチコートを提供した末っ子のフィリス・・子どもたちは、三人三様に成長の節々を示しながら、自分たちの〈生〉を精一杯燃焼していく。物語は、父さんが誤解をとかれ、みなのもとへ帰ってくるところで幕を閉じるが、父さんを救ってくれたのが、子どもたちがグリーン・ドラゴンと名付けた列車に毎朝手をふりつづけて知り合いになった「老紳士」であるのは興味ぶかい。子どもたちの行動は、単刀直入で、時として深い思慮に欠けることがあるかもしれないが、その底にあるのは、真底そうしたい、そうすることによって力になりたい、という素朴な想いである。
『若草の祈り』を私が初めて読んだのは、ちょうど一〇年まえのことである。ネズビットには、他にも『宝さがしの子どもたち』や『砂の妖精』という評価の定まった作品があるが、私がこの作品にことさら魅かれるのは、どちらかといえば個人的な理由によるのかもしれない。私は、生まれてこの方現在にいたるまでに七回引越しをしているが、このことは特別多いとも少ないともいえないだろう。引越しというものが、単に場所の移動ではなく、それ以上のものと考えるなら、私にとって真の引越しは二度しかないだろう。そして、これも特別不思議なことではないが、二度とも、子ども時代のことである。
都会から田舎へ、そして田舎から都会へ・・これが、私の生涯のうちで特筆すべき二つの重大ニュースだった。三人の子どもを連れての母の引越しという点では『若草の祈り』に似てなくもないが、残念ながら当時二歳になっていなかった私は、大病を患っていたので、あとから遅れて父に連れられていったそうである。引越しの理由は、戦争という極限状況に追い立てられての逃亡(疎開)であった。私の年齢でいうと、結局二歳から六歳までの四年間を、鉄道もバスもない島根の山村で過ごしたのである。そこを去って、また都会(大阪)へ帰ってくる旅から想像したり、すでに小学校に通っていた兄から聞くと、一回目の田舎へ逃れる引越しの旅は、子ども心に期待と不安の入りまじった不思議なものであったのは容易に類推できる。
さて、ボビーたちのお母さんは、父さんにかわって生計を立てるという苦境の中で、原稿書きに励まねばならないが、私たちの母さんも似たようなものであった。さほどの収入にもならない仕事で、町へ出向いたまま家をあけることの多かった父にかわって、母さんは食糧事情の極めて悪い時代に、食べざかりの子どもたちを養わねばならなかった。生まれてはじめてクワをもち、桶をかついで、百姓仕事を始めたからだ。畑仕事の合間に衣服をつくろい、そうじ洗濯をし、川から風呂に水をくむという、文明の利器の助けを借りずに、さまざまな暮らしの行為もしなければならなかった。
しかし、その四年間で一番大きくなった兄でさえ小学五年、長姉は四年だったので、母さんの苦しさや淋しさをどこまで理解できたかは、極めてうたがわしい。『若草の祈り』の中で、長女ボビーは、母さんの中に人間が生きて死ぬまでの全体のサイクルを見るところがあるが、私はもちろん私の兄や姉たちに、そういう目があったとは思えない。母がわが子に寄せる愛情というものは、時として偏りを見せる場合もあるかもしれないが、概して混じり気のない一途で純粋なものがあると思える。山あいのへんぴな村で過ごした四年間の暮らしのすみずみに、私が今思い出してみると、母の目が具体的な形をもって、子どもたちを支えつづけていたことを、痛切に感ぜずにはいられない。
鉄道の線路の上を歩いてはダメとピーターにさとす母さんは、それが子どもたちにとってどんなにわくわくするような喜びであるかを知らないのではない。それが証拠に、母さんは自分も小さいときにしたと白状する。しかし、そのことが当時子どもであった母さんの「母さん」にどれさけ辛く悲しい思いをさせたかを忘れることができないのである。母というものは孤独なものである。子どもたちの回りにはさまざまな危険がとりまいている。ちょっとした不注意で生命を落としたり、とり返しのつかない事故にであったりする。しかし、そういった危険に身をさらすことによって、子どもが成長していくのも事実である。子ども時代のことをすっかり忘れてしまえば、ただ頭ごなしに子どもを叱ればいいが、そのことを知っているからこそ、ネズビットが描いた分身としての母さんは、人間としての厚みをもち、そしてそれゆえになお辛い立場に立たされているように思える。
ボビーは人が大人になってからでさえも困ったときに母さんのところにかけつけるのをやめないことがちょっぴり分る気がして、そんなとき、それからもうかけつけるお母さんがいなくなったようなときには、きっと悲しいにちがいないことが少しわかった。
ここのところは、ネズビットの内なる想いが、ふと独白させたのかもしれない。子どもにとって、なんとしても不可解で理解しがたいのは、時間というものの変化である。大人の入り口に立つボビーは、自分の母さんのなかに、子どもであったという存在を見ている。そして大人になった母さんにも、もっと年とった母さんがいて、それは時には、子どものときに想いを寄せたのと同じような気持ちで甘える存在であることを理解しようとしている。
しかし、小さな子どもにとっては、大人がかつて子どもであったり、子どももいつかは大人になり、やがてしわくちゃの老人になるなんてことは信じられないことにちがいない。
私たち四人兄弟が過ごした田舎暮らしは、好きなものを欲しいときに腹一杯食べられるという食糧事情にはほど遠かったが、ある意味ではまさに至福の幼年時代と呼ぶにふさわしいものだった。大人になって『若草の祈り』のような作品を読むと、気がつかなかった当時の母の内面世界を開かれたような気がして胸が痛むが、母と子の一方通行的な関係こそむしろ子ども時代における一つの真実ではなかろうか。
私たちの家のそばには、鉄道はなかったが、川があった。家のすぐ裏が小さな畑で、その向こうが竹やぶで、それを抜けると川だった。幅にしておよそ一〇メートル、流れの幅はせいぜい四,五メートルの小さな川だったが、私たち子どもの日々は、川とは切っても切れない関係だった。暮らしとしても、洗濯をし、なっぱを洗い、風呂に水をくんだ。子どもの遊びの領域では、川は、水泳をし、釣をし、イカダを組んで海賊ごっこをするところだった。大雨がふって堤が切れそうになった翌日は、土手の石がきにモズクガニがうじゃうじゃと這い上ってきて、ちりとりとバケツをもって突然のカニ捕獲大作戦を展開させたし、夏まえの夜には破れぼうきやはたキヲふりまわして、ホタル狩りに興じた。このように並べていくと、ほほえましい山村の子どもの風物詩ともとれるが、子どもたちの生活はさまざまなものによって脅かされてもいたのである。
時折B29が降伏勧告のビラを撒くために旋回したり、食糧難と不衛生のため貧血ぎみでノミやシラミや回虫にむしばまれたりしても、子どもにとっては母さんがいて自然があれば結構幸せであった。しかし、ある日突然母さんが倒れて、暮らしの歯車が止まってしまったときには、子どもたちはいい知れぬ不安と淋しさに見まわれた。母さんが、子宮をとるという当時としては大手術のために、遠くの町へ入院して幾日も家に帰らないということは、幼い私にさえ相当な打撃であっただろう。
『若草の祈り』の中で、長女ボビーは、母さんが倒れて寝込んだとき、夜も眠らないで看護婦長さんの役目をやり通すが、私たちの兄や姉には、そのような恩恵すら与えられなかった。ボビーは、熱にうかされて、母さんが次のようにいうのを耳にする。
母さんはよく一人言を言ったけれど、何を言っているのか分らなかった。一度は突然
起き上って「ママ、ママ!」とさけんだ。ボビーはそれがおばあちゃんのことだということ、 もうおばあちゃんは死んじゃったのだから呼んでも仕方がないのにそれを母さんが忘れていることを知った。
私たち四人兄弟は、母さんが一人で、バラック建てのような病室のベッドで苦しみながら何を考えていたか、そのときはまったく気付かなかっただろう。年子のように五年間で四人もの子どもを生み、戦争という得体の知れない怪物に事業をつぶされた父を抱え、母さんはそのとき何を考えていたのだろうか。これはもちろん、今の私だからいえることである。親子の関係というのは、親が子を想うのが自然で宿命的な姿である。
のどの手術を終えてまだ血の止まらない私を背負って、こわれるままにお稲荷さんのいつ果てるとも知れない長い石段を登ってくれたのは、母さんの病気の前だろうか。後だっただろうか。子ども心に、私はただ傷跡が痛いのと、私だけがそのような損な目をおったのが腹立たしくて、母にあたり、だだをこね通していたが、あのとき母はどんな気持ちだったのだろうか。自分の子どもがあのときの私と同じ年齢に育っているのを見ると、よけいに母と子の関係が想われる。 しかし、子どもというものは自分本位になりきれるだけの純粋さを持っている。遊びの精神で、あるがままの事物に働きかけて、小さな世界をふくらませる。子どもと親が互いに今ある立場に固執するのではなく、大きな人間のサイクルのひとつとして捉える視点を、ネズビットは『若草の祈り』に注入しているといえる。しかし反面、ネズビットは自分の分身である母の立場を強調しすぎたきらいがないでもない。私が幼年時代のあの四年間をふり返って想うことは、それがいかなる意味でも、私たちみんなのひとつの出発点になっているということである。
田舎から都会への第二の引越しは、いわば私にとって世の中へ出て行く区切りの旅でもあった。
しかし、母にとっては、それは混乱と不信の渦巻く都会へのUターンであったと思う。
注1 岡本浜江訳、角川文庫
テキストファイル化平山幸恵