『子どもが扉をあけるとき・文学論』(松田司郎:著 五柳書院 1985)

3 老いることの意味――老人と子ども
 つい先日のことだが、児童文学の読書会のようなある集まりで、「感銘に残ったような本を一冊だけ上げるとしたらあなたは何か?」というごくきらくな質問に参加者一同が順番で答えるというハメを経験した。都合よくぼくは一番最後に答えればよかったが、他の人の上げる本を思い起こしながら、二〇分ほどのあいだやっぱり子どもの本でないとあかんのやろかと、いささか不安な中ぶらりんの気持ちでいた。
 順ぐりで当たるたびに、恥じらいを秘めたやさしそうなお顔で自分の子ども時代をふり返ったり、最近出会った本への驚きをつつましやかに述べておられるさまを目のあたりにすると、ぼくより年配の人が多かったせいか、読書するゆとりというような、あったかいものを感じて快かったけれど、それは同時に児童文学そのものに対する信頼と愛情のようなものであったと思う。
 子どもの本がどんな年齢の人にとっても「楽しみ」を与えるものであるのは、他のジャンルの文学と同じことであると思うが、その楽しみがカタルシスを越えた明日へのかてを土台にしていることも同様であろう。そう思いながら、そして大変失礼なことを先ばしって考えていることを認めながら、僕はやはり今自分が生きているという重み(酷しさ)に心地よい距離をおくものとしての、あるいはかつての自分をも含めてまず子どもたちに対するあたたかい思慕の情を秘めたものとしての子どもの本という据え方を感ぜずにはおれなかった。
 子どもというのは大人の中ではふり返るもの、目を細めてながめるものでしかないのだろうか。「ぼくたちはいくつになっても胸奥に小さな子どもをもっている」という一見キザな匂いのするこのコトバは詭弁にすぎないのだろうか。眺めるのではなく、どうして一緒になって遊び、闘わないのか――。
 だが正直にいってこれらの感慨はその集まりから生まれたのではなく、児童文学全般が受けている一般的な誤解にうわのせしたぼく自身の偏見であろう。ぼくはある日突然子どもにさよならして大人へ変身するという人生のキッチリした区切りを決して認めたくないのである。子どもに独自の価値があるとしたら、それらはある日突然なくなって、もはやふり返ってほほえむ対象物にしかすぎないという論に立てないのである。
 幼児性というものは社会から見放されている幼児や老人によくあらわれるというが、それは現象面にすぎない。幼い心というものが、つくること(遊びの精神・空想)と人を好きになること(利己的なぐらい素直な気持ち)だとすれば、それらの価値は年を経るにつれて、形を変えて生きている限り、存在しつづけるものではなかろうか……。
 ――というようなキマジメな話はよして、さてとうとう「あなたの一冊は何か」が回ってきた。二〇分の間ぼくの脳裏をかけめぐっていたのは『石見日原村聞書』『草木おぼえ書』『洟をたらした神』『楢山節考』『たんぽぽのお酒』「ねんねこはおどる」といった本である。そしてはっとしたことは、そのどれもおばあさんが書いたかおばあさんが出てくる話である。《老い》ということがどのようなことか、子どもにとってまったく不可能なこの命題は今のぼくにも分かるはずはないが、これらの本は《老い》の内に秘めたすざまじい『生』を見事に描出していると思われる。
『たんぽぽのお酒』の中にこういう部分があった。ある古い家にガラクタに囲まれておばあさんが住んでいて、近くに遊びに来る子どもたちがのぞくと、にこにこ顔でてまねきしてそのガラクタの一つ一つを手にとって自慢そうに説明する。
「これはわたしが八つのときしていた指輪よ」「これは夫のジョンが一緒になるとき贈ってくれたドレス」「これは××劇場の入場券、ニューヨークで買ったカルーソのレコード、そのとき使ったジョンのトランク……」
 おばあさんにとってはどの一つもかつての日々自分を楽しませてくれた宝物である。おばあさんは自分が小さいときどんなに美しかったかを説明するのに一枚の絵ハガキを出してくる。それは、金色の巻き毛、青いガラスをふくらませたような目をしていたおばあさんの七歳のときの写真である。本当の小さな女の子たちは目の前のしわくちゃのおばあさんが写真の中の少女だとは信じるはずもなく、「うそつきのおばあさん! もう帰るわ」といって出ていく。
 おばあさんは腹立たしくてならず、次の日アイスクリームをおとりに子どもたちを呼び入れ、小さなとき身につけていた指輪やくしなどをみせびらかす。女の子たちはそれが今のおばあさんのものと思わず、一方的にとりあげて去っていく。おばあさんはなげくが、亡くなった夫のコトバを今はじめて真剣に考えはじめる。

「あの子どもたちは正しいのだよ。あの子たちはおまえからなにも盗っていったわけじゃないんだよ、いいかねおまえ。これらのものはここにいるおまえ、いまのおまえのものじゃない。彼女のもの、つまりあの別のおまえのものだったのだ。ずっと昔に」
「だめだよ、おまえ。おまえは日付でも、インクでも、紙でもないんだよ。おまえはこれからのがらくたや埃のトランクじゃないんだ。おまえはただ、ここにいる、いまの、おまえ――現在のおまえであるだけさ」
 ようやく、夫のコトバの意味をさとったおばあさんは、子どもたちに小さいとき使っていたものをなんでもあげ、残ったガラクタを裏庭につみあげて、火をつけて燃やしてしまう。「ただ、ここにいる自分」をみつけたときのはればれしたおばあさんの表情が思い浮かぶようだ。「みんなでポーチにいて、子どもたちと老婦人は寒さを暖かさのなかに取りこみ、チョコレートの氷柱を食べ、声を立てて笑うのだった。とうとう彼らは仲良しに」なったのだ。
 なんともスザマジイ『生』の謳歌ではないか。ブラッドベリという人は『ウは宇宙のウ』『火星年代記』などのSFで著名なおじさんだけど、これほどすばらしいの意味、生きる哀しさと歓びをつきつけるなんてスゴイと思ってしまう。
 フィクションである『たんぽぽのお酒』や『楢山節考』(深沢七郎)や「ねんねこはおどる」(ファージョン『本の小部屋』所収)などは老いることの美しさ醜さ、つまり生に執着する人間の美醜の諸相を描出して読者にその意味を考えさせる働きを持っているが、『石見日原村聞書』の大庭良美さんや『洟をたらした神』の吉野せいさんや『草木おぼえ書』の宇都宮貞子さんらは、老いて生きることの美しさ、楽しさ、豊かさをそれぞれの関わるお仕事の中で(ノン・フィクションとして)つつましやかに述べておられる。
 さて、ぼくが質問に答える番が回ってきた。「あなたの一冊は?」のきらくな質問に、結局ぼくは『石見日原村聞書』をあげたのだが、これにはもちろんわけがある。
 ぼくは幼年期を島根県鹿足群木部村というところで過ごしたが、その隣村にあたるのが日原村である。ぼくの村は、現在は津和野町と日原町とにいずれも内包された。だがふるさと嗜好というものがその本を選ばせたわけではない。古老たちの往事の暮らしぶりを聞き書きしていく中で、著者の大庭さんは、《現在》を見ているのである。
 明治四十二年生まれのこの老人は古き良き時代への思慕のそぶりは微塵も見せていない。江戸末期から明治への第一部、大正から現在への第二部を通してみると、そこに素朴に生きた人たちの庶民史といったものが浮き彫りにされ、序文を書いている宮本常一氏のいうように民俗学的に希有な資料でもあるが、どっこいこれは優れた文学作品以外の何ものでもない。
 自然の美しさ、神秘な不思議さ、それに身をゆだねていく人々の素朴な営みの美しさ――これはまさに深沢七郎氏の『庶民列伝』に匹敵するものである。老人たちの淡々とした語りの中に聞き手であり著者である大庭老人の楽しさや歓びをゆとりを持って味わえる生きることのメロディーがひびいている。
 ここにも《老い》の美しさと豊かさが光っているのである。そして、子どもというものを高みに立って見おろすのではなく、生きつづける長いサイクルの部分として、対等にあるいは同じ線上でみつめる酷しくて温かい視座があるのも事実である。
 先年なくなった農民詩人三野混沌の妻、吉野せいさんの『洟をたらした神』にも、人生の長いサイクルをいまを基点にしてふり返り、同時にさきをながめるといったふうがあった。
 大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したこの作品も、記録や思い出話でなく優れた文学作品である。日本の創作児童文学には概して老人の登場してくる作品が少なく、登場しても子どもの生活圏から風景としての捉え方のような気がしてならないが、一貫して《土》を追いつづけている鈴木喜代春さんの『十三湖のばば』には老いの問題があった。
 夫や子どもたちを貧困と無知と酷しい自然に次々にもっていかれたばばには、恐ろしいまでの哀感が漂っていたが、それはすんでしまった沢山の死に著者の目が吸い寄せられすぎていたせいかもしれない。
『洟をたらした神』にも夫や子どもの死は出てくるが、それらは総体としていま生きている老婆を照らし、なお明日にむかって質素に素直にがんこにいきる《生》のたくましいゆとり のようなものに高められていっていると思う。
 子どもの本はあくまでも子どもが主人公だという割り切り方にもうなずけなくもないが、そこに出てくる子どもは、この世に生まれ、二度目の誕生(注1)を迎え、幼年、少年時代を経て、青春をくぐり、人間的成熟をめざし、豊かに老いるという人生のサイクルをふまえた中での子どもであってほしい。
 宇都宮貞子さんのことは、ぼくが山に興味をもっていた頃『アルプ』という雑誌で初めてそのお仕事を目にした。
 信州という地に限りない想いをこめ、そこに生きる小さな植物や虫たちの世界を人間と共存する場として据えている。つまり、土にタネをまいて苗を育て、実らせて収穫する人たちと、その土に生きる植物や生物の暮らしぶりを精緻な筆でとらえ、いのちあるものの不思議さと敬虔さとを人間の生の営みにからませて描出したすばらしい讃歌である。
 もちろん、これには植物民俗としての記録価値があるのはいうまでもないが、それは草木の精霊たちが深々と息づき、その上に星が輝き、山々のひだがくっきりと浮かび、鳥が飛び交い、虫がうごめいている信濃の自然誌でもあった。さらにその自然と、そこに住む人々との関わり合いを語って、山村の生活誌にもなっている。これは、独自のスタイルの文学作品といわねばならない。
 草木や虫たちや月や星や風や光ははてしないマジックをもっているが、それらは自然の摂理や大きな営みと無縁ではない。それをふまえずして、幼いものへのメルヘンにとお星さんやお月さんやコオロギさんやお花さんを安易に思い浮かべるのはどんなにうすっぺらいものであるかをこの本は教えてくれた。
 宇都宮貞子というおばあさんは、毎日朝早く起きて路辺や畔に咲く小さな草木を見るのがたのしくてしかたがないという。彼女の描く世界は、人間が創り出す壮大なファンタジーよりもはるかに不思議で感動的である。
 それらは恐らく、創ったものでなく、ありのままを見ぬき、いのちのふるえるような美しさを感じることができたからだろう。
 彼女の作品は密かな愛読者がいながら長い間本にならなかった。この『草木おぼえ書』が世に出てから、作品世界の魅力ゆえに次々と本になり、今では『草木ノート』『八重葎帖』『春・夏の草木』『秋・冬の草木』『螢草抄』といつでも小さな世界にそっともぐりこむことができる。楽しいことである。



 私事になるが、ぼくのおばあさんは大変などけちだったらしい。
 祖母の信じたものは貯金通帳だけだったという。実の息子や娘たち(ぼくの母も含めて)も信頼するに足らなかったのか、彼らの証言も強烈なものだった。
 だがぼくにとっては、田舎の田んぼ道を日傘をさして川に泳ぎにいくぼくらについてきてくれたやさしいおばあさんの姿しか残っていない。大人たちは申し合わせたようにそのすざまじいゴウヨクブリを語ってくれるが、死ぬときまで貯金通帳をはなさなかったというその面影は、今思うと美しい思い出にひたり切ってよだれを流していた老人たちよりよっぽど生き生きとしていたと思う。
 父方の祖母については目も耳も不自由だったせいか、日だまりの縁側にちょこんとすわっている老ふくろうぐらいにしか思い出せないが、ほとんど機会のない母方と父方の祖母が町のぼくらの家に来たことがあった。
 ゴウヨクばあさんが目の不自由なばあさんをデパートにさそった。地下の食品売場で、試食のつくだにや新製品のハンバーグや西洋の菓子をつまみ食いして楽しむためだったらしい。
 心配してついていった母があとで腹をかかえて笑いながら語ったところによると、ゴウヨクばあさんに言われるままに試食品に手をのばしていた目の不自由なばあさんが、つくだにとまちがえたのかレジの横においてある輪ゴムのいっぱいつまった箱に手をのばしてつかむと、しきりにくちゃくちゃとやっていた。
 ゴウヨクばあさんはつかつかともどってくると、「これは新セイヒンのスルメの干したやつだから、もってかえってよく煮てから食おう」というようなことを言って、自分もひとつかみすると、たもとの中にすました顔をして入れたというのだ。ばあさんが輪ゴムと知って言ったのは確実だというのだ。これを見て笑うのはやさしい。だが、ここに一人の真剣に生き抜いたおばあさんの姿を思うと、ぼくも一緒になって新製品のスルメに手をのばしたくなってくる。



「いくつなの、ベントレー夫人?」
「七十二よ」
「十五年まえはいくつだったの?」
「七十二よ」
「若かったことなんかなかったんでしょ。こういうリボンやドレスを着たことは一度もないんでしょ?」
「ないわ」
「姓のほかに名があるの?」
「わたしの名前はベントレー夫人ですよ」
「そしていつもこの一軒屋だけに住んでいたのね?」
「いつもそうでしたよ」
「そしてきれいだったことは一度もなかったのね」
「一度もありませんよ」
「一億兆年の間に一度も?」
 二人の少女は老婦人のほうにかがんで、夏の午後、四時の圧縮された静寂の中で、答えを待った。
「一度もありませんよ」と、ベントレー夫人がいった。
「一億兆年に一度も」      
                     (『たんぽぽのお酒』北山克彦訳より)

注1
 アラン・シリトーは「子どもは二度生まれる」(『子どもが生きる』叢書児童文学第四巻、世界思想社)の中で次のように述べた。
「私たちはだれしも、子ども時代をよけて通ることはできない。だから、それがどんなものか知らないという言い訳は通用しない。子ども時代を通ってきた私たちは、実際には、一度生まれるのではなく、二度生まれたのだということを覚えておく必要がある。最初の誕生は肉体的なものであり、一つの存在が、暗やみから光の中へ姿を現わす命の戦いである。(中略)二度目の誕生とは、この肉体的分離のすぐあとから始まる精神的体験をさしている。それは衝撃にこたえて起こるゆっくりした反応であって衝撃のようにはっきりしたものではない。しかし、最初の肉体的誕生の衝撃の後遺症に私たちの一人一人が順応する仕方を教えてくれる。」(上野瞭・遠藤育枝=訳)
※『岩見日原村聞書』大庭良美、未来社、『草木おぼえ書』宇都宮貞子、読者新聞社、『洟をたらした神』吉野せい、角川書店、『楢山節考』深沢七郎、新潮社、『たんぽぽのお酒』レイ・ブラッドベリ、晶文社、「ねんねこはおどる」(『ムギと王さま』ファージョン、岩波書店所収)『十三湖のばば』鈴木喜代春、偕成社。
 テキストファイル化井出祥子