『子どもが扉をあけるとき・文学論』(松田司郎:著 五柳書院 1985)
8「児童文学」の日々
二月○日、編集会議。企画提案三つ。西独に渡り三年間小学校で小さな子どもたちと机を並べて学習して帰国した画家のMさんのドキュメント。テーマは教育。それと『仕事!WORKING』(スタッズ・ターケル、晶文社)のテーマを子ども読者用に料理できないか。つまり、真剣にナニカをやっている大人の姿を子どもに伝えられないか。あと一つは、ケニヤにある動物孤児院で実際にあった話をもとにした幼年絵童話。スタッフは私を入れて3名である。編集の仕事は、企画を立案しているときがいちばん楽しい。目の奥にまだ見ぬ本の表紙がちらちらする。もちろん、著者の書き上げた〈原稿〉を初めて手にしたときも疼くほどうれしい。
午後ケニヤ帰りの動物画家K氏に会う。ブッシュバックの夫婦のスケッチとハイラックスの写真を見せてもらう。現地で働いている神戸俊平氏(神戸淳吉氏の御子息)の原稿預かる。氏の元気な様子を聞き安心する。サイの母子と顔をくっつけるようにして笑っている写真のK氏の目がとてもいい。
夕方紀伊國屋書店に立ち寄り、児童書売場のT氏と雑談する。『指輪物語』に心酔している彼女は、近頃面白い本がとんと出なくなったと嘆くことしきり。川村たかし氏の新刊『毒矢』『投げろ魔球!カッパ怪投手』を購入し帰りの車中(所用計九十分)にて読む。短編集中の「毒矢」にウーンとうなる。氏の作品は何よりもまず文章がいい。テーマも深く味わいがある。
二月△日、同人誌『きっどなっぷ』の月例合評会で梅田まで出る。ガード下の喫茶店は電車が通るたびに激しく軋むが、十五年も通っているとその揺れが快い。柴田克子氏や高田桂子氏が上京し、最近の出席者は五名と寂しい。須藤さちえ氏の「手品師ロロ」に続き、青木智子氏の「影」という四十枚の作品をめぐって議論が白熱する。小説を書いてきた彼女が児童文学を書くとどこかにぎこちなさを感じるが、作品は鋭い。河野多恵子、小島輝正氏の選で第一回大阪女性文芸賞を受賞した「港へ…」という小説は、人間の内に在る自己というものを二つの時間の交錯の中でで鮮やかに取り出してみせた。暮らしや性や擬態といったものを露骨に表現しにくい児童文学というものはなかなか厄介ともいえるかもしれない。(注1)
彼女に勧められて、橋本治氏の『桃尻娘』を読む。日活ロマンポルノにもなったと聞くが、これほど十代(高校生)の心をリアルにつかんでいる作品は少ないと思う。児童文学において子どもを捉え切れないおのれの惨さを思って、脱帽、脱帽。
夜寝る前に荒俣宏氏の『別世界通信』と石井桃子氏の『幼ものがたり』を読む。降圧剤の飲み過ぎか、少し胃が痛む。
二月×日、夜、大阪国際児童文学館事業委員会に出席。館側、T氏、H氏、Y氏、館外、N氏、S氏と私。五月五日のオープンを控え、館の事業の一つとして児童文学の講座を最終的に検討。対象者別、クラス別、日数別など考えられているが、ゆくゆくは泊まり込み合宿や海外からの留学生の受け入れなど実現させたいものである。議題はその他多数、本年はグリム生誕二〇〇年、夢二生誕一〇〇年、グレアム没後五〇年などの年にあたり、事業企画もそれらとの関連を無視できない。
会議終了後、例によって千日前の“てんぐ”にてかやく飯で酒を飲み、ほろ酔い気分で最終電車に乗る。三日後に迫った月例著者開拓会議のために同人誌五冊にざっと目を通す。『亜空間』と『牛』はさすがに熱気がある。前者は、川村たかし氏、那須正幹氏、吉本直志郎氏が、毎号力のこもった作品を発表している。また、加藤、東尾、肥田、藤井諸氏も秀作を寄せている。この数号の収穫は那須氏の「約束」である。暗く重いテーマながら、ずしりとした読みごたえが残った。後者は、皿海達哉氏、日比茂樹氏、中野幸隆氏ほかが、毎号安定した作品を載せている。
二月□日、子どもの本専門店主催の絵本教室のシナリオ作りを任せられて四回目。絵本や童話というものは、先達が蓄積したものをなぞって出来上がる分野ではなく、オリジナリティが要求されるものである。それだけに「教える」という次元の無意味さを感じるが、そこは割り切っておのれに少しでもプラスになればといういじましさで乗り切ることにする。つまり、ここは私が創作勉強する場である。近頃大阪でも童話や絵本を学ぶコースが増えている。それだけ児童文学が一般化したと考えれば有難いことだが、童話や絵本が宿命的に包含しているわなが商業ベースにのって、一層美しく装われていく危険性がないわけでもない。
帰りの車中にて『パパラギ―はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集』を再読する。帰宅すると、末吉暁子氏から『でしゃばりおばけのおはるさん』が、あまんきみこ氏から『もうひとつの空』が届いていた。早速『もうひとつの空』を読む。この作品は『子どもの館』連載中から魅了されていたが、生(日常)から死(非日常)へとわけ入る少年少女たちの妖しいまでの哀感がズシリと伝わってくる。私自身幼いときに体験した「死」のイメージから逃れられないため一層重く深く味わった。近年にない優秀作である。
二月○×日、Y社のアンソロジーの企画に編集委員の一人として加わる。『ボクちゃんの戦場』の作家O氏(注2)の店を占拠する。今夜は第四回目のセレクト会議。国の内外を問わず現在まで発表された短編にすべて目を通す建て前。そうなると、未邦訳の秀作を入れたく、フィリッパ・ピアスの“Return To Air”やリチャード・ヒューズの“Don’t Blame Me!”が提案される。ヒューズのは私の勤務するB社から『ひろったまほうのレンズ』というタイトルで短編集を出しているが、近刊の早川文庫の『クモの宮殿』という中にほとんどまとめられている。短編集はともかくアンソロジーはなお売りにくいと言われてきたが、作品の質によるだろう。
今夜も最終電車。私の大好きな短編の一つ、舟崎靖子氏の「やい、とかげ」と佐野洋子氏の「きつね」を読み直す。佐野氏のは雑誌『飛ぶ教室』に発表された「あそばない」もよかった。連夜の疲れがたまり、手術後慢性化した腰痛がひどくなってきた。
二月△×日、久しぶりに動く書斎に乗る。一周四十分の環状線の車中に座して、今日は一日中「影ぬすびと」の想を練ることにする。電車の中は暖房はきいているし、運ばれるという快いリズムが思考に最適だし、それにいつまで乗っていても追い出される心配はない。この作品は四年前の闘病暮らしから書き出したが、未だに全体像を把握していない。もともとはマヤ・アステカ文明の世界を土台にした冒険ファンタジーなのだけれど、構想力の弱さ故か書き進むにつれて寄り道、回り道、ふくろ小路、もどり道と迷路の中でいたずらに時間を消費している。影を盗まれた主人公が黒い山へ影を取り戻しに行くという他愛もないプロットだけれど、影と合体して自己を形成するというテーマに固執しすぎているのかもしれない。ボルヘスの『幻獣辞典』と『世界の神話伝説・総解説』『世界の寄書一〇一冊』(自由国民社)をもう一度読み直す。
二月△△日、日曜日。K社の『児童文学アニュアル』、Z社の『図鑑・名作の本棚』の私の担当部分のゲラ刷りが送られてくる。「アニュアル」は採算ベースに乗せにくい企画かもしれないが、児童文学への貢献度は極めて大きいと思う。単なる資料の蓄積だけではなく、多様な方面からの確かな息吹きが伝わり、貴重な本である。
あまりに寒いので早々と布団にもぐり込み、奥田継夫氏の『子どもの色、空の色』、石沢小枝子氏の「再び子どものイメージ」(児童文学評論二〇号)久野昭氏の『火の思想』、河合隼雄氏の『昔話と日本人の心』を読む。
注1 今秋(一九八四年)二人の同人が処女出版をした。須藤さちえ氏は『けっこんしきにオムレツをどうぞ』(偕成社)という幼年どうわ。青木智子氏は『さよならの切符』(国土社)という連作二四〇枚の長編である。
注2 O氏とは大阪在住の作家奥田継夫氏のこと。『ボクちゃんの戦場』(理論社)は、映画化されることになり、今夏(一九八四年)から撮影に入り、新年(一九八五年)春には完成される予定である。この作品は私の大好きな作品の一つである。
テキストファイル化小田美也子