『子どもが扉をあけるとき・文学論』(松田司郎:著 五柳書院 1985)
10 アホウドリにあいにいった
ぼくは歩くことが好きである。歩く速さが、体に合っている。歩きながら、ものを考えたり、見知らぬひとと少しばかり話して、名前も聞かずに別れたりするのが好きなのだ。
こんな一文に出会うと、なんだかうれしくなってくる。阿奈井文彦の青春放浪記『アホウドリにあいにいった』(晶文社)の中の「ぼくのくず屋入門記」の一節である。
歩くことほど人間らしい素朴な行為はないのではなかろうか……と、ここ数年歩く想いが恋する想いにだぶって、いっそうやさしくぼくを押し包んでくるのを感じている。ただひたすら険しい山道を登っていた初々しい学生のころ、人並みに遅れないようにとぶざまながら必死に走っていた、今よりもっと若いころ―そのころにももちろん歩く楽しさは知っていたが、どうもぼくは目に見えない何かに追われていたような気がする。
ただ歩くだけなら、無意識に足を動かすだけなら、一日のうちに人間はなんと多くの時間を歩かされているだろう。だが歩くという行為は、やっぱり歩きながらものを考えたり、いきずりの人と少しばかり話しをしたりという固有の内面世界と無関係ではありえないだろう。だからぼくは、歩きたいという主体的な感情を湧きおこす道でないとだめなタイプである。
街中やビルの階段、通勤途中の雑踏というものは、歩く行為に俗っぽい目的をもたせてしまう。つまり歩いたあとのことに自分がひっかかっていかねばならないのである。ぼくは客観的な自分を意識しないで、情感のおもむくままゆきあたりばったりに散策したいのだ。内面風景と、外面の漠たる景色のスキマに入りこんで、チカチカとなる自分の固有の時間に身をゆだねたいのだ。とつぜん夜になったリ、朝やけになったリ、逆流したり、いつまでも小雨にけぶる夕暮れまえのうす明かりだったり……というぼくだけの時間ほど魅惑的なものはないと思うから。
阿奈井文彦は、銚子はずれ、長野わかれ、仙台一隅、新潟でガタガタ、函館から旅だて、福島でシマッタ……さらにサイゴン、スワノセ島……とサマになる旅先の名前が並んでいるが、ぼくがここ二、三年ばかり行ったところを思い出してみると、なんとなく「現代」や「文明」や「科学」からひたすら逃れ落ちていったような気がしてくる。
粉河(和歌山県)今庄、余吾(北陸本線)関(関西本線)有松(名鉄名古屋線)十津川(和歌山線五条よりバス)本竜野、津山(姫神線)平福(姫神線佐用よりバス)長府(山陽本線)彦根(東海道本線)新宮(紀勢本線)津和野、日原(山口線)間人(宮津線網野よリバス)
津和野はぼくが小学校一年まで住んでいた山沿いの城下町であり、新宮は十津川を下ってきてたどりついた港町である。同じところに二度三度と行ったこともあれば、一回切りのところも多い。たいてい一泊か二泊、長くて三泊であるが、旅というものは泊まりがけが条件というはずもなかろう。
これら以上にぼくがしばしば旅立つ先は、
八木、今井、大和新庄、御所、桜井、壺阪、岡寺、郡山、吉野、下市(近鉄線)五条、橋本(和歌山線)三日市町、住吉東(南海高野線)
などである。これらは気がむけば夕刻からでも手ぶらでフラッといける旅先だ。ぼくの一番好きな新庄や今井の町がすぐそばにあるので、関西に住んでいて本当によかったと思う。歩くままに、砕れかけた土壁や無雑作に組まれた軒下の竹格子、今も炊事に欠かせないポンプのついた古井戸などをのぞきながら、ぼくは自分だけの個有の時間が快く流れていくのを味わう。
喫茶店の椅子に坐り、市内の地図を見ながら、歩く方向を探す。ついでに「信濃毎日」をひろげて、おもに、広告を読む。広告は、その町の呼吸を知るのに役立つようだ。
“旅日記、行きあたりばったリ”の中の「長野わかれ」の一文である。
ぼくは地図を見て歩く方向を探すことはめったにやらないが、〈町の呼吸〉というところで、ぴーんとくるものがある。
ぼくが行くところは、どういうわけか昔の面影を残している小さな城下町や宿場町、門前町、商人町(なかには有松のようなシボリ染めの工業町もあるが)である。古ければ古い方がいいが、ほのぼのとしたノスタルジアとか、民家農家商家の学究的関心とはおよそ無縁である。それに復元したり、意識的に昔風を装った町はだめである。(これは民族村や観光化された高山等で痛い目にあったので)
だけど、どうしてそういうところに一人で行きたがるのかなあ―。自分でもはっきり分らないが、たぶん町それぞれにはその町だけの呼吸があり、〈時間〉を超越すればするほど、その呼吸がぼくにぴったりくるからなのだろう。だからといって、ぼくが今存在している時間からひたすら逃げたいと思っているのともちがう。どのみちぼくはウワベだけ勤勉なサラリーマン役を見事に演じているが、内面ではいつも茫々としている。このボウボウが何かとひきあうとき、初めてぼくは生きていると思う。何かというと、ときには「創る」ことであリ、ときには人をひたすら「想う」ことであり、そしてときには自己のボウボウたる閉じこめられた「生」をやさしく広げおし包んでくれる町の風景でもある。
八木の商人通りと最初に出会ったときは、からだじゅうがくらくらして、底の方でぼーぼー燃えてきて、思わずしゃがみたくなるような不思議なふるえを覚えた。あのときは、大和三山や橿原神宮の森を一日中歩きまわって、飛鳥川ぞいの道を北上するころに、ちょうど夕暮れどきになった。濃いあい色の山際に夕焼けの残り火がちろちろしているのに目を奪われていて、それからほどよいうす暗がりの通りに目を変えた。オンボロ自転車で豆腐を売って歩く人、大きな袋をひきずってゆっくり歩く父子連れ、窓辺に短かいアイサツを交わしてゆきすぎる娘たち―それらが裸電球の灯る通りに影絵のように浮かぶ。昼と夜のはざまの、いわば柳田国男いうところの黄昏(タソガレ→誰そ彼は)逢魔が時である。まぜ合わされた暗がりの中に、自分だけの魔法を夢見て何が悪かろう、と思いつつ、タタミ職人の仕事場や杉玉をぶらさげた小さな酒屋、穴倉のような駄菓子屋と次々に流れすぎるのに身をまかせていると、ガラリと格子戸が開いて魔法使いのおばあさん(?)がねこを呼んだり、路地からのら犬がぬーっと顔を出したりする。
ああ、ここに人々が生きて暮らしを立てているんだ。この町は水っぽくてかびくさいがなんだか妙な心地よさ、けだるさがある。そう思っているうちに泣けてくるのである。なぜだかは分らない。なぜだかを知りたいとも思わない。ただその町の〈呼吸〉に魅せられたのであろう。
ぼくは、蛍光灯とか白昼灯とかいうのが大きらいだ。すべすべしないからだ。それにガラスも大きらいだ。そこにいとも簡単に、いつわりの風景、いつわりのぼくを映しだすからである。〈呼吸〉の合う町を歩いていると、一枚一枚皮をはがされて、まるで飾らない生まれたままのすべすべした気持ちのいい自分にもどるのを感じるのだ。
今庄には五日間いた。ここだけが例外である。小さな山にそって細長くのびるかつての城下町、宿場町である。城というにはあまりにもおそまつな跡が山の上に残っている。すぐそばを日野川という冷たい川が流れている。ここに来たのは山本周五郎の「虚空遍歴」の放浪の主人公沖也の死に場所をみてみたかったからである。こういう不純な動機でたどりついた町は始めてである。
川べリに腰をおろして、毎日ぼくは町を見ていた。北陸特有の一階屋根のひさしがとてつもなく頑丈な旅籠や商家が軒をつらねている。豪雪時に二階から出入りするよう配慮されているのである。町には喫茶店が一軒もなかった。北陸本線のすぐ横の商人宿からは、真夜中になるとガタゴトと気持ちのいい音を立てて貨車がゆき交った。あんまり魅力的な音なので、夜になると眠れないのであった。雨がよく似合う町だった。雨はななめ下から見上げると白くけぶっている。そのけぶりに身をまかせると、だんだんすべすべしてくるのである。屋根も電柱も山も空も光る道もそして自己さえ、ぼんやりかすんでそういうものと一体化してくるのである。
自分の旅のことばかりになってしまった。おみやげを買うことを楽しむ旅というものをしたことがないので、本当いえばこんなのは旅といえないかもしれない。未知なる世界をのぞきみてやろうというディスカバー精神も皆無だから、どのみちこれは一発キザに、〈迷い道〉〈迷い旅〉といった方が無難だろう。
四〇近くなったが、青春のけぶたさをひきずって歩き回った幼なく若いころの放浪のことを回想するゆとりなんて湧いてこないから、やっぱりぼくのは信心のうすいぐうたらなお遍路さん的歩き遠足かもしれない。そんなお遍路さんなどおよそいるはずもないだろうが。『アホウドリにあいにいった』の表紙のおびのネームにこう書かれている。
〈阿奈井文彦の青春放浪記。戦場の村からヒッピーの島へ―ゆきずりの人びとの話に耳を傾け、その生活をルポした珍無類のエピソード、タメになる話を満載!!〉
逆説的に使われた「タメになる」というところで、ぼくはぷっと吹き出してしまった。タメになるというコトバはぼくが考えるよりもっと広くてのびのびしているとは思うが。しかし、ぼくはどうあがいても、通りすぎる町、その快い自分にあった流れを、なんとか押しとどめて、並列的にあるいは回想的に何かを考えようという意欲が一かけらもわいてこない。なんと非生産的な歩き方、生き方だろう。ぼくは、恐ろしいことだが、ひょっとしたらただ歩くことしかできない男ではなかろうか―。
ともあれ、この一冊が久しぶりにぼくのからだのすべすべした部分をくすぐってくれたのは確実だ。さて、ぼくもまたぼくのアホウドリに会いにいこう。
テキストファイル化小田美也子