『子どもが扉をあけるとき・文学論』(松田司郎:著 五柳書院 1985)
11 突然、メガテリウムが現われた! ―大人と子どもが出会うとき
一九八一年は創作において印象に残る作品は少なかったが、批評運動や児童文学をベースとして論じたものが際だっていた。いくつかを列挙すると、古田足日、砂田弘ほか藤田のぼる、宮川健郎ら気鋭の若手評論家による『季刊児童文学批評』、今江祥智、河合隼雄らの責任編集の『飛ぶ教室』、吉田定一、野上暁らによる『極光・子ども+評論』などの創刊。『幼ものがたリ』(石井桃子)『私の子ども文化論』(かこさとし)『現代日本児童文学への視点』(古田足日)『わたしの出会った子どもたち』(灰谷健次郎)『わたしの童話創作ノート』(寺村輝夫)『子どもと本の世界』(安藤美紀夫)などの発言があった。
巌谷小波・小川未明に始まり、やがて百年を迎える日本の児童文学が、一方に戦後の繁栄と虚飾の経済方程式を掲げながら、その実混迷と停帯の渦中にあって、児童と児童を読者とする文学の意味を多角的な視野から解明しようとする確かな手応えを感じさせられた。とりわけ、心理学や教育学、多様な文化や芸術ジャンルの側からその本質に迫ろうとする『飛ぶ教室』創刊の意義は大きい。
もとより児童文学は、子どもと子どもの本に直接携わる大人たちのみによって論じられるものではない。児童文学が真の自立を図るためには、あらゆる方面からの接触が必要であろう。
大人の文学側からの発言としては『書斎のポ・ト・フ』(潮出版社)があった。開高健、谷沢永一、向井敏の三氏が児童文学について言及した。(注1)いわば、『兎の眼』や『冒険者たち』という作品をあげて一刀両断に斬殺したのである。
残念なことに、本質を問うよりも、日本の児童文学一般に内包されていると思われる「ひ弱さ」「甘さ」についての放談(印象批評)に終わっているが、百万を越える読者を獲得したと思われる『兎の眼』(推定発行部数一三〇万、灰谷健次郎)や『窓ぎわのトットちゃん』(推定四二〇万、黒柳徹子〉(注2)は大人読者にとってどういう役割を演じたのだろうか。果たして子ども読者にとって毒にも薬にもならない作品だろうか。欲をいえば、子ども読者の視点から、子どもを読者とする「文学」の本質に迫る発言がほしかった。
それはともかく、私たちに今必要なのは、児童文学独自の表現方法の追求と、大人にとって子どもとは何かという人間にとって避けることのできない命題への探索ではなかろうか。その問題を捉える道筋で、私が私なりの方法で内なる「子ども」の姿を認識したことを記してみたいと思う。それはまさに一九八一年の私の「児童文学の状況」でもある。
児童文学を聖域化の象徴として捉えたり、捉えようとすることほど悲しいことはない。それは蟻地獄にひとしい罠である。長い間私は小さな放浪(策略)をくり返しては、なんとかしておのれを励まし、奮い立たせようと焦っていた。《逃避》による陶酔と麻痺と嘔吐の混濁の中で、なお自分をいたぶりつづけてきたのは、書くという行為に対しておのれの中にどれほどの誠実さが残されているかということであった。自業自得であった。人は「書きたいから書く」という以外のいかなる名分をも持ち得ないはずなのだから。私が許しを乞うていたのは、「子どものために」書くという欺瞞的な行為に対してであった。どれだけ目を凝らしても、私には内にも外にも子どもの姿は捉えられなかったのである。
私に、子どもの姿を垣間見させてくれたのは、『子どもと本の世界』の中の次の一文であった。
いずれにしても、私は、その不思議な世界を探険する必要を感じていた。
そして、ある日、私はその探険を決行した。そこにあるのは、灰色のすすと、くもの巣と、むっとする暑さと、暑さとまじった古さの臭いであった。煙出し穴からはいってくる光で、そこは思ったほど暗くはなかった。しかし、何本か細長くあいた煙出し穴は、そこだけきわだって明るく見えるせいか、異常に遠く見えた。その時、私は今までに感じたことのない恐怖を覚えた。(注3)
これは、子どもにとっての異次元世界を、子ども時代に過した京都の家にある煙出し穴という現実によって自ら確かめたときの安藤美紀夫氏の回想である。そのときの「異次元空間のとりこになる」という「魅力的」な恐怖感覚が、私自身の子ども時代と大人時代を隔てている狭間にくっきりと浮かび上ってきたのである。しかし、私がこのことに気付く伏線として、もう少し前のあの不思議な経験のことを述べねばならない。
そのとき、私は病室のベッドの上に横たわっていた。腰の手術のため長い間身動きできず、小さな窓から入ってくる六月の陽光が白い天井にちらちらと踊るような波模様を描くのを飽きずに眺めていた。苦痛や疲れや不自由さ、葛藤、みじめさというものは、極点まで押し拡げられると、ふいに引き伸ばされ、溶け合わさって、快い昏倒に似た倒錯感に変わる。時間さえゴム紐のように弛緩され、宙吊りにされ、ぐるぐる巻きにされ、いまからいまへと続く時間の流れを見失ってしまう。とろとろと夢ばかり見つづける。目覚めているときは、それまで見た切れ切れの夢をつぎはぎ細工のようにつなぎ合わせて、幻像が叫んでいるもののことを考えようとした。そうしているうちに、私という一点を中心にして、さまざまな想いが混ぜ合わされ、ぐるぐる回りだし、しびれるような懈怠と恍惚の向こうに、私は不思議な風景が透けてくるのを見た。
果てしなくつづく薄墨色の広がりを切り裂くように、一人の男が走っていた。男が手にした棒切れのようなもので虚空をたたくと、そこらじゅうがちかちかと震え、男の走り去ったあとから、闇が群青色の空と黄金色の野にわかれて、球形の広がりをどこまでも伸ばしていく。ちかちかと鳴る音色や、風のように駆けるさまが、あんまり浮き浮きと楽しそうなので、私は負けずに駆けながら、男の顔を一目見たいと思った。並んで毎日駆けているうちに、私は一歩男を抜くことができた。振り返った私は、そこに五歳ぐらいの少年の顔を見た。少年は顔一杯で笑いかけ、大きく口をあけて叫んでいた。その顔がかつての私の顔であるのに気付いたとき、そしていつのまにか私がするりと少年の中に溶け込んでいったとき、私の中で何かがパチッとはじけた。突然私は、長い間忘れていた子ども時代のあの疼きが、身体をタテに引き裂くのを覚えた。私の前方には、空にくいこみ、流れ溢れ、海のように広がる銀灰色の光の幕があった。それは紛れもなく島根の山村を流れていた川の広がりであった。私は五歳の少年にかえって、川に沿って飛ぶように駆けた。
それは、C・S・ルイスが「喜び(ジョイ)」あるいは「法外な祝福」と名付けたようなものだったと思う。ありふれた日常性を跳び越え、存在の根源を突き動かす恐怖や悲しさや苦痛にさえ似た感情だった。心の底には無意識の深層があり、それをどこまでも降りていくと生命(いのち)の根元に突き当たる。そこには、私たちが人類の原書のときから受けついだものが、海のうねりのようにつまっていて、それが意識の層に放射されて自己を形づくる―といったのは心理学者のユングだが、そのとき私が感応したのは、心的エネルギーが風景によって表象されるありのままの事物と触れあうことによって生じる一種の陶酔霊感だったと思える。
それは、どんな満足感よりも願わしいものだが、決してみたされることのない渇望というものである。わたしはそれを「喜び(ジョイ)」と呼びたい。このことばはここでは特殊な意味に使っているのであり、幸福やただの楽しみとははっきり区別しなければならない。たしかにわたしが言う「喜び」は、そうしたものと共通する特徴をそなえている。つまり「喜び」を経験した人間は、だれでもふたたびそれを求めてやまないという事実である。その点を考慮の外におき、また「喜び」の本質だけを取りあげて考えれば、「喜び」を特殊な不幸や悲哀と呼んでもいいと思う。だがそう呼ぶにしても、人々が切実に求める類の経験であることに変りはない。これを一度味わい知った人間が、選択をせまられて、「喜び」を捨てこの世の他の楽しみを得ようとするとは、わたしには思えない。(注4)
ルイスはこういう経験を三度味わったという。一度は、ある夏の日すぐりの花の咲いている藪のそばに立っていて、そういう喜びが何の予告もなしに、数世紀前の彼方からやってきたかのように心の中に湧いたという。あとの二度は本を読んでいたときだという。ルイスは「わたしの人生の中心をなす物語はこれ以外にない」と言い切った。私のことを振り返ってみると、そういう経験が二度あったと思う。と思うというのは、今思い出してのことであり、子どものころにはもっと多かったはずである。一つは、既に述べたごとく、五歳のとき蛇行する川を曲がって、そのむこうに銀色の帯となって広がる風景を見たときである。一つは、九歳ぐらいのとき父と釣船に乗っていて、まだ明け切らない東の空から朝焼けの雲が紙吹雪のように流れだしたのを見たときである。それはまさしく「法外な祝福」といえるようなもので、私の内にあるものが、理由もなく何かに触発されて、感電され、魂が打ち震えたとでもいうようなものだった。
今になって考えると、それは三十数年前とボルト(強さ)はちがっても、昨年病室のベッドの上で垣間見た五歳の私の前方に広がっていたものと同質のものだった。こういう経験(Joy)というものは、決して求めて得られるものではない。思い出や回帰の中にあるのは、哀愁や感傷に色付けられた「楽しみ」ではあっても、自己を連れ出したリ、跳び越えさせたリ、目の前がいっぺんに開けたと感じるような疼きではない。しかしながら、私たちはそれに近づくことはできるし、そういう受信に対する感度や選択効率を上げるてだてはあると思う。
ルイスは、三つの経験のうちの二つまでが書物(ことば)によって喚起させられたと述べている。私の場合、書物によるそれは、ルイスほど強烈ではなかったが、記憶に残っているのは、高校生のときに読んだ『異邦人』(カミュ)と『鹿踊りのはじまり』(宮沢賢治)であった。あるページのあることばのところにくると、突然何かがパチッとはじけたのを覚えている。前者は、アルジェの海岸シーン「太陽の光はほとんど垂直に砂の上に降りそそぎ、海面でのきらめきは堪えられぬほどだった」という箇所だと思うし、後者は、「太陽はこのとき、ちゃうどはんのきの梢の中ほどにかかって、少し黄いろにかがやいて居りました」というあたりだった。
それから、大人になってからやや質は簿められたかもしれないが、『やし酒飲み』(エイモス・チュツオーラ)や『たんぽぽのお酒』(ブラッドベリ)や『指輪物語』(トーキン)や『さる王子の冒険』(デ・ラ・メア)があった。記録物であるが、プレスコットの『ペルー征服』や『マヤ神話―チラム・バラムの予言』(ル・クレジオ原訳)や大庭良美の『石見日原村聞書』もあった。それらの何処に魅かれたのか定かではないが、物語全体というよりも作品世界が聞きて(読者)に対してふと露呈させる語りのことば(始源のことばの網)によるのではなかろうか。
天澤退二郎は、それを「風景のエマナシオン」(注5)といい、「語りのオリジン」(注6)といったが、作品世界(風景)がゆるぎなく構築されているとき、私たちはある種の言葉(語り)の持つ物質性(原形質性)に内なる叫び(心的エネルギー)がひびきあって、自己を開示するという喜びを受けるのではなかろうか。それには、ある種の構えを解くという心の動き(無意識性)が必要であると思えるが、私の数少ない経験によっても、心が開かれた状態になっていることこそ、子どもと呼ばれる存在の本質的な証しではなかろうか。
私は、今とても不思議な気持ちである。私の内なる子どもは、あるときは十歳の少年であり、二歳の幼児であり、五歳の子どもである。彼は私の意のままにならないから、全然姿を見せないことが多いが、おぼろげながら語りかけるべき相手が見えてくると、「書かねばならない」という意固地で求道的な精神がうすれ、数十年前に水をはねかして川をのぼったときのように、浮き浮きと落ち着いた快い気分にひたることができる。
『かいじゅうたちのいるところ』という絵本でお馴染みのセンダックは、自分の中にはかつての子どもが住んでいて、いつも連絡をとりあっている。少なくとも一日一回接触しなくては気になる、といっている。彼の暮らしにとって、もう一人の彼(子ども)が、非常に深く関わっているようである。
私が大人として手にするさまざまな喜びは、私がそれらを同時に子どもとして体験するという事実によって、高められるのです。たとえば、秋が来ると、大人としては、やれ、これで涼しくなってくれる、と思うのですが、それと同時に、私はまるで子どもみたいに、雪が降って、そりが初めて使えるようになる日を指析り数えて待ち始めます。(注7)
私は、児童文学から手痛いしっぺ返しを受けた。混迷といなおりは、もちろん今もつづいている。幸運の女神によって、児童文学というレッテルを貼られて、虚飾され、出世させられた私の分身(作品)は、借りものの豪勢な衣裳の中で、身をかたくし、どうすればその姿を必要以上に大きく見せることができるのかを考えることで精一杯だった。それは、児童文学を私の方にたぐリよせようという性急で打算的な想いの結果であった。私は、自己の内にも外にも語りかけるべき相手を持たぬまま、強引に傲慢に子どものために書こうと意気込んでいた。
私は、四〇に手が届く年になって、ようやく語るべき対象を捉えつつある。今私は「彼」と積極的に連絡をとりあい、協力して一つの遊び世界を構築しようと意図している。つまり、彼が感じたり、見たり、創ったりするものを、貧弱ではあるが私という大人の技術(アート)の助けを借りて、再創造し、新たな世界を一層深め、楽しもうという計画である。
ファンタジーが想像力によって生み出されるのはいうまでもないだろう。想像力というのは、実在しないものについて、イメージを形成するものである。あるいは、実在するものに助けられて(そのイメージを歪曲して)別の新しいイメージを形成するものである。いわば、抽象の世界からの生命(いのち)を作り出す力であるといってもいいだろう。
トーキンは、ファンタジーは第二の世界をつくることであるとし、それを「準創造」というふうに名付けた。そして、私たちがそのような行為をなすのには次のような意味があると説いた。(注8)
第一に、それは外部の世界と内部の世界の間に理想的な関係をつくる。そのことによって、私たちを内と外からとりまく世界を深め、豊かにし、広げる。第二に、曇りのない視野をとりもどし、倦怠から回復される。つまり、荒々しく驚異に満ちている宇宙に対して新鮮な感応をとりもどすことができる。
大人にとっては不思議なことかもしれないが、これらのことを意識せずに行っているのが、子どもという存在ではなかろうか。子どもは、現実にして非現実という虚構の中で、遊びの秩序に従って、山をつくり、海を広げ、城を築くというふうな創造行為を成しとげているのである。このような無意識の力の奥底に、ルイスのいう「喜び(ジョイ)」の秘密があるのではなかろうか。
私の場合、私の内なる子どもとの関係は、もちつもたれつである。せいぜい仲よくしたいと思うが、彼はとても自惚が強く、移り気で、わがままで、はなはだしく私の意にそむく。そうはいっても、遊びに熱中しだすと、思いがけず好意的にも見える。現時点での彼とのもっぱらの会話は、
「ビュン、ビュビューン。投石器からまっかに焼かれた石が放たれた!コヤ王子は急いで岩かげに隠れると、そこに突然メガテリウムが現われた!」
――おい、おい、それはなんじゃ?
「クマのお化けのような怪物や。メガテリウムは、長い舌で王子の顔をサーッとなめた。王子は名剣チラコスを抜きはなつと」
――えっ、そんな剣いつ身につけとったんじゃ?そら、唐突すぎるわ。そこはやな、せめて、王子はふと傍の岩陰に光るものを見つけた。咄嗟に拾い上げると、それは目も眩むような光を放った……と、こういう具合にやなァ……
「あほくさ。おっさん、そんなぶつくさいうとったら、王子は負けてしまうで、もっと本気出せ!」
といったあんばいである。
私は、共同製作者であり、語り手兼聞き手である対象を見つけたが、児童文学を利用して、おのれの安寧と虚栄を図ろうとするさもしい打算や野心が、なお形を変えて存在していることを否定できない。しかし、少なくとも私と彼とのこのお話ごっこは、私に何もかもを忘れさせるような喜びを与えてくれる。この向こうにこそ「法外な祝福」と同質の喜びが存在し、私にとっては、それを土台にしてこそ児童文学の本質に近づくことができると信じている。
とはいえ、このごっこ遊びには、非常に危倹な罠が待ち構えているのも事実である。一つは、それらを繁ぎ止め、客観化する技術(アート)の未熟さのままに、言語化(作品化)という形式にこだわりすぎることである。一つは、そして更に酷(きび)しいことは、私も彼も過去の中に存在しているのではなく、常に新しく成就される「いま」という時間の中に生きているということを忘れることである。互いの行為が、内にこもるのではなく、外なる世界の「現在」に対して、(結果としてではあるが)力を発揮し、革新し、深め、広め、豊かにすることでなければ、それはただ逃避や哀憐や回帰や自己憐憫という慰め合いにしかすぎない。注意しなければならないのは、内なる世界と密接に連関している外なる世界に対して、常に緊迫した目を向けていなければならないということである。
八〇年代に入って、児童書市場の量的繁栄(?!)は当分続くだろう。返品率四〜五割の現状を横目で睨みながら、なお新刊を発行しつづけねば売上げが計上できないという読者不在の経済方程式の持つ悪循環はすぐには解消されないだろう。しかし、一九八一年は私と彼にとっては幸せな年であった。今後日増しに熱を帯びてくるであろう私たちのごっこ遊びの材料となる冒険ファンタジーが多く出版(翻訳)された。『ゆらぎの詩の物語』(わたりむつこ)『屋根うらべやにきた魚』(山下明生)『グリーン・ノウの石』(ボストン)『時の旅人』(アトリー)『光の六つのしるし』『みどりの妖婆』(「闇の戦い」1、2、クーパー)『かってなカラスおおてがら』(エイキン)『鏡のなかのねこ』(シュトルツ)『魔術師ガザール氏の庭で』(オールスバーグ)『シルマリルの物語』(トーキン)などである。
中でも印象深かったのは、ボストン夫人が八十四歳のときに書いた『グリーン・ノウの石』。これは〈グリーン・ノウ〉シリーズの最終第六巻であるが、相変わらずのみずみずしい筆運びには驚く。主人公のロジャー少年を中心に前五巻に登場したトービーや、リネットやアレクサンダー、スーザン、ジェイコブといった子どもたちが現われるが、彼らの楽しさに魅かれてオールド・ノウ夫人が小さな少女にもどって再会する場面に心打たれた。〈グリーン・ノウ〉シリーズは、いわばボストン夫人の胸の中に生きる子どもたちの話であるが、少女 ボストンの登場により、彼女が執筆する動機というものが鮮やかに浮かび上ったような気がした。
著者没後四年にして出版された『シルマリルの物語The Silmarillion』は、『指輪物語』第三紀をはるかに遡る世界の第一紀の事蹟を記したものである。未完、未整理の大作を刊行可能なテキストに仕上げるに当たって息子クリストファが尽力したと言われるが、「世の初まリ」を記した本書を読むと、トーキンの神話世界が揺ぎなく構築されていたことに改めて驚かされる。
人は「書きたいから書く」という以外のいかなる名分をも持ちえないのは自明の理であるが、その必然性を支えているのは、自己と世界との関係を酷しく見つめていこうとする目にあるようである。内なる「子ども」は、偶然盲目的に出会うものではなく、自己を内と外からとりまく世界に対する絶えざる執着の内に透けて見えてくるものであろう。残念ながら、私の場合、自ら恣意的に創り上げた幻像に酔っているというのが、正直なところかもしれない。
注1 「末はオセロかイヤゴーか・児童文学序説」潮出版社、一九八一年九月。
注2 『出版指標年鑑一九八二』全協・出版科学研究所による。
注3 安藤美紀夫、『子どもと本の世界』角川選書。
注4 早乙女忠、中村邦生共訳、『喜びのおとずれ』ルイス自叙伝、冨山房。
注5 『宮沢賢治の彼方ヘ』思潮社。
注6 『《宮澤賢治》論』筑摩書房。
注7 ナット・ヘントフ、清水真砂子訳、「かいじゅうたちにかこまれて」『オンリー・コネクトIII』岩波書店収録。
注8 猪熊葉子訳、『ファンタジーの世界』福音館書店。
テキストファイル化小田美也子