『ページのなかの子どもたち・作家論』(松田司郎:著 五柳書院 1984)
6 ガーナーの神話世界
1 人間の滅亡
あの子たちは光の乙女たち=i月の娘たち)といっしょに旅をし、かのじょたちはあの子といっしょに北風のうしろから出てきたのだ。いまあの子はここへ帰ってきている。だが、光の乙女たち はすき好んでスーザンと別れたわけじゃない。つまり、あの子を利用すれば、かのじょたちはこの世界からずっと遠ざかっていたかのじょたちの力――古い魔法=\― を目ざめさせることができるかもしれないからだ。それはわれわれが支配しようとしても不可能な魔術なのじゃ。こころの魔法であって、あたまの魔法ではない――だから、感じることはできても、知ることはできない。(注1)
冒頭に『ゴムラスの月』からの一文を引用したのは、ここにガーナーの作品世界が象徴されていると思えるからである。
「あたまの魔法」はハイ・マジックと呼ばれ、老賢人キャデリン(魔法使い)の支配できる魔法である。それは思想と呪文のマジックであり、いわば人類がその文化を発展させる原動力となった理性や知識や聡明さである。
「こころの魔法」は、オールド・マジックと呼ばれ、古い時代から生き残った太陽と月と血の魔法である。かつてハイ・マジックは、荒々しくて手におえないオールド・マジックを封じこめてしまったのであるが、そのために新しい問題を人間に持ちこんだのである。
魔法にはもう一つ、ブラック・マジック(悪の魔法)というものがあり、これは邪悪な心をもった暗黒の王ナストロンドが使う魔法なのだ。
ガーナーは第一作『ブリジンガメンの魔法の宝石』(1960)以来、『ゴムラスの月』(1963)『エリダー』(1965)『ふくろう模様の皿』(1967)と、常に神話・伝説を素材にして、それを≪現在≫に再生してきた。いいかえれば、古い魔法の時代に現在の人間(少年少女)を送りこむことによって、その亀裂からから生じる無意識の根源的エネルギーに形を与えることが主要な作業であった。
このことの意図は、最初の二冊にもっとも端的に表されているし、彼自身が「そこで表現されているのは風景にこだまする一種の叫びなんだ。この二冊の唯一のとりえは、風景に対する感覚と人間に対するユング的な感覚だけだ」(注2)といっているように、根元的普遍的な人間の感性(=エネルギー)がはるかな神話の時代から≪現在≫を貫いて伸びていることの意味づけにもなっている。
ガーナーは、作品の題材に好んで神話を使う理由を次のように述べている。
それは、エネルギーの再構成なのだ。神話は高度に凝集された経験の型、つまり。念入りに磨き上げられた素材なのです。それは、無名の人々の潜在意識をくぐりぬけることによって、ついには、ほとんど純粋のエネルギーといえるものにまでなっている。この古い樽につめこまれたエネルギーに、蛇口をつけることが私の創作活動だといえる。(注3)
こうした考え方は、神話の中に人間性の根源的表現を見ようとするユングの立場を受けつぐものである。深層心理学者のユングは、『神話学入門』(注4)という本の中で、人間の無意識に中にあった元型が、数千年を経た今日の現代人の無意識の中でもいかに働いているかを示そうとした。
元型(archetype)というのは、人間の普遍的無意識の内容の表現のなかに見出すことができる、共通した基本的な型のことである。神話の成立、神話の意味について考えるとき、ユングはこれらの元形が基礎となっていることを発見したのである。
ガーナーは、ユングの主張する無意識の深層の世界を、『ゴムラスの月』において、アブレッドという名前で表現しようとしている。
世界は、目に見えるものだけで存在しているのではない。アブレッドと呼ばれる目に見えない暗黒の世界があり、そこでは形のないものたちが、混沌として渦巻くようにうごめいている。それらは決して悪ではないが、それとなじみのないものは、そのために死ぬこともある。
つまり、ユング流にいえば、意識の世界から無意識の世界へ退行するとき、私たち人間はその強すぎるエネルギーに打たれて、二つの現象を経験する。一つは、それをバネとして意識の世界へ働きかける≪想像力=イマジネーション≫であり、一つは、それに負けて意識のある世界への通路を断つ病的な破滅(人格剥離)である。
だが、ガーナーの依拠するユング的な感覚は意志や知性とは相反するために、阻害され、縮小されやすい。ガーナーの作品に共通していえることは、あたま(知恵=科学)の発達によりこころ(感覚=エネルギー)を失っていく″人間の滅亡″を主題としていることであろう。「こころの魔法であって、あたま魔法ではない」というのは、まさに心と頭、感情と知性の分裂した″現在の理性の時代″に一つの警告を発しているのではなかろうか。
いずれにしろ、現在は魔法の住みにくい時代である。では、過ぎ去った土台はどうであったのか。−−昔、太古の時代は、太陽や月や星や嵐や稲妻や雷や火や風や闇やあらゆる怒りの力(=根源的エネルギー)がこの世を支配していた。光と闇、陰影が野や森や大地や人々のこころの原野を自在にゆき交った。「素朴で暖かい″古い魔法″」がそこらじゅうで息をひそめていた。その中で人間の「生」というものは、″長さと幅の高さ″にすぎない物質をこえて、思うままに無限に広がっていくエネルギーをもっていた。素朴で純真な愛があり、喜びがあり、怒りがあり、哀しみがあった。だがいつのころからか、人間は″手″だけで世界を制服するほうが楽だと知った。こうして精神(こころ)は物質の中に閉じこめられ、理性と科学によってかたく封印されてしまった。
ガーナーがこのことに気付いたのは、『インタビュー』(注5)によると、学校教育によってであったという。教育が彼の″根っ子″、すなわち精神りの根源的エネルギーを奪おうとする前に、彼は子供時代を過ごしたチェシャー州の″土″にもどり、新石器時代の古墳の上に建っている、16世紀そのままのひきがえる館にとじこもった。そこには電気や水道という文明的なものは何もないという。
つまり、ガーナーは太古の時代から今も自身の中を貫いて流れている純粋エネルギーを大切にしようと思ったにちがいない。
2 悪の内なる価値
『ブリジンガメンの魔法の宝石』では、主として二つの伝承が下敷きにされている。一つはウェールズの民間伝承である。すなわち、魔法の宝石(炎の霜)は、太古においてオールダリー・エッジの丘の中腹で、心清らかにして勇敢なる騎士たちを不老不死の眠りにつかせた魔術の封印をした宝石である。もし、この宝石が悪者の手に入り、眠れる騎士たちの魔術が説かれでもしたら、彼らは年をとり、力を失って、暗黒の王ナストロンドが再び闘いをいどんできた時には敗れるほかはない。
一つは、オールダリー(民間)の伝承である。すなわち、モバリーの百姓が、魔法使いのキャデリンにミルク色の白いめす馬を売る。馬の代金に宝石をもてるだけもってほら穴から出る。このとき<炎の霜>がまじって持ち出されたという。
物語は、コリンとスーザンの兄妹が、母の外地の夫のもとへ行かねばならなくなったので、むかし母の乳母をしたことのあるベス・モソックさんの百姓屋にやっかいになるところから始まる。
兄妹は、妹のスーザンが伝承によまれた<炎の霜>をふとしたことから手首にはめることにより、古い時代に送りこまれ、不思議な事件に巻きこまれていく。暗黒王ナストロンドとよい魔法使いキャデリンとのはげしい闘争の中で、スーザンはいったん奪われた宝石を取り戻し、キャデリンに返す。
闇と光の織りなす荒々しい世界には、小人や妖精もゴブリン、トロールなどが入り乱れ、不安と希望の効果的なアクションを描出していく。
『ゴムラスの月』では、スカンジナビアの神話−−アインヘリアー(神々の護衛隊)−−や、アイルランド北部の神話−−ハーラシング(幽霊の狩猟隊)−−や、その他民間伝承のエピソードがいくつか盛りこまれている。
物語は、前作と同じく、ひなびた村に休暇を過ごしにやってきた兄妹が主人公である。
工事人夫たちが排水溝を調べるために地面を掘っていて、うっかり動かした一枚の敷石の下から、そこに閉じこめられていた魔物のブロラハンが解き放たれ、ゴールデンハンドからスーザンがもらいうけていた″フォーラのしるし″の腕輪をはずしたときに、魔物がスーザンの中に入りこむことによって、兄妹がまた事件に巻きこまれていく。
いずれにしろ、物語の基底にあるのは、≪現在≫という狭い時の時限をこえた善と悪のはげしい闘いである。太古の昔、悪の大王ナストロンドが敗れ、ラグナロックの淵の中へ逃げこんだが、彼はしかえしをねらっている。そして、ふとしたきっかけで彼の手下たちが闘いをいどんでくる。
『ブリジンガメン−−』では、善は魔法使いのキャデリンであり、悪は暗黒の王ナストロンドであった。つまり、ハイ・マジックとブラック・マジックの抗争であった。これは、古くから神話伝承、英雄譚、伝奇小説、活劇物語の土台を支えている勧善懲悪の図式である。正と不正、明と暗、高貴と下卑、愛と憎しみ−−人間の精神に実存する対極性は、内面葛藤を象徴するが故にも、万人の共感を呼び、説得力をもちうるものである。
『ゴムラスの月』での善悪は、明確に二元論としては表わされない。一方に魔女モリガンや魔物プロラハンやゴブリン鬼たちを、一方にスーザンや湖の女王アンガラドやドワーフ小人たちをというふうに、一応の区別はされているが、善悪の代表者が使う魔法は、同じオールド・マジックである。全作で、抗争に巻きこまれるスーザンたちを、その強力なハク・マジックで援護したキャデリンは、ここでは何の助力も与えることはできない。
つまり、善も悪も、対峙するものを明確なイメージとして描けない存在である。このことは、人類が近代を迎え、科学という輝かしい「あたまの魔法」を信じ切り身をまかせ、そのために豊かさや便利さや合理性を獲得はしたけれど、何か大切なものを失ってきた歩みに似ていると思われる。
スーザンは、いわばわれわれ現代人の代表である。目に見えない敵と格闘しながら、少しずつその姿をつかもうという苦悩が感じられるからである。
ここで、注意したいのは、その戦いが例えばC.S.ルイスの「ナルニア」のように明快な勧善懲悪型ではなく、徹底して暗黒の魔術(知識)を廃し、古い魔術(感性)によって人間の勝利を導こうとしていることと、善は断えざる悪の挑戦によって初めて輝きが増すという、悪の内なる価値(存在性)をみとめようとしていることの二つであろう。この悪は近代になって人間が科学(知性)の進歩によってもたらした公害や自然破壊の諸悪とは根源的に違うものである。ガーナーの善悪一体観は、『ブリジンガメン−−』において、善のキャデリンに対する悪のグリムニアが知識欲のためにこころが荒廃し、人間からついらくしたこと、そして、結末のドンデン返しで、実は悪のグリムニアが善のキャデリンの弟であった、ことなどに明らかで ある。つまり、「グリムニアは顔をもとへもどし、兄の顔を見つめたが、ひとこともいわなかった。おたがいの目が、長年の障壁と二人の生き方のあいだの深淵をこえて語り合った」(注6)というように完全に分離しているのではなく、善悪が人間の内質に同時に存在するという不安と魅惑の上に成立しているのである。
前出したユングは、人間の心の中には、ペレソナとかシャドウとか、アニマ・アニムスとかいった対極性が存在し、それらの間に相補的な関係が存在すると説いた。こうした自己の全体性を象徴するものとしてユングの≪マンダラ≫はあまりにも有名である。
『ゴムラスの月』は、いいかえれば、物語が一応の善の勝利に終わっていても、断えざる″悪″のよみがえりの不安に脅かされているという善悪一体観が、底知れぬ恐怖のまさに≪現在≫を貫く魅惑の世界を描出しているのである。読者は現在を生きる人間の一人であり、ガーナーがスーザンやコリンの生きる≪現在≫に時間・空間・距離の境界をとりはらって、神話の時代(善悪に対する純粋エネルギー)を融合させたことの意義も、またここにあると思われる。
だからこそ、全き理性によって作り出された悪(″現在″の罪悪感)が、人間存在の根元的なこころによって映写された悪に比べて、なんら魅力をもたないのも、自明の理であろう。
以上述べたような<成功>は、ガーナーの細部にわたるキメ細かい描写力によって支えられていることも忘れてはならない。
二作品は、ともにチェシャーのオールダリー・エッジという実在の小さな村が舞台になっている。ガーナーは、1934年、チェシャーに生まれ、オールダリー・エッジの小学校に学んだといわれている。(注7)
一月のある日曜日の夕方、二人はオールダリーの駅前の陸橋をわたって家へむかっていた。そのときとつぜん、あれが見えたのだ。
北東からの弱い風が、村の煙をゆっくりと空になびかせていたが、『エッジ』の手前に近い方の斜面を半分ほど登ったあたりに、丸くかたまった霧が、樹木につながれているかのように、かぶさっていた。そして、その霧のあいだから、セリーナ・プレイスの家、セント・メアリズ・クリフの煙突とぶきみな切妻壁が突き出ていた。(注8)
ガーナーは、道路や丘や森や塚や池、また伝承との関連の深い場所などを、正確に目で見え手に触れられるように描写している。このことは、オールダリー・エッジというありふれた田舎村の日常性が読者にきっちりと入りこむ結果になっている。そして、その存在感によって、古い魔法の世界が村の日常性と重なり合っていてもなんら不思議でなく、スムーズに受け入れられるという魅力につながっている。
つまり、技巧的には、古い魔法(エネルギー)に蛇口をつけるという、ガーナーの手法の一つが、ここに鮮やかに盛られるといってよいと思う。
3 人間存在の悲劇性
さて、ガーナーの作品の主に二冊によってみてきたわけであるが、第三冊目の『エリダー』から第四冊目の『ふくろう模様の皿』へと移行するにしたがって、ガーナーの作品世界は変質していく。
私は≪きっどなっぷ≫(注9)という同人雑誌に所属し、隔週に一回研究会をもっているが、そこでの数度にわたるガーナー作家論をまとめてみると、四作品の中では『ふくろう模様の皿』が圧倒的に優れているとの声が多く、『エリダー』がもっとも人気が悪かった。
考えてみると『エリダー』には現在という科学時代を象徴する電波などを利用してSF風の興味をもり立て、会話体でストーリーを運ぶという読みやすさや、ユニコーンに追われていくアクションも迫力がある。
けれども、今一つ、感動が少ないのは、善悪一体観の悪の内なる価値は切り捨てられている。つまりエリダーに対峙する悪の世界が十分に描かれていない。さらに≪現在≫に並存するエリダーの世界を境界や門という具体的な境界によって、結局は現実界とくっきり遊離区分させ、そこにはおりの中に閉じこめられた真空地帯のようになんら生き生きとした事件が起こらない−−といった要因があるからではないだろうか。ガーナーの作品の特徴は、主人公たちの現在に神話のファンタジーの世界が融合して一体化しているところであったはずである。
『ブリジンガメン−−』や『ゴムラスの月』については、研究会でも、恐怖と不安の魅惑的世界を感覚的にとらえられたという意見もありながら、たとえば、「ぼくらは古い魔法に生きようとはしていないので、ガーナーの問題にしているものをぼくらの本当の問題にしていけるか」という反問もなされ、選択の余地もなく、≪現在≫の理性の時代に生き、教育を受け、根っ子(純粋エネルギー)を失なわされた子どもたちのきびしい状況のことを話題にするものもいた。
しかし、太陽や月や血の古い魔法というものは、外的状況にのみ存在するものではない。荒々しい驚異に満ちた自然というものは、森や河谷や野原にのみ存在するものではない。コンクリートとアスファルトにかためられた高層ビルの谷間を吹き抜ける風にも、目に見えない自然エネルギーが秘められているのだ。
『エリダー』は、先の二作品において、スーザンとコリンという主人公たちの性格(=内質)があまり描かきこまれていないのに比べも主人公のローランド、姉のヘレン、兄のデイビィット、ニコラスたちはかなり描き分けができていたと思われる。つきり、主人公たちの現実世界は、十分描かれていたのであるが、エリダーの世界の扱
いに問題があったと思える。それにしても、この作品の結末は一体何だろう。これは、『ブリジンガメン−−』や『ゴムラスの月』でこころを失い、悪に敗れる人間の滅亡とはまるで違って、余りにも救いようのない人間存在の悲劇性を象徴していはしないか。エリダーは人間にとっては、常に理想の憧憬的世界であった。存在価値がもたらされているものであった。物語の結末で、「はじめてかれの目をのぞきこんだ」とき、ローランドが見たものは、エリダー(=現実)そのものであり、このときローランドの≪現実≫は音たててくずれた。この虚無性は前の二作になかったものである。ガーナーが 『エリダー』を通じていいたかったのは、いかなる世界も現実と並存するものでしかないという、人間存在の虚無的な悲劇性であったのだろうか−−。
4 人間接続の不条理性
『ふくろう模様の皿』はウェールズの神話・伝説″マビノーギオン″の中の『マソウヌイのむすこ、マース』を土台にしている。それは、魔法使いが花から作った花嫁が、夫を 裏切って恋人に死をもちらし、その罪をあがなうために、フクロウにされたという伝承である。
物語には、神話の時代、過去、現在と三つの時代にそれぞれ″事件の三人″ が登場する。古い屋敷のある伝説の谷間には、のろいをかけられたフリュウと、その妻の花からつくられたブロダイウィズ、ペンリンの領主のグロヌーが眠っている。谷間には、グロヌーに妻を奪われ、殺されたフリュウが、妻をフクロウに変え、グロヌーを山の上から盾がわりにした岩もろとも槍でさしつらぬいたときにできた丸い穴をもつ″グロヌーの岩″が残されている。
二番目の″事件の三人″は、作男のヒュー・ハーフベイコン、料理人のナンシー、屋敷の持ち主のバードラムであった。この三人も三角関係のもつれから、ハーフベイコンがハードラムりオートバイのブレーキをこわし、結果的には死に追いやることになる。三番目の″事件の三人″は、ウェールズのグウィン、屋敷に住むアリスン、その義兄となったイギリス人のロジャである。
少女アリスンは、母、義父、義兄ロジャと共に自分が相続したウェールズの谷間の家で夏の休暇を過ごすためにやってきたのである。ある日、腹痛でふせっていたアリスンは、天井裏で何かひっかくような奇妙な音を耳にする。アリスンはグウィンに頼んで天井裏を調べてもらう。すると、ほこりをかぶった花模様の皿が出てくる。
アリスンは、花模様を紙に写し取ってとるうちに、折り曲げるとフクロウの絵になることを発見する。いつのまにか、アリスンは不思議な力に支配され、せっせとフクロウのかたちを創る。そのことによって、長い間谷間にたくわえられていたエネルギーが目覚め、奇妙なことが次々と起こる。
物語は、アリスン、グウィン、ロジャの三人を中心に進められるが、三人の置かれた立場は少しずつしかあきらかにされない。屋敷のかつての持ち主はアリスンの父のいとこのバードラムであり、ロジャの母は家族を捨てて家出をしたことが分かる。さらに、最後の所で、グウィンの父がバードラムを死に追いやったウェールズ人のハーフベイコンだったことがわかる。
グウィン、アリスン、ロジャの三人は、出会いの前からがんじがらめにしばられて、どうしようもない関係に位置づけられている。そして、かつての″事件の三人″が起こした悲劇の谷間に集まることにより、谷間にたくわえられた″力″が三人を破滅に追いやろうとする。この三人の悲劇的な接続性は、神話の時代、過去の時代を経て、幾層にも重ねて″現代″に貫かせることにより、人間の「存在」や「生」や「個のつながり」の問題にまで伸びてきていると思える。
つまり、人間の「存在」そのものは、他の「個」のつながりの上にはじめて成立するものであり、その互いの「個」が微妙に作用しあって、自己の「生」が浮かび上がってくる。作用する力は、ここでは、意志や理性といった人間に制御できるものではなく、無意識に宿命的に背負わされている″根源的エネルギー″である。
グウィン、アリスン、ロジャの三人はの場合は、神話の時代から谷間に貯えられた″ 力″にすっぼりと包みこまれたといえよう。だがこの″力″を単に不思議な魔法として片づける前に、私たちは現在まさにこのような″不条理″によってがんじがらめにしばられていることを考えるべきであろう。
そういう意味で、この作品はどちらかといえば、前三作に希薄であった″現代性″というものが感じられる。アクションやマジックという神話の特徴を通して、登場人物の内面世界に、今を生きる意味(孤独とかげり)を描出したといえるだろう。
タウンゼントは、『ふくろう模様の皿』について、「ガーナーは、古い伝説をとりいれて、これを再話する才能に、事件や境遇の内面的かつ情緒的な内容をあたらしく解釈しなおす能力を加えた」(注10)と述べている。
おわりに
『ふくろう模様の皿』において、ガーナーは現在の状況下の若者たちを描いた。だが、若者たちの底には、人間が根源的に受けつぎ、もたらされているエネルギーが流れていた。ガーナーの作品は、しばしば難解だといわれるが、それは子どもというより″エネルギー″に最も敏感な年ごろ、つまり自我(意識)と自己(無意識)のせめぎあいに悩む年ごろを対象としているからではなかろうか。ガーナーが『インタビュー』(注11)の中で、「青春初期の子どもたちは、だれよりも柔軟で、聡明で理解力のある読み手です」といっているのを聞くと、宮沢賢治が『「注文の多い料理店』新館案内」で、「それは少年少女期の終わり頃から、アドレッセンス中葉に対する一つの文学としての形式をとっている」と描いているのを思い出す。賢治の中の根源的エネルギーは「原体剣舞連」や「土神と狐」や「鹿踊りのはじまり」によく表されている。
さて、1950年代はイギリス児童文学史上第三の黄金時代といわれているが、ファンタジーの流れは、C.S.ルイス、ノートン、ボストン、トーキン、ファージョン、ピアスらのすぐれた作家を排出させた。60年代に入ってシャープやボンドやガーフィールドらが出てきたが、最も有望な新人といわれてきたのが、アラン・ガーナーであろう。ガーナーの諸作品は、子どもを対象としたファンタジーという一つのジャンルに押し込めるべきものよりも、より年齢の高い児童から大人にまで幅広く読める物語であろう。
注1 久納泰之訳『ゴムラスの月』評論社。
注2.3.5.11 武田、菅原共訳「神話の沈黙のなかから−海外インタビューシリーズ・英国篇」『子どもの館』1973年9月号、福音館書店、収録。
注4 神話学者ケレーニイとの共著、杉浦忠夫訳『神話学入門』晶文社。
注6.8 芦川長三郎訳『ブリジンガメンの魔法の宝石』評論社。
注7.10 J.R.タウンゼント、高杉一郎訳『子どもの本の歴史−英語圏の児童文学』岩波書店。
注9 児童文学の創造と研究をめざす会。年2回雑誌≪きっどなっぷ≫を出している。
*テキスト『ブリジンガメンの魔法の宝石』『ゴムラスの月』『エリダー』(以上、瀧口直太郎訳)『ふくろう模様の皿』(神宮輝夫訳)以上ともに評論社。
The Weirdstone of Brisingamen (1960)
The Moon of Gomorath (1963)
Elidor (1965)
The Owl Service(1968)
テキストファイル化妹尾良子