〈連載評論〉家族という神話03

母と子の物語の行方
『龍の子太郎』と『山のむこうは青い海だった』から
野上暁
鬼ヶ島通信35 2000/05

           
         
         
         
         
         
         
     

 これまで度々述べてきたように、一九五九年から六〇年にかけて、日本の児童文学は大きな転換点を迎えた。童話から長篇小説へという、表現上の流れの変化とともに、質的にも大きく変容した。この頃から、日本児童文学の現代が始まるというのも、一種の定説となっている。しかしこの時期の代表的作品でも、今日まで読み継がれているものは極めて少ない。当時高い評価を得た作品でも、多くは忘れ去られ、児童文学史上に名前だけをとどめているものが少なくないのだ。作品もまた、時代の産物であるのだから、それはそれで仕方が無いのだろう。そういう中で、前回取り上げた佐藤さとるの『だれも知らない小さな国』(一九五九年)とともに、松谷みよ子の『龍の子太郎』や今江祥智の『山のむこうは青い海だった』のように、いずれも四〇年過ぎた現在でもなお、多くの読者を獲得しているというのは驚異的でもある。
 この連載の第一回では、六〇年に発表された山中恒の『とべたら本こ』を取り上げ、日本の近代家族観に対置する作品の独特な家族観を読み解き、第二回では五九年に刊行の佐藤さとる『だれも知らない小さな国』における固有の思想性を論じてきた。今回は、どちらも一九六〇年に発表された、『龍の子太郎』と『山のむこうは青い海だった』を検証し、そこに見られる母と子のドラマの行方を追ってみようと思う。『龍の子太郎』は、まだ見ぬ母を求める少年の冒険物語であり、『山のむこうは青い海だった』は反対に、母を残して旅に出る少年の自立の旅を描いている。その方向性こそは違うが、そこで表現されている母の子の姿は、現代に繋がる母と子の有り様とどのように関わっているのか、いないのか。日本近代の中で構築されてきた「家族という神話」の中枢には、家庭イデオロギーとともに母と子という物語が深く根を下ろしてきているのだけれども、それが日本児童文学の現代の起点において、どのような様態を見せているのかを探る事が今回の主たるテーマである。
 松谷みよ子の『龍の子太郎』は、第一回講談社児童文学新人賞(一九六〇年)に入選し、その年の八月、単行本として同社から刊行された。翌年にサンケイ児童出版文化賞、六二年には国際アンデルセン賞優良賞を受賞するというように、作品としては順風満帆のスタートであった。自筆年譜(『松谷みよ子の本』別巻 講談社)によると、一九五八年の項に「太郎座の稽古場兼住居の雑然たる三間の家で赤ん坊を育てながら」この作品を書き始めたと記されている。七月に誕生した長女を抱え、テレビのレギュラー番組で劇団の仕事が増え、徹夜の連続だったというから、作品の創作そのものはかなり大変だったに違いない。しかも九月には台風による出水で床上浸水に見舞われ、避難を強いられたりもしている。そういう困難な状況下で、『龍の子太郎』は執筆された。しかしそこには、民話を素材にしたことによる民衆の力強さやしたたかさだけではない、時代のエネルギーとでも言えるような、大らかで前向きな明るさとパワーが感じられる。
 太郎は、ばあさまと村外れの家に二人だけで住んでいる。太郎の左右の腋の下に、鱗の形をした痣が三つずつあることから、いつの頃からか太郎は龍の子どもだという噂が村中に広がっていた。太郎はそんなことには全く頓着せず、毎日ばあさまからヒエの団子を三十個ずつ作ってもらって、山で動物たちと遊んでばかりいる呑気な怠けん坊だ。食い意地と遊び好きと無頓着と怠けん坊は、一般的な意味での子ども存在の特権を象徴してもいるから、読者はそこに等身大の自分を投影し感情移入できるのだ。ある日、太郎はばあさまから、死んだといわれていた両親の話を聞かされる。
 ばあさまの一人娘は「たつ」といい、年ごろになったので、木こりの又平を婿さんに迎える。ところが、又平は、たつのお腹に子どもを残したまま、山で仕事中に谷底に落ち死んでしまった。それが、太郎の父親だ。ある日、お腹の大きくなったたつが、村人たちと山仕事に行く。山は突然大荒れに荒れて、村人たちはほうほうの体で逃げ帰るが、身重のたつだけが帰ってこない。心配になってばあさまが探しに行くと、大きな沼の中から龍になったたつが現れる。それから数ヶ月、龍になった娘のたつから生まれたのが太郎だったのだ。太郎は水晶玉のようなものをしゃぶりながら、どんどん大きくなる。しかし半年もすると、その玉は無くなってしまい、何を与えても口に入れようともせず、太郎は泣き喚くばかり。困り果てたばあさまは、沼に龍を訪ねると、片目の龍はもう一方の目玉を取り出して太郎に与える。そして、龍の子太郎が三歳になった夏、激しい嵐と稲妻の中で、龍になった太郎の母親は、北の湖に行くとばあさまに言い残して姿を消す。
 ばあさまから龍になった母親の話を聞いて、太郎は母親探しの旅に出る。天狗に力を授かったり、太鼓の好きな赤鬼を雷さまにしたり、黒鬼にさらわれた仲良しの少女あやを助けたり。怪しげな鶏長者や白蛇、山犬や大蜘蛛、雪女や白馬など、古くから伝承されたお馴染みのキャラクターやアイテムを次々と登場させながら、龍の子太郎の冒険は、さながらテレビゲームの冒険アクションもののようにスリリングに展開する。後に劇場用の長篇アニメになったりミュージカルになったりと、ジャンルを超えて人気を呼んだ秘密は、こういったところにあるのだろう。そしてこの、両目を我が子に与える龍になった母親に、凄まじいまでの母の愛や母性を読み取ることもできよう。しかしこの作品の内部に秘められているのは、そういった表面上の母の愛や母性の勝利の物語ではない。
 『龍の子太郎』は、ロシア民話『せむしの子馬』のイワンに触発され、日本のイワンを探そう、侵略戦争の先頭に立つ桃太郎とは違った、農民の中の太郎を見つけようということで、構想されたという経緯については、作者自身が本誌今号のエッセイで述べている。自筆年譜によれば、結核の再発と手術の後、一九五五年に瀬川拓男と結婚し、そのすぐ後に「劇団太郎座」を創設する。翌年の信州の民話採訪で「小泉小太郎」伝説に出会い、これこそが日本の太郎の原形だと思って村々を歩いて人々の話を聞いたと記しているから、その頃すでに作品の構想は芽生えていたのだろう。身重のたつが龍に変身するは、三匹のイワナを食べたばかりに龍にされてしまったという五六年採訪の秋田の八郎潟に伝わる民間伝承が土台にある。自分の目玉を乳代わりに与えて子どもを育てるという母龍の悲しい伝説もまた、彼女の民話採集の中から見出されたものなのだろう。
 民衆の中の太郎、農民の中の太郎というのは、戦後の民主主義革命への待望が敢え無く霧散した後も、なお根強かった民衆史観を反映している。敗戦から十年以上過ぎたとはいえ、まだその混乱から完全に立ち直っておらず、多くの人々は経済的にも窮乏を強いられていた。そのような中で構想された物語だから、当時の日本の大多数の村がそうであったように、貧乏で住みにくい山間の寒村が舞台に選ばれている。そして、信州に伝承された「食っちゃあ寝の小泉小太郎」同様に、呑気で怠け者の太郎を主人公にして、その少年が、次第に潜在的な力を発揮して、様々な冒険を経て再会した母龍と力を合わせ、山を打ち砕き広大な田畑を開くのだ。
 我が子の成育のために両目を与えるという献身的な母の愛は、近代の母性イデオロギーの恰好の美談として受け止められそうだが、ここには見逃すことのできない重要な前提がある。それは、一人でイワナを三匹食べると龍になるという、八郎潟で出会った伝承のエピソードである。食料の乏しい集落での、一種の共同幻想でもあり、村の掟でもあろうか。それはまた、乏しい食料を一人占めにすることを戒めるとともに、自然からの過剰な摂取に限界点を設定する民衆の智恵でもあろう。だから娘は、自然の掟を破ったことにより、姿が龍に変えられて、沼の底で自然を守る役割を課せられる。その龍が、身を捨てて我が子を育て、長い別離の後自らを見出してくれた我が子と再会し、一緒になって自からが侵した罪を償う。つまり、自らの欲望によってイワナを食い、掟を破った償いを、再会した我が子と一緒に山を崩して田畑を作るのことによって、民衆に奉仕還元するのだ。しかしこれもまた、大きな自然の破壊であることに違いはないのだが、ここではそれを農地化するということで、農民に豊かな生産の場を確保して彼らの貧困からの解放を目指す。つまりここで自分の両目を与えても我が子を育 成するのは、単なる母性本能からではなく、その子が逞しく成長して自らを再び見出して、その力を借りて共に農民や民衆のために豊かな農地を開拓するという、広義の次世代への期待と願望なのだ。太郎はまた、母を捜すという旅を通して、様々な人々と出会い、社会を知り民衆の狡さも賢さも知るのである。太郎が母を求める旅は、異類と化した母によって仕掛けられた旅という試練を通して、彼自身が成長する物語でもあり、そこに明治から大正期に構築された母性愛神話を超える新しい母の像を提示しているようでもある。そこでの太郎の成長と覚醒が、母をまた異類から解放する。ここには日本の「近代家族」に固有の母子関係の密着は見られない。母はただ、「産む」ことによって子の世代への媒介者と化すのだ。
 この作品が、松谷が瀬川拓男とともに起こした「劇団太郎座」の最初の公演で人形劇化され上演されたというのも、そこに込められた作者の願いの深さを象徴的に物語っている。母は、母子関係に矮小化される母ではなく、次代を育成する責務を負った、時代の媒介者としての母であり共同体の母、自然という大地に根差した母なのである。それはまた、戦後民主主義が危機的に変容していく一九五〇年代後半の、時代のイデオロギーをも色濃く映し出している。農民の中の太郎、民衆の中の太郎を生み出すということそのものが、時代のイデオロギーの要請でもあるのだが、敗戦後の荒廃から立ち直り、高度経済成長期に向かう当時の日本の国民的なエネルギーのほとばしりと、未来への楽天的とも言える大らかな明るさが、主人公の太郎というキャラクターの個性とも重なって、作品を力強く明快にさせている。
 『龍の子太郎』は、心理描写を避けて、事象だけを簡潔に繋いで物語を進め、歯切れの良い文体だという印象が強かった。今日読み返してみると、その印象に違いはなかったのだが、どことなく叙述がもたつくのは否めない。この四〇年のあいだに、日本人の言葉に対する感覚が微妙に変わって来ているのかもしれない。それはそれで仕方がないのだろう。とはいえ、次々と登場する奇異なキャラクターと太郎との関わりは、映像化したならばポケモン同様な魅力を確保するであろうとも思われる。昨今の作品には見られない明快な物語性を保持していることが、今日でも読み継がれている大きな要因でもあろうか。
 各地の民話の採集というフィールドワークを通して、松谷は民衆の中に長い間語り継がれてきた物語ばかりか、そこに様々な民衆の智恵をも読み取ったのであろう。そして、語り継ぐという行為に、またそれを再録する作業に、人間存在の限られた“生"が次代にバトンを繋ぐという、貴重な意味を見出したのだ。あたかもそれは、「産む母」の使命であるかのように。母から子へと受け継がれていくというテーマは、その後『ふたりのイーダ』(一九六九年)から始まり、『死の国からのバトン』(一九七六年)、『私のアンネ=フランク』(一九七九年)、『屋根裏部屋の秘密』(一九八八年)、『あの世からの火』(一九九三年)と続く平和への願いを込めた連作長篇「直樹とゆう子の物語」と引き継がれていく。これらについては、また後に論ずることとなろう。
 今江祥智の『山の向こうは青い海だった』は、当時名古屋で中学校の教師をしていた作者が、編集者に乞われて一九五七年から岐阜日日新聞に連載した初めての長篇である。一九六〇年に理論社から単行本として出版した経緯については、本誌今号のエッセイに記されている。 物語は、中学一年生の入学式から始まる。担任は井山先生。その自己紹介から生徒をひきつける、駄洒落の先制攻撃。それがまた読者をも魅了する仕掛けとなって、今日読んでも十分に笑える。「いやまあ、まて」が口癖の一風変わった先生は、いきなりポケットからクシャクシャの百円札を取り出し、この百円札を自分ならどう使うか考えて欲しいという。次郎は、百円で往復切符を買って、知らない土地に旅に出ると書く。翌日のホーム・ルームで、その文章が紹介され、次郎は真っ赤になってうつむいてしまった。すぐに赤くなるから、次郎の渾名はピンクちゃん。
 そのとき先生は、次郎の作文をきっかけに一人旅の話しをして、幕末の快男児、高杉晋作の少年時代のエピソードを紹介した。この話がヒントになって、夏休みのある日、次郎は「鶴は南へ飛ぶ――息子の次郎より」という母宛の書き置きを残し、気弱な自分を鍛えるために一人旅にでる。行き先は、六年前に暮らした事があり父の墓のある和歌山県の小さな町。最初の夜は墓場で寝ると決めていたが、さすがにその勇気がなくて、墓守の家を訪ねるが泊めてもらえない。急に心細くなって帰ろうかとも思うが、考え直して幼友だちの昭代の家を訪ねて泊めてもらう事にする。現在から考えると、なんとも大らかな展開だが、四十年前にはその程度の自由は、中学生にも保証されていたし、大人の方もおおようだった。
 行くと、あいにく昭代は留守で、彼女は学校図書館を作るための資金稼ぎでに、食用ガエルを捕まえに行っていた。ウナギを捕まえるもの、夏祭でかき氷を売るもの。図書館作りの資金集めとはいえ、中学生が商売をするなんて今日では考えられないが、当時はまだ子どもたちによる同じような資金集めが、全国的に行われていた。学校図書館の図書費を集めるために、山菜取りやイナゴ取りを学校単位で行ったりもしていたのだから。
 田舎町の夏祭で、次郎は昭代に連れられてお化け屋敷に行く。迷路のようなお化け屋敷の中で、昭代とはぐれてしまった次郎は、お化けに扮していたチンピラヤクザたちの窃盗計画を耳に挟み、それがきっかけとなってヤクザに監禁されてしまう。彼らは、中学生が資金集めしている図書館の建設現場からセメント袋を盗もうというのだから始末が悪い。そこで、次郎を探しに来た井山先生と級友たちと地元の中学生との、窃盗団のチンピラヤクザを敵に回した闘いが始まる。ヤクザグループによる昭代の誘拐計画を阻止するために、監禁された次郎が必死の脱出に成功するあたりから、先生と子どもたちがヤクザを殲滅する終章までは、なかなかスリリングで読ませる。当時としては異色の、ユーモラスで痛快な冒険物語である。エネルギッシュで明るく、屈託の無い子どもたちの活躍が爽快で印象的だ。そこには、前向きで健康的な時代の、未来への希望や期待可能性が脈打っている。
この作品を、母と子の物語として括ってしまうには、いささか無理があろうか。しかし終章での次のような描写は、この時代の母と子の有り様の、一種の典型を象徴的に物語ってもいるようだ。

 次郎たちは円座のまん中に立ってかわるがわる、順をおって話しはじめた。
 そんな息子をお母さんは最上の花でもながめるように、目をほそめて見ていた。井山先生がお母さんに言った。
――次郎君は、まるでもう、若者みたいですね!
――はい。……お母さんは急に大きくなったように見える息子をもう一度みて、大きく コックリし、青空をじっとながめた。たしかに青空のむこうの天国にいるはずのお父さんに、心の中でよびかけたのだ。
――あなた、次郎はりっぱな男になりそうですよ!今はまだぼうやだけど……。

 ここには、子どもたちが幼いうちに連れ合いを亡くし、女手一つで息子たちを育てはぐくんだ母親の、亡き夫への責務から解き放たれようとする安堵の気持ちと一種の誇りにも似た感情が、爽やかに表白されている。そしてこの母は、我が子を叱咤激励し、自らの願望を子に託す、近代の「専業の母」の有り様とは一線を隔している。夫を失った事により「専業の母」ではありえず、仕事を持ち生計を立てて子をはぐくむ母の思いは、“生きること"と“育てること"が等価であり、“育てること"だけを特化できない。そこにこの作品の母の、子に対する大らかな眼差しと余裕が生まれているようだ。
 江藤淳は、「“母"の崩壊」と副題した『成熟と喪失』のなかで、安岡章太郎の『海辺の光景』と小島信夫の『抱擁家族』について論じながら、「教育」によって「出世」するという日本近代が創り出した中産階級の幻想性をとらえ、教育熱心な母親の姿の中に、今日につながる母と子の確執の原形を見出す。

近 代日本における「母」の影響力の増大は、おそらく「父」のイメイジの希薄化と逆比例 している。学校教育の確立と同時に、「父」は多くの母と子にとって、『海辺の光景』の信太 郎母子にとってそうであったように「恥ずかしい」ものになった。しかし「父」を「恥ずか しく」感じる「母」と子は同じ価値観を共有しており、そうである以上息子の「出世」の背 後にはつねに「母」の影がついてまわる。(『成熟と喪失』講談社文芸文庫)

 『山のむこうは青い海だった』の母と子は、父に対して同じ価値観を共有しているけれども、それは『海辺の光景』の母子のように、「恥ずかしい」父ではない。次郎の母は、早くして夫と死別したことにより、『海辺の光景』のような母子の感情への傾斜を免れている。むしろ反対に、夫を誇りに思っているのだ。その思いが、次郎へも真っ直ぐに伝わる。だから次郎は、一人旅の目的に亡き父の墓参りを思いたつ。父の墓に詣でるという行為の旅程が、自立へのきっかけとなるのだ。
 今江祥智の母と子の物語は、その後『ぼんぼん』(一九七三年)、『兄貴』(一九七六年)、『おれたちのおふくろ』(一九八一年)へとつながっていく。そこでの母と子、家族の物語の行方についても、いずれまた検証することになろう。
 一九六〇年に刊行された、二つの作品に見られる母と子の物語は、六〇年代後半からの子どもの文学の作品群に登場する、教育熱心でそれゆえに子に過剰な負荷を強いてしまう母親の姿とは隔絶している。六〇年代の高度経済成長期に入り、国民所得の向上にともなう経済的なゆとりと母の専業化が、母の子への過干渉を一般化し、過剰に教育熱心な母親を全国的に輩出した。そして現在、母性愛神話と結びついた異常ともいえる教育への執念が、母親を追いつめるとともに、子どもの自立を様々に阻害しているのではないか。(以下次号