『現代にとって児童文化とはなにか』(三一書房 1965)

子どものエネルギー −非日常的なアクチュアリティの記録

 国鉄渋谷駅の山手線ホームと電車との間隔は非常に広く、危険である。このことは駅のスピーカーを通してもくりかえし伝えられ、乗降客の注意をうながしている。ぼくもしばしば渋谷駅を利用し、この間隔を跨ぎわたるが、そのたびにぼくは、子どもについて、子どものための文学について考えさせられるのである。
 もちろん現在のぼくにとっては、すこしの注意を必要とするだけで、なんなく跨ぎわたることのできる間隔だが、もしも子どもだったらと考えると、それがもう底知れぬ深淵にさえ思えてくるのである。両親がいつも身近にひかえていて、水たまりや電車乗降の際、すばやく両腕をもってくれたり、抱きあげてくれて、身体が空を飛ぶような子どもなら、たいして意に介することもないだろう。だが両親なく保護者なく、単身あの間隔を跨ぎわたる子どもにとっては、それが深淵とみえることがすこしも異常な心理ではない、と思うがどうだろう。
 ぼくが十代で聖書を読んだとき、そのなかに深淵に関する部分があり、そこで生々しい現実感にうたれたことをおぼえている。埴谷雄高の小説にも『深淵』というのがあり、その冒頭に「パスカルにはひとつの深淵があつて、例へば、腰かけてゐる肘掛け椅子からふと左手の床を見下ろしたりすると、そこにぽかりと口を開いた暗い、底知れぬ深淵を認めて愕然とするといつた事態が、私には殆んどそのまま理解できるやうに思はれる」と記されている。この小説に出てくる医者は、主人公のそうした意識を「貴方の場合考へられるのは、三半規管になにか故障があるのではないかといふことです」と片付けようとした。だがこの医者でさえ、渋谷駅のホームと電車との間隔が深淵に思える子どもの心理は理解できるに違いない。
 しかし、渋谷駅を利用するものは、その深淵を跨ぎわたらなければならないのであって、子どもといえども単身であるかぎり例外ではない。そして問題は、その跨ぎわたり方にあるのだ。
 まず第一に、もっとも安全な方法は、運動神経を発達させることである。だが運動神経を発達させるためには、かなり冒険心と、たゆまざる努力を必要とする。そして、運動神経にも限度がある。そこでたいていのひとがとる方法は、前のひとが完全に跨ぎわたったことを確かめて、これなら安全と納得し、それに続くという方法だ。
 これが子どもの場合だと、かなり方法が違ってくる。前人既倒の境地を行くにも、その前のひとがおとなだと、子どもはためらいをおぼえることだろう。そこで子どもたちが考えた、また考えさせられた方法は、おとなというものは子どもの保護者であって、子どもの危険を見過ごすようなことはない、という甘ったれた意識を持つことである。この甘ったれ意識を芽生えさせ、助長したのが、日本の児童文学であるとぼくは考えている。
 すべてのおとなたちが、自分の保護者であると思いこんだとき、子どもたちの足もとに横たわっていた深淵は消えさり、たんに間隔のみがそこにあって、子どもも安心してそれを跨ぎわたることができるわけだ。だが実際には、すべてのおとなが、子どもの保護者であったためしはないし、したがって深淵が消えさることもないのである。ところがそれを、そう思いこませるところに、児童文学の欺瞞性、またはマジナイ的言葉の魔術があった。とくに、第二次大戦中から、戦後にかけて、児童文学の主な一翼をになってきたリアリズム童話のはたした役割は大きい。
 リアリズム童話は、普通「生活童話」とよばれている。そしてその名のように、子どもを生活の視点においてとらえ、そこにリアリティをもとめていく方法がとられているわけだが、その生活が日常性をこえないのが、「生活童話」の特色で、このことは、日本児童文学の歴史に関連させてみせると、明らかな事実となる。
 生活童話はもともと生活主義、または集団主義童話のことで、それは本来ならば、社会主義リアリズムと呼称されるべきものであった。本来そう呼び称すべきものを、そういわなかったのは、戦時中の奴隷の発想だったからである。この辺の事情については、菅忠道著『日本の児童文学』にかなり詳細に記されているが、ここでは、その集団主義・生活主義童話が、戦時中にどう転化したかをものがたる一文を引用する。
  「民主的・芸術的児童文学お流れに立つ詩人・作家の多くは、戦争初期の段階では、児童文学の国策化の方向には批判的であるか消極的であった。時局下の子どもたちの生活を描きながらも、国策的主題を回避しようとしていた。しかし、それは一面において、スケッチ風な、あるいは風俗小説的な作品になりがちであった。生活主義が生活童話へ転化していく一階梯はこのような形をとったといえる」
 右の引用文からもうかがい知れるように、奴隷の思想にもとづく妥協から出発した生活童話は、連鎖反応的に、転向、堕落を重ね、情報局公認、文部省推選の少国民文学の中心となっていったのである。この生活童話を現在もなお存続させておく無反省さは改められるべきだろう。このことは、児童文学の戦争責任というよりも、戦後責任として、当然なされるべきことだった、とぼくは思う。だがぼくらに、その責任はない。
 ぼくらが考えなければならぬのは、具体的に、生活童話という名のリアリズム児童文学を抹殺する方法である。
 さんざん深淵づいたついでに、また、深淵で考えてみると、まず子どもたちに、運動神経を発達させることが第一、そしてヤスヤスと、底知れぬ深淵と思える間隔を跳びこえさせ、自分はおとなたちを保護者にたのまなくても大丈夫だ、という気持ちもいだかせなければならない。それは、見る前に跳べ、ということではなく、見てもなおタメラワズに跳べということだ。この精神力を育てあげるために、新しい子どものための文学が必要なのである。この精神力がさらに子どもたちの運動神経を発達させ、美しい姿勢で跨ぎわたることさえ可能となってくるのだ。
 おとなにたよらない子ども、それは児童文学に毒された頭で考えると、一種とくべつな、ある限界状況におかれた子どもというふうにみられぬこともない。また、そう見ることでもかまわないのだが、これを文学の主題に、また登場人物に選ぶとすれば、それは客観描写されることも、普遍性をもつことも可能なのだと認めなければならない。幸いにぼくらは身近に、そうしたことを主題にした文学をみることができる。それが子どものための文学でないことは残念だが、大江健三郎の小説『芽むしり仔撃ち』や『鳩』がそうだし、『飼育』『他人の足』に出てくる子どもたちも、容易におとなたちを信じようとは思えない。もっとも、大江の作品においては、だれもが個々バラバラに切り離されており、子どももまた例外ではない。そこにかえって、子どもを人間としてみている作家の眼を感じさせられるのである。したがって、児童文学の作家たちとは根底から相違していることが明白で、それらに批判的なものに、一つの方法を示してくれている、とぼくは考えた。
 だがそれは、あくまで、一つの方法を示してくれているというにとどまり、それを子どものための文学の方法とするには、多くの問題が横たわっていることを意識しないわけにはいかない。大きくいってしまえば、子どものための文学とは何か、ということであり、つきつめて考えれば、その読者までをふくめて、子どもをどうみるかということである。
 ぼくはいうまでもなく、戦後派世代のひとり、まだ子どもも持たない。そうした身で、子どものために文学をやることの意味はどこにあるのか、そのモチーフは何なのか。
 ぼくの場合、それは、ある可能への到達手段を、子どもに認めたのである。ある可能性とは何か、それは革命であるかも知れないし、その後にくる平和かも知れない。そこに至る手続きのなかに、子どもという存在を考えたわけだ。だれかも書いていたが、カフカの『城』の主人公Kが城へつながる手続きとして、フリーダという女性を必要としなければならなかったように、城=ある可能性に至る手続き、または媒体として、ぼくは子どもを必要とするのである。したがってぼくの文学のモチーフは、子どもをして運動神経そのものたらしめんとすることにあり、それになりえない子どもはぼくにとって不必要だ。ぼくは子どもという運動神経によって、ある可能性に到達することができる。足もとに横たわる間隔、それは底知れぬ深淵だが、それをゆうゆうと跨ぎわたることができるのである。
 そうなるとぼくは、子どもがもっとも運動神経を全身にみなぎらせている瞬間、一種の極限状態をとらえなければならず、それはもはや、日常性と呼ばれうるようなのではない。くりかえすと、ぼくは、非日常的は状況におかれた子どもをとらえていくのであって、非日常的状況とは、運動神経の全身にみなぎる瞬間、つまりエネルギーの最高揚期である。ことわるまでもなく、エネルギーは消費されるから、大量のエネルギーを放出するためには多くの蓄積がなければならない。また補給が行われなければならない。エネルギッシュといわれるのは、このバランスの狂わない人のことである。
 ただ俗にいうエネルギッシュは、印象批評として使われることが多く、あまりあてにならない。あてになるのは、当ってくだけることで、行動し認識するスポーツの精神につながっている。だがぼくらは、もっとあてになる方法を知っている。それは新たに創造することである。
 だが創造のためには、認識もし、行動もしなければならない。これを僕は記録という。とはいっても、記録と創造の関係は、段階性になっているわけではなく、それは絶えず相互作用をくりかえし、エネルギッシュな人間、ぼくの場合は子どもを存在させるようになる。つまり記録とはエネルギッシュな部分をとらえること、創造とは、部分を全体にしていくことである。この場合、創造の仕事には、読者も参加してもらわなければならない。ぼくが一定のテーマにしたがって、つぎつぎに示す記録によって、全体を認識することもまた、創造というべきである。このことを、エイゼンシュテインの言葉を借りてくりかえすと、つぎのようになる。つまり、ぼくがある記録=部分を示す。「ところが読者のおのおのに生まれてくるものは独自の(夜半の)形象であり、観念であり、かつ独自のその重要さである。これらの観念はすべて固有的、個性的であり、相異なっているが、同時に、また読者・観客の形象でもあって、したがってそれは読者・観客のおのおのにとって独自な、生々とした、身近い『ごく親密な』形象となる」(袋一平訳、モンタージュ一九三八年)。
 そうなるとぼくの目的は、もっともエネルギッシュな部分をとらえること、記録することにあるわけで、まずぼくは、浮浪児と混血児に視点をおく。浮浪児と混血児は、戦後日本の端的な児童像として、またエネルギッシュな子どもとしてとらえるのに最適な存在だとぼくは思うのだ。 『ヨーロッパの何処かで』という映画には、エネルギーあふれるばかりの浮浪児たちが登場した。なかでも爆撃をうけた感化院の瓦礫のなかから這い出して、浮浪児たちの兄貴分となった少年のエネルギーは見事であった。
 一九四七年七月には、菊田一夫作『鐘の鳴る丘』の全国放送が始まり、浮浪児の存在は日本全国に喧伝されたが、その目的は、彼らのエネルギーを雲散霧消させることにあった。この年は、二・一ストがマッカーサーによって禁止され、またララ物質の学校給食が始まった年でもある。そして四月には少年の町のフラナガン神父が来日した。いつでもキャンデーをもっていて、子どもたちを手なずけるといわれていた人である。こうした政府をバックに作られ流された『鐘の鳴る丘』には、エネルギーをスポイルされた子どもばかりが登場し、いま思いおこしてみても、ぼくを落胆失望させる。そしてこの放送劇が、米軍の要請によるものだという話も信じられるのである。だがその菊田一夫にも『鳩の団九郎』(昭和二三年二月二三日NHKにて初放送)という浅草の浮浪児を中心にした好短篇がある。だが短篇となれば、石川淳の小説『焼跡のイエス』を忘れてはならない。この作品は、ぼくらの脳裡から薄れつつある戦後の混乱した社会を、鮮やかに再現していてくれる記録の一つである。そのなかに登場する「一箇の少年……さう、たしかに生きてゐる人間とはみとめられるのだから、男女老幼の熱をもつて呼ぶとすれば、ただ男のこどもといふほかないがそれを呼ぶに適切十分なる名をたれも知らないやうな生きものであつた」「まつたく、その少年が突然道のまん中にあらはれたときには、あたりの店のものも、ちかくを行きずりのものも、みな一様にどきりとして、兵隊靴の男とおなじくやや身をかがめるふうにして、足のすくんだ格好であつた」というのは、けだし日本の浮浪児のチャンピオン的存在で、エネルギーがえたいの知れぬデキモノと全身を蓋い、そのウミが流れ出してさえいるのである。しかも「はたからさへぎる隙もない速い動作」をもっている。この少年をイエスと呼んだ石川淳の認識は、イエス・キリストを媒体として天国に至ろうとするキリスト者の意識につながり、それはまた、子どもを媒体としてある可能性に到達しようとするぼくの文学のモチーフにつながってくるようである。
 混血児では、平野威馬雄の自伝的読物『レミは生きている』の主人公の弟を見落としてはならないだろう。混血児ながら反戦運動に参加するほどのエネルギーをもっていた。また、筒井敬介作のラジオドラマ(を原作にした映画が近く封切られる)『名づけてサクラ』のサクラは、米国の里親のところから、単身密航して日本へ帰ってくるほどのエネルギーの持主、しかも密航の動機となったのは、たまたま聴いた浪曲の哀調であった。
 羅列の労ははぶかねばならないが、以上に挙げた子どもたちだけでも、いわゆる児童文学に登場する子どもたちとは、くらべものにならないほどのエネルギーをもっていることは明らかだ。この子どもたちを、どっと児童文学のなかへ送り込んだら、さぞや大混乱がおきるだろう、と思うのは間違いで、そこには静かな従順があるだけだと思う。日本の児童文学の子どもたちは、その作家たちに似て、よくいえば従順な、奴隷の思想を身につけているからだ。そしてこの子どもたちは、揃いも揃って一面的な性格だけをもたされている。たとえば国分一太郎の『鉄の町の少年』のなかに出てくる瀬野清吉という少年は、嗅覚がひと一倍発達しているので鼻かぎと呼ばれている。そして彼は、鼻がいいということだけでこの物語に登場する権利を保持しており、感冒から鼻カタルにでもなって嗅覚がにぶれば、たちまち消されてしまう存在だ。ぼくはどう考えても、嗅覚の鋭さだけで、人間ひとりを規制することが肯定できない。しかもそれは鼻かぎと呼ぶことで、部分としてとらえることを拒否している。嗅覚というだけならば、犬のほうが人間よりずっとましだし、また、鼻そのものだけでも物語に登場させても一向にかまわないと思う。
 同じく斎藤広治という少年は、日記とキチンとつけるということで登場するが、この物語の展開に役立つのは、だれが何時に部屋を出て行ったとか帰ってきたとかいう日記である。いったそんな日記をつけることが、少年にとってどうだというのか。生活つづり方の指導者である国分一太郎の考えている日記はこんなものなのか、とさえ思いたくなる。もとより、会社側にそそのかされて、組合の危機を招くような悪い仲間を監視するために記録をとるということはありうるし、その必要も認めるが、それが日記として、しかも毎日つけているという日常性の上で、事件解決の一つのカギとなる、また、物語展開に役立ったというのでは、その構成は偶然の上に成り立っているといわれても仕方あるまい。
 とはいっても、この作品が他の多くのリアリズム児童文学よりすぐれていることは事実であって、定義温泉のエピソードなどはとくにすぐれた部分である。先日もぼくは、養鶏場に働きに行っていた中年女が、飼料を刻む機会に指先をくわれ、その肉片にくっついて、白い糸のような神経が一尺ほどズルズルと抜けてしまったという話をきいたとき、すぐさま定義温泉の話を思い出したのであった。
  「この温泉は、人間の体温より一度か二度ぐらいしか高くない温度の温泉で、むかしから、気ちがいになった人や、脳病、神経すいじゃくなどの人が、ながい間はいっていると、たいへんききめがあるといわれている。だから、あばれてしかたのない気ちがいの人などは、二日も三日も、飯をくわないで、クサリでつないで、温泉のなかにぶちこんでおく」
 この温泉の近くに、徴兵のがれにゴリヤクのある神様、定義様がある。その定義様まいりと、温泉での一夜の話だが、そのなかに、みずからの指を切り落として徴兵のがれを計った青年が出てくる。この青年がのちに労組の中心的存在となって少年たちを指導するわけだが、そこに結びつく必然性はあまり明確に描かれていない。むしろ、定義温泉の話は独立したものとして読んだほうが、戦時下の民衆の抵抗の記録として、価値がはっきりすると思う。村びとたちに内緒で、こっそりと定義様まいりをすることは、日常性をこえた行動であり、そこにはやはりエネルギーの充満がある。
 ところがこのような部分だけに興味を持ったと書くと、少年たちの集団性を無視しているという批判が出るかも知れない。いや、きっと出るだろう。この作品のテーマは、その集団性にあったのだから。だがぼくは、前に述べたように『鉄の町の少年』に関するかぎり、集団員個々に人間としての形象を認め難いので、それを買わない。
 集団性とか、集団的行動といえば、ぼくに一つの記憶がある。
 それは敗戦の前年、もう暮もおしつまっていたころだ。宮城県白石の山奥に集団疎開していた東京浅草のS国民学校六年生の男生徒二十余名が集団脱走した。惜しいことに、それは東京到着前に逮捕されてしまったが、そのなかのひとりがぼくだった。しかもぼくは指導者であった。しかしぼくには指導者としての資質に欠けるところがあったのだろう。途中で落伍しかけた者に制裁を加えたところ、その子がさらに脱走し、帰って教師たちにぼくらの大計画をバラしてしまったのである。
 この場合、その結果よりも、ぼくが重視するのはその動機である。ぼくらが集団脱走を計画し実行した動機となったのは、たったひとりで宮城県から東京まで、歩いて逃げ帰った少年がいたという事実だった。その少年は、わが家の玄関の戸を開けたとたん、気を失ってバッタリ倒れたということだったが、ぼくはまず、その子のエネルギーに驚嘆した。そして次の瞬間には、ぼくらにも出来るとの確信を抱いたわけだが、この確信は、あるものにとって、「前の人が跨ぎわたったのを確かめて納得して」という程度だったと思う。ぼくはそれよりいくらかはましで、というのも、ぼくの愛読書が『怪人二十面相』や『少年探偵団』、そして、原健作(現在は健策)主演の『まぼろし城』を見ること十数回という文化環境にあって、行動力だけは、そそられ続けていたからである。
 とくにここでは、たったひとりのエネルギーが、ぼくら二十余名の集団脱走だけでなく、相前後して起った脱走までも組織したという事実に注目しないわけにはいかない。その後さらに単独脱走した子がいたが、その子はあわれにも貨物列車に飛び乗りそこねて一命を落とした。運動神経の限界を意識しなかったのである。そしてこの子のはたした役割は、それ以後しばらく、脱走事件が起きなかったということにある。だがこの子どもでさえ、児童文学の子どもには成りさがらないだけのエネルギーは持ちあわせていたのだ。
 児童文学の作家、とくに生活童話を書いてきた作家ならば、集団脱走して、教師に報告した子どもを主人公とした童話を作り、教育に役立たせようとするに違いない。しかし、現状では、それさえもしない作家が多いのである。なぜなら、脱走事件そのものが彼らにとっては、日常性をこえた事件と思えるに違いないのだ。ところがそこから手をつけるにしても、しょせん彼らの解釈は日常的であり、事件を事件として処理してしまうことだろう。それでは事件を切り離して形象化し、一つの新しい世界を創造することはできない。ぼくがくりかえし強調したように、ぼくらの脱走事件は、脱走事件によって触発されものであって、日常性と切り離されたところでも存在する。そのころぼくは、脱走を強要される非日常的な状況のなかにおかれているのだから、その事件を記録するにあたって、日常性にリアリティをもとめることは誤りである。事件そのものが現実だったのである。
 事件を事件として処理する日常性は、交番のわきに立てられた「昨日の交通事故」の看板のようなもので、死亡者の数字でさえぼくらを感動させることがなくなってしまっている。これは先日、テレビの構成番組を制作するため、消防庁司令室を下見したとき痛感したことで、そこの勤務員たちにとっては、救急車が走り消防車が出動することが日常なのであって、それは数字で書きあらわされることでしかないのだ。だがそのこと自体が、日常性から切り離されたアクチュアリティと思えたぼくは、それを記録して一本の番組を存在させることができたのである。そして、消防庁司令室とぼくの日常性が直結したのは、本年一月十三日の夜、明治大学前を通行中のぼくのすぐ横で、若い男がルノーにはねられ足を折るという事件を媒体としてであった。日常性で処理されれば、交番わきの立看板の数字となる交通事故も、それ自体はすごくショッキングである。だがそのあとすぐ、救急車がぼくの視界から消えさるとともに、ぼくと消防庁とのつながりは切れた。しかしぼくは、その交通事故を再創造することによって、ふたたび消防庁とむすびつくことができるのだ。ぼくの日常と消防庁の日常をつなぐものは、非日常的なアクチュアリティだけである。
 マヤコフスキーが『いかに詩をつくるか』のなかで、「物体あるいは事件が大きければ大きいほど、遠ざからなければならない距離も大きくなる。能力のないものは全貌を反映するために、ひとところにとどまって、事件が経過するのを待つことになるが、能力のあるものは、理解しうる時間をひきずりだすくらい前方へ抜駆するのである」(関根弘訳)といっているのも、それ自体を切り離してみることの必要を強調したものと、ぼくは理解している。そしてマヤコフスキーは、エセーニンの死を、詩としてとらえ、形象化することに成功したのであった。
 マヤコフスキーは、エセーニンの友人たちが浅薄な詩を書いたことに批難をあびせ、「それらはすべてエセーニンにたいする呼びかけのことばでみわけがつく。彼らは、家族風に、彼を『セリョージャ』と呼んでいる。(略)『セリョージャ』は文学的事実として存在しない。あるのは、詩人、セルゲイ・エセーニンである。そのことをはっきりさせておこう」と書いているのである。これがぼくのいう、日常性にリアリティをもとめるな、ということであるわけだが、さらにマヤコフスキーは続けている。「家庭的な言葉である『セリョージャ』を持ちこむことは、社会的註文と形象化の方法をたちまちにして引き裂く」と。 われわれの周囲にコロコロしている児童文学には、家族的な言葉がみちみちているのではないだろうか。だから子どもたちは、児童文学を読むことによって、甘ったれ意識を芽生えさせられ、助長させられるのである。おにいさまとか、オジサマ・オバサマという言葉は家族的環境を離れると、じつにイヤラシイ言葉なのだが、これが平気で、あるいは当然のこととして使用されてきたのが日本の児童文学である。このことはすなわち、児童文学の作家たちが、家族主義の思想をもっている証明であり、しかも彼らは家父長として君臨し、子どもたちを独立した人間存在として認めていないことをものがたる。
 児童文学評論家古田足日の話によると、民俗学者の藤沢衛彦は「日本の童話がダメなのは鎖国が原因である」といったというが、これなどはずいぶん大きな話で、少々肯定するのに気がひけるだろう。そこでぼくは問題を、家族主義を耕せというところにおくことにした。もちろん考えようによっては、家族主義もまた、一種の鎖国状態といえないこともないだろう。そして日本の児童文学そのものが、やはり一種の鎖国状態を続けてきたようである。
 このことについては昨年、進藤純孝と意見のやりとりをした平塚武二が、本来は流れであるべきものが水たまりになっている、という言葉でいいあてていた。平塚武二は、生活童話などは書かない数少ない作家のひとりで、一九四七年に『太陽よりも月よりも』を発表し、その主人公はかなり鮮やかに形象化されていた。
 すなわちその主人公は、床屋の小僧時代にはパンキ。百人長の部下となってはキラテル。百人長に出世しては「いたちごろし」のパラチムル。大将時代はタムカムキン。そして天下をとっては、タイヤン・ツンヤン・マカトウデ・タルカムキン大王とつぎつぎに名を変えていった。だがこの主人公、出世の手段を虚偽と策略に選んだことが惜しまれる。正々堂々、エネルギーをむんむん発散させての活躍がみたかったのだが、大王になつまでがハナだったという形で物語に登場しているため、どうも人間関係に依存しすぎたきらいがある、そには彼の出世の手段に原因している。ために大王になってしまったとき、つぎへの手掛かりを失ってしまったのだ。彼が虚偽と策略によって、自分自身までも征服することができればすばらしかったのだが、そこまでエネルギーの蓄積と補給がなかったようである。そして、この作品の弱さの第一原因は、モーコ平原あたりを舞台にしているとはいえ、無国籍な設定であるため、どうしても人間をバラバラに切り離したところで形象化していくことが不可能だった点にある。
 人間は個々に切り離されたとき、すぐさま自然とのたたかいを開始しなければならない。戦いに勝つためには、敵を知り己を知る必要があるわけで、その意識は土着性という言葉であらわすものだとぼくは思う。農民もまた自然とのたたかいを続けている。農民の場合、それは日常性とさえなっているが、やはりそれは土着性といわれている。この農民のそれとは異質の土着性を浮浪児や混血児たちが持っているのである。
 たたえば『レミは生きている』の主人公は、混血なるがゆえに、近所の子ども・同級生のなかのだれよりも強く、日本人たらんことを意識した。『名づけてサクラ』のサクラもまた、混血なるがゆえに浪曲の哀調に心うたれ、単身密航して帰ってきたのである。ここでは土着性が民族意識にまで深められている。
 浮浪児の場合、それはいっそうはっきりする。浮浪児たちを区分するとき、一番手っ取り早い方法は、上野の、浅草の、野毛の、梅田のといった地域性を彼らに付加することだ。浮浪児とその土地とは切り離して考えられない。しかし、その土地に、彼らを保護するものはいないのである。
 「彼はだれからも保護されていない。治安を維持するおまわりは彼の敵であり、いわゆる善良な小市民は彼をけいべつしている。彼は、常に自然の恐怖にさらされている原始人と同じなのだ」という表現で、『レ・ミゼラブル』のなかのパリの浮浪児ガヴローシュをとらえ、そのエネルギーを賞賛したのは古田足日である。(『新しい児童像と教育』のなかの「子ども−その人間としての存在」)そして古田は、「この大地の子のエネルギーを、いまの子どもたちも持っている。人間であるかぎり、誰もが、このエネルギーをもっているのだ」とも書いている。そしてそのエネルギーをスポイルしているのが、赤胴鈴之助やスーパーマンだというのだがはたしてそうか。
 『レ・ミゼラブル』のなかからガヴローシュをはぶき、ジャンバルジャンおじさん改心譚を子どもたちに与えたものたちこそが、その役割をはたしているのではないだろうか。ぼくにはそう思える。児童出版ジャーナリズムを育てあげるべき努力を怠り、それに追従してきたものこそが、赤胴鈴之助やスーパーマンよりもまえに、古田の指導を受けるべきなのである。
とはいえ古田が、新しい児童像を求めて、ガヴローシュという一つの個性を抽出してきたことの意義は認めなければならない。そして、「ガヴローシュという個性を浮きぼりにしていって、浮浪児のタイプを描き出すこのやり方は、はたして今日にも通用するか、どうか」と考えてみる必要があるわけだ。ためには、さまざまな実験をくりかえさなければならない。そうした実験、新しい試みが、手垢にまみれた従来の形式によって行われうるとは考えられない。日本の児童文学伝統、なかでも戦中の奴隷の思想をひきずっている日常的リアリズム伝統は、すみやかに抹殺されるべきである。その方法の一つとして、ぼくは非日常的なアクチュアリティの記録を提唱した。
(一九五五年三月「文学」)
テキスト化小谷地伸子