『現代にとって児童文化とはなにか』(三一書房 1965)

赤胴鈴之助とスーパーマン

 街に灯ともし頃となると、ラジオから赤胴鈴之助が飛び出してくる。
 武内つなよし原作、穂積純太郎脚色の台本によれば、その出は、
 SE「エイ」「ヤッ」の気合、竹刀稽古の音――BG
 男の声「うぬっ猪古才な小僧め!……名を、名を名乗れ!」
 鈴之助「赤胴鈴之助だ!」
となっている。このつぎに「日本水産提供、赤胴鈴之助」というアナウンサーの絶叫が入って、剣をとっては日本一に夢は大きい少年剣士――に始まるテーマソングがうたわれる。この歌こそは、北海道から沖縄まで、日本の子どもがたいていは知っている流行歌の一つである。ある小学校教師の報告によると、遠足に行って歩き疲れたとき、赤胴の歌を合唱したら、歩調は整い子どもたちは元気を取りもどしたという。もちろんその教師はその報告を誇らしげに語ったわけではない。
 テーマソングが終わるとこんどはカンパツを入れず「愛と勇気に心はおどる、夢と希望の少年剣士、少年画報連載、武内つなよし原作、穂積純太郎脚色並に構成、渡辺浦人音楽による連続放送劇、赤胴鈴之助――」とこれまた上ずった声でアナウンサーが聴取者によびかけるのだ。この導入方法は従来の連続放送劇とはくらべものにならないくらい強烈で、またそれだけに効果もあった。
 テレビにも映画にも赤胴鈴之助は登場したが、やはり人気の焦点はラジオにあった。映画がラジオほどの人気をかち得られなかった大きな理由は、梅若正二ふんする赤銅鈴之助が子どもたちの抱く少年剣士のイメージにぴったり来ないためだといわれている。テレビの場合はむしろ逆で、刀に振り回されているといった感じの少年俳優がイメージを破壊してしまうからであるらしい。
 だがここで、赤胴はラジオにかぎるなどといってはいられない。赤銅鈴之助はすでにラジオから飛び出し、街々を堂々とカッポしているのだ。この赤胴鈴之助を「スーパーマン特集」の名のもとに、バッサリやれと本誌の編集部がいうのである。
 もともとスーパーマンというのは、アメリカ・フラミンゴ・テレビ映画プロダクションの製作による、ジョージ・リーヴス主演の『スーパーマン』が元祖である。もちろんマンガの映画化だ。それによるとスーパーマンは遠い星から地球へやって来た奇蹟の男のことである。だから、人間かも知れないが、少なくとも地球人類ではないはずだった。
 ところが、この数年来、地球人類のなかからもスーパーマンと呼ばれるものがぞくぞくと現われ出した。商品にもスーパーは大流行で、「スーパー、スーパー、スーパー目薬」などというのがある。
 スーパーマンを和訳すると超人ということになるようだ。人間を超越した存在というわけだろうか。とにかく、人間らしからぬ奴なのだ。赤胴鈴之助もそのなかのひとりである。秘伝真空斬りを奥の手に、殺りくのかぎりをつくす赤胴は、たしかにスーパーマン的なところがある。
 スーパーマンたちが人殺しを合法化する理由は、正義のためにの一言につきている。「正義のために」とは、なんとまた人間らしい言葉だろう。そして正義正義と口走っているかぎり、スーパーマンたちは絶対に死なないのである。
 今、売出しのスーパーマンのひとりに月光仮面というのがいる。ある日のこと月光仮面は悪漢共を追跡して白バイを走らせていた。ところが道路には新発明の時限バクダンが仕掛けられてあった。オートバイは大破し、眼鏡までが辺りに散乱してしまった。悪漢共はそれを見て、「さすがの月光仮面も、今度こそはオダブツさ」と喜び合った。首領などはカラカラと笑ったほどだ。ところが、天の一角より月光仮面の歌声が聞こえて来る。月光仮面は死にもしなければ、怪我もしなかったのである。その日のサブタイトルには、「正義は死なず」と記されてあった。
 赤胴鈴之助の場合も、やはり正義は死なずのやりくちで何度もピンチを脱している。
 スーパーマンたちのピンチというのがこれまた不思議なことになっている。
 スーパーマンたちをピンチに追いつめるのは人間で、まず人間は不正義ということにきまっているようなものだ。このほかに、歯がゆいほど弱い、まあいわば無能力者が出てくる。人間以下の存在とも見られる。これがまた、人間つまり不正義に追いつめられる。哀れなのは人間で、いつもいいところまで追いつめておきながら、どんでん返しを食わされる。
 スーパーマンというのはだいたい根性が悪く出来ている。強いくせに、なかなか強さを発揮しないで、人間以下の者達といっしょに岩屋や牢に閉じ込められたりする。閉じこめられる前に暴れてしまえば、殺される人も少なくてすむし、建造物や自然も破壊されずにすむのに静かにしている。怠けものかも知れない。それとも、神経系統に欠陥があって、危機感の高まりに時間が掛かるのだろうか。
 ところがスーパーマンたちを怠けものとか神経症患者よばわりされない備えは出来ている。スーパーマンたちは揃いも揃って、気は優しくて力持ちということになっているのだ。怠けているのではなく、忍耐しているのだということにこじつけてあるから始末が悪い。
 ところが実際はその忍耐のために、人間の死ぬ数はふえるし、破壊される建造物が出来てくるのである。スーパーマンたちに忍耐されると非常に高くつく。
 連続放送劇『赤胴鈴之助』の六百一回からは決闘黒雲峠の巻だった。ここでも赤胴鈴之助は無能力者たちとともに忍耐に忍耐を重ねて岩屋に閉じ込められていた。
 その赤胴がようやくのことに脱出を決意して身ぶるいすると、彼をしばりつけていた縄はブッツリと切れてしまう。いっしょの老婆は驚いて「それが有名な真空斬りかいな」てなことをいう。するといっしょの女が「ちがうわよ、真空斬りはもっとすごいわ」というような訂正をする。赤胴鈴之助には、縄の一本や二本は真空斬り以前のことなのだ。
 こんな頃、もう一方の岩屋には、佐吉という男と頓吉という少年が閉じこめられていた。頓吉はどこで手に入れたのか、鉄の棒でこつこつと岩をくだいて逃げようとしていた。頓吉も無能力者のひとりだが、まず人間といえる存在である。
 一方はこつこつと岩をくだき、一方は「うーむっ!!」の一言で縄を切る。しかもそれ以上の力を持っている。けっきょく彼らは岩屋からの脱出に成功するわけだが、その栄冠はすべて赤胴鈴之助の上に輝く。こつこつと岩をくだく人間の努力はかえりみられない。
 こつこつと岩をくだく人間の努力などというと、とかく修身教育的な響きを持つし、ぼくもあんまりそういう努力を好むほうではないけれど、岩山を爆破するダイナマイトのほうが、ダイナマイトを仕掛ける人間より立派だという見かたはよくないと思う。だが、赤胴鈴之助を英雄視していけば、いつのまにか、人間よりダイナマイトのほうが、ということになる。岩石を掘り出し、ダムを造るのは、はたしてダイナマイトであるか人間であるか。こつこつと岩をくだく人間の努力を、クライマックスに追い込むためのサスペンスとしてだけ利用し、結果において人間とその努力を否定しているのが『赤胴鈴之助』なのである。これをドライなどということは出来ない。
 だいぶ前のことだが雑誌『日本』が「昔の人は不思議だな」という小学生たちの座談会を組んだことがある。戦前の修身教科書を見せてその感想を語らせたのだが、昔の人は不思議だなと子どもたちは片づけてしまった。この記事についての感想を赤胴の原作者武内つなよしも寄せていた。それによると、武内つなよしは熱心な修身教育の復活論者である。
 修身は道徳教育と名を変えて復活された。この時期に武内つなよしが、『赤胴鈴之助』というような人気マンガを書き、それがラジオ、テレビ、映画となって子どもたちをとらえているということは、生やさしい問題ではないのである。それはもう、「昔の人は不思議だな」では片づけられない装いをこらしている。ぼくはその装いの一つに、赤胴鈴之助が遠い星から来た男としてではなく、如何にも人間らしく作られているということがあると思う。テーマソングの歌詞に「親はいないが元気な笑顔」とか「夕焼星は母によく似たきれいな瞳」とかいうのが出てくることにそれはおおいに関係がある。事実は、母親がちゃんといるのに、依然として歌詞を変えない強引さである。
 人間らしく人間らしくと作られたスーパーマン赤胴鈴之助は秘伝真空斬りの奥の手を出しながら、人殺しを重ねて行くが、その彼でさえ斬ることが出来ないのが道徳ということにいなっている。赤胴鈴之助の作者たちは、人間否定のドラマにおいて、道徳を最高の地位に置こうとしているのだ。
 赤胴鈴之助が腕を磨けば磨くほどに、道徳の座は高く高くなっていく。その道徳の象徴がお玉ヶ池の千葉周作である。如何に鈴之助が強くなろうと、しょせん千葉周作にはかなわない。三尺さがって師の影を踏まず、鈴之助は師弟の礼を忘れることがない。千葉周作はどうしてそんなに強いのか、その答えは、師であるからだ。そしてまた赤胴鈴之助は、なみなみならぬ孝行息子である。
 いつまで経っても師を仰ぎ、母に孝行を忘れぬということ、それだからこそ鈴之助は、スーパーマンのように強いのだろうか。それとも、スーパーマンのように強いから、孝行で師恩を忘れないのか、ここのところをはっきりきめておくことが必要ではないだろうか。ぼくの見たところでは、どうも前者であるらしい。何故ならば彼は、遠い星の国から来た奇蹟の男ではないからだ。
 ここらで問題をハッキリさせるために、赤胴鈴之助をスーパーマンと呼ぶことをやめて見てはどうだろうか。鈴之助をスーパーマンと呼んでしまうと、彼の言動のいっさいが合法化されてしまうことになる。道徳が天啓にさえすりかえられる危険があるのではないかと思う。鈴之助を地球人類の一人として見た場合、どういうことになるかといえば、まず彼をヒキョウ者とののしっていいと思う。力があるくせに、それをひたかくしにして置いて、「えい!」とかいって一度に出すのは卑怯卑劣だといえるだろう。かくすことと、たくわえることは正反対のことであるはずだ。そして彼は、反動的モラリストである。彼はつねに徳川幕府の権力保持のために立ちまわる。敵は幕府を倒そうとする豊臣の残党たち。
 もしぼくが、赤胴鈴之助について、子供たちと話す機会があったとしたら、ぼくはまず鈴之助が、星から来た男でないことを強調したいと思う。そうすればあんがいかんたんに、赤胴を斬ることが出来るのではないか。子どもだとて、そのバカバカしさに呆れてしまうことだろう。ぼくが何故このことにこだわるかといえば、三度にわたって赤胴鈴之助を見に町の映画館へ行ったことがあるからなのだ。その時の経験からすると、子どもたちはたいてい、鈴之助が不死身であることを信じて疑わないようだった。たまに幼い子が鈴之助の身を心配すると大きいのが「心配すんねえ、絶対死なないんだよ」と叱るように教えていた。ぼくがそういうひとりの子に、「ナゼ、赤胴鈴之助はしなねえんだい?」と質問したら、「だってよう、鈴之助が死んじまったらよ、映画もテレビも、ラジオだっておしまいになっちゃうじゃねえか」と答えた。
 さらに、「どうして、赤胴鈴之助が好きなんだ?」との問にたいしては、「あいつ、強えからなあ」と答えたのである。このあとすぐにベルが鳴り灯が消えて、開幕とともに、子どもたちはテーマソングを高らかに合唱し始めた。ぼくは子どもたちが赤胴鈴之助をスーパーマンと同じように見ていると感じざるを得なかったわけだ。
 「あいつ、強えからなあ」と答えた子どもたちにとっては、何がなんでも、強ければよいのであろうか。ところがそうはいかないところに問題があると思う。子どもたちは、やはり、何故強いのか、というところくらいは考えている。その答えが、「正義、せいぎ、セイギ」と出てくる。その正義は何かとなると、赤胴鈴之助の場合は、テーマソングにも歌いこまれているように「弱い者には味方する」ということに、表面ではなっている。しかし事実は逆だ。赤胴鈴之助は絶対に強い者に味方している。徳川幕府と豊臣の残党とくらべて、どっちが弱者かといえば、豊臣の残党にきまっている。ところが、鈴之助は佐幕の少年剣士なのである。この矛盾に子どもたちが気づいてくれるかどうか。まず、気づかぬと見なければならない。とすると、子どもたちは、無能力者と弱者を見まちがえることになるだろう。無能力者とは、強者に対決することのない者であり、弱者とは対決するものである。強者に対決しない者に味方して正義とは、あまりにも虫がよすぎはしないか。こんなことでまどわされて行
くと、けっきょく強くなれない者は、乞食に金を恵んで正義感を満足させるようなチャチな根性になりさがる。武内つなよしたちの目的はそういうところにあるような気がする。
 さてその『赤胴鈴之助』も、回を重ねて七百回に近く、ようやく人気も下降しつつあるようだ。ぼくのところにとどいた情報では、来春三月で打切りになるだろうという。スポンサーとの契約が切れるからである。またスーパーマン的な人気をかち得ていた石原裕次郎もその時代が過ぎたといわれ始めている。スーパーマンの世界にも凋落のキザシが現われたのだろうか。それともたんなる選手交代か。その辺のところを見きわめることが大切だが、ぼくの推測するところでは、これからのスーパーマンは、完全に星から来た男として終始するか、あくまでも人間らしく振舞うかのどちらかだと思う。そして星から来た男ならば、科学性を身につける必要があるし、地球人類は至って深刻な顔をしながら、人間を超越して行くことだろう。『人間の条件』の梶のような男である。
 最後につけ加えておきたいのは、今年の七五三の衣裳としてスーパーマンと月光仮面のものが売出されたことである。価格は五千円ほどであったがじつに立派なものだった。ぼくはそれを眺めながら、つくづくと自分が抱き続けてきた児童像のひよわさが痛感されてならなかった。ぼくのイメージにある子どものなかの誰ひとりとして、スーパーマンや月光仮面の衣裳が似つかわしいのがいないのである。そのくせぼくの子どもたちは、風呂敷を背中にひろげしょって走りまわるのだが、しょせんは人間存在なのだ。むしろぼくとしては、スーパーマンや月光仮面の衣裳が子どもたちの普段着となることをのぞんでいる。そうなることによって、スーパーマンたちを人間の座にまでひきおろすことが出来るのではないかと思うからだ。ところがそれがひと揃い五千円もするとなると、とても普段着にはならないだろう。
 この一事をもってしても、スーパーマンはどうやら特権階級に属するものといえるのではないか。 (一九五九年一月 「現代詩」)
テキスト化亀山恵里奈