体制不協力の文学−児童文学ミニコミ論
1
つい先日のことだが、「映像の未来は可能か」という講演会があった。報告者は自称「映像作家」の松本俊夫で、そのいわんとするところはおのずから明らかという感じがし、とうていぼくは会場まで出かける気にはなれなかったのである。しかしこの内容とはべつに、演題のほうはすこぶる興味が持てた。未来は可能かといういいかたは、どんなものにも応用できるのであって、たとえば「児童文学の未来は可能か」といいかえてみると、これはたちまち、この文章の表題にもぴったりしてくるという仕組みである。
それにまた未来は可能かといういいかたのうちには、今日の状況をかなり適確に把握した上での想定という要素がふくまれているようで、たとえその結果がかなり楽天的なものであっても、なにがしかの今日的な苦悩をのりこえての楽天性だと錯覚させる可能性もあって便利である。
しかしいい気になってはいけないのだ。大学新聞のようなメディアから、たとえそれが「未来は可能か」というようなおおざっぱないいかたではあっても、そこに「児童文学」というごとき特殊な主題の設定が提出されてくるからにはそれ相当の理由がなければならない。もしもぼくの予想が間違っていないとしたら、「児童文学」という設定はあくまでも主題の前提であって、そこからさらに一般化され得る考察へと問題を拡大深化させるようにとの内的要請がふくまれているのではないか。もちろんそうした要請が生まれてるくるかげには、子どもあるいは児童文学に今日のマスコミ状況なり大衆社会状況と文化の関係なりといったものが集約的に顕示されているという認識が存在していることは確かである。
たとえば、『鉄腕アトム』を例にとってみよう。それは少年雑誌の連載マンガとして生まれ出てきたのだけれど、それはやがてアニメーションとなってテレビにのり、さらにそのアイドル的要素が企業あるいは商品イメージの形成に役立つと考えられて、一種のコンビナート的マンガ企業にまで発展した。従来もディズニーのように、マンガ企業は存在するにはしたが、その主人公が「正義の味方」に象徴されるような一定のテーマあるいはモチーフを持ちながら、それがそのまま企業に役立つということはあり得なかった。この点をぬきにしてアトムとディズニーを同列に論じていたのでは、マスコミの今日的役割はいささかも明らかにならないであろう。
テーマあるいはモチーフを持ったアイドルが企業化され得る状況とは、とりもなおさず、われわれの家庭をふくめての全環境が体制のなかにすっぽりとはめこまれた状況にほかならず、そこではもはた正義を百万遍口にしようとも、平和を千万回叫ぼうとも、それらがすべて体制のための宣伝に利用されてしまうという状態を差す。
テレビというメディアにおいて、アトムと同じく、あるいはそれ以上に興味と関心を持たれている『鉄人28号』がごくかぎられたかたちでしか企業化され得ないのは、金田正太郎少年の手にあるリモコンを通してでなければ活動することができない鉄人の機能的限界と、そのリモコンが敵の手にわたればたちまちに、鉄人もまた敵の力になってしまうという変革の可能性を持ち得ているからだというのがぼくの考察だが、そうした意味でのアトムと鉄人の相違点は、マスコミと児童文学とのかかわりを考察する上でもかなりの有効性を持つはずである。
2
『ああ玉杯に花うけて』というよう作品でも、『少年ケニヤ』といったような作品でもいいわけだが、とにかくここで一つの大衆児童文化財を提起してみると、そこにはかならず何らかの意味で、大きく鮮明なテーマあるいはモチーフが存在していたことがわかる。ところがそれらに比較してみるとき、小川未明の童話はどうか、宮沢賢治の作品はどうか。そこにもかならず何らかのテーマが存在し、モチーフが語られていたことは事実なのだが、それは大きく鮮明ではない。むしろ逆に、そのテーマなりモチーフなりを前面には露呈させないことに注意がはらわれていたようだ。考えてみるまでもなく、そのかくされたテーマやモチーフが大衆化されるはずはなかった。
ところが若くして夭折した宮沢賢治はいざ知らず、未明にしても坪田譲治にしても、その文学的内向性とはうらはらに、人間的にはかなりの大衆性を持ち得ていたから、その文学的方法を吟味することもなく、時流にはけっしてさからわないという生活態度をとった。ここから生まれてきたのが、生活童話の名でよばれるような、奇妙な体制協力文学であった。その奇妙さは、いかにかれらが戦争なら戦争に協力する気構えを持っていたにしても、戦意昂揚にはいささかも役立たないような作品を書いていたことに集約される。
奇妙な体制不協力の伝統は、いまもなお生き続けて、マスコミ状況下の孤児的存在としての児童文学に継承されている。
いわゆるおとなの文学が、テレビとともに生き残るために、中間小説とよばれるジャンルを隆盛にみちびいたのを眺めては、わが身の停滞をなげき、マンガブームの再来を目のあたりにしては、これまたわが身の不振を悲しむといった大衆的発想を持ちあわせながら、それを方法にまで転化あるいは拡大することができない奇妙なポーズこそが、今日の児童文学者のありのままの姿なのだ。したがってここでまた、体制すなわちマスコミに力点をおいた評価を児童文学にくだして、その不振停滞をなじるとしたら、そこにはまた、あの奇妙な体制協力文学が輩出するわけである。
前述したアトムと鉄人の違いは同一ジャンル内における質の違いだと判断される。だが、児童文学と大衆児童文学の相違は質以前の、いわば人間の違いなのではないかと考えられる。だから児童文学は、アトムのように企業化されることもないし、鉄人のように企業化されないままの繁栄をとげるということもない。それがかたちを成すまえから、すでに非大衆化の宿命を負っているといわなければならないのだ。
3
それでも昔はメルヘンが、子どもの現実の一部を構成することがあったという論旨もあり得ないわけではない。しかしメルヘンが子どもの現実の一部であるためには、そこに子どものゆるぎなき世界が設定されていなければならないのだ。
メルヘンは空間に存在する小宇宙であって、現実における時間を考慮したのでは成立し得ない一つの世界である。だからこそ、子どもが現実のなかに、その空間を位置づけるためには、そこでは逆に定着された時間帯が設定されていなければならない。空間にあそぶことができるのは、一定の時間を区切ることが可能な存在=子どもである。ここではごく単純に、それを読書の時間と考えてもよい。メルヘンが小市民階級の子弟のための文学形式として生まれてきたのは、この時間と空間の関係を証明する一つの事実であるだろう。
さて、それからかなりの時代を経て、体制はみずからを維持するために、いくつかのテーゼを持つことが必要となった。たとえば「正義」に関するテーゼとしては、正義はかならず勝つという設定が考えられた。正義の味方である鉄腕アトムは、けっきょくのところ、この要請に応えたものである。アトムの活躍が正義に関するテーゼであるためには、その舞台はあくまでも現実でなければならなかった。しかもその現実は惨めな現実であってはならなかった。ここでメルヘンが復活する。しかしこのメルヘンは空間のなかに時間をひきずりこんで成立するところの、倒立したリアリズムの世界である。
アトムは空間から、われわれの時間のなかへとびこんでくる。マスコミはアトムによって、時間と空間のへだて、あるいは現在と未来とのへだたりを取り除いてしまったのだ。マンガは日常化され、そのメルヘン的要素、小宇宙は消滅した。それを可能にしているのが、正義の味方に象徴されるテーマあるいはモチーフであることは、いまさら指摘するまでもないだろう。
ピーターパンにおける作者バリイの主体的なかかわりは、作品の成立条件を左右するほど重要なことだが、アトムの生みの親である天馬博士ないしはその作者である手塚治虫の存在は、作品にとってそれほど重要ではない。マスコミにとって必要なのは、作家主体や文体ではなくて、テーマであり、モチーフである。
問題がかなり児童文学的になりすぎたかもしれない。だがいままでに明らかになったことは、児童文学がそのテーマやモチーフを前面に露呈させることをためらっているうちは、体制のそとに存続するよりほかに仕方がないだろうということである。ここでふたたび「児童文学の未来は可能か」という設問をするならば、はなはだ残念ながら、マスコミ路線的には、不可能であると断定せざるを得ないだろう。
しかし、とぼくは考える。もしもここであの奇妙な体制に協力することのかなしき伝統をさらに深める方向にむかってみたらどうだろうか。どんなに努力してみても、体制に協力することの不可能な文学形式と、そうした文学にかかわりあわざるを得ない作家主体を、もっと意識的に論理化していくと、かえってそこには、マスコミ状況とはまったく様相を異にした伝達の可能性が見出せるのではないだろうか。
問題をぼく個人の資質に還元してしまうのも一つの方法である。ある種のテーマあるいはモチーフを鮮明に露呈させるような形式の児童文学作品を創造することも、ぼくには可能だ。しかしそのいっぽうで、森羅万象ことごとくを、子どもにかかわりあわせてみなければ、どうすることもできない自分を意識しながらの文学活動に、ささやかな情熱を燃やし得ることも事実である。
かくて問題はかなり明らかとなった。マスコミ状況下の子どもが、はたして体制不協力の文学=児童文学へ、どのような動機によって接近してくるのかということが、われわれに与えられた大きな課題として残っている。そしてここでまた、問題は特殊から一般へと拡大深化されるのだ。
子どもが何によって今日の状況からの脱却をなし得るのか、それは広く一般的な課題であるが、それを考究する上で、児童文学が何らかの役割をはたし得れば、それでいいのではないか。
(一九六四年六月「京大新聞」)
テキスト化清水博