新・三橋美智也論――作家主体と文体
三橋美智也がこの五月に吹き込んだ歌は『かすりの女と背広の男』というドラマ風歌謡曲で、新しい三橋調ともいうべき意欲作品だとの評判である。かつて関根弘はスーパーウーマンとしての美空ひばりの人気が、彼女のたゆみない努力にあるという分析をしていたが、これはまた三橋美智也の場合にもいえることではなかろうかと思う。
三橋美智也の自伝『歌ひとすじに』を読むと、四・五歳のころから、きびしい指導のもとで、それこそ血のにじむような努力を重ねてきたことを知らせる。そうした努力が、今日の人気歌手三橋美智也を形成したといえぬでもない。だがそういう見方は、本当に彼を理解したことにはならず、したがってファンとしても上等ではないということになるだろう。つぎに『歌ひとすじに』の一部分を引用する。
「いい知れぬ孤独感に襲われることもありました。子だくさんの私の家はたえず貧しさに追われていました。働いても働いても楽にならない暮し。私だって友達と遊び回っていたい。しかし、みんなが楽しかるべきときに私一人は舞台に立たなければならない。私は何度泣いたか知れません。しかし、そんな私のわがままは家計を助けるためには許されません。ともすれば崩れそうな当時の私を支えていたものは、負けず嫌いな私の土性っ骨だけでした。」
少年三橋美智也の努力を支えたのは、土性っ骨だけだった。しかし、彼もはっきり「当時の私」と書いているように、現在もなお彼の努力を支えているのが土性っ骨だといえば嘘になるだろう。下り坂といわれる人気のなかで、意欲作品だと評判になる歌を生みだすその努力が、土性っ骨とよばれるような、未分化な資質的なもので支え切れるはずがない。今日の三橋美智也を、その努力を支えているのは、歌手としての主体、その強烈な意識にほかならない。
三橋美智也は歌手である。三橋美智也が歌手であることは、全日本の大衆が認めている事実である。その意味で三橋美智也は社会的存在だ。児童文学者などよりは、ずっと社会的な存在なのである。
歌手が歌手であるためには、素人などがおよびもつかないほどの技量を持ち続けなければならず、それは楽譜が読めるとか、声がいいとかいうようなことではない。もちろんそれらを無視することは出来ないが、それらは文学でいえば、読み書きが出来るとか、文学用語を覚えたとかいう程度のことで、歌手としては当然のことなのである。まして最近のようにタレント学校その他で歌手養成が激しく行なわれるようになると、職業歌手は常に転落の危機にさらされるが、それを悠々と泳ぎ切って行くところに歌手の存在理由が認められるわけである。その存在理由こそが、素人には及びもつかぬ技量というべきであろう。そしてその技量を生みだすのが、歌手の主体だといえば、それはただちにこの文章のサブタイトルである作家主体と文体の関係に似てくるのではないだろうか。
三橋美智也のような職業歌手において、その技量が落ちたとき、それは歌手からの消滅を意味する。このきびしさを意識すればこそ、三橋美智也は「勉強している人だ」といわれるような努力を重ねるのである。しかもその技量は、新しもの好きの大衆の要求によって絶えず変革・増大を計らなければならない。大衆の要求を無視する歌手は、発表の場を与えられないから、必然的に消えていく。となれば、歌手主体とその技量というような二元論的ないい方では、とてもこの問題は処理できないほどの激しさを、ぼくらは意識すべきではないだろうか。
歌手がつぎつぎに新しい歌を生み出していくことによってのみ、その存在を維持している現実を、児童文学者はどう考えるべきだろうか。もっと身近に、それこそ自分たちのこととして受け止めてみる必要さえあるのではなかろうか。
繰り返すようだが、三橋美智也が下り坂といわれる人気のなかで、新しい方向を示す意欲的な歌を生み出したのは、職業歌手としての主体なのである。つねに新しいものを生み出さないでは許されないきびしさが、職業歌手にはついてまわるのだ。このようなきびしさを意識しない歌手は、四流五流のドサまわりであることはまず疑いのないところだ。しかしドサまわりにもそれなりの苦労があることはいうまでもないだろう。
ところで三橋美智也について、ある人びとは民謡調歌手のレッテルをはるかも知れない。そしてそれはかならずしも間違っているわけではないが、彼のうたう民謡が鈴木正夫のうたいぶりなどとはまるで違って、ずっと現代的であることにはじゅうぶん注意して欲しいと思う。このことは、児童文学をこころざすものにとっては見過ごすことの出来ない問題である。たんに民謡のリライトというようなことではなく、伝統の継承ということにも関連の深いことがらだと考えられる。それはまた作家主体について考えるとき絶対に無視することの出来ない問題なのだ。なぜならそこには、新しさと古さの対決があるからである。
ぼくは伝統を拒否する。過去の声、つまり芸術遺産から学ぶべきことは何一つないというのがぼくの主張である。その絶対拒否の可能・不可能を論じることもぼくは拒否するわけだが、そのぼくが民謡調歌手といわれる三橋美智也の民謡についての考え方には、ほとんど賛成なのである。それはまるで、民話の研究家である西郷竹彦氏に共感せずにはいられなくなることが、しばしば起きるようなものかも知れない。
すこし長くなるが『歌ひとすじに』の中の三橋美智也の民謡論、『民謡のこころ』から一部分を引用してみる。それは「私は幼い頃から日本民謡を歌い続けて来ました。そして民謡とともに半生を歩んで来ました。この半生の経験によって、私は、私なりの民謡のあり方についての考えを持つようになりました。」というように、すこぶる経験主義的なものだが、彼が民謡といっているところを、童話なり児童文学なりといい直せば、ぼくらが書くよりももっと攻撃的な児童文学の現状批判になると思われる。
「私たちの祖先がその時代の生活感情によってつくり上げた民謡を、そのまま歌っていたのでは現代に生きている大衆はかえりみてくれません。やはり、私たちの時代の生活感情にあうように歌ってこそ、はじめて大衆の注意をひくことができるのです。『正調』という難しい理窟ばかり振回して、民謡のただ一ヵ所のふしまわしばかりを問題にして、どうのこうのといっていたのでは、民謡はただ旧時代の歌として博物館的なものとしてしか大衆には映じないでしょう。
町田嘉章氏が、全国の民謡を蒐集録音することによって、幾分でも過去の古典民謡の保存に力を注いでいられるのは、大労作として敬意を表します。しかし、ただそれだけでは一部の人々の懐古趣味の関心をひくだけで、大衆の方々の注意をひくことは出来ません。(中略)日本民謡協会の行き方にも、こういった懐古趣味、もっと悪くいえば、過去への安直なセンチメンタリズムが強く感じられるのです。日本民謡協会はれっきとした研究団体なのですから、その行き方に対して、世の中の方々が共感が持てるようなものがなければなりません。ところが今の協会の行き方を見ておりま すと、時代のことも現代社会のことも大衆の感覚についても全く考えない、ただ民謡を追うという孤立主義の傾向が強いのです。」
三橋美智也の民謡論は新しさを求めてやまぬ精神にみちている。古いものを、そのまま温存しようとする連中への抵抗がある。この抵抗は、三橋美智也をますます新しくさせていく。そしてさらに古きものへの抵抗が強まるという相互作用が絶えず行なわれるのだ。つまり、新しさを求めるということは、即、古きものへの抵抗であるということが理解されなくては、とうてい創造への参加をのぞむことは不可能だ。
さらに深く考えなければならぬことは、三橋美智也の古きものへの激しい抵抗が、何を根にして支えられているかということである。彼の言葉どおりに理解すれば、彼のファンであるところの大衆の共感を得たいという願望と、自分は大衆に支持されているんだという自信とが、彼を強くしているといえよう。そしてその願望と自信のバランスを崩さぬところに彼の歌手主体があり技量もあるわけだが、そういうバランスなら過半数の政党である自民党の岸信介にもある。だが岸信介の評判がよくないのは、岸が政治家で三橋が芸能人という相違からだけ起きる現象ではない。そこには新しさ、古さということが深く関係しているのだということを知る必要があるだろう。三橋美智也が大衆の新しさに注意を傾け、その共感を考えるのに反して、岸信介は大衆の古さにおもねっていくという政策をとっている。
とはいっても、岸信介と三橋美智也が新旧の対極に位置するというのではない。両者ともにその対極に位置できないのは、大衆への盲目的な信頼があるからだとぼくは思っている。つまり岸信介は、大衆とはだましやすいものだと信じているし、三橋美智也は大衆にさえ注意していれば、自分はつねに新しい歌手でいられると信じ込んでいる。これはともに誤てる信念である。
では三橋美智也の場合、どうすればその誤ちをただすことができるのだろうか。
まず第一に、大衆を絶えず変質するものとしてとらえることである。とくに新しさということを考えるならば、大衆を動的にとらえることは不可欠の条件となるだろう。大衆を動的にとらえるということは、その前衛に絶えず目をつけ、自己をまた動的状況に置くことを意味する。つまり停止的状況を自己にたいして一瞬たりとも許してはならぬということだ。停止は対象を通過させる瞬間であることを意識すればよいわけで、至ってかんたんな、それこそ大衆芸術家にとっては自明のことなのだが、大衆を信頼すると停止的状況に身を置くようになるのである。
ここでぼくは天皇とその息子について考えてみる。天皇が民衆に接する姿勢は、まずだいたいにおいて自己を停止的状況に置いている。天皇は佇ずみ帽子を肩の高さで振っている。そのはるかの前方を民衆が通り過ぎて行く。これが天皇の対民衆観を象徴しているとぼくは考えるわけである。これにたいして皇太子は群がる民衆の前を通り過ぎて行く。この対比は実に示唆にとむ。天皇はしょせん前衛にはなりえず、そして皇太子もまた前衛になるには先走りすぎるのだ。もしも皇太子が、自分の馬車の速度をゆるめ、民衆と共に進もうと考えたら、その時こそ天皇は新しくよみがえることだろう。だがそうするためには、制服の騎馬巡査がじゃまになるということになる。ぼくにはあのロカビリーというやつが、どうやら皇太子に似ているように思えるのだが違うだろうか。民衆のなかから、新しいんだろうが、ちょっとついていけない――というような声がつぶやかれるのではなかろうか。
その点、三橋美智也は新しすぎるということはなく、そして古いものへの抵抗もあるし、ということで、真に大衆的な芸能家になり得るのである。だがその彼でさえ、いまが一つの転期であることは否定できない。なぜ彼は転期に立たされたのだろうか。その答えはかんたんだ。彼が大衆について考えるとき、子どもを無視したからである。
三橋美智也が『夕焼とんび』をうたったとき、一部の人びとは、新しい童謡であるといったが、そのとき三橋美智也が本気になって子どもを考えていたかどうかは疑わしいし、また実際に、あの『夕焼とんび』を童謡としてレコード会社が売出したときにも、あの歌を新しい童謡という人はいないのではなかろうか。だが今はそうした推そくを究明しているときではない。問題は三橋美智也が子どもまでも大衆として考える必要があるということなのだ。そうすることなくして、彼はこの転期をのりきることは出来ないだろう。三橋美智也の存在理由は絶えず新しいものを求めて行くところにこそあるのだから、これは当然のことである。
ここでは安部公房の仕事ぶりについて考えてみると、事情はかなり明白となる。彼は現在NHKで子ども向きのラジオドラマを作っているが、その創作態度こそ三橋美智也が学ぶべきではなかろうかと思う。すなわち阿部公房は『文学』三月号でつぎのようにいっているのである。
「やはり、コドモ主義でなく、コドモをてがかりにした共通点の発見ということで、かんがえてゆかないといけない気がするんだ。だから、児童ものをかくことは、ある意味では大衆芸術の創造ということと、内的むすびつきがあると思う。芸術そのものにとって、本質的な要素をもっているといったのは、その意味でだよ。コドモものの困難さは、だから、創造の困難さと、まったく同一次元のことなんだ」
この阿部公房の言葉を手がかりにして考えてみると『夕焼とんび』の歌が、おとなものとしてうたわれたからこそ、新しい童謡というような評判が出たという秘密がわかるのではないだろうか。大衆を素朴なものとしてとらえたとき、素朴な歌がほとばしり、さらに子どもを素朴なものと考え、素朴な歌は子どもの歌と考える論理が生じる。だが子どもが素朴であると考えるのが間違いであることは、児童文学者なら熟知の事実だ。とすれば子どもに素朴な歌をということがいかにナンセンスであるかはいうまでもないだろう。
阿部公房と仲原佑介は「民衆というのは素朴なものだというのは、支配階級のイメージであって、つまり、そこには、素朴というモラルの強制があるように思う」といっている。そして前に引用したように、子どもを手がかりにした共通項の発見ということで考えるべきだといっているのである。だからこそ阿部公房は何の手加減もなしに、子ども向きのラジオドラマを書いているのだ。この事実の前に三橋美智也はその大衆観を改め、子どもへの関心を深めるべきだと、ぼくは思う。そうすることによって彼はより新しい歌を生み出すことが出来るだろう。また三橋美智也には、子どもへの関心がたんなるコドモ主義に堕してしまわないだけの歌手主体がある。
まえに歌手主体と技量といったとき、ぼくはそれが作家主体と文体に似ていると書いた。それからながながと述べたことは、おおむね作家主体に関することであった。もちろん作家主体と文体を切り離して考えることは出来ないのだから、文体にも関係していたわけだが、読み方によっては「歌手または作家の態度について」というようなことに思われる危険があるかもしれない。しかしそれはやはり間違いなのである。
文体について考えるとき、ぼくはJ・H・ロースンの言葉を思い出す。「もっとも幼稚な運動の模写の時代を終ると、映画はたちまち一つの形式を要求するようになった。画面の短い連続には秩序というものがいる。つまり何かの物語を語るか、何かをいうかしなければならない。布地――ここではセルロイドだが――をそのまま着るわけにはいかないのと同様で、映画的骨組をいっぺんに創りあげることはできなかった。だからどうしても、他の文化の形式を表現の手法――映画の観客たちも多少なじんでいたところの――を借りてくることが必要だった」(『劇作とシナリオ創作――その理論と方法』岩波書店刊)ロースンは映画の初期について述べているのだが、ぼくにはどうやらそれが、歌手の出発についてもいえることではないかと考えるのである。その出発に際して歌手はまだ自分にふさわしい作詞・作曲家も持たず、まずたいていは、先輩の歌をうたって認められるわけだろう。だがそれではデビューということにはならないのであって、やはり独自の形式を要求されるのである。三橋美智也はその形式を、聴衆になじみの深い民謡から借りてきたのだ。この出発が三橋美智也に民謡調歌手のレッテルをはらせる動機となった。しかしそれはたいして重要なことではない。重要なことは、三橋美智也が民謡を借りて自己の形式をものにしたときには、民衆は素朴なものだという考えを持っていなかったということなのである。ぼくがそう断定するのは、彼が『哀愁列車』をうたったからで、あの歌の冒頭「惚れて 惚れて 惚れていながら行くおれに」のところの技巧は、それこそ「ただ一ヵ所のふしまわしばかりを問題として」身につけたものなのだ。その彼が、それこそ自分のことは棚にあげて日本民謡協会的な民謡観を攻撃するのは、実に見事というほかはない。
ところでロースンの言葉を児童文学に適用することは出来ないものだろうか。古田足日は「児童文学は滅亡している」というけれど、ぼくには「もっとも幼稚な運動の模写の時代」を終わって、たちまち一つの形式ではなく、それに至る段階として多様な形式を要求されているように思える。だからどうしても、他の文化の形式や表現の手法――子どもたちも多少なじんでいるところの――を借りてくることが必要なのではないだろうか。
マンガ家たちはそれをやっている。つまり何かの物語を語るか、何かをいうかしなければならぬとき、映画、テレビのマネをしているのである。だが、マンガ家たちのそれがマネの域を脱し得ないのは、子どもへのたいし方の甘さ、素朴さがわざわいしているからだ。つまり彼らは、映画やテレビに子供が群がるから、それをマネるのであって、すくなくとも映画やテレビよりは古いということになる。ここに現在の児童マンガの限界があるといえよう。試みに、経済的事情をぬきにして、子どもたちにマンガか映画かの選択をさせれば、まず大部分の子どもが映画を選ぶだろう。しかし、最近ではマンガ家のなかにもたんに映画的手法をマネるのではなく、映画的手法をぬきにしては、どうにも語ることの不可能な内容を持つものがあらわれてきた。これは三橋美智也がドラマ風歌謡曲といわれるような歌をうたうためには、必然的に新しい方向が生まれてきたことと同じように考えられていいと思う。その新しいと思えるマンガのなかから一つの例をあげれば、マンガ前進座グループ所属の浜慎二などがそれである。彼らが今後も現代に材料をもとめて創作を続けていくならば、どうしても新しい手法を発見せざるを得なくなるだろう。いまでさえ、浜慎二のマンガには映画的手法をふんだんに借入れながらも映画とは異質のショックを与える形式への芽生えがある。それが紙質も印刷も悪いマンガ本だけになおさらのこと強く感じられるように思えるのだ。おそらく三橋美智也という歌手は、場末の小屋に出ても、都会の大劇場に出ても聴衆をわかすことが出来る歌手だと思われるが、それは彼が少年時代にはドサまわりであったという体験から生まれる技巧ではなくて、つねに新しいものを求めてやまぬ歌手主体からにじみ出る豊かな技量のゆえに違いない。
さて、新・三橋美智也論二十枚を書きおわり、ぼくは「作家主体と文体」に関する報告文の序の部にさしかかったような気がするのだが、どんなものだろうか。
(一九五九年九月 「日本児童文学」)
テキストファイル化武田佳子