『現代にとって児童文化とはなにか』(三一書房 1965)

教育の俗流化とマンガの問題――アクチュアルな生活指導のために

最近の教師は、マスコミにたいして俗流化という言葉がぴったりするほど寛大になりすぎているという感じが強い。それは戦後の教育がたどってきた子どもベッタリ主義の当然の帰結ともいえるし、大衆社会論の悪しき影響と呼んでもいいだろうか。とにかくマスコミにシテヤラレているのが現状ではなかろうか。
 ここに提出された宮坂哲文氏の一文も、極端にいってしまえば、マスコミ対策俗流路線にほかならず、さらに極端にいってしまえば、百害あって一利なしの俗論である。
宮坂提案のような発想では、まず第一に子どものためにならない。そしてマスコミのためにもならない。ということは社会のためにもならぬということだが、このような結論へ導くためにも、ぼくは、なぜ宮坂提案がためにならないかを明らかにする必要がある。
 なぜ、ためにならないか。それは、この提案の線をなぞり発展させても、子どもたちをしてなんら主体的にマスコミにかかわりあう契機とはなし得ないからである。読めばすぐさま判るように、この提案は、マスコミというものをあくまでもおくりこまれてくるものとして受けとめ、それをいかに消化吸収するかということを提案するにとどまっている。宮坂氏の言葉でいえば、「子どもたち自身がマスコミ文化の摂取過程においてその行動をとおして示しているさまざまな工夫、創造力、想像力、批判力等々に目を向けることを提案したい」ということになる。そして「七色仮面のふん装をするためには大人の思いおよばない家中の材料がたくみに代用品として役立てられ、一片の木片がたちまちコルト45に変ずる。替え歌を流行させる」うんぬんというタトエが書き並べられるのだが、はたしてこれらが「子どもなりの独自な工夫、着想、生き生きした判断、想像力のはたらき」といえるものだろうか」。あえて百歩譲ってそれをそうだと認めたとしても、それが今日の子どものソレといえるだろうか。ぼくは絶対にいえないと思う。もしもナントカ仮面の作者が、「わたしがナントカ仮面のふん装をあのようなものにしたのは、子どもたちがかんたんにマネできるように考えたからです」とひらきなおった場合、たちまちにして、子どもらしいといういい方は、タアイモナイといういい方に変更する必要が生じてくる。またある母親が、新聞の投書らんで「わたしは風呂敷を使って、さあこれでナントカ仮面よといってやりました。子どもは結構それでも喜んでいるのです。悪いといわれるマスコミも、私たちの心持ち次第で、たのしいひとときに利用することができるのです。……と思うのはわたしひとりだろうか」などといったときにも、子どもらしいといういい方は色を失うことだろう。一片の木切れがたちまちコルト45に変ずるという発想も、いわば伝統的な発想であって、子どものときってそんなものさ――と片づけられるほどの安易なことでしかない。ぼくらが子どもとマスコミという関連のなかで、生活指導なり子どもの価値体験なりを考えるならば、逆説的な意味を排除して、もっとも子どもらしくない、いわば子どもという言葉や概念が当てはまらぬような次元で子どもを見る必要があるのだ。
子どもらしい――という発想の根には、おとなたちの自己体験が絶えず織り込まれており、それは一種の伝統となって子どもたちのゆくてに横たわっているのである。だがその伝統に固執するかぎり子どもの進歩はあり得ない。ぼくらは子どもたちをして伝統の断絶者たらしめる必要があるし、現に子どもたちは伝統と断絶した次元において、新しい意味の子どもらしさを形成しつつある。この現実をハッキリと把握しないことには、生活指導のセの字を語ることもできない。
 子どもたちがマスコミを、あくまでも受動的に摂取吸収する姿勢を続けるかぎり、マスコミが変質されないことは事実である。受け手側がいかに批判を積極的にしたところで、製作者側としては痛くもカユクもない。それよりも重要なことは、子どもたちをマスコミの内部に送りこむこと、その努力である。とはいっても、子どもたちをマスコミにもてはやされるところのいわゆる豆スターに育てあげるということでは絶対にない。むしろ非タレントとしての子どもたちをマスコミ機構のなかへ叩きこめということである。
 ここでも例を極端にすれば、ある学校のコーラスグループがマスコミに出演することがきまったとする。この場合、テレビの生放送だともっとも効果的なのだが、その決定的瞬間、つまり本番において、コーラスグループは痛烈なる替え歌を堂々とうたってしまうのである。とすれば、マスコミの一部において混乱が起きることは必定あろう。そしてそのようなことがしだいに波及していった場合、子どもたちの変質が起こり得ることは確実である。なぜならば、その混乱のなかから子どもたちはマスコミ機構の本資をたとえ一部分であろうとも体験させられることは決定的だからである。そして子どもたちは自分の力によって、マスコミが動いたという認識の上に立ってマスコミを変質させることも可能だという展望を抱くべきなのだ。
 ある経験が子どもの変質の契機となり得ることは自明の理である。そして子どもの変質がその対象物――この場合はマスコミだが――そのものを変革させるということがあり得る。ましてや現在のマスコミが体制そのものであることを認識するならば、その変革に通じる過程こそが「子どもの価値体験と大衆文化」という設定から容易に想像されるべきである。もしそうした想像と展望を抱き得ないならば、それを生活指導に組み入れるべきではないと、ぼくはいいたい。そのような見通しも立たず、ただ共通の話題だの「子どもたちの現実と、教師の指導意識とのあいだにある断層」をとりのぞくためなどという消極的な、いわば受動的な発想では、マスコミにシテヤラレルこと必定であって、それはとりもなおさず教育の俗流化にほかならない。
 浅沼稲次郎刺殺の犯人が十七歳の少年であったことから、またもマスコミの悪影響だの戦後教育の誤ちだのという議論が続出している。だがほんとうに右翼テロリスト山口二矢の人間形成を考える上で、マスコミや戦後教育(タイコモチ評論家にいわせれば日教組の偏向教育である)がそれほど問題になるだろうか。ぼくはむしろ逆なのではなかろうかと思う。つまり山口二矢の場合には、戦後教育もマスコミも、山口二矢の父、自衛隊一等陸佐という職業軍人の家庭教育のまえに敗退しているのがまぎれもない事実ではなかったかということである。
「デモ隊に撲りこむなら片輪になることを覚悟せよ」とシッタゲキレイするような父親の強烈な教育にかかっては、いかに暴力礼賛といわれるマスコミもシッポを巻かざるを得ないだろうし、ぼくらからみれば日和見的な人間をつくることに終始する日教組の教育など何ら痕跡をとどめ得ぬことも明らかである。人間性を疎外するといわれるマスコミからも絶縁し、戦後教育からも切り離された次元で新しい戦後派が事実として存在するというところに山口二矢のアクチュアリティを認めないことには、今後の教育、とくに生活指導を考えていくことができないのも明らかである。
 山口二矢のような人間が現存するという事実は、戦後教育の不徹底と、ある意味におけるマスコミの敗北を意味する。マスコミ本来が、山口二矢のごとき行動的な人間をつくりあげることよりも、非行動な人間形成を究極の目的としていることは、大衆社会論者でさえ指摘しているとおりなのだ。そして日教組の幹部たちが構想していることも、穏健な人間、つまり平和を守り民主主義を守るマモリ族の育成に他ならない。そして両者ともに子どものエネルギーをスポイルすることに全力を傾注しているのだが、これをハネ返そうとするエネルギーがオートバイの暴走となりファンキージャズへの熱狂となる。だがそれらと断絶した次元で右翼テロリストという名の行動主義者が育ったという事実は、ぼくらが生活指導ということを考えていく場合、何らの参考にもならないだろうか。
 教師たちが共通の話題をマスコミに求めて、これこそが「生活指導のもっとも基本的な手がかり」だなどとヤニさがっているとき、テレビもなくラジオもない静寂な部屋で、父と子の一対一の教育が行われているという情景は容易に想像されるところである。そしてどちらがより子どもに滲透するかということもほぼ明らかである。集団だの社会性だのと主張する人も、しばしば人間とは孤独なものと意識することは多いはずであり、ある場合には自分の子は自分で教育するのがいちばんよいのではないか、と考えることもあるだろう。だからこそ、よりよい教師づくりに自他ともに努力するのだという意見が成り立つわけだが、ぼくはあくまでも生活指導が共通の話題をもとめる方向、つまり俗流大衆路線を歩むことに反対したいのである。受持ち児童数の問題、労働時間、体力等さまざまの障害のなかから、それぞれの子ども独自の話題に対決する教師こそが、今後の生活指導の担い手になると思うのである。そういう意味では、生活綴方運動の最も原初的な形態、文集つくり以前のコミュニケーションを再評価することも考えられる。――もっとも、子どもが作文を書かなければその子を識ることができないような教師は問題だが……。
 子どもの大衆化を考える場合、やはり問題にすべきはマンガだろう。今日におけるマンガは、印刷された画面だけを意味してはおらず、音声によっても映像によっても表現される。ということはマンガがたんに形式としてではなく発想として存在するということである。だからマンガをさして「荒唐ムケイに徹していないこと」を不満とする児童文学評論家のような意見がなんら今日性をもたぬことは確かである。マンガは荒唐無稽に進むべきではなく、より深く現実的になることが必要なのだ。子どもたちにとってマンガは、かれらがいかにそれを、それこそ「それとのあいだに一定の距離をおいて、自分たちの遊びの手がかりをたくみにそこからくみとり、数多くの作品にたいして子どもなりの理由ある評価をなかまのなかで加え」ようとも、かれらにとって現実そのものなのだということを忘れてはならない。一〇年前、マンガをマネて川に飛び込み死んだ子どもがいたが、今日ではそのような子どもは子どもたちから嘲笑されるだけだろう。これこそ子どもたちがマンガを現実化した証拠となるものである。
 「マンガはマンガだ」という言葉の背景には自分はマンガの登場人物のようなことはできない、という認識があるのであって、それをストレートに、自分たちのできないことをする人物への共感=英雄視というように受けとったのでは、マンガはすこしも進歩しないのである。それよりもむしろ逆に、自分とは違うことをする人物への批判というふうに理解したほうがマンガの進歩に役立つのではないか。わち・さんぺいを始めとする生活マンガにかなりの人気があるのも、ただたんに落語的笑いへの共感というように考えてしまったにではマンガの本質に主体的にかかわりあうことはできない。わち・さんぺいのマンガでは、「夜が終わると、どうしても朝になります」というフキダシの言葉とともに、屋根の上でブタがコケコッコーと鳴いていたりすることがしばしばある。この小さな例一つによっても若いマンガ家たちが、生活マンガのワクを破ろうとつとめていることは明らかだし、そこへ子どもの批判が集中するだろうことは容易に推察されることである。この場合も、批判ということを既成の概念で切ることはまちがいで、ぼくらがつねに批判の対象物を求めることと同一視する方が正しい。だから、若いマンガ家の生活マンガのワク破り即生活そのものの破壊に等しいと考えるべきなのである。そしてその破壊方法(わち・さんぺいはニワトリをブタまたはネコに変える方法をとっている)にたいして子どもたちが批判をあびせかけるというぐあいになっている。
 ふたたび強調するが、子どもたちがマンガにたいする場合と、現実にたいする場合との意識における落差をみることがやさしいと思うのは早計である。一方に子どもを考え、一方にマンガという形式、つまりマンガ本をおいて考えれば落差をみることになるが、ひるがえって子どもだけを考えた場合、この子はマンガだ、ということも起こり得る。そうした意味からも子どもがマンガにたいする場合と現実にたいする場合との意識の落差をみることはむずかしいと認識すべきである。たとえそれが「マンガはマンガだ」という言葉に粉飾されているにせよ、そこに落差はないと考えるのが正しい。
 もしもここに、じつにデタラメきわまる愚にもつかないマンガがあると仮定する。それにたいして子どもたちが「これはマンガだからしかたがない」といった場合、この子はマンガにたいして批判的なみかたをしていると判定する教師の数は多いことだろう。おそらく現状では良心的といわれる教師のほとんどがそうだろうと思う。だがこれでは、マンガは現状維持をつづけるだけでなく、体制の圧迫を受けて反動的になる可能性すらあるだろう。新しいと自認する教師ならば「これはマンガだから仕方がない」という言葉を徹底的に否定して、こういうマンガをやめさせようという決意にまで高めさせるべきである。もちろんこれが、例の悪名高き悪書追放運動などと根本的に相違する発想であることはいうまでもない。ぼくはあくまでも、子どもたちは主体的にマンガにかかわりあえ、また教師はそのように指導せよと主張するものである。
 それならば今日の子どもがマンガにたいして抱く興味の根元にあるものは何であろうか。この根元をさぐる作業をぬきにしては「子どもの価値体験と大衆文化」という課題も、生活指導も無意味である。なぜならばそこにこそ子どもたちのアクチュアリティがあり、それはとりもなおさず教師自身の、さらには今日に生きる人間全体のアクチュアリティにつながるものがあるからである。先にわち・さんぺいを例に出して述べたことにも関連するが、ここではさらに問題を深化追及することを目的にしなければならない。
 一例として雑誌『少年』連載『幽霊船』(石森章太郎作)の一部を引用する。これは印刷されたマンガであるから文章になおすが、文章になおしてもそのアクチュアリティが色あせることはないと思う。紙面の関係でごく一部しか引用できないのが残念である。
 傷を負ったイサム少年を、あわやという一瞬に救った幽霊船の船長嵐山大作は、イサム少年を抱きかかえて海底を泳ぐ。そして巨大な魚に出会いパクリと呑みこまれてしまうのだ。一方幽霊船の正体をみきわめんとする悪人はロボットで追跡、ロボット内のテレビで巨大な魚がじつは幽霊船であったことを発見する。
「むむむ、やっぱり……」
「幽霊船だ!」
「黒潮どうする?」
「うむ左巻やつらにわれわれの島をしられてしまったからな……」
「やるきか?」
「かてるみこみは?」
「五分五分」
「そんならやってみるまでだ!」といって悪人はニヤリと笑うのである。
 勝てる見込みは、と聞かれてフィフティ・フィフティと答え、それならやってみるまでだと決意する個所には確かなアクチュアリティがある。期待と不安のいり混じったギャンブル精神は現代のものであり、しかもぼくをふくめての現代人がその精神、つまり現代を否定しなければならないところに二重のアクチュアリティがある。ということになればもはやマンガは、ひとつの形式をこえて発想となり、あらゆる形式を要求するわけである。
(一九六0年一二月「生活指導」)
テキストファイル化武田佳子