『現代にとって児童文化とはなにか』(三一書房 1965)

子どもと戦争と平和―赤錆色の焼跡とひとりの浮浪児のイメージ

 つい先日、子どもを守る専門家会議というのが東京でひらかれた。もう何年か続いてひらかれているらしい。昨年はぼくも専門家のひとりとして出席を求められて出席した。昨年にひき続いて、いや昨年からみれば数倍の仕事をしているぼくなのだが、どういうわけか今年は専門家としてみとめられず、出席を求められなかった。おそらく、昨年の会議におけるぼくの発言が混乱を招いたのが原因で、主催者「子どもを守る会」の気げんを損じたからだと思う。ぼくは昨年よりも今年の子どもを守る専門家会議に出席したかった。その理由は議題が「子どもと戦争と平和の問題」であったからだ。意識的に会議を混乱に陥し入れたり、頭ごなしに俗悪と非難されるマスコミ児童文学のなかでも、おそらくは最先端をいくであろうマンガや連続放送劇のつくり手のひとりであるぼくは、れんめんとして童心の旗をかかげる人びとからは子どもを守る専門家としては認められないのかも知れぬ。それはそれで結構だと思う。だが「子どもと戦争と平和の問題」に関するかぎり、やはり、ぼくは専門家であると信ずる。太平洋戦争のさなかに小学生時代をすごし、空襲によって孤児となり、戦後の大混乱期を浮浪児、あるいは非行少年といわれながら生き、それゆえに病気となって片肺を失い、またそれゆえに児童文学を業とせざるを得なくなったぼくは「子どもと戦争と平和の問題」にはつねに大きな関心を寄せていた。だが、会議はぼくを除いて行なわれてしまった。いまはただひとりで、ぼくは「子どもと戦争と平和の問題」を掘り下げなければならぬ。

 集団=組織への批判と無批判
 岡本喜八のような映画屋の手にかかると、戦争はたちまち活劇となってしまう(独立愚連隊のように)が、ぼくにとって戦争とはまず荒涼たる風景である。赤錆色の焼跡の片隅に一枚の紙切れがある。紙切れには屋根瓦のカケラがのせられている。小さなカケラが、紙切れを風から守っているのだ。紙切れには「浅草区寿町一丁目一番地の佐野一家に告ぐ次男のアキ坊が集団疎開から帰ってきた。浦和の佐藤が引き取っている」という文句。幻灯がさしかえられるように風景がかわる。赤錆色の焼跡にもヒメムカシヨモギが生えたのだ。紙切れはもう見当らない。紙切れのあったあたりにひとりの少年が立っている。いわゆる浮浪児の風態。幻灯が映画にかわる。つまり浮浪児が動きはじめるためには、『ヨーロッパの何処かで』とか『鐘のなる丘』という映画や放送劇を手がかりにしなければならない。文学でいえば『蝦球物語』だ。『ヨーロッパの何処かで』という映画で、いまも忘れられないショットは、あっちの道、こっちの道からひとりとぼとぼ歩いてきた浮浪児たちが、二人になり三人になり、やがて一団となって行く大俯瞰だ。編集部から「戦中戦後の児童像」というテーマを出されたときも、この風景を思い浮かべた。『鐘のなる丘』もまた浮浪児が集団となって高原に住みつくまでの物語だった。『蝦球』にも共通する部分がある。つまり戦中戦後の子どもの象徴であった浮浪児を描くとき、共通する展開としてバラバラとなった、またはさせられた子どもの集団化=組織化が意識されたわけだ。しかし『ヨーロッパの何処かで』の場合には、その浮浪児集団は否定される。少数ではなし得ない犯罪(生きぬくための必要悪)を集団のエネルギーによってなしとげるからであるが、作家の主体には、集団=組織への疑問と批判が内在していたと見なければならない。はげしいナチズム否定の精神だったかも知れぬ。ところが『鐘のなる丘』の場合には、集団=組織への批判はない。むしろ讃美があったのだ。この点からも、あの『鐘のなる丘』は当時の占領政策に忠実な役割をはたしたといえると思う。前衛党が解放軍と見あやまるほどに、当時の占領政策は日本人の組織化に熱心であった。そして日本人は、日本軍国主義否定の精神をスポイルされた。

五本線の戦闘帽と団結のハチ巻
 ぼくは鮮かに思い起こすことができる。千葉県松戸での出来事だ。松戸製作所という軍需工場があってそこに五本線の入った戦闘帽の男がいた。毎朝、工場入口にがんばり、徴用工たちにハッパをかけていた。そして敗戦。松戸製作所にも労働組合が出来た。組合は赤旗をかかげて市中をデモった。デモの先頭に立っていたのは、なんと五本線の入った戦闘帽をかぶっていた男だ。男は栄養失調かと思われるほど青い顔をしていた。戦中から戦後への変遷があの男を苦しめたのだと思い、ぼくは激しく戦後を意識させられたのである。だが、いま考えてみるとぼくの直感は甘かったのかも知れぬ。あの男がやつれはてていたのは、たんに食糧難からくる栄養失調だったのかも知れない。五本線の戦闘帽を団結のハチマキに買えてデモの先頭にたち、占領軍を解放軍と錯覚するような精神構造が『鐘のなる丘』の菊田一夫にも確かにあったのだ。そしてその『鐘のなる丘』とほぼ位置を同じくするところで書かれたのが『鉄の町の少年』をはじめとする一連の日本児童文学だと、ぼくは断定する。戦後の児童文学全般を通じていることは、組織への素朴な信仰が、作家の眼をおおう壁となっているということだ、塚原健二郎の『風と花の輪』についてもこれはいえるのではないか。塚原は戦中の自己の無批判は戦後責任の無意識または戦中戦後責任追求への反撥と結びつく。『鉄の町の少年』には労働組合に参加する少年工たちの姿が描かれている。産業戦士としての連帯感が敗北によって崩れ、それがまた労組へ組織されて行くその過程が描かれているという点でも、『鐘のなる丘』につながるわけだが、さらに密接なかかわりを持つのは、集団=組織への作家としての無批判である。

 赤ワシの羽は折れた
 戦中のぼくらは組織されていた。赤いワシを二羽重ね合わせたマークが、ぼくらの胸にはりついていた。「われら大日本青少年団」の歌をうたいつつ閲兵式さながらに行進した日の輝かしきことよ、憧れは大空へとはばたいていたのだ。敗戦はぼくらの組織を破壊し、憧れの翼をへし折った。ぼくは浮浪児として焼跡に放り出されたのだ。とすれば、ぼくらもまた、ヨーロッパの心ある人びとがナチズムとその親衛隊を憎悪したように、日本軍国主義と大日本青少年団を激しく憎む必要があったのではないか。戦中の組織を憎悪し、戦後の組織への再評価をくりかえす、この必要を児童文学者は完全に忘れていた。いまからでもおそくはない、ぼくは児童物作家として、あの赤ワシのマークの大日本青少年団を記録にとどめたいと思うのだ。戦後の右翼には理論がないからカギ十字を持ち出すサルまねしかできないが、もしもぼくが右翼だったら、あの赤ワシのマークを復活させる運動を起こすだろう。そして大日本青少年団を再建するのだ。革新陣営が平和の鳩をとばせることで精いっぱいのときワシを放つことは有効だ。

 児童像では否定できぬ状況
 『蝦球物語』は始めよけれど、終り悪しという小説だが、あの小説には戦中を生きぬく子どものエネルギーがあふれている。国分一太郎のように、児童像というコトバを「子どもをこう育てたいという理想の像」というふうに定義してしまうと、共産軍に参加する終りの部分が好ましいということになるかも知れないが、それでは『鐘のなる丘』や「鉄の町の少年』につながってしまう。ぼくが『蝦球物語』を評価するのは、児童像というコトバが当てはまらぬような状況にある少年主人公の姿だ。だからぼくは、『蝦球物語』の前半にパンティレーフの『金時計』につながるリアリズムを発見する。『金時計』はいい作品だ。この作品を書いたパンティレーフは浮浪児の群れに身を投じていた。その浮浪児がのちに『金時計』を書いたという事実が、ぼくを児童物作家へとかりたてたのだ。ぼくもまた、ぼくの『金時計』を書かなければならない。児童憲章がうんぬんされる時期だ。児童憲章が生まれ出たころぼくは銀座の浮浪児だった。スキヤ橋のたもとに中央少年ハウスというのがあって、ガンジー、ヒロシマ、パーデー(出歯の逆読み)、バビー、目玉、クロなどという連中が住んでいた。ぼくも一時そこにいて、ハウスの親父とともにスキヤ橋のたもとへ、「児童憲章を守ろう」という立看板を作りあげていたのである。しかし当時のぼくにとって、児童憲章は何のかかわりもなかったのだ。
(1960年5月 「読書新聞」、1962年6月 「文学村」)

学習雑誌で人生がわかるか―受験ジャーナリズム批判

 沈黙の世代の形成
 サイレンと・ゼネレーション、沈黙の世代という言葉が使われはじめている。若い世代のあいだに、主張すべき何ものも持たず、親や教師にも反抗せずにもっぱら沈黙を守るといった層がひろがりつつあるというのだ。それらについては、ぼく自身も何かにつけて体験しているし、友人の教師たちからも、「このごろの子どもは何もいわなくなった」という多くの報告を受けている。したがって、沈黙の世代という言葉は、最近の若い世代にたいする形容としてかなり適切な響きを感じさせるわけだ。沈黙の世代、しかしまだまだこの言葉のなかには、若い世代にたいする思いやりがふくまれているように思えてならない。沈黙という言葉のもつ神秘性、つまり沈黙の底にうごめく何かを期待しているようなところがありはしないか。
 若い世代に向かっていったい何を考えているのか、という疑問を投げかけているうちはまだよかった。それが何も考えていないのだとわかったとき、ぼくにとって若い世代の沈黙は神秘的でもなければ、期待すべき何ものでもなくなったというのが現状である。
 どうして若い世代がこんなにも惨めなことになってしまったのか。若い世代のほとんどが、その惨めさをいささかも意識していないだけによりいっそうの惨めさがあるわけだが、とにかくこの惨めさのよりきたるところを見極める必要は、ぼくらの問題意識としてはもちろんのこと、より若い世代のためにも痛感せざるを得ないのである。
 かくてぼくに一つの課題が与えられる。若い世代の人間形成にかかわりの深い教育のなかで、学習雑誌の占める位置はどれほどのものか、ということである。これはいうまでもなく若い世代の読書傾向に直接の関係がある。近頃の学生はほとんど本を読まないという現象とはうらはらに、驚くほどの売れ行きをみせている学習雑誌が、若い世代の大きな部分であるところの学生たちに、受験勉強の参考資料になっているだけではなく、もっと大きく、たとえば人生観社会観といった面でまで影響を与えているのではないかという推測から、この一つの課題が生まれてきた。

 心がけ次第の編集方針
 受験勉強というものをまったく経験したことのないぼくにとっては、学習雑誌もまたながらく無縁の書物であった。ここでながらくというのは、文筆業者として学習雑誌と名のつくものに原稿を書いたことも、つい二年ほど前にはあったからだ。しかしその学習雑誌はぼくに連載小説を書かせるほどであるから学習雑誌としては成功せずに姿を消した。それからまたしばらく、ぼくは学習雑誌に無縁であった。そしていままた、ぼくの机の上には、『幼稚園』という名の雑誌をはじめとして、『蛍雪時代』といういかめしい名の雑誌まで十数種の学習雑誌が積みあげられている。はたして、「学習雑誌で人生がわかるか」というわけである。
全体的な印象をいえば、とれでも同じようなものということになってしまう。鮮明な特色を出さないことが、学習雑誌の特色といえばいえるのではないか。没個性的、ここにも若い世代との共通がある。
 ある学習雑誌の編集者は自分たちの雑誌の編集方針をつぎのように語ってくれた。
 幼児―読図(図つまり絵をわからせる)
 小学校低学年―読字(字をわからせる)
 小学校高学年―読書(書いてあること、つまり意味をわからせる)
 中学―読心(心でわからせる)
 中学生になると、にわかに神秘的な色彩をおびてきて、主体が雑誌ではなく読者の側に移行するのであるが、幼児の段階からとにかくわからせられてきた子どもであるから、にわかな主体の入れかわりをなしとげることは不可能だといわなければならない。「心でわかる」は必然的に「わかったような気持ちになる」こととスリカエられるのではないか。そしてこれが高校になると、ますます心の問題が大きな位置を占めてくることは明らかである。合格するもしないも、心がけしだい。
 学習雑誌のページをめくりながら、ぼくはそこに同じような言葉がいくつも出てくることに気がつき、それがやがては「またか」ということになり、とうとうしまいにはゲラゲラ笑い出してしまうのであった。  
  断じて行えば、鬼神もこれを避く
  なせばなるなさねばならぬ何事もならぬは人のなさぬなりけり
  人生すべて勝負ならざるはなし
 使い古された言葉がもっともらしく羅列され、そこに財界人、学者、評論家、そして俳優やスポーツマンの名まえが動員されて、心の問題を展開しているのである。
 三月号で「勝利をかちとれ!」とハッパをかけた雑誌(蛍雪時代)は、五月号で不合格者のための特別記事として「再起を誓って」を組んでいる。合格者のための雑誌ではなく、不合格者のための雑誌であるところにこの雑誌の特性があるわけだから、特別記事を組んでふたたび「意志」「闘志」「信念」「決戦」「健闘」をあおりたてるのは当然である。
 ところでぼくもまた文学者のはしくれだが、学習雑誌から意外なことを知った。評論家の秋山ちえ子や東大教授の山下肇によると、不合格者のあとの心をいやす特効薬としてはヘルマン・ヘッセがいいそうである。
 ヘッセだけではない。多くの場合、文学は悲しいときに読めば人生を教えてくれるというようないいかたをしている。だから、合格さえしてしまえば文学などに親しむ必要もないし、合格をめざしての勉強中にももちろん文学は必要とされないわけだ。ぼくはこれほどまでに文学が深刻なものだとは知らないので大いに参考となったしだいである。皮肉などではない。この問題はぼくの今後にとって、重要なかかわりをもっているのだ。ぼくの主な職業は児童文学者である。児童文学者は幼児から高校生程度までを読者対象として成立する文学なのだから、もしも文学が不合格者のものだとするならば、高校全入制などには生存権をかけても反対しなければならないのではないか。過酷な受験競争があり、多くの不合格者が出れば出るほど文学は繁栄すると、学習雑誌は予告してくれているのだ。ぼくもまた今後の心がけを迫られたようなものである。

 新旧二つのパターン
 その人にとって学歴というものがどうしても不可欠であり、したがって受験戦争をやむを得ないというならば、ぼくとしても、しっかりおやりなさいぐらいのことはいわざるを得ないのは当然である。しかしどんなことがあっても自分の子どもにだけは、この学習雑誌というものを読ませたくないという気持になったのは、「読書欄」や「相談」のページにあらわれる子どもたちのしたり顔のいやらしさゆえである。これは何も子どもたちについてのみ言えることではなくて、新聞、雑誌に掲載されている投書類の全般についていえることであって、すぐれた読者は投書をしないというのが常識といえばいえるわけだが、学習雑誌の投書はいちがいに質の低さというだけでは割り切ることの出来ない問題をふくんでいるように思える。
   「ぼくは近所でも親孝行者で通っています。最近学校の成績も上がり自身がついてきたのですが、それと同時に両親の死ということについて、非常に深く考えるようになりました。両親はあと何年くらい生きられるのだろう、人間はなぜ死ぬのだろうなどと考え、両親が冷たくなって死んでいく場面など想像すると、いても立ってもいられない気持です。両親に相談したら『一時的にそういうことを考える時期がある』といいます。が、ぼくはもう三ヵ月以上もこんなことを考えています。どうしたらよいのでしょう」
 これが身上相談(中学三年コース)の問いである。この問いにたいして回答者の作家早舟ちよは、学習雑誌の常連執筆者にふさわしく、「こんなとき、すぐれた文学書や哲学書をじっくり読んで、人生について、死と生について、考えを深めていくことができます」と答え、さらに「スポーツにうちこんでへとへとになったり、仲間とハイキングしたり、コーラスしたり、外に心を向けていくのもいいことでしょうね」ともつけ加える。考えてみるまでもなく、回答者の答え方は見当ちがいであろう。S少年は何も自分が死ぬこと生きることを考えて、悩んでいるわけではない。たとえ人間はなぜ死ぬのだろうと考えたにしても、それはあくまでも、両親の死を予想してのことなのだ。死や生さえについてさえ、主体をかかわらせることのないこの少年の思考論理と、みずから親孝行者と規定してはばからない傲慢さに、ぼくは沈黙の世代の本質を見たという気がする。
 おそらくこの少年は、回答を読んで、その紋切り型の説得に嘲りの笑みを浮かべることだろう。そして多くの読者たちも。そしてかれらは沈黙にはいる。何もかもが予想通りだったという顔で。すなわちここで問題は二つに分離され得る。
 若い世代の没主体的な思考論理とそれにともなう傲慢さと、かれらにそれをゆるしてしまうところの古い世代の紋切り型の説得という二つのパターン、これこそが問題である。
 またある投書少女は、「戦争を知らないわたしたちには、責任感が欠けている」といい、何事にも責任を持とうと呼びかけている。良心的に見えもするこの少女の思考論理もその内部では前記の少年のそれと直結してしまう。つまり自分たちの責任感のなさは、「戦争を知らない」からだと主張しているのであって、それを知ろうとする努力をまるで問題にしていない。傲慢である。しかし、この少女に「戦争を知らない」という論理を教えこんだのはだれだろう。これもまた身上相談の回答者に代表されるような紋切り型の説得、そしてその論理ではなかったのか。

 学習雑誌の可能性
 学習雑誌における人生観および社会観の論理はそのほとんどが新旧二つのパターンによって成立しているという指摘をしたあとに残る問題は、幸か不幸かそのどちらにも属すことのできないぼく自身のこと、そしておそらくは生活体験的にいっても新旧両者の中間に位置せざるを得ない世代のことではあるまいかと考える。
 学習雑誌における中間世代の位置を眺めてみると、そのほとんどはどっちつかずの中間項つまり読み物ページや娯楽ページでお茶を濁しているといった感じが強いのも、また当然の帰結といった感慨を抱く。おそらく、これらの雑誌の編集者の多くもこの世代に属し、その能力の発揮の余地は、このあたりにしか残されていないのであろう。
 もっとも責任の軽い位置にみずからおいている中間世代。ここでにわかにぼくは数日前のテレビ出演のことを想起した。そのテレビ番組は学童疎開の記録をつなぎあわせ、結論として戦争体験をいかにして若い世代に伝えるかということを問題にするものであった。そしてその部分の担当はぼくということになっていたのであるが、記録の段階でぼくと同世代の疎開体験者のほとんどが「いまでは、なつかしさばかり」というような発言をするものだから、ぼくはいささか腹を立て、その体験者どもをすべて古い世代と同一のものとして批判してしまったのである。
 しかしいまここにこうして多くの学習雑誌を眺めていると、ぼいうらはあくまでも中間項に徹することこそが必要なのだと思えてきた。もしも学習雑誌のなかに、幅広い意味での可能性が存在するとしたら、この中間項を拡大する以外に方法はないだろうと思うのである。だがこれは当面望むべくもないものであろう。それはとりもなおさず、学習雑誌から娯楽雑誌への移行を意味するのだから、実現不可能の願望というより仕方がないのである。
 それでは残されたのは絶望だけだろうか。そうだともいえるし、否ともいえる。たとえば文学を人生の書から娯楽の段階にまでひきさげる作業というようなことは、実現不可能なことではない。しかし子どもたちが学習雑誌だけしか読まないというのでは、そしてその誌上で、ヘルマン・ヘッセは不合格のあとの特効薬だなどという宣伝をされたのでは、大きな効果は期待できない。それならばいっそのこと、ここらで医薬の分業の向こうをはって、受験と人生問題とを分離してしまうことにしたらどうだろうか。
 学習雑誌は受験問題だけを取り扱う、つまり診断だけをする。そして人生問題というようなことは、不合格の際の特効薬へルマン・ヘッセをふくめて薬局、すなわち別の雑誌なり別のジャンルなりが扱うことにするわけだ。そうすればどこかの大学の総長のように、「受験地獄は半面の心理である。見方によってこれほどいい人間形成の道はない。というのは受験は人生の縮図であるからだ」(蛍雪時代)などという人生訓を垂れる必要もなくなり、受験生諸君は文字通り勉学に打ち込むことが可能となるだろう。
(1964年5月 「法政」)
テキスト化根岸あゆみ