『現代にとって児童文化とはなにか』(三一書房 1965)

小学生とセックス―時評・子どもと社会

 「うちの子どもは近頃マスターベーションにふけっていますが、放っておいていいものでしょうか」という質問を、ある母親から受けたとき、ぼくはその子が、中学生かなと思ったのだが、ぼくの直感はみごとにはずれ、その子どもが小学五年生であると知らされてひどく驚いたのである。
 東京の下町に育ったぼくは、相当に早熟だったと思うが、小学五年生で自慰にふけったという覚えはない。また、そういう友人も知らなかった。そのためにぼくは、小学五年生の自慰に驚かされたわけだが、これはぼくの世間知らずというものだったらしい。というのは、その後、機会あるごとに、ぼくは、「小学五年生で自慰にふける子がいるそうだ、驚いたね」と口癖のように繰り返し、そのたびに「そんなの普通だよ」という返答を受けたからである。ある中学生のごときは「センズリ(男の自慰の意)なんて、小学生のやることさ」といい切ったほどである。
 もちろん、ぼくの周辺だけにかぎられるこの状況によって、小学生一般を考えるのは間違っているかも知れないが、やはり、現在の小学生を考える場合に、セックスの問題をぬきにしては、にっちもさっちもいかないのではないか。とくに、子どもの内部へのアタックを試みる児童文化の面では、このセックスの問題は重要な課題となるに違いない。

 常識的に考えると、自慰には罪悪感がつきまとうとされている。それにふけるということは、一種の悪習といえよう。その悪習をやめることができないときには、自己を自制心のない存在と見なして、自己嫌悪に陥ることは明らかである。医学的には、それほどの害はないとされているようだが、心理的精神的に、相当の悪影響をおよぼすものといえそうである。やはり子どもたちには、自慰の悪影響からは自分を守ってもらわなくてはなるまい。
 というと、すぐさま、「子どもたちに性的刺激を与えているのは、マスコミである」という声が、うるさくきこえてくるようだが、マスコミが子どもに自慰を教えたという証拠は何処にもない。
 いや、証拠がないばかりでなく、自慰的性刺激が、むしろ少なすぎるのが世にいうマスコミの俗悪児童文化ではないだろうか。
 俗悪児童文化の特徴の第一は、人物を類型によって明確にしてしまうことである。スポーツマンは、あくまでスポーツマンらしく、ギャングはあくまでギャングらしく作られているのが俗悪ものの条件なのだ。複雑な心理構造をもった人物などは、俗悪ものにとっては不必要である。そして、極悪非道の人物はいくらでも出てくるが、セクシーな人物とか、好色漢が出てきて活躍するなどということは、まず皆無であろう。
 強いて、子どもの自慰に関係のあるマスコミといえば、テレビ・ラジオのコマーシャルソングではなかろうか。
 コマーシャルソングには、とんとん、つんつん、だいだい、というような、はやし言葉を使ったものが多く、これらはドモリ唄ともいわれているが、そのリズムと自慰のリズムには、ある種の関連が考えられそうである。しかし、これとても、とうてい証拠物件にはなりそうもない。

 かなり以前、『あんみつ姫』というマンガを、エロであると非難した児童文学者先生がいた。先生がエロと断定した問題の個所はつぎのようなことである。
   「あんみつ姫の御殿に、盗賊が乱入した。家来腰元とともに、あんみつ姫もナギナタをふるってたたかった。賊のひとりに向かって、あんみつ姫が切りつける。賊のパンツのひもが切れ、賊は『おっとっと』てなことを口走って、パンツをおさえる」
 たしかにエロである。だが、このエロには暗い影がない。エロを健全というのもおかしいが、すくなくとも不健全ではない。
 『赤と黒』のスタンダールが、その恋愛論において、ロマンチズムとロマンチシズムは違うといったようにエロチズムと、エロチシズムは違うのだといった学者もいたが、たしかにそのとおりなのだ。
 ところが、児童文学者先生の『あんみつ姫』非難は、戦後十四年を通じて、もっとも児童文化が危機に直面した時期であった。例の悪書追放運動がさかんになり、多くの書物が火中に投ぜられるという気狂いじみたことさえ行なわれた。
 このような時代を背景にすると、常時には、何ら社会的影響力をもたない児童文学者先生も、非常なる発言力を持ち合わせることができるものだ。
 さながら、戦時における情報局のおかかえ評論家のごとくである。
 ひとこと、但し書きをするが、児童文学者先生の『あんみつ姫』非難が、先生の信念なりいでおろぎーにもとづいて行なわれたのであれば、ぼくは、いまさら、うんぬんいいたくはないのである。
 ところが、児童文学者先生の発言は、つねに、トラの威をかりるキツネの如きものなのだ。このような、児童文学者先生の作品群は、いったい、どのような影響を子どもたちに与えているのだろうか。
 世の人びとはいう。「最近の童話には、どうもひとりよがりなものが多い」と。ひとりよがりとは、自慰のことではないのか。自慰的作品を読んだ子どもが、自慰的性影響を与えられる可能性はじゅうぶんにある。
 あえて、バクロすれば、児童文学者といわれる人びとの性格は、総体的に、隠微な劣等感にひたされて暗く、その体質は虚弱でエネルギーの不足を感じさせるのである。文学者の作業範囲が書庫に限られていた時代ならば、虚弱で暗い性格の文学者の作品にも、ある程度の期待がもてたのだが、いまはもう、書庫にとじこもっての執筆作業は、文学者の全労働時間の三分の一にも満たないのが現状である。

 結論を急ごう。
 やはり、子どもを自慰にふけらせてはいけない。そのためには、自慰的児童文化を子どもに与えないことが第一だが、それよりも先に、児童文化担当者の体質改善を要求することが大切である。
 虚弱な人間ばかりがひしめき合うところからは、どう考えても、健康な児童文化は生まれてこないと思う。
(1960年1月 「小三教育技術」)

子どもと週刊誌―時評・子どもと社会
 
 ウィークリー・エイジの名でよばれる週刊誌ブームは、ついに児童出版の分野にまでその波紋をおよぼすにいたった。二月末現在、その企画を正式に発表したのがK社とS社の二誌で、さらにA書店とM文庫が準備中との噂が流れている。先発さえ下手につまずかなければ、ぞくぞくと児童向け週刊誌が創刊されることは間違いないと思われる。児童出版の昨今の不況から考えてみても、これは容易に想像されることである。
 児童出版の不況ということについても、厳密な検討を要するだろうがいまはふれない。事実としては、昨年末まで児童出版部門だけで10名の編集者をかかえていたD社も、今年に入ってからは編集者の数を全体で11名とし、児童部は4名だけに縮小されたという話だ。そしてこの社でさえ児童向け週刊誌には色気を持っているらしい。
 だが考えてみると、いまのところ児童向け週刊誌が健全な出版物として子どもたちの新しい文化教養に役立つとはいえないので、通俗雑誌発行の経験と実績を持たない出版社は週刊誌ラッシュの波にのることは出来ないだろう。なぜ、児童向け週刊誌が健全な出版物にならないかといえば、第一に子どもたちの財政状態を考えてみればわかる。週刊誌代は、おそらく2、30円というところだろうが、これはいままで、子どもたちが貸本屋に投資していた金額に等しい。貸本屋で子どもたちは何をかりて読んでいるか、それはマンガであり、通俗読物の類がほとんどだろう。となると、子どもたちが、週刊誌に何を求めるかはおのずから明らかとなってくる。もちろん、頭からマンガや通俗読物の類を否定するのは間違っている。だが、それがラッシュとなりブームとなることは避けたいものだ。それに加えて、週刊誌の特色の一つともいえるニュース性を児童向けの場合、どのように扱うかということ、これは興味のある問題だ。

 このことについては、いまだに情報をきかないが、出来ることなら、それを避けるよなことはして欲しくないものだ。とはいっても、殺しを強調して扱ったり、おとなの週刊誌のように、桃色記事をドキュメント風に取り上げるのは困りものだが、政治、科学、経済、文化にわたって最近のニュースをわかりやすく伝えるということはぜひ実現してほしい。だがそれが実現されるのぞみは薄い。なぜなら出版社自体がそれらの取材に可能なだけの機構を持たないことが第一。それと子どもにはそれが必要ないとする考え方があるからだ。しかし、つぎのようなことは出来ないだろうか。
   「23日夜、東京都豊島区要町2の18会社員小泉登志信さん(46)は、四男の忠信ちゃん(6)が夕方4時すぎ三輪車で遊びに出たまま帰らない、と目白署に捜索を願い出た。雪の24日『誘かいか、事故死か』と大騒ぎをしていたところ、この坊や、前夜8時ごろに埼玉県北足立郡大和町の警察派出所で保護されていたことがわかった。『坊やは泣くばかりで、返事がはっきりしない。しかし三輪車に乗っていたんだから近所の迷い子だろうと思い、手配がおくれた』と同派出所の話。坊やは24日夕、無事におウチへ帰ったが、わからないのは、保護されるまでのこの子の足どり。ウチから大和町までは約10キロ。交通のはげしい川越街道を、しかも夕方から夜にかけて、六つの子の三輪車が果して四時間ほどで走破できるかどうか。坊やのお返事からはわかりそうもなかった。」(朝日・青鉛筆・2月25日)

 この記事を読めば誰もが、忠信ちゃんのナゾの4時間について、いろいろと想像をするに違いない。そこでこの4時間の空白を埋める想像力を子どもたちから引き出す役割を週刊誌がはたすのだ。童話作家のだれかをわずらわして、その貧弱な想像力をあからさまにするのも面白いことだろう。このような記事を多くのせることによって、子どもたちの興味をひきつけ、そこから空想をわきたたせ、さらにそれを表現する力までもつけてやるようになったら、児童向け週刊誌のプラスする側面ということになるだろうが、そこまでやれるかどうか。

 児童向け週刊誌が出て一番の影響をうけるのは貸本屋に違いないと考えたので、近所の貸本屋へインタビューに行ってみた。すると、まだそのニュースを知らずにいたが、こちらの質問には大きな反応を見せた。
 A「値段からいっても、おたくあたりがいちばん食われるんじゃないですか」
 B「そうですね。何んとか対策を考えなくちゃ。うちは仕入れと貸出しの経営が別になってるんで、難しいんですけど・・・・」
 A「噂では、文房具屋さんあたりでも売るようにするって話です」
 B「そうでしょうねえ。でも、学校へおカネを持っていく子って少ないんですよ。たいてい帰ってからオコズカイをもらうから」
 A「なるほど。すると、おたくあたりで売った方がよく売れるということかな」
 B「それは出来ないだろうけど、やっぱり週刊誌も貸すようになるでしょうね。だいたい子どもの本は、パラパラと読めば終りだから、持ってたって仕方がないんですよ」
 A「しかし、当然、週刊誌はクイズをつけますよ。しかもその解答を出す用紙は一枚だけしかついていない」
 B「それでも、うちでは貸すだけしか仕方ないでしょうね」
 ざっとこんなぐあいで、貸本屋さんはなにがなんでも貸し続けるといった。これも商魂の一つだろう。そこへ5、6年生の男の子が入ってきた。そこで早速、週刊誌についてきいてみた。その答えはかんたんだった。
 「ああ週刊誌って電車の中で読むやつだろ、おれ、あんまり電車に乗らないもん」
 ―だから読まないだろうと言うのだ。そしてその子は、雑誌フロクのマンガ本のならんでいる棚をのぞきこんだ。そのフロクも、4月からは制限されるんだと教えてやると、「ああわかった。それでフロクを週刊誌にして売るんだな」といい、それならやっぱり読まずにはいられないという顔つきだった。おとなの週刊誌ラッシュは車中の居眠りを減らしたという。その週刊誌が子どもたちにもたらすものはなにか。
(1959年4月 「小三教育技術」)
テキスト化根岸あゆみ