『現代にとって児童文化とはなにか』(三一書房 1965)

映像児童文化の英雄たち

1 テレビマンガの特質を考える
 どんなに理解をもって接しようとしても、いわゆる活字文化によって育てられたわれわれおとなと、テレビを中心とする映像文化によって育ちつつある子どもたちとの間には、簡単にいえばものの考え方、おおげさにいえば、基礎的教養という点で大きな落差があるような気がしてならない。
 もちろん、おとなと子どもの間に存在する落差や食い違いは、なるべく近い将来において、かならず解消されなければならないものであるけれども、現状における「落差解消案」の提出は多くの場合、そのどちらかに難癖をつけて、もういっぽうの効用性のみをやたらに高く評価するというような、性急なものになりがちである。
 たしかに、映像か活字かというような二者択一の姿勢は、論者自身の思考論理の混乱が回避されるという利点もあって気分的にも爽快であるだろう。しかしそれは、すでに出発において間違っているといわなければならないのだ。
 子どもをめぐる文化の状況は、いわゆる活字文化と映像文化が、かたちの上で考えられるほどには区別されずに、むしろその両方がわかちがたく共存しているところに今日的な特徴があるのだとおもう。そしてぼくは、そうした特徴が最も明確なかたちをもって具現されているものに、今日のマンガブームがあると考えている。
 たとえば『鉄腕アトム』によって代表される今日のマンガブームを、戦後第二次とするのが一般的な常識であるとするならば、その第一次ブームは当然のこと、かつての『赤胴鈴之助』や『月光仮面』をはじめとするテレビ台頭期の諸作品がそれを支えていたと考えなければならない。そしてこの第一次から第二次にいたる年月は、それぞれに多少の起伏はあったにしても総体的にはいわゆる泰平ムードへの過渡期であって、この間におけるテレビの普及は、じつにおどろくべきものがあった。
 第一次のマンガブームについての補足的考察をくりかえすならば、それはかならずしも、テレビという名の映像メディアだけがつくりだしたブームではあり得なかったのである。『赤胴鈴之助』はテレビドラマのそれよりも、ラジオドラマのほうが圧倒的に人気があったし、『月光仮面』もまた、児童雑誌『少年クラブ』が桑田次郎の絵によってそれをマンガ化してから人気が定着したのである。
 第一次マンガブームにおける判然たる特徴は、テレビが大衆文化の主導権を完全に把握していない時期の出来事だったということであり、それにひきくらべてみたとき、今日のマンガブームは、その主導権があくまでもテレビによって握られているという特徴があるということを、あらためて確認しておかないと、ぼくの論旨もまた「落差解消案」のような性急なものと誤読されるおそれがある。
 さて、ぼくはさきに、活字文化と映像文化がわかちがたく共存しているのが、今日の子どもをめぐる文化の特徴だといい、それの具現がマンガブームだと主張した。しかしこれは、あまり特異な発想ではない。むしろごく平凡な考え方に基づくものである。
 たとえばあなたは、マンガという文化媒体を、いわゆる活字文化の一ジャンルと考えるか。それともテレビに代表される映像文化の一ジャンルと考えるか。この問いかけにたいして、ただちに明確な答えが可能なひとがいたら、その意見には姿勢をただして耳を傾けなければならないが、そのようなことはまず考えることができない。それほどに、マンガという媒体のもつ性格は曖昧といえば曖昧、多様といえば多様である。
 どんなにすぐれたマンガであっても、それがサイレントであるならば、絶対にブームの波にのることは不可能だといった現実が、今日のマンガブームにおいてもその根底にある。それを映像(ビデオ)と音声(オーディオ)ということで考えるにしては、わが国のテレビ界におけるアニメーション製作の技術はまだまだ幼稚すぎる。現状におけるテレビマンガの音声は、印刷マンガにおけるフキダシとおなじ段階か、その助けをかりているといった段階でしかないのだ。したがってまだまだマンガは、映像文化の一ジャンルとして独立するほどには成長していないといういいかたも可能だけれども、ぼくはそれをマンガの特徴というよりは特質だと考えることによって、その可能性を高く評価したいとおもうのである。
 現在、都内の子どもにもっとも人気のあるマンガといえば、小学校三、四年生で『8マン』『忍者部隊月光』『鉄腕アトム』をベストスリーとして、そのあとに『鉄人28号』『風のフジ丸』あたりが続くわけだが(子ども調査研究所調べ)、このなかで『忍者部隊月光』だけはアニメーションではなく、いわゆるテレビ映画である。しかしその内容はマンガとみて間違いない。そしてもちろん同じような内容をもった印刷マンガが雑誌に掲載されている。
 ところがこれが幼児になると、『8マン』と『月光』が落ちて『鉄人28号』に『狼少年ケン』あたりがベストスリーの仲間入りをする。完全にアニメーションの世界である。これを第一次マンガブームの『赤胴鈴之助』や『月光仮面』と比較したとき、テレビ文化はより映像的になったともいえるわけだが、そこに描きだされる主人公たちの姿が「タレント」ぬきの直接的な形態によって子どもたちの前に提出されていることに注目すべきだといいたいのである。それはつまりマンガのままで映像媒体になってもよいのだが、それはまた逆に、映像が印刷媒体の力を借用しているということでもあるわけであって、これに未消化の音声というものがくわわってくると、マンガというものはいかにも混とんとした文化媒体のようにおもえてならない。
 そして、そのマンガというものに、身も心もうばわれているかのようにみえる子どもたちがいる。これにはいったい、どのような意味があるのだろうか。

2 英雄たちの下部構造を考える
 子どもたちは、たしかにマンガ好きである。ごくまれには、マンガ嫌いの子どもが存在するかもしれないが、それはあくまでも特殊なケースであって、すくなくとも、この文章のなかではそれに触れる余裕はない。しかしそれだからといって、マンガ好きな子どもがすべて健全かといえば、それははなはだ疑問だといわなければならないだろう。なぜならば、現在のマンガのすべてをよしとするほどの寛容さを、ぼくは持ちあわせていないからである。
 とはいっても、マンガという形式が悪いのではない。すでに前章において、マンガというジャンルの内包する可能性についてかなりくわしく触れたはずだ。その可能性を前提にしながら、ぼくは現在のマンガについて、そのすべてを認めるわけにはいかないというのである。
 たとえば、この文章の標題<映像児童文化の英雄たち>から、ただちにマンガを連想することは容易であろう。むしろマンガ以外のものを連想するのは困難なほどに、マンガと英雄とが結びついて考えられているのが、今日の児童文化の現状である。そしてそれは、ある程度まで間違った判断ではない。しかし、その現状はあくまでも、テレビ映像というものを中心にすえた場合にのみ通用する「児童文化常識」だということを意識しないと、はなはなだしい認識不足をみずからにもたらすことになる。子どもの英雄、それはマンガの主人公だという考えかたは、すなわちテレビ中心の児童文化常識だと、ぼくはいいたいのである。
 いささかなりとも子ども向けのマンガに関心を持っている人ならば、赤塚不二男の『おそ松くん』(少年サンデー連載)が、子どもたちのあいだで圧倒的にうけていることを承知のはずだ。これは六つ孤の兄弟がドタバタ的な活躍をくりかえす作品であって、およそマンガすなわち英雄というマンガ観あるいは英雄観とは無関係なのである。その意味では、かつての第一次マンガブームにおいて、正義の味方『月光仮面』と少年クラブ誌上の人気を二分した『よたろうくん』に共通した要素があるといえるかも知れない。もちろん『よたろうくん』のおかしさが落語的であるのに比較して、『おそ松くん』のおかしさは、クレージーキャッツ程度には現代的だという違いは当然ありうる。だがいまは、その両者の違いよりも、そこに英雄が不在であっても、子どもに人気のあるマンガが存在するのだということを認める必要があるだろう。ところがテレビマンガにおいてはどうか。ぼく自身、テレビマンガに直接関係するものとして、英雄不在のマンガがテレビ化されることはあり得ないと、明言することさえ可能なのである。
 いくら子どもたちのあいだで人気があったとしても、『おそ松くん』のようなマンガはテレビ化されないのである。これは技術の問題ではなく、マンガをめぐるおとなたちの考え方の問題である。一例をあげてみよう。
   「このテレビマンガの焦点は非常に単純明快なサッソウたるヒロイズムにある。正義感とヒロイズムとハラハラ、これがねらいである」
   「毎回同趣向でよいのかという質問には、よいとお答えします。毎回三分の二ぐらいまでは、娘義太夫のドウスル、ドウスル、終にカッコ良く片づけてオシマイ、ヨカッタネとする」
 以上の引用文は、あるテレビマンガ制作に当って、プロジュースする側から関係者一同に配布された「制作意図」のなかの一部分であるが、これを読んだだけでも、テレビ関係者の児童文化常識がどの程度であるか、だいたいの察しはつくのではないか。いうまでもなく、これは愚劣な考え方である。だがこれはあくまでも現実なのだ。文章表現において、多少の相違はあり得るにしても、ほとんどのテレビマンガが、右に引用文に集約されるような考え方によって制作されつつあることを否定する根拠はない。あとにのこされた問題は、子どもたちが、それをどのように受取っているかということだけだという気がしてならない。おとなが意図した事柄を、子どもはかならずしも、そのまま素直に受け入れているとはかぎらない。その食い違いだけを、ぼくは積極的に信じたいとおもうのだが・・・・・・。
 これが英雄だ、これこそが子どものヒロイズムを満足させるものだとして提出されたマンガの主人公を、子どもはどのように受取っているのだろうか。たとえばそれを、アイドルということで分類しようとした場合には、小学三、四年生(男子)でつぎのような調査結果(子ども調査研究所調べ)があらわれた。
 8マン・アトム・月光・長島・王・鉄人28号・影丸・フジ丸・狼少年ケン。
 一位の『8マン』の38パーセントから、九位の『狼少年ケン』の11・4パーセントまで、それぞれに人気の高低はあるが、長島や王のような野球選手を含めて、そのすべてが、テレビ映像によって接することの可能な人物であることに注目しないわけにはいかない。その意味では、子どもたちにむかって英雄をおくりこもうとするおとなたちの意図は、ある程度、成功をおさめているかのようである。
 だが、調査はあくまでも、「アイドル」ということでおこなわれた。アイドルと英雄とは同義ではない。もしもおくり手の側が、マンガの主人公の英雄性だけを強調したとしたら、アイドルという分類からの脱落という現象が起きるかも知れない。そしてそれは、マーチャンダイジングを意味する。マンガの企業化というようなことが、ほとんど考えられなかった第一次ブームと、現在のマンガブームにおいては、当然のこと、英雄についての考えかたも変質しなければならないのだが、そこに意外な空白があることは、さきに引用した「制作意図」によっても明らかだろう。ところが子どものほうは、いち早くそれを察知しているかもしれないのである。ぼくはそこに、マンガと子どもの可能性を見出したい。

3 英雄のパターンを考える その一
 11月5日午後9時30分からのテレビボクシング中継は実に愉快であった。試合内容はそれほどでもなかったが、出場選手のひとりにアトム・畑井という名が付いていたからである。アトムはまことに勇敢なラッシャーだったがついに5回目、二度のダウンを喫した上、セコンドからタオルを投入されてTKO負けした。玉砕とよぶにふさわしい敗戦であった。
 アトム・畑井のファイトを見ながらぼくはもちろん『鉄腕アトム』を連想していた。あの小さなロボットもボクサーのアトム同様、しばしば強い敵に対して猛烈な攻撃を試みるのだが、けっきょくは負けることのない英雄仕立てなのである。敗戦の味を噛みしめることのない連戦連勝選手といった趣がアトムにはある。参考までにつけくわえると、アトム・畑井をTKOした相手選手は沼田義明といって初戦以来21連勝の世界ランキングボクサー。両者の立場はまるで逆なのだ。
 アトムと同じようなロボットの英雄としては、ほかに『8マン』と『鉄人28号』が存在する。しかし鉄人はアトムや8マンと違って、人工頭脳を保有しないロボットであるということを忘れてはならない。鉄人を操ってるのは金田正太郎という少年であり、少年と鉄人をつなぐのは一個のリモートコントローラーなのだ。この三つを結ぶ関係から生じてくるエネルギー信仰こそが、『鉄人28号』の人気を支える重要素であることは、すでにしばしば指摘したとおりである。おなじロボットの名で呼ばれても鉄人と8マンそしてアトムはその性質がまるで異なる。
 新学期のことであった。ある女教師が一年生の子どもたちに好きなものの絵を描かせた。すると何人かの子どもが女教師にとって不可解きわまる絵を描いて提出した。女教師が考えあぐねているその絵を見た男の教師にひとりは、それが「鉄人のリモコン」であることを笑いながら説明した。このささやかなエピソード一つにしても、鉄人にたいする子どもたちの関心の持ちかたがエネルギー信仰とよぶに適当なものであることは容易に理解されることだろう。
 ところが鉄人系列の作品は、英雄観の分散を招くおそれがじゅうぶんにある。はたして英雄は巨大なロボットか、あるいはそれを操る少年か、それとも両者をつなぐリモコンか。このあたりのことは視聴する側にとっては解釈自由な事柄に属するが、制作する側にとってはけっして安易な考えですまされることではない。このむずかしさが鉄人系列の作品の輩出を阻害している要因だとぼくは考えている。それが『鉄人28号』のユニークさとなっているとまではいわないにしてもである。
 鉄人に比較した場合、アトムや8マンのようなロボットは単独で活躍し、単独なるがゆえに英雄となるといった性格を有している。ここでは絶対的に英雄観は分散しない。なにがなんでも、その一人または一台を強くしていけば、その英雄的立場は強固なものとなるのである。しかしその場合、アトムや8マンが機械的に、つまり鉄人的にのみ強くなるのでは視聴者であるところの子どもは満足しないだろう。子どもたちは、なぜそれが強くなければならないかという理由すなわちドラマを要求するに違いない。この要求に応えるためにアトムや8マンは人工頭脳を保有し、人間的な苦悩や歓喜に遭遇するのである。鉄人が機械であるために生じるドラマ、たとえばリモコンが敵の手に渡ったときには鉄人も敵の戦力となるといったようなことをアトムや8マンに応用することは、ほとんど無意味かマイナスとなる。英雄はつねに正義の味方としてその偉大なる力を発揮すべきだという大前提をぬきにしたのでは、連続物のマンガ作品は成立しない。
 ロボットが人間的な苦悩や歓喜に遭遇し、そこにドラマが生じるといった手法は、比較的容易であるにもかかわらず効果が大きいという認識を制作者に与えた。そしてそこから生まれてきたのが、ロボットのヒューマニズムという奇妙な思想あるいは論理である。本来、人間だけが持ち得るはずのヒューマニズムを、ロボットが代行することの虚構性を支えているのは何か。これは大きな問題に違いない。それは人間に絶望しながらも、なおまだそれに希望をつながずにはいられないという一種の理想主義ではないだろうか。そしてこれが現行のロボットマンガを支える重要な分岐点であるということに気がつかなければならない。それは同時に、われわれがどのような英雄を待望するかをおしはかる思想上の分岐点でもあり得るのだ。
 ロボットに託されたヒューマニズムが人間を肯定する型を摂っているのが8マンならば、それを否定しているのが鉄腕アトムである。アトムにはたしかに現実批判の精神がかいま見られる。だが8マンにそれを見ようとすることはほとんど徒労である。8マンの後見人である偉大な科学者も実は優秀なロボットであったというのがテレビマンガ『8マン』の結末だという話を担当者から直接聞いたことがあるが、これなどはまさしく人間肯定の思想の明白な具現であるといえるだろう。
 アトムは終始、人間を批判し続ける。そしてついにアトムの生みの親、手塚治虫はマンガの世界にサイボーグを登場させた。『ビッグX』はロボットの持つ限界を超越するであろうという理想の産物、サイボーグが主人公として活躍するマンガである。製作条件の不備その他で現在までのところ作者の理想はかならずしも明確なものとはなっていないが、ロボットもののマンネリズムを救うという意味あいもあって、今年末から来春にかけてサイボーグものが輩出するだろうことは疑いの余地がない。
 アトムはロボットの人間化であり、8マンもまたサイボーグではなくロボットとして存在し活躍する。しかしビッグXをはじめとするサイボーグは人間のロボット化なのである。したがってわれわれはあらためて英雄のパターンを新しく設定する必要はない。そこに新しいパターンを考えるよりも、むしろそこに、アトムの思想の流れを見、その発展がどのような英雄像を創造するかを熟知する必要があるのだ。

4 英雄のパターンを考える その二
 おびただしい数の機会および機械化された人間が空を飛び交い、地を闊歩する現代にあって、人間本来の姿のまま、いかなる困難辛苦にもめげず、元気に活躍を続ける英雄はといえば、まずつぎのふたりの名をあげるのがもっとも妥当ではあるまいか。
 狼少年ケン。少年忍者風のフジ丸。
 もちろんこれは映像児童文化というかぎられた世界の現象ではあるけれど、ここにこそ現代が如実に具現されているのだと考えることもけっして不可能ではない。すくなくともわれわれは、ケンとフジ丸という二人の少年の言動において、それを見るべきだったのである。ここで「べきだった」という過去形を使用したのは、おそらくこの文章が活字となるころには、そのどちらか一方あるいは両者ともにその姿を映像世界から消し去っているだろうと予想されるからにほかならない。そしておそらく、ここ当分のあいだ、ケンおよびフジ丸の系列をゆく作品は、その姿を現すことがないかもしれない。
 番組の登場順序にしたがって、まず『狼少年ケン』から考えてみたい。いまさらいうまでもないことかもしれないが、ケンは和製のターザンなのである。その生い立ち、つまり何故に人間の子がジャングルにおいて、動物に育てられなければならなかったのかという理由については、そっくりそのままターザンを模倣している。しかし、だからといって、ケンの独創性のなさをせめる必要はない。たとえ模倣から出発したとしても、その後の発展において、独創性を発揮することが出来得たならば、むしろそれはターザンものを止揚とした作品として評価されるべきだからである。『狼少年ケン』には多少それに似たところがあった。
 『狼少年ケン』の魅力について、ある幼児はつぎのようにいう。「ケンてさ、裸じゃない、だからカッコいいんだ。それに、ポッポとチッチがすごくかわいいよね。そして、おもしろいこというんだあ」これをさらに翻訳すると次のようなことになる。
 ケンは裸だ。だからカッコいい。ポッポとチッチという子どもの狼がかわいい。そして、ギャグがすぐれている。以上の三点が、一時は『鉄腕アトム』や『鉄人28号』をしのぐとさえいわれた『狼少年ケン』を支える魅力の要因なのである。
 だが考えてみると、これらのことは、子供向け作品をかたちづくっていく上で、もっとも安易な性格づけだときめつけることさえ可能な、いわば永遠の技法の範疇に属することかも知れない。ましてや動物の活躍については、「いきづまったら名作ものか動物もの」というたとえがあるほど、安易な制作態度の象徴ともいえるものなのだ。だからこそ、ときめつけるのも酷なようだが、新作品の企画に迷った末に、手塚治虫の虫プロでは、ライオンの子が活躍する『ジャングル大帝』を次期作品に決定したではないか。
 しかし、ケンの場合には、視聴者が予想できない面での冒険があった。それは主人公の上半身を裸にしたことに集約される。このことによって、この作品のアメリカ売りはほとんど絶望視されなければならなかったのである。裸体、宗教批判、人種問題、動物虐待はアメリカ輸出を考慮した場合、絶対に取りあげてはならないというテーゼが存在することを知ったならば、あえて日本の子どもだけの作品をつくりあげた制作者たちの熱意を買わないわけにはいかないだろう。現状において、アメリカへの輸出を断念することはかなり苦しい。だがそれを断念したところから、従来のターザンものとは異質の内容を盛込む可能性も出てきた。そのあらわれが、マンガ映画にはめずらしい時代劇調のギャグの連発であった。画面のバター臭さと時代劇調のギャグのアンバランスこそ、この作品の人気を支えた大きな要因であったのだが、最近ではギャグが現代調となって効果があがらず、主人公のケンも野性味を喪失して正義感じみてきた。魅力を失うのは当然である。しかし『狼少年ケン』のはたした役割は大きかった。日本の子どもたちだけを視聴対象とした最初の作品だったかも知れないからである。
 『狼少年ケン』を世におくりだした東映動画は、ひきつづいてこれまた日本の子どものための作品『少年忍者風のフジ丸』を提出してきた。忍者マンガの第一人者として評判の、白土三平の原作ということで。
 はっきりいって、フジ丸は失敗作だったと思う。もともと白土三平というマンガ化には図式的な思想があり、それはすでに出世作『忍者武芸帳』においてさえ随所に散見できたものだったのだが、このフジ丸は、その図式主義以外の何物も存在しなかったとさえいえるのである。白土マンガの魅力に一つであった泥臭い混沌は消え失せ、そこにあるのは、迷うことも、つまづくこともない観念を身につけた少年のこざかしい言動であった。
 竜煙の書をめぐる忍者たちの権謀術数も、けっきょくはフジ丸の原水爆(竜煙はそれに等しい)禁止運動の前に敗退しなければならないのである。しかもフジ丸の運動論理は感傷的な素朴概念論でしかない。それが「ときは戦国、あらしの時代」に堂々と通用していくところは、いかにも日本的だといえないこともなかった。その意味ではこれもまた日本国籍を有する作品であり、英雄であったといえるだろう。作品のよしあしはべつにしてというようないいかたは、はなはだしい誤りではあるのだが、ぼくはあえて、それをいいたい。
 風にフジ丸は、間違いなく日本人であり、感傷的図式主義の進歩派の一つの典型であった。その意味ではほどよく描かれていたのである。フジ丸と対極をなすべき保守派には、横山光輝原作の『伊賀の影丸』が存在するはずだったのだが、これを映像化した人形劇映画は、原作が持ちあわせていた重要なモチーフ、保守派の根性を見落とした次元から出発し、ついに子どもの支持を得ることができるままに終わった。
 ある少年週刊誌に連載マンガの原作を書いているぼくのところへは、このところ連日のように子どもの葉書がくるが、そのほとんどは主人公の「根性」への共鳴をうたったものだ。おそらくこれは東京オリンピックの遺産だとおもうが、とにかくここにも子どもの現況がある。この現況に即して、ぼくは映像児童文化の英雄たちについての考察を試みたつもりである。もちろん書き落した部分も多くある。
(1964年9〜12月 「国語教育相談室月報」)
テキスト化根岸あゆみ