『現代にとって児童文化とはなにか』(三一書房 1965)

アトムを撃ち、鉄人を壊わせ――ロボット殲滅作戦のための一考察

 つぎつぎに茶の間に侵入していたロボットどもが、こんどは逆に子どもたちを家庭の外へ連れ出そうとたくらんでいるといった現況がある。東映が子どもを中心に『狼少年ケン』というテレビ用フィルムを上映したら、子どもたちがわんさと集まってきたことが前兆となって、テレビから映画への新しい転換現象が起きつつあるというわけだ。『狼少年ケン』であの程度の興収が得られるならば、もっと人気のある『鉄腕アトム』や『鉄人28号』を二、三本集めて上映すれば、たちまち子どもたちがゼニを持ってかけつけるだろうと考えたに違いないのである。たしかにこの考えはわるくない。興業的にはまず失敗することはないだろう。企画としては安易だし、文字どおりの子どもだましではあるが、商売としてはこのあたりに目をつけないほうが不思議でさえある。
 しかし映像もまた文化である。もうかりさえすれば、それでいいのだという考えかたにたいしては個人的に共鳴するところ大だが、それだけでは、こんどは当方が文筆業者として立っていかないから、テレビ用フィルムが劇場用フィルムにそのまま流用される現象が、子どもたちに、はたまた映像文化の今後に、いかなる作用あるいは影響を及ぼすかについての考察を等閑視することは絶対にできないのである。
 もしもぼくが教育者であるならば、せっかくファミリアな文化として定着しつつあるテレビと子どもの関係を、またまた家庭の外におしもどすことの教育的配慮ということをまず第一に考え、映画館は盛り場に多い。その環境が子どもにおよぼす影響は好ましいものではないなどともっともらしいことをいわなければならないのだろうが、幸か不幸か、ぼくは教育を批評の対象として若干考えるだけの存在である。だから、こんどのロボットと子どもの家庭外流出に関しては、そうした教育的配慮からの考察にはまったく関心がないし、またそれをしなければならぬという義務もないわけだ。そこでここではもっぱら、ロボットそのものについて考えてみることにした。そのなかで多少とも映像についても無視することができない点が出てきたら、そのときはそれを避けてとおるようなことはしない。
 茶の間のロボットどもという漠然としたいいかたはよくない。ここでははっきりと、鉄腕アトム、鉄人28号、そしてエイトマンといった名称をあげるべきである。しかしこれはたんに三種のロボットであることを意味しない。鉄腕アトムという番組に出てくるロボットがアトムだけでないように、鉄人もまた28号だけではない。エイトマンにもまたほかのロボットが登場する。とすると、三つの番組名が持つ意味はただたんにそこに登場するロボット=主人公の名を冠したものではなく、そのロボットに代表されるロボットの思想をあらわすものだとはいえないだろうか。
 もともとロボットは人間の空想の産物であって、いまなお厳密な意味では空想の範疇にのみ存在するものなのだ。あるいはかなり近い将来においてロボットは実在のものとなり得るかも知れないが、そのときもなお、空想のロボットは存在をつづけることだろう。その点、多くの科学的装飾をほどこしてはいても、原子物理学や人工頭脳の名でよばれる一連の電子機械とは全く異質の存在なのである。
 たとえば鉄腕アトムについて考えてみよう。アトムは嘘をつかない。アトムだけではない。ロボットはみんな嘘をつかないと規定されている。嘘をつかないロボットの設定は、人工頭脳としての完全な働きを意味していないことは明白である。人間は嘘をつくし、また人間世界には嘘が必要不可欠なのであるから、その嘘をつくという機能を排除した人工頭脳は完全なものではあり得ない。そしてその嘘をつく人間が、嘘をつかないロボットを設定したとき、それはもう科学的な産物あるいは動力人形でなく、一つの思想をもったある形象なのである。アトムの十万馬力は動力のことではなく、疲れを知らぬ思想の伝達力だと考えなくては、その不合理を容認することはできないだろう。そしてその不合理を容認したところで、つまり思想と思想のふれあいというところで、あらためてそれを認める認めないという態度が必要となる。
 「アトムはいい子すぎる、ロボットのくせになんでも考えすぎる」という子どもの批判は、アトムという名のロボットの思想の存在をかなり明確にものがたっているだろう。このところを空白にしておいて、子どもはロボットが好きだ。ちかごろの子どもは科学に強いからロボットが好きなのだというような論拠が成立するとしたら、その無思想性はするどく批判されなければならない。
 鉄人の場合にも同じことがいえる。鉄人28号と金田正太郎をむすぶリモートコントローラーにこめられた作者横山光輝たちの思想は、アトムにおける手塚治虫たちの思想とはまた違った形で問題にされなければならないだろう。リモコンが敵の手にわたったとき、正太郎少年はまったく無力と化す。無力と化すだけではない。鉄人は敵の力とさえなるのだ。アトムの信頼の思想に比較したとき、鉄人の思想は不信頼の、物をあくまでも物としてみる思想だといえるだろう。ぼく自身の好みからすれば、もちろん鉄人のほうがより現代的だということになる。

 それでもアトムは人気がある、と考えるのはあくまでも無思想な立場から見たところの錯覚の論理でしかないといえるだろう。これは文化における質と量の問題になるわけだが、ここではもっと映像的にせばめて考えればいい。アトムはデス・プレイに商品マークに装飾にその応用範囲は実に幅広いが、鉄人にはそれがない。アトムはお茶の水博士のもとを離れてもひとり大空をとぶことが可能だが、鉄人は金田正太郎とその手にあるリモコンをぬきにしては社会的存在にはなり得ないのである。言葉をかえていえば、イメージの拡散化と集中化といういいかたも可能であるだろう。つまりアトムは拡散し得るが、鉄人は拡散し得ない。これをテレビ番組のみに即してみた場合、視聴率などという量的測定はともかく、子どもという視聴者の画面への没入は絶対的に鉄人28号のほうが強力なわけである。
 もちろんそれが映像である限り、その出来不出来を問題にしないわけにはいかないが、またそれだけでは片づかない問題が子どものオビ番組には山積している。そうした諸問題をつなぐ赤い糸というべきものが、前述の思想の問題だと考えるのだが、マスコミの論理はここのところを故意に無視することによって成っているようなところがある。
 しかし商業主義の論理はマスコミの論理とかならずしも同一ではない。アトムのテレビ・スポンサーである明治製菓も最近では、アトムがあまりにも数多くの企業や商品に利用されたがためにひき起してきたイメージの拡散化に頭を痛めているという。アトムはあまりにも自由に空をとびすぎるのだ。おそらく近々のうちに、アトムのカルテルとでもいうべきものが組織されるのではないか。そしてそれは、アトムだけの問題ではないということになって、ロボット全体のカルテルにまで発展するかも知れない。もちろんその思想をぬきにしてのことであるだろう。
 だがアトムがイメージを拡散するに至ったのは、あくまでもその思想のゆえである。アトムに制約をくわえることは、その思想に制約をくわえることでなければならないのだが、その思想を解明することは、マスコミおよび商業主義の足もとをすくうことであることは、すぐにも直感できるわけだから、当然のこと、かれらはそれをやろうとはしない。そこでロボット全体についてのカルテルといったところにあえて論理を飛躍させてしまうわけである。
 これはいままでしばしば指摘したことだが、アトムやアトムに関係のあるロボットおよび人間、あるいは宇宙人までが、その流線型の自動車を疾走させるとき、道路の左側を通行するといった問題がある。アトムの世界は現在ではなく未来ということになっており、地球は一つの連邦となっている。その世界でもなお、車は左、人は右といったような日本の交通規制が通用するものかどうか、また通用させてよいものかどうかは、真剣に考えてみる必要があるのではないだろうか。
 交通規制を守ること、これが道徳的実践だということになっている現状のなかからあえて未来の道路において、流線型自動車の左側通行を励行させているということは、アトムの作者たちにおける思想の集約的なあらわれだとぼくは考える。そのよし悪しは問題ではない。そうした道徳的実践がさりげなく現出してしまう現実肯定を、ぼくは思想とよぶわけであって、もしもぼくが未来を表現する必要に迫られたとしたら、まず道というものをなくしてしまおうと考えているのとはまったく相容れないことは当然である。
 道を守るアトム、これは商品としての資格を立派に備えている。流行をつくり、その流行をつくりだしたことによって、こんどは逆に規制されるというのは、商品として完全な証拠である。そのアトムの原生産者である手塚治虫が資本主義に反対の立場をとるべき共産党にコミットしているのはなぜか、といったような問題もいずれはじっくりと考察する必要があるのだろうが、いまはその機会ではない。
 道を守るアトムにたいして鉄人28号には、そうした意味での現実肯定はまったく見当たらない。しかしそれだからといって、鉄人アトムの対極に位置させることはできない。同じことは、変身可能という思想を持ったエイトマンについてもいえる。いかに現実的には異質であろうとも、その発想の根はいずれも同じロボット観、すなわち人間の空想の産物としてのロボットを想定したことによって支えられているからである。
 発想の根は同じでも、その後の論理の進展において異質ならば、やがてはその発想の根までが変化をもたらすといったこともあるのだろうが、それにはおのずから限界がある。現段階では、やはりその発想の根の同じことにおいて、ぼくはアトムを撃つためにも、発想の根の同一性ということによって、鉄人もエイトマンも同じく攻撃の対象としないわけにはいかないのだ。

 そもそもロボットとは何なのか。アトム、鉄人、エイトマンによって代表されるロボットと、一般的に存在するロボットと、一般的に存在するロボットとはまるで異質のものであることはだれの眼にも明らかであろう。たとえば渋谷区美竹町に新設された東京都児童館を訪れてみると、そこには一メートル六〇何センチかの「巨人ロボット」がリモートコントロールによってぎこちない動きをつづけている。子どもが近寄ると、今日はといい、手を触れようとすると、コラッとどなる。このことによってこの巨人ロボットは自由にしゃべれるということになっているのだが、なんのことはないワイヤレス・マイクがとりつけてあって、会場の隅のほうにいる男が子どもたちの動きを見て、適当にしゃべっているだけのことなのである。もちろんその形もアトムや鉄人のように近代化されてはいない。前谷維光の『ロボット三等兵』のように四角い頭部を持って、そのてっぺんにアンテナがついているといった伝統的な形式をもっている。しかしこれもまたロボットとよばれ得ることによって、子どもたちの人気を得ていることは事実である。子どもたちは、この巨人ロボットに、アトムや鉄人の原型を見ているのかも知れない。だがここにももっと大きな問題が横たわっていることを知る必要がある。
 巨人ロボットの制作者相沢次郎は三〇年来ロボットをつくりつづけてきたのだが、かれはそのロボットに思想を託そうとしたことなどは一度もなかった。かれはロボットを動力人形として規定し、それがより完全に動力化するよう努力してきたのである。ぼくが相沢次郎に会ったのはつい先日のことで、その用件はあるデパートで開催されるロボット展示ショーに、巨人ロボットを一台、ぜひ出品して欲しいと交渉しに行ったのだ。そしてかれから五日間で三十万円というロボットの出品料をきかされるまで、ぼく自身のロボット観は無思想な空白状態におかれていたことは確かである。
 しかしこの瞬間からぼくのロボット観は、その企業性と思想性との両立と離反という相互作用によって深められる必要を生じてきた。相沢次郎はロボットを三〇年間作りつづけてきたことによって、都児童館建設委員会副会長の要職につき、そのアイデアによって建設された児童館に巨大ロボットを出品し、操作員をも派遣させているわけだから、その収入はばくだいである。そうした都政と業者との結びつきを可能にしているのも、思想をぬきにしたロボット・ブームあればこそであって、こうした現象のさまざまを考えあわせると、とうてい鉄腕アトムや鉄人28号を、子どもだけのものにしておくことはできないと思うのである。ひょっとすると、ロボットとは、われわれと文明のあいだに存在する巨大な虚偽なのかも知れないと思えるほどである。
(一九六四年七月 「映画芸術」)

テキストファイル化 柏原詩穂