テレビのなかの大衆文学
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つい最近のことだが東京新聞のラジオ・テレビ版に読者からの「反響」としてつぎのような投書が掲載されていた。その見出しは「みごとな江原真二郎の演技」というのである。
◇ NHK 「赤穂浪士」東京12「樅の木は残った」NET 「徳川家康」とテレビ界は大型時代劇でいっぱいだが八日夜の「徳川家康」は、江原真二郎の戦国の武将らしからぬ人間的な弱さ、とりわけ桜の花びらを浮かべて脱衣を試みる演技は、みごとだった。
この投書の主は二六歳の主婦ということになっているが、それらは引用の意図とほとんど関係がない。関係がないといえば、右の文章の見出しとなっている江原真二郎という俳優の演技について同様である。僕が右の文章に関心を持ったのは、この短い文章において、テレビと大衆文学の関係がかなり鮮明に抽出されていると考えられたからだ。
投書者が冒頭に並べたてた三つの時代劇は、いずれもその原作が大衆文学であることによって共通しており、その格調の高さ、あるいは人生訓的内容によっていろいろの評価の相違は出てくるにしても、文学の分野においては、あくまでも大衆物であることになんら異論の余地はないはずである。ところが、これらがひとたびテレビドラマ化されると、大衆物などとはいわれずに、文芸大作あるいは大型時代劇というような呼称が与えられて、さながら芸術の香気高い番組であるかのような印象を持たされてしまう。映画の分野においてもこれと共通の現象が見られることがあるが、テレビの場合ほどにその隔絶感は激しくないといえるだろう。
大衆文学が文芸大作となり、それを視聴する人が、それを他の娯楽物、たとえば喜劇などと区別している現実を、ぼくは奇異な感じを抱かずに眺めることはできないのだが、このあたりのことを大衆文学研究家といわれるようなひとたちはどう考えるのだろうか。もしもこれをただたんに、大衆文学の地位向上というふうに評価したりしたら、それはまったく奇怪な話といわなければならない。ぼくとしては、大衆文学とテレビの関係、その現状は、伝達媒体の相違からくる必然的な問題だとはどうしてもおもえないのである。
出版物にも発行部数と売れ部数の密接な関係があるにはあるが、テレビにおける視聴率競争ほどには深刻でないと見受けられる。ところがテレビという伝達媒体の企業性を考えていく上で、視聴率競争と現場制作者の創造意欲をどう調整するかという問題は、絶対に無視することの不可能な大問題であるといっていい。
東京地区における視聴率一パーセントは、テレビ台数にして約五万だといわれている。東京12チャンネルの山本周五郎作『樅の木は残った』は予想に反して三パーセント前後の低視聴率にあえいでいるというのだから、東京地区で約十五万台のテレビの画面に写し出されているということになるわけだ。ここで予想に反してというのは出版界における山本周五郎ブームを期待してのことだろうが、これは予想を裏切るのがむしろ当然なのである。
山本周五郎はあくまでも大衆小説家である。大衆小説というのは、読み間違うと処世訓や人生論になってしまうけれど、本筋としてはあくまでも娯楽のための読物である。娯楽のための文学は価値が低いなどというのは、青臭い文学青年あたりのいい草として昔は通用したようだが、いまどきは通用する意見ではない。
ところが、広範な視聴対象を持つテレビにおいては、娯楽性を否定したところで、大衆文学のドラマ化が行なわれているのである。すくなくともぼくにはそう思えてならないのである。ここにおいて、化け物といわれている視聴率がその正体をあらわしてくる。
放送するかぎりは視聴率が高いほうがよいにきまっている。しかしスポンサーの企業あるいは商品イメージというものを考慮した場合、いわゆる娯楽物を提供するにはこだわりを持つということがあり得る。娯楽物とはいえないけれど、TBSの『七人の刑事』の提供スポンサーが乳業会社から電機メーカーにかわったということがあった。これなどは明らかに、そうした意味でのこだわりの証明であるだろう。こだわりはやがて文芸大作への関心となる。ましてそれが大型時代劇などと銘うたれていればスポンサーが食欲をそそらないほうが不思議なくらいだ。制作者のほうはどうだろうか。
本心として芸術的なオリジナルドラマあたりをやりたいのだが、もしもそれで視聴率も反響もダメだったらサラリーマンとしての地位も危うくなるから、そこは考えて、ある程度は制作意欲も満たされ、またある程度までは視聴率も反響も保証されるであろう大衆文学をドラマ化し、それを文芸大作だなどと名づける。ここから誕生してくるのは、芸術性と娯楽性の奇妙な混血児だ、といいたいところだが、実のところは、妙に格式ばってそのくせ味もそっけもない駄作品なのである。そしてそれは、新聞に投書をするようなごく一部のテレビファンを喜ばせはするが、本来の大衆文学愛好者には見向きもされず、その対極にいる芸術好きからも相手にされないという現象を招来しているのだ。
もちろん、ぼくもまた、大衆文学をドラマ化して文芸大作とよぶような番組を愛好する気は毛頭ないのであって、見るとすればいわゆる批判的に意地悪く、その低視聴率を予想したりして、それが適中したりすればざまあ見やがれなどと柄悪いつぶやきを発したりするのである。
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大衆文学に原作を求めたテレビ番組が大衆文学の持つべき大きな要素である娯楽性を喪失してしまっている以上、ぼくが娯楽として認め得る番組は、もっぱら高い視聴率を誇る通俗番組ということになる。いうまでもなく視聴率の高さと質の高さとは同一ではない。しかし三千部しか売れない小説を大衆文学といわないのと同じように、視聴率三パーセントというような番組が娯楽番組として認められるはずはないのである。
ぼくは仮にこの文章の表題を「テレビのなかの大衆文学」と名づけてみたが、その対象となるのは、いわゆる大衆文学とは何の関係もない番組群となりそうだ。もちろんこれはぼくの抱いている大衆文学観に基づくことであって、その意味ではぼくの考えかたはなんの冒険もない至って平凡なものではあるまいか。
たとえばNETに『狼少年ケン』というアニメーション番組がある。幼児段階にかぎっていえば、『鉄腕アトム』に匹敵するが、あるいはそれ以上に人気のあるマンガであって、制作は、東映動画。スタッフには当然のこと時代劇の王者東映の関係者が多い。もっとも最近の東映時代劇は変に深刻ぶるものばかりが多くてまるで駄目になってしまい、見るに耐えるのは高倉健主演のギャング物ぐらいだが、『狼少年ケン』に使われているギャグを見たり聞いたりしていると、かつて隆盛をきわめた頃の東映時代劇的な雰囲気が伝わってきて、子どもはたとえそれを喜ばなくても、ぼくらはそれをなつかしむことができるのである。
つい先日も再放送されたものに、カモシカの群に育てられた少年が登場する作品があった。
カモシカ少年は森のギャングであるゴリラや熊にそそのかされて狼少年ケンと決闘するのだが負けてしまう。そして再度の決闘をいどむのだが、それが森のギャングどもの策謀だとわかると翻然、ケンと仲直りをする。ケンの努力によってカモシカの群が移住できる草原も見つかり、カモシカ少年はケンに別れをつげて立ち去るのだが、このとき老いたる一頭のカモシカが少年にいう言葉がふるっている。
「若、参りましょう」とカモシカがいうのである。これは東映映画のみならず、時代物一般に通用してきたところの典型的な表現なのだ。これがすばらしいというのではない。けれどもそうした古典的表現法を子ども向けのアニメーションに持ち込んできたことの意味は予想以上に大きいのではあるまいか。そうした古典の持ち込みによって『狼少年ケン』は古臭いものとはならず、『鉄腕アトム』や『鉄人28号』のような科学物とはまた異質の新しさを発揮している。もしも『狼少年ケン』に東映時代劇的な表現がいっさい用いられることなく、現代語だけが用いられるとしたら、それは無国籍的あるいはバター臭さ的な新しさを持つ嫌味な作品になるだろうと考える。
アニメーションと時代調の統合というような試みは、大衆文学の分野でも試みられており、
それはたとえば小松左京のSF作品についてもいえると思う。ともすれば翻訳調の雰囲気に陥りがちのSF に、小松は日本人の心情を持ち込むことに成功したはじめての作家である。それをきわめてストレートに試みたのは豊田有恒の一連の時代物SFだが、これはあまりにもストレートすぎて成功しているとはおもえない。せめて『狼少年ケン』程度の違和感が欲しいと考えずにはいられないのである。『狼少年ケン』の場合にはその違和感はギャグとなり、小松左京の場合には奇妙な危機感となってぼくに迫り、ぼくを楽しませる。そしてぼくは、こうしたことが大衆文学的な要素として大切なのだと考える。
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とはいっても、大衆文学的な要素のうちには、肯定できるものばかりがあるとはかぎらない。かなりの高視聴率をあげ、スポンサーもよろこび、制作者もそれなりに満足している番組のなかに、どうしても肯定することのできないものが多かったりするのである。たとえばそれはTBSの『おかあさん』という番組である。
『おかあさん』については『人間の科学』八月号「特集・今日の映像文化」のなかで、山村賢明という人が克明な分析をしたことになっており、これをまたある書評新聞上でNHKの人が、具体的であるということで誉めそやしていたがぼくにいわせればとんでもない間違いだと思う。
『人間の科学』八月号の山村論文はなるほど確かにテレビドラマ『おかあさん』の分析ではあるが、それはあくまでもドラマの部分だけのことであって、番組全体の分析でも考察でもないのである。NHKテレビだけを見ているのでないかぎり、人びとはある番組のドラマの部分だけを抽出して視聴することは、よほどのことがないと不可能なのだ。したがって『おかあさん』に関していえばドラマの前についているサトウハチロウーの詩(と称するもの)も、ドラマのあとの関屋五十二のはなしもワンセットにして視聴しなければならない。そして残念なことには、ドラマそのものよりもサトウハチローの詩のほうがよほど人気があるらしいのだ。詩集『おかあさん』は林房雄が文芸時評で絶讃したりしたせいもあって、かなり長期にわたるベストセラーである。ところが山村論文はこうした現象をぬきにしてテレビ番組を論じようとしているのだから、これを克明だとか具体的だとかいうことはできないのである。
ドラマ『おかあさん』のスタッフには,芸術派岡本愛彦の影響を受けたような人びとが多くおり、必然的にそこで制作されるドラマは大衆的にはともかく、芸術的にかなり良質の作品も多い。これはぼくも素直に認めなければならないだろう。しかし、その前と後にはこの世のなかでいちばんといってよいほど俗悪な詩と、これまたいやらしさでは右に出る者のない関屋五十二の解説的コマーシャルがつくのである。そしてそのどちらが俗受けされているかといえば、ドラマそのものよりもサトウハチローの詩だというのだから、テレビにおける大衆文学的要素というものは、それこそよほど克明に、そして具体的に分析しないとはなはだしい見当違いをしてしまうことがあるわけだ。
八・十五敗戦の日を記念して制作された『母あり十九年』の続編が放映されたあとでは、関屋五十二とスポンサーである中外製薬の社長が登場し、ドラマについての愚かな感想を述べたのちに、あつかましくもつぎのようにいったのである。
「わたしは若い頃、母にひどく迷惑をかけた。親孝行しようとおもったときにはもう母は死んでしまっていた。わたしがこの番組やりたいとおもったのは、そうした親孝行の気持ちからだった。わたしは死ぬまでこの番組を続けます」
すると関屋五十二が喜んでいうのである。「わたしはあなたから直接その言葉がききたかった」
ふざけるなというようなつぶやきが、ぼくの口から出たことは当然である。死んだ母への追憶をこめてというような個人的理由からテレビ番組が提供されるなどということがあり得るはずはない。企業はあくまでも利潤追求のために番組スポンサーとなり、執拗に宣伝をくりかえす。だからこそグロンサンのような毒にも薬にもならない商品が売れもするのだ。それを忘れたかとぼけたか、社長が老醜の顔を画面にさらして、個人的理由を述べたてたりするのは、虚像以上の犯罪的行為であり、さらにそれをきいて、自己のタレント生命の永続を喜び、しかもそれを視聴者とともに喜ぶかのように装う者もこれまた同罪であるだろう。
直裁にいって、ぼくは大衆文学の娯楽性をまことに高く評価するものだが、その娯楽性とともに大衆文学の大きな要素である処世訓あるいは人生論的側面を強く否定したいのである。『関の弥太っぺ』はいいけれど『一本刀土俵入り』や『瞼の母』はいけないというのがぼくの大衆文学論であるから、もちろん『宮本武蔵』から生きることを学びとるというのは、じつにけしからんということになる。テレビ番組『おかあさん』こそは、大衆文学からさえ何かを学びとれという貧しき啓蒙思想のなれのはてというべきかも知れない。
娯楽を娯楽として受けとめられる豊かな心情を持つことなしには、よりよき大衆文学の読者となることはできないだろうし、そうした読者をより多く持つことによってのみ、大衆文学は真に向上するのである。大衆文学が文芸大作になって妙に格式ばってしまったり、芸術ドラマが変なオブラートにつつまれて意外に多く見られているテレビ文化の現況は、これをとうてい認めるわけにはいかない。せめて子供向けアニメーション程度の割り切った娯楽性を追求して欲しいと思うのだが、これとても視聴率という化け物の出かたしだいだは、たちまちのうちに陰湿な作品群に変貌するおそれのあるのがテレビ文化の本質である。
ここ当分、大衆文学はテレビに力を貸してはならないということをこの文章の結びとしたいのだが、それはとりもなおさず、大衆文学が文学独自の魅力を喪失することがないようにというぼくの念願にほかならない。
(一九六四年九月 「本の手帳」)
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