『現代にとって児童文化とはなにか』(三一書房 1965)

子どもとアクションの思想―書評『少年の虹』ほか

 現代の子どものアクションを誘い導くのはテレビ・映画・マンガ・絵物語の類で、しかも多角的なイメージで子どもに結びついている。それらの媒介なしにラジオや活字が子どものアクションに結びつくとは考えらない。したがって総合的なイメージを伝達し得ない読物は子どもたちに迎えられなくなってきた。このことは文学方法の問題、とくに文体について考えあらためるべきときがきたということで、それはまた作家主体に関連の深い想像力の問題でもあるだろうが、ここではふれない。ただ伝達手段の変化がはげしくなるにしたがって不勉強な作家が脱落することは確実で、これは今日の児童文学の不況と関係があるとだけはいっておきたい。
 さて、一昔前には紙芝居も子どものアクションを誘い導く役割をはたしていた。ぼくよりすこし前の世代だと『黄金バット』に興味を寄せたひとが多いはずだ。その黄金バットによく似た姿が『月光仮面』に出てくると、それは悪漢であって、もう昔日「正義の味方・黄金バット」の面影はない。
だから、子どもたちが棒切を振りまわしたり、風呂敷を背中にひろげしょって遊んでいるのを見て「ああ、おれたちの子どものころと同じだ」と思うのは間違っている。戦中に幅をきかした正義派を敵にまわして戦っている新しい正義漢が、子どもたちのアクションのなかにも存在しているのだと認識する必要がある。
 もちろん多くの活劇物は通俗作家によって量産され、時流にのって伝達されるので、ふたたび戦中派がよみがえるおそれなしとはいえない。だがその復活よりもおそろしいのは、子どものたちのアクションを郷愁の抒情によって容認し、その思想を無視するおとなの無思想だと思う。ぼくら、子どもの戦中派のアクションは戦争ごっこによって代表された。そしてぼくらは、銃後を守る少国民としての自覚にもえていたのである。そのぼくらのアクションを眺めて、おとなたちが時流を感じ出したのは、自分たちもまた、防空演習などという戦争ごっこに巻きこまれてしまってからではなかったろうか。それでは遅すぎた。
 「子どものアクションの思想を注視せよ」とぼくがいうのは、子どもの持つ時局性を重視しようということで、そこに仕事を集中させている通俗作家と対決する必要があると思うからだ。この対決を避け、時局性にたいする童心の永遠性を拠りどころにしたのが日本の児童文学で、それは錯誤の歴史であった。
 通俗活劇では多くの場合、最後に勝利をしめたものの頭上に正義と名誉の栄冠が輝く。勝利を得るためには強くなければならない。時代物ならば剣の達人というのがオーソドクスで、すくなくとも免許皆伝の腕前は要求される。ところでその剣の秘訣だが「第一に正確、第二に敏捷、第三にどれだけ息が長くつづくかただ」と山手樹一郎著『少年の虹』(東京書房)に書いてある。まったくそのとおりに違いない。しかしその秘訣を身につけるためには、たゆまざる努力と忍耐力を要求されるのである。このことに力をこめたのが吉川英治の『宮本武蔵』で、ある階層からは教養書として受入れられている。
 剣の「道」のきびしさを教え、しかも最後に栄冠を与えることでその「道」を良とし、一つの道徳・モラルを押しつけるものが時代小説には多くあり、『少年の虹』もこれに類している。
 主人公菊谷賢一は、父を不具にしたまぼろし組と戦うため北辰一刀流千葉道場で剣の修業にはげむが、それは文字通り「道」のきびしさで『宮本武蔵』に通じている。もしこれに対決するとしたら「道」をネガチヴにとらえることが必要だろう。正確・敏捷・息がつづくということは、剣の秘訣だけでなく、スポーツマンにも、宇宙ロケットの乗組員にも要求される条件だろうが、それがきびしい「道」の修行によって身につくとは考えられない。ところがこの本の著者は「道」を強調する。
 海音寺潮五郎著『蒙古きたる』(講談社)のほうは、主人公獅子島一郎が野育ちに近い存在として登場してくるので、「道」の臭味はない。しかし、リライトの関係もあって、著者がまえがきで力説しているような歴史的な愛国心は読みとれなかった。ということは獅子島一郎や河野通有が戦いを楽しみすぎているからで、いわばアクションに思想がないのである。
 結論として、アクションに異質の思想をもりこみ、総合的なイメージを伝達し得る文体、そういう新しい作家の出現を期待したい。
(1959年2月 「図書新聞」)




乱世の児童文学―書評『赤い月と暑い時』ほか

適度のハッタリをまじえつつ、実力をもってこの世を生きぬこうとするぼくらにとって、現代はまさに乱世である。乱世には群雄割拠して弱者は肉となり、強者はそれを食らって生きのびるのがつねである。食わなければ食われてしまうのだから、強くなるための努力をおこたってはならない、この教訓は、子どもたちに向かっても絶えず発せられるべきだとぼくは思う。
 しかも、ぼくと同じように、現代を乱世とみる人間の数はじつに多く、それは年齢が若くなるほど多数となるのだ。だからこそ、スーパーマンは今なおその生命を保ち、まぼろし探偵は学籍も職業も不明のままで大活躍が許されるわけだろう。
 子どもたちにとって、弱者の歌は、ごく少数が存在すれば充分である。子どもたちは、たくさんの強者の雄叫び=英雄のものがたりを欲しがっているのだ。その子どものたちの要求に応え、欲望も満たしてやるためには施耐庵作『水滸伝』のような古い物語も、現代に再生される必要があるわけである。
 「大宋は仁宗皇帝の時代、文官には包拯、武官には狄青をはじめたくさんお賢臣あらわれてこの聖天子をたすけ、よい政治をおこなったので、天下は太平、五穀はよくみのり、人民はみな楽しくその業にいそしんでいた」ところが伝染病が流行するとたちまち乱世となり、英雄豪傑が活躍しはじめるというわけで、これこそ乱世の書物というにふさわしいと思う。
 筋は明快、テンポも早く、スリルとサスペンスの連続である。必然は偶然を生み、偶然は必然につながり、眼のよるところに玉がよるのたとえもあるように、一人の英雄豪傑が、二人になり、三人になり、それが四人五人となるにしたがって、ものがたりもはなやかに展開していくという仕組みである。なかでもぼくの興味をひいたのは、殺人犯としての追求を避けるため坊さんになるほかはないと思い「五台山にのぼり、智真長老に髪はもちろん、だいじなひげまでそられてしまい、智深という法名をもらって、ここにものすごい大入道、花和尚魯智深(花和尚とはいれずみをした和尚の意)」となった男である。
 だいぶ以前、この花和尚を中心にダイジェストされた清水崑のマンガ水滸伝をみたいことがあるが、この本(岩波少年文庫)の面白さは、マンガに数倍すると断言してもいい。
 ところで、子どものたちが要求するならば、現代の作家も、英雄ものがたりを書くべきだと思うがどうだろう。そういうものを書くことが、自分の文学的政治的信念を裏切るというのなら仕方ないが、ぼくなどは、政治的にも文学的にも信念を持たない職業作家だから、子どもたちの要求にしたがって、英雄のものがたりを書きたいと思う。そういうぼくの眼からみると『草原の子ら』『コロンブスのむすこ』のハンス・バウマンや、ここに紹介する『赤い月と暑い時』(いすず書房)の著者ヘルベルト・カウフマンは、じつに尊敬すべき作家である。彼らは子どもたちの要求に応え、しかも芸術的にすぐれた結実を示しているのだ。
 そしてとくに強調しなければならないことは、この物語が事実に基づきながらも、作者のゆたかな想像力によって展開され、形象化されていることである。
 もちろん、いかなる場合にも、ドキュメンタリィの精神とは、おおいなる想像力のこと以外ではないのだけれど、英雄ものがたりを考えるときには、このことを忘れてはならないのだと痛感させられた。
 カウフマンの場合、その想像力は、詩的な文体によって形象化されるようだ。これは同じ「事実」尊重の作家とはいっても、散文的文体のハンス・バウマンとはずいぶんニュアンスが違うと思う。ことさらに砂漠の言葉を駆使しているのも、カウフマンの詩人的感覚のあらわれだろう。
 主な登場人物は、ミド・エ・ミドという少年吟遊詩人と、そのライバルで"赤い月"とよばれる族長の息子、それに美しい少女の"暑い時"。そのほかに、ぼくが最も興味を持った盗賊アブ―・バクルが活躍するが、なんといってもこの物語の主人公は、砂漠である。
 砂漠があればこそ、盗賊アブ―・バクルも風のごとくあらわれは去って行けるのだし、美少女"暑い時"をめぐる恋も勇気も冒険も可能なのだ。となると、この物語を読むまえに、あのすぐれたルポルタージュ、ヘディンの『中央アジア探検記』ぐらいはぜひ読みたいし、それを読めば、この物語の面白さは倍加されるに違いない。現代人にとっても、砂漠は興味ある生きものである、と思った。
(1960年1月「図書新聞」)




革命的な冒険もの―書評『オオカミに冬なし』

 春が近づくと季節風が強くなり、空間いっぱいを黄土色に染めて砂じんが襲いかかってくる。窓ガラスのすきまからはもちろん、閉め切った雨戸のすきまからさえ、砂は流れこんでくるのだ。そして、タタミと髪毛はざらざらになり、口も鼻の穴も汚れに汚れ、肺腑のなかにまで砂は侵入する。もちろん眼からは涙がにじみ出る。人間ばかりではない、犬までが悲しくもないのに涙ぐんでいるのだ―このような東京郊外で生活するぼくらにとっては、この本の舞台となっている北極の大氷原や吹雪よりも、砂漠や砂あらしの方に現実感があることは確かである。
 しかしそのような日常的な生活体験からくる現実感だけで文学作品を評価することは間違いだ。作中の人物に共感を覚えたり、その意思に共鳴したりするような本の読み方では、現代の文学を理解することは不可能なのだ。ましてこの本のように、「ほんとうにあったことの報告によって書いたもの」について語るときには、ぼくらのもっているささやかな生活体験などは何の役にも立たない。いや、むしろ、生活体験を絶対的に拒否したところにこそ、この種の作品=ドキュメンタリィの成立条件があるとさえいえるだろう。
 現実に起承転結がないように、ドキュメンタリィにもストーリーは必要がない。だからこの本も「その年は冬のきかたが早すぎた」という偶然からはじまる。しかし考えてみれば、冬のきかたが早すぎる必然性は、ぼくらの生活においてさえあるのであって、ましてやそれが北極となればなおさらのことだろう。だがもしも、文学作品をおのれの生活体験で評価するとしたら、偶然は偶然のままにとどまり、アクチュアルな現実とはならない。「冬のきかたが早すぎた」ということは、過去の生活体験では推測することのできない新しい現実が襲いかかってきたということであって、完全に日常性はうちくだかれたのである。
 「いつもなら、あらしと大雨の前ぶれがあり、最初の凍てがあってからひと足ひと足北からおしよせてくる冬が、だしぬけに、早くも9月の第一週にいっぺんに、ありったけの力で全アラスカに落ちかかったのだった」
 その大氷原に、たった二人でそりを進め「向こうの置くで餓死するか凍死するかの瀬戸ぎわ」の275人の救出におもむく男のエネルギーもまた、ぬくぬくとした日常性を完全に否定している。しかも、そのうちの一人「白髪の、ぞんざいなかみそりのあてかたをした、顔のはれぼったいような、身のこなしのだらしのないような男」ジャーヴィスは出発を前にしていっている。「こういう場合、経験ということはあまり役にたちません」と。これこそ完全な日常性の否定である。
 新しい現実=大氷原に出発した二人の男のまえにそそり立つ白い壁(あるときは吹雪であり、あるときは無知蒙味なエスキモーたち)のヴィジョンが、ぼくならぼくの想像力にダブルとき、ぼくは過去や未来をおもうのではなく、今日の現実だけを考えさせられる。つまりぼくは『オオカミに冬なし』(リュートゲン著、中野重治訳、岩波少年文庫)を読みながら土門拳の『筑豊のこどもたち』に出てくる廃坑の入口をぬりかためたコンクリートの壁や、全学連を非難する共産党を考えないではいられなかったのである。
 もちろんこの本の読者は中学生であるべきだから、ぼくのようなダブルイメージを持つ必要はないが、この本を読んで、北極にあこがれることは絶対まちがいだ。そのような安易な冒険心を拒否するところで『オオカミに冬なし』は成立しているのだから。
 あえてこの本を冒険ものというならば、かならずその上に「異色」とか「革命的」とかいう文字を置く必要があると思う。
(1960年3月 「読書新聞」)



子どもへの戦争責任を問う――書評『児童福祉白書1963』

 4月のある夜、ぼくはテレビでサリドマイド奇型児の整形手術のビデオ中継を見ていた。制作方法としてはまったく拙ないものだったが、やはり素材のもつ迫力は確かだった。一歳にも満たない乳児が電気メスによって切り刻まれているというに等しい状況におかれ、しかもそれによって得るものは、義手をつけることができるであろう部分でしかないということに、ぼくは激しい衝撃を覚えた。
 それほどにしてまで、人間は生きなければならないものなのか。ぼくは改めて素朴な疑問を抱いたのである。これにたいする解答の一つは、ベルギーの裁判所が出したサリドマイド奇型児殺しの母親にたいする無罪判決だった。しかしあの判決にしても、義手をつけることが可能なまでに医学が介在する現在では恐らくもっと違ったかたちをとるものと予想される。日本ならばさしずめ執行猶予の判決がくだされるケースだろう。
 つまり日本の裁判所はアザラシのような子どもにも生きる権利がり、親はその子を育てる義務があると主張するに違いないのである。そしてその子に親がないか、もしくは親が扶養の義務をはたせないときは、国家がその義務を負わなければならない。そのためにこそ、わが国には憲法の生存権保障条項に基づいて1947年に児童福祉法が成立施工されているのだと説くであろう。
 児童福祉法、この法律は子どもたちの生きる権利を保障すると同時に、生きなければならない義務を課している。たとえその子がいきることに激しい苦痛を感じたとしても。
 「第一条A すべて児童は、ひとしくその生活を保障され愛護されなければならない」
 サリドマイド奇型児の整形手術がひとびとの関心をひいたあと、子どもの日を前にして出された『児童福祉白書1963』にもまた、愛護の精神はみちみちている。だが、それだからといってその白書がけしからんものだということはできない。むしろ愛護の精神に溢れていることによって、この白書は現体制のなかでは、かなり高く評価されることも可能なのだ。正直いって、ぼく自身もこの白書からおしえられることが多かったのである。とくに「序 児童福祉問題の鳥瞰」の第三節「アメリカその他先進国における児童福祉展望」のイギリスと西ドイツのくだりは、わが国の場合にくらべてかなり参考になる問題をふくんでいるといえるだろう。
 まずイギリスの場合だが、それは、「今次の世界大戦の経験は日本の場合と逆に、イギリス国民に産業革命後低下していた家庭や家族の価値を再認識させることになった」という書き出しではじまる。そして、「集団疎開乳児院等親からはなれた児童のことから図らずも次のような認識を生んだ」「家族こそはその構成員を結びつける愛情の力で子供の成長と身体の健康を保障する一番自然な形である」「かくしてイギリスでは戦後保育所が、急減し」「幼稚園もできる限り幼児の一日の在園時間を短縮する方向にある」という現状を紹介している。なぜそうなったかといえば、「日中の主要な時間を施設で集団生活をさせることが児童心理学上好ましくないと考えられた結果である」。
  これにたいしてわが国ではどうか。5月12日の夕刊を見ると「荒木文相はこのほど事務当局に対し、幼稚園教育の義務教育化について検討を始めるよう指示した」(東京新聞)というのである。
 社会保障制度などではとかくイギリスを目標にしているかのようにいいながら、子どものこととなると、かくも違ってくる原因は何か。ここでぼくは、子どもにかんする戦争責任を問題にしたいのである。
 イギリスでは戦争とそれにともなう集団疎開など一連の政策が、子どもをいちじるしく傷つけたという反省の上に立って「家庭」を再評価し、そこから児童対策を打ち出しているのにたいし、わが国の文部行政には、そうした反省が皆無だということ、これはかなり重要な問題である。
 思い出すまでもなく、わが国でも集団疎開は行なわれた。ぼくもその体験者のひとりだ。集団教育などという言葉をきいても、ただちにあの東北の山村が想起されるほど疎開の体験は根深いのである。ところがこの点をふくめての反省、つまり戦争責任をふまえていない文部行政と、それをふまえたかに見える『児童福祉白書』の作成者たちとの間に大きな欠落があるところに、日本の子どもの不幸があるといえるだろう。
 とはいっても、ぼくは何も「家庭」こそが、子どもにとって最良の場であると主張するものではない。集団疎開についても、ぼくらはもっと検討する必要があるのだ。それをおこたると西ドイツのように「戦後処理的問題の大部分は片づいてしまった」として「全体主義体制との精神的対決を図るため、自由民主主義的政治教育の強化」という方向に突っ走ってしまうのである。
 そのドイツにも「第2次大戦後、ドイツの国内秩序は全面的に崩壊して、孤児、浮浪児が巷に溢れ、その惨たんたる状況は到底日本の比ではなかった」という時代があった。このことを考えると、イギリスのそれが「教育」に走らずに「愛護」にとどまっているのは、やはり肯定してもけっして間違いではないはずである。
  ところで日本のそれは今後どうなるのだろうか。白書はその序の第2節で「児童は危機的段階に」あると指摘している。
 「高い経済成長を示しつつある国の児童は、いまや危機的段階におかれている」「経済成長の目標とするところは、もちろん人間の福祉を増進し向上させるところにある」のだが、むしろ逆になっているのがわが国の現状だというのである。この指摘は現実を客観的に伝えるものとして、それなりに認められるものである。
 しかしそれが「核武装などに多額な国費を投入する国々に比べて、まことに羨望に堪えない」という国際児童福祉連合総会の賞賛の声につながるとは考えられないし、ましてやそれが「新しい日本人意識を培養して世代交替に備えるために努力を吝んではならない」ということになったりしては、大きな欠落だと思っていた文部行政との間があっというまに埋めたてられ、黒い手を組んで子どもたちに襲いかかってくるのはないか、と危惧せざるを得ないのだが。
 とにかく、「新しい日本人」などという前に、古い日本人のことが激しく論議されなくては、白書のもつ進歩的意義も失われてしまうのである。
 子どもの生きる権利と、生きなければならない義務との相関に疑問を抱きつつも、ぼくは白書を読んで、厚生省よ、文部省に負けるな、という感想をもった。
(1963年5月「読書新聞」)



色彩と苦悩の世界――書評『宮沢賢治童話全集』
 
 一人の児童文学志向者として、ぼくは宮沢賢治を高く評価している。日本の童話文学には旧派と新派の二つの流れがあって、巌谷小波とその一派は旧派、鈴木三重吉の『赤い鳥』以後が新派であるといったのは波多野完治だが、この新旧派の違いは歌舞伎と新派ほどの相違でしかなく、もちろんわが宮沢賢治はそのいずれにも属することなく、独自の童話世界を構築したすぐれた作家なのである。
 宮沢賢治の童話世界における独自性のなかにあって、ひときわ鮮明なのはその色彩感覚だというのがぼくの見解なのだが、このことについてはすでに『人間の科学』誌に連載され、最近単行本にまとめられた『子どもにとって美は存在するか』(誠信書房)において、かなり刻明に触れてしまった。つまりぼくは賢治の色彩感覚を、ゲーテが『色彩論』のなかで述べている「古代人は光と闇、白と黒を対極においた。かれらは、色彩がこの両者間に発生することを十分に認めた」と同様の対極意識に貫かれたものと判定したのであって、それがもっともじゅうぶんに表現されつくした作品が『銀河鉄道の夜』だというのがその論旨だったのである。
 いうまでもなく賢治の対極意識は色彩感覚だけにあらわれるものではなく、それは賢治の全論理にかかるわけで、賢治の対社会意識として著名な『農民芸術概論網要』の一節「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」というエビグラムにおいても顕著である。
 個人と世界を対置させることは常識、といってしまえばそれまでの話であって、それだけのことならば多くの児童文学者の業績のなかにもそれは散見できるわけだが、賢治の場合には、この対極のはざまに、迷いあるいは苦悩をおいた。白と黒との対極のはざまに色彩が生じたようにである。
 たとえば浜田広介の童話世界はどうだろう。作品『5ひきのやもり』の冒頭に「神はまことをみせたまう」の一行をおいたことによっても明らかなように、広介の童話世界は、唯心の論理にみちみちているかのようだ。そして一見、賢治の色彩感覚に類した設定、たとえば作品『黒いきこりと白いきこり』が存在する。
 しかし広介はその対極のはざまに色彩つまり苦悩をおことはしていない。このことによって、広介の童話世界は、唯心の論理を分析する作業を放棄して観念へと閉塞の一途をたどる。もちろんぼくはこの小さな対比だけで、広介の童話世界を全的に否定してしまうつもりは毛頭ない。賢治と対比可能な作家などめったに存在するものではないからである。
 たとえばその対比ということで、宮沢賢治発見者の一人、高村光太郎を考えてみることも、かなり重要なことではないだろうか。「川の向こう岸がにわかに赤くなりました」と書くときの色彩感覚と同様の論理で、賢治は苦悩をさまざまに形象化した。グスコーブドリが「みんなを船で帰してしまって、じぶんはひとり島に残りました」というまでに至る道程もまた苦悩の形象化なのであって、これをみるとき、「僕の前に道はない」という書き出しで『道程』という名の詩を作った高村光太郎が賢治のよき理解者であったということはけっして偶然ではなかったといえるだろう。
 「この遠い道程のため」「はぎしり燃えてゆききする」「おれはひとり修羅なのだ」という組合せは光太郎と賢治のあいだで何のとどこおりもなく完成したものだったのである。
 しかし賢治没後30年という歳月は、光太郎と賢治の組合せを本質的には解消せずにはおかなかったし、賢治童話の評価さえも狂わさせずにおかなかった。高村光太郎が国民童謡と『智恵子抄』だけで評価された時期があったように賢治もまた『雨ニモマケズ』や『グスコーブドリの伝記』の自己犠牲的心情および『風の又三郎』的郷土性でのみ評価されるに至った。そしていまもなお「銀河鉄道の夜」をはじめとする想像的童話世界は難解の一言で子どもたちのまえから遠ざけられているのだ。こうした現況のなかに、はじめて子ども向け全7巻の『宮沢賢治童話全集』(宮沢清六・堀尾青史編、岩崎書店)が出版されたのであるから、この書物の持つ意味は予想以上に大きなものがあるといわなければならない。これでもなお、子どもの興味と関心だけ注目して「宮沢賢治をいまの子どもは喜ばない」などという教師がいたら、ぼくはそれに怠慢のそしりを与えようと思う。賢治童話ぬきにして文学教育だの読書指導だのとはいってもらいたくないのである。
 書物にそくしたことを附加すると、実弟清六の「兄、賢治の一生」(第7巻)は肉親だけが書けるものとしてすぐれており、堀尾青史の解説は鋭さに欠けるが誠実で、この道での年期を感じさせるものである。しかし、附録としてつけられた「読書指導の手びき」の非文性は驚くばかりだ。賢治評価を狂わせた元凶がここにも残存していたわけである。
(1964年4月「読書新聞」)


テレビ時代の非テレビ状況―書評『テレビの児童に及ぼす影響』
 
 テレビ時代というような言葉があり、またテレビっ子というようないいかたがある。普及しはじめてからまだ十年ほどしか経っていないのに、テレビはあらゆる文化の中心に君臨しているかの観がある。とくに子どもの場合には何を問題にするにしても、テレビの影響を見逃すことができない、と思われている。
 もちろん、子どもにおけるテレビの影響を見逃すことはできないのだけれども、従来までのおとなたちの心配は、もっぱらその悪い影響からどうしたら子どもたちを守ることができるのかという点に集約的にあらわれていた。または、その集約的な苦労性的配慮をまともに受けとりすぎたがために、もはやわれわれはテレビのもたらす諸影響から子どもを守ることは不可能なのではないかという悲観的な考えかたにおちいっていた。
 しかし、実際には、テレビの子どもにおよぼす影響はそれほど悲観的なことではなく、むしろ、子どものたちに新しい思考のはぐくみを与えているのだ、それを、われわれはテレビ的思考とか映像的思考とか呼ぶことにしよう、というようないいかたが、一部の調査に基づく結論として提出されてきたのだった。そして、活字文化を中心に育てられたおとなたちとは、まったく異質の思考論理がかたちづくられつつあるといういいかたは、ある程度の納得を与えてくれた。このあたりから、「テレビの児童に及ぼす影響」の調査は、企業としても成立することが可能なほどの一般性を持ち得てきたのである。こんど、東大出版会から刊行された依田新編『テレビの児童に及ぼす影響』という本にもりこまれている諸調査も、以上述べたような背景と、それに見合う一般性を持ちあわせているといえるだろう。何もこれは、それらの調査が民放連というスポンサーつきだったからというだけで問題にしているのではなくて、調査というものには、かならずといってよいほど、そうした意図性がつきまとうものだということをいいたいわけである。
 もしもここで、だから、それらの調査は信用できないなどという人がいたら、ぼくはその人の潔癖性を嘲笑しないわけにはいかない。そうした性格を持っているからこそ、調査にはかえって信憑性があるともいえるのだ。しかしそれでは、まだまだ調査がそれ独自でひとり歩きすることができないのもまた当然のことである。現段階では、調査は個人の解説を媒体とすることによって、はじめて一般の人びとの納得するものとなる。その意味からいえば、この本もまた一つの資料なのであって、ここからただちに「テレビの児童に及ぼす影響」を心配する親たちが気を休めるような、いわゆる客観性を引きだすことはできない。むしろそうした客観性を持ちあわせているのは、テレビなどでおなじみのタレント先生たちの主観的な見解であるだろう。ぼくはこの本によって「テレビの児童に及ぼす影響」のなんたるかを知るよりも、そのなんたるかを調査する方法を知った。そしてそれは、もっと実利的には、現在ぼくとその仲間たちが執筆中の『テレビ教育法』なる新書版の内容を一般的にするための重要な参考となるだろう。
 だが、ぼく自身の個人的見解からすれば、調査は表側だけでなく、むしろその裏側について多く語ってくれるものである。たとえばこの本にもりこまれたような、おびただしいテレビの影響の裏側には、当然のこと、おびただしいテレビ以外の影響が存在するに違いないと考える。そして児童文学者としては、ぼくはもっぱらそのほうに関心をもつ。なぜならば、ぼくは児童文学というものを、マスコミに対応するミニコミの一ジャンルとして位置させているからなのだが、このへんのことは、機会を改めて述べることになるだろう。ただ、一言、かんたんにいっておくとつぎのようになる。
 児童文学の歴史は、いかに努力しようとも、しょせんは非大衆化の伝統の上にあった。その歴史を大衆社会論的な立場から否定することは、いとたやすいが、ぼくはむしろその史的事実を逆手にとることによって、いまこそ非マスコミ的な伝達媒体としての児童文学が志向されるべきだと考える。
 ある日の午後、おもてで子どもの声がする。「えんがちょ」と叫んだのは、たしかにわが家の四歳になる娘である。父親は「はてな」と思う。えんがちょなどという言葉を、子どもはいつ、どこで覚えたのだろうか。テレビのおよぼした影響でないことだけは明らかである。
 耳をすましていると、ますます非テレビ的な事態が明らかとなる。隣家の三歳児が、「タマムシよ」といって、ワラジ虫を指でつついたというのがはじまりであって、それをわが家の娘が、「その虫は、お便所のところにいる虫だ」といったところ、その場にいあわせた子どもの一人が「それなら、えんがちょ」と叫んだのだった。もちろんそのあとは、もっぱらえんがちょゴッコが展開されたわけである。
 やがて家に帰ってきた娘に、父親はえんがちょのルールを教えてやった。自分がえんがちょになったら、すぐにほかの子に「えんがちょ、つけた」をやる。そしてさらに「えんがちょ、切った」といって、両手の人差指と親指で輪を作ったものを組み合わせ、それをひっぱって切る仕草をしなければならない。本式だとその瞬間にパっと唾液を吐くのだが、まあそこまでやることはないだろうというのが、父親のルール解説なのである。
 「えんがちょ」について、ぼくはそれがテレビの影響でないことは明らかだとほとんど断言的にいってしまったが、それは子どもに教えた伝統的なルールにまでいかないと本物ではないのだ。なぜならば、それはただたんに言葉のあそびや追いかけゴッコであるだけでなく、一種の呪術的な内容と形式をもっているからである。古い時代には、呪術は一般性をもったところの、いわば文化の一形式でさえあった。だがそこでは、まだまだ呪術が非伝達的であり得る余地は残されていた。もっとわかりやすくいうと、呪術は非伝達的であるがゆえに、一般性を持ち、それゆえにこそ文化であった。
 子どもにとって、テレビは日常化された映像であり、そこで子どもは一般化されたところの諸現象を見る。そこに、非伝達的なものがまぎれ込むことはあっても、それはやすやすと見すごされていく。そうした日常のなかでは、もはや呪術的なあそびは生きのこるはすはないと思いこまれているわけだが、それがテレビによって伝達されるのでないかぎりは、つまり親から子へというような形、あるいは小集団としての子どもから子どもへというような形で語りつがれると、それらは非日常的であるがゆえに、かえって強烈に認識されるということがあり得る。
 数年前のことだが、ぼくが呼ばれて放送局の子ども番組担当者のところへいくと、そこに一枚のハリ紙があって、「婦人少年部テレビ班えんがちょグループ」と書いてあった。それからすぐに話合いがはじまり、子どものためには、どういう番組を作るべきかということになったので、ぼくが「お医者さまゴッコを楽しくするために」というような番組を作るべしと発言すると、まっさきにそっぽを向いたのが、その「えんがちょグループ」であった。そこでぼくは直感的に考えた。このひとたちはみずからを「えんがちょ」と規定することによって、自分たちの作るテレビ番組の純潔性を保っているに違いない。一般的であるためには、ある一面で非一般的である必要があるのだ、と考えた。ここで呪術が復活する。「テレビの児童に及ぼす影響」について考えるとき、そのおよばざるところにまでおもいをはせるのは、児童文学者としてやむを得ないことであると同時に、その方面のこととなると、ほとんど調査不可能だという諸事情があるからに違いない。つまり調査と記録性とは何のかかわりもないのである。このことを見逃すと、調査のアクチュアリティを過信しすぎるという過ちを犯してしまう。テレビは子どもにとっても全智全能の神ではないのだ。
(1964年7月 「図書新聞」)




あとがき

A あなたは児童文化問題の評論家ですか。
B いいえ、違います。わたしは児童文学の作家です。
A でも、この本は評論集じゃありませんか。評論集を出すほど多くの評論を書いたということは、あなたが評論家であるという証拠ではないんですか。
B 現象的には確かにその通りだと思います。しかしわたしは作家です。この道を志向してすでに12年になりますが、その間、ただの一度も、わたしは評論家になりたいなどとは考えてもみませんでした。だのに、評論といわれるような文章を多く書いてきた、ここにこそ、児童文化の特殊性があるわけです。
A そこのところを、もっとくわしく説明してください。
B まず第一に、児童文化の世界には評論家が存在しないということがあります。ということは、批評というものの重要性が認識されていないということなんですが、逆にいうと、それを認識され得るほどの評論活動がなされなかったというわけです。それでも、子どもをめぐる問題はつぎからつぎへと起きてくる。そこでは当然、子どもに関する専門家としての児童文学者の発言が求められる。そうした社会的要請に応え得る児童文学者が実に数すくないということがあります。わたしは評論家になりたいと思わないけれど、子どもについての専門家になるべきだと考えながら児童文学を勉強してきた。それがここにこうして1冊の評論集を出すことにもなったのだと考えてもらえれば結構です
A そういうあなたのことを、児童文学者たちはどうのように見ているのでしょうか。
B 児童文学者らしからぬ存在だと思っていることは確かです。一つの文章を書いても、わたしの用語法とかれらの用語法とはまったく違うのです。そのどちらが正しいかは問題外としても、わたしの書くものが、児童文学以外の場でも通用することには自身を持っています。
A 子どもについての専門家ということなんですが、それは具体的にどういうことでしょうか。
B たとえば子ども服についての意見を求められる、またあるときは、玩具についての意見を求められる、そうした場合、洋服あるいは玩具についての専門家であるところの相手側をなっとくさせるだけの論理を持っているということです。
A その論理というのは、子どもの論理ということですか。
B そうです。子どもの論理および子どもをめぐる諸条件を分析し綜合する論理です。
A 児童文学者ならば、その程度のことは自明の理というところではないんですか。あなたの意見を聞いていると、ほとんどの児童文学者には、それがわかっていないように感じられるけれど……。
B 残念ながら、それが現状です。
A その現状を変革する可能性はありませんか。
B ありません。
A 断言してしまっていいんですか。
B 断言せざるを得ないんです。ここでいささか回想的なことをいわせていただくと、いまの児童文学界で、実質的な役割をはたしているひとたちも、5、6年前までは、児童文学全体の変革を考えていて、わたしもその意味ではなかまのひとりだった。ところが現在、かつてのなかまたちは、ほとんど世襲的に児童文学界の中心に位置しつつあります。情勢はかえって悪化しています。
A もっと若い人たちはどうですか。
B だめだと思います。わたしの眼から見てさえ不勉強です。
A それじゃ、児童文学はどうなるんです。日本の子どもたちはどうなるんです。自分たちのことをほんとうの意味で真剣に考えてくれるおとなを持たないということになるんじゃありませんか。
B そうなっても、どうにか子どもは育っていくだけに、問題はますます深くなります。
A ほんとうに、どうしようもありませんか。
B どうしようもないんです。しかし、どうにかしなければならないと考えます。いまさらと思われるかも知れませんが、わたしは、児童文学の同人誌も出しはじめました。児童文学の勉強会も定期的に設営しています。
A あなたのような異端者ともつきあう人びとがいるんですね。
B わたしはその人たちを競争者だと考えています。しかもこの競争にはゴールがない。競いあうことだけ意義があるんです。この本1冊も、いわばそうした競いあいの記録だというわけです。
A この本1冊が、児童文化におよぼす影響を、どのように考えていますか。
B それは読むひとの取り組みかたしだいでしょう。それ以上のことはいえません。

1965年3月10日(父母とふたりの姉が死んだ東京大空襲から満20年)
佐野美津男

1965年4月20日 第1版発行
現代にとって児童文化とは何か 定価780円
著者 佐野美津男
発行者 竹村 一
発行所 株式会社 三一書房
    東京都千代田区神田駿河台二の九
    電話 東京(291)3131―5番
    振替 東京 84160番
    印刷所 同興印刷株式会社
    製本所 橋本製本所

テキスト化須藤清美