『児童文学セミナー』(季節社 1979)

 日本児童文学史にみる宗教の役割

 宗教を捨象して児童文学は語れない
 児童文学と宗教とを結びつけて考察するというような試みは一見、およそ今日的ではないと思えるかもしれない。現代人の大半は意識する・しないにかかわらず無宗教者なのであって、児童文学にたずさわる者といえども例外ではないだろう。
 しかしひとたび、児童文学の歴史をふりかえり、そのときどきの事象への考察をおしすすめようとするならば、宗教の問題は必ず大きな研究対象となって史的考察者の前に立ちはだかること必定なのだ。もしも宗教の問題を完全に捨象して史的考察をすすめうる者があるとしたら、その人はよほどの粗忽者か、観念的唯物論者かのいずれかであろう。あるいは両者具有の人かもしれない。
 たとえば、宮沢賢治の場合を想起してみよう。日本児童文学史上に燦然として輝くこの作家の業績を考察しようとするとき、日蓮宗信者としての生きかた、すなわち法華経思想を欠落させることなど、できうるはずがないのだ。にもかかわらず、在来の児童文学者の宮沢賢治研究の多くは宗教への考察をないがしろにしたままのものでしかなく、それらは文字どおり、仏教用語でいうところの無惨=はじを知らぬことに相当する。
 それでは若松賤子の場合はどうか。1864年(元治1)会津若松に生まれ、数え年三十三歳で世を去った若松賤子の文学活動から、プロテスタントとしての思想を除去したら、いったい何が残るか。おそらく若松賤子に関しては、1890年(明治23)八月、
<彼女はアメリカの女流作家バーネットの『リットル・ロード・フォントルロイ』を『小公子』という名で『女学雑誌』に連載しはじめたが、その細密で美しい訳筆によって、『小公子』は広く愛読されるに至った>(伊藤整著『日本文壇史』)程度の評価がせいぜいであろう。文壇史的にはこれでもいい。
 だが、児童文学史的考察をすすめるに当って、若松賤子の訳筆の冴えだけに注目してこれを評価し、史的役割については、その翌年(1891年・明治24)の巌谷小波作『こがね丸』についてのみ、“近代児童文学の生誕”だの“日本児童文学史上最初の創作”だなどの賛辞を呈しているのは、明らかな錯誤なのだ。錯誤は可及的速やかに是正されなければならない。すなわち若松賤子におけるプロテスタント思想を改めて考察する必要がある。
 教育評論家としての立場から児童文学史についてもかずかずの言及をしている滑川道夫は、つぎのような文章を書いて自らの客観的な史観を明らかにしている。党利党略にあけくれ、教条的政治主義だけが歴史を領導してきたと観念的に思いこんでいるような人びとよりはよほど誠実であることは確かだ。
 <明治期の日本児童文学において、キリスト教宣教師が果たした役割は高く評価されなければならない。明治十年にマリニエール女史と田村直臣らが子ども新聞『よろこびのおとずれ』を創刊し、近代化の啓蒙に努力したが、島崎藤村が受洗した明治十八年に、キリスト者巌本善治が『女学雑誌』を創刊した。善治夫人若松賤子の言文一致の名訳『小公子』(明治23〜25年)が連載されたし……>(『作品による日本児童文学史』第一巻解説、牧書店刊)
 しかしこの誠実な教育的児童文学史家もまた、すこぶる一般的にマリニエール(比屋根安定編『新・キリスト教辞典』によれば、マリニールであり、創刊した「日本における児童文学雑誌の最初」の誌名も『喜のおとずれ』である)も田村直臣も、そして巌本善治・若松賤子もおしなべて<キリスト教宣教師>あるいは<キリスト者>ということで概括してしまっている。これは間違いではないけれど、史的考察者としては慎重さに欠ける行為といわねばならない。このような慎重さを欠いた概括のなかからは、それではなぜ、若松賤子が『小公子』を翻訳したのかという最も重要な問題が峻別されうるはずがないからだ。
 なぜ、若松賤子は『小公子』を翻訳したのか。この問いに対する最も適切な答えは、“それは彼女がプロテスタントだったからだ”以外には見当らないというのが、わたしのかねてからの考えである。以下、その理由を記述することによって「日本児童文学史にみる宗教の役割」という表題にふさわしい文章の構築作業としよう。
 周知のように、日本におけるキリスト教は、カソリック(旧教)、聖公会(イギリス国教会)、プロテスタント(新教)の三系列に大別できるが、明治期においてめざましい活躍をなしとげたキリスト教徒のほとんどはプロテスタントであった。なにゆえにそうなったのかの宗教史的な考察は斯界の専門家にまかせるけれども、ごく単純に考えてもわかることは、それらプロテスタントの大半が、明治維新期にいわゆる官軍の側ではなかった諸藩の出身者であることによって、明治の藩閥政治とは心情的にも対立せざるをえない立場、すなわちそれなりの進歩性をもっていたということである。江戸出身の内村鑑三がプロテスタントとなり、やがて不敬事件を惹起する道程は、明治期プロテスタントの典型的事象であった。そして若松賤子の場合には、より鮮明に藩閥政治の埓外者としての心情が現象し、『小公子』の翻訳へとつながっていくのだ。

 若松賤子におけるプロテスタント思想
 若松賤子の本名は松川甲子、通称が島田嘉志、結婚して巌本姓となる。その彼女が若松賤子なる筆名を考えついたとき、すでに明治体制への不順応は明らかである。彼女の出身地会津若松は、錦旗に弓ひく賊軍の城下として最もひどい報復を薩長によって加えられたところであった。維新後、会津の人びとの受けた権力による有形無形の差別は、想像をはるかに超えて苛酷であり、そこに生まれた怨念は長く、さまざまなかたちで現象したのだ。(会津出身の野口英世が学園の外で医学を学び、異国での研究成果によって世界的名声をかちえたのは、生家の貧困だけが理由ではなかった。会津人としての心情の働きをこそあわせ考えるべきなのだ)
 賊軍の地・若松に生まれた賤の子と自ら名のったプロテスタントは、得意の語学を駆使しての訳業をすすめるに当って、近代児童文学の先駆的役割をはたし市民文学の成果として定評のあるイギリスファンタジーをえらばずに、アメリカの作家フランシス・ホジソン・バーネットの作品を対象とした。これは若松賤子のキリスト教徒としての立場からみて、聖公会の国イギリスよりもプロテスタントの国アメリカのほうをえらぶのが当然だとだけいってすまされる問題ではない。それだけならば、日本児童文学史にかかわる事象として考察するには当たらないのだ。問題は『小公子』の内容である。
 簡明にいい切るならば『小公子』はアメリカ的民主主義がイギリス的貴族主義を圧倒する様相を描いた作品であるだろう。『小公子』訳出のとき若松賤子は序文を書き、そのなかで、子どもを<濁世の蓮花、家庭の天使>と評価し、<私は深く幼子を愛し、其恩を思ふ者だ>と主張した。これが新約聖書マタイ伝第十八章・マルコ伝第九章・ルカ伝第九章辺りにキリストの言葉として伝えられている“子ども評価”に依拠していることは指摘するまでもあるまい。けれどこれは単に聖書の教訓であるばかりでなく、ホイットマンの『草の葉』に象徴されるアメリカ民衆の楽天的な心情の謂でもあったのだ。
 藩閥政治の埓外にあることを強く意識するならば、当然のことその心情は民衆の側に収斂されて行く。ましてや時代は明治、薩長の藩閥につらなる連中がたがいに自己の勲功をいいたてて、爵位をほしいままにし、伊藤博文などは従一位公爵そして貴族院議長にまでなりあがったのだ。そうした薩長の政治家・官僚たちの貴族主義と、セドリックの祖父ドリンコート侯爵に象徴されるイギリス貴族主義とを同一視することはできないけれども、プロテスタント若松賤子にとって好ましからざるを存在であることには変りがない。このあたりの、若松賤子の貴族にたいする感情を知るには『小公子』以上に、短篇創作「おもひで」が便利である。
 <お城は御維新のあとでお取崩しになって><常にひっそりとしている市中>だが、かつての城主は従四位子爵となっている。その殿様の一方的な恋慕によって強引に妻とされた女の、先夫とのあいだの子を主人公とした「おもひで」には、貴族への憎悪がみちみちている。しかも女は熱烈なキリスト者として死んで行く。そしてその子は、船乗りとして「清い勇ましい人物」を志向するのだ。この作品に比較するならば、巌谷小波の『こがね丸』などは、およそ文学とは思えないほどに、表現・内容ともに低劣である。にもかかわらず『こがね丸』が、史上初の創作童話ということになったのは、ひとえに巌谷小波のその後の体制順応的活動ゆえである。
 体制順応ゆえに巌谷小波が高い評価を与えられ、若松賤子は、プロテスタント思想を貫徹したゆえに、『小公子』の訳業評価されるにとどまっているのがほとんどの児童文学史にみる傾向である。これはつまるところプロテスタント思想をはじめとする宗教の役割への考察をないがしろにしたからなのだが、単純にその原因を宗教にたいする無知ということで素通りさせることは許されない。若松賤子の場合のプロテスタンティズム、宮沢賢治の場合の法華経思想は、ともにその時代の政治思想および政治権力の下僕と化した既成宗教への抵抗という革新性をはらみ、その思想の文学的純化は、人間の自由の問題にたいする真摯な追求であった。
 若松賤子による『小公子』訳出の1890年に忠君愛国思想の権化ともいうべき教育勅語が発布され、その翌年にあの儒学思想にみちみちた『こがね丸』が出版されたという情況をおもうならば『小公子』および「おもひで」の基調であるところのプロテスタンティズムについての考察は、決してないがしろにできる事柄ではあるまい。宮沢賢治の場合にも、その宗教的文学行動の背景には、ファシズムの台頭という非人間的情況の進捗があったのだ。

 宮沢賢治における宗教の問題
 宮沢賢治の児童文学作品の多くは、死後に発表されている。「賢治略年譜」(新潮文庫版『風の又三郎』その他)によれば、宮沢賢治の死は、1933年(昭和8)9月21日午後1時30分である。享年37歳、同月5日に死んだ児童文学界の長老巌谷小波からみれば、29歳も年下の<きわめて早かった>(古谷綱武)死であった。
 しかし宮沢賢治没後の時代動向を概観するならば、いちがいに賢治の夭折を嘆くには当らない。あえて宮沢賢治をひとりの児童文学者としてのみ考察した場合、あれ以上の長生きは無用だというおもいをわたしは抑えることができないのだ。宮沢賢治は、あの、大正デモクラシーからプロレタリア運動を経てファシズムの台頭に至る激動の時代に童話あるいは「少年小説」(カッコつきでいうのは、宮沢賢治の思いこみにしかすぎない分類法だからである)を書き、1933年に37歳で死んだからこそ、日本児童文学史上に異色の地歩を確保することが可能だったのである。
 もしも宮沢賢治が37歳で夭折することなく生き、しかも児童文学者であり続けたとしたら、その後半の生涯は、戦争協力の汚点はもちろんのこと、戦後民主主義に対する手放しの賛美等を含めた際限なき体制追随の薄汚れた軌跡に終始したに違いない。私は宮沢賢治が書き遺した児童文学作品および詩篇の数かずを、こよなく愛する者のひとりであるが、賢治生前の足跡を考察すればするほど、1933年の死を悼む気持になれない。あえて単純明解に形容してしまうならば、宮沢賢治は、法華経信者としては稀有な、政治的方向性(ポリシィ)を持たない存在であった。
 「予言者の仏教」(『日本の仏教』第十三巻、筑摩書房刊)において著者田村芳朗は、宮沢賢治の信仰を次のように分類した。
 <明治以降においては、日蓮信奉のありかたに三つの型が考えられる。一つは高山樗牛や宮沢賢治のごとく、国家の制約を超越した普遍的個に立っての信奉、あるいは日蓮・法華をとおしての宇宙実相論の信仰、いま一つは国家主義の台頭にともなって日蓮にその支柱を求めた国家主義的日蓮信奉、さらにもう一つ、新宗教運動の中に包括される民衆を中心とした信仰の型がある>
 確かに宮沢賢治には“普遍的個”(いいかえれば近代的自我)の心情があり、さらにはコスモポリタンへの志向さえ内包していた。エスペラント語を学び、自らの作品群を<イーハトーヴ童話>と名づけたあたりの嗜好は到底、国家主義的ではなりえない。それらのことをあまりにも過大に評価してしまうと、<これは仏教ばかりではなく、キリスト教の『愛』の精神にも通じるし、宗教一般の教理でもある>(巽聖歌)というようなことになってしまう。俗にいうなら、これはひいきのひき倒しであって、法華経普及のためには親とも激しくたたかった宮沢賢治の信仰をないがしろにしている。“宗教一般の教理”などと不明確なことはいわないほうがいいのだ。宮沢賢治は確実に法華経信者だったのだから。
 だが、法華経信者のなかに宮沢賢治のような存在が許容されたのは、せいぜい賢治没後の1933年ごろまでのことであって、その後の時代動向のなかで日蓮宗徒はすこぶる右翼的に体制化する。
 <日中戦争から太平洋戦争にいたるまで、憂国の士、軍国主義者、一部のテロリストなどが日蓮を信奉し、日蓮の言説を、かれらの運動のエネルギーとした>(前掲書・田村芳朗)ときには、新宗教運動としての日蓮宗までが弾圧されたのだ。(創価学会の戸田城聖も特高警察によって逮捕されている。)宮沢賢治のような“国家の制約を超越した”かたちの信仰が許容されようはずはない。生き続けていたら、賢治もまた政治的方向性についての決断を迫られていたに違いない。そのとき賢治は、かつての<不受不施派>の如きかたくなな不服従の心情をもって日蓮の精神の継承に徹したであろうか。客観的にいって、まずはほとんど、その見込みはなかった。
 ここに一通の手紙がある。宮沢賢治が友人の関徳弥にあてたもので、1921年(大正10)<遂に家を離れて上京>信仰一途の生活を決意したときの事情と行動がしるされているのだ。これを読むと宮沢賢治における“普遍的個”や“国家制約の超越”さらにはエスペランチストとしてのありかたは、確乎たる政治的方向性に裏打ちされたものではないこと、一目瞭然である。
 上京して賢治は何をしたか。<上野へ着いてすぐ国柱会へ行きました>。これは当然だろう。田中智学の国柱会に賢治は信者として属していた。しかし第二日には仕事はとにかく明治神宮に参拝しました」なのだ。三日目には<小さな出版所>に就職する。同僚は<大抵は立派な過激派ばかり。主人一人が利害打算の帝国主義者です。後者の如きは主義の点では過激派よりももっと悪い。田中大先生の国家がもしもこんなものならもう七里けっぱい御免を蒙ってしまふ所です>というわけで、宮沢賢治の精神構造における対政治部分にはいささかの方向性も見当らない。これではあの時代のファシズムの嵐に抗しきれるはずがないだろう。宮沢賢治は軍国主義の泥靴に蹂躙される直前に死に、死後に発表された作品の数かずは、政治的方向性を持たないゆえに一種のリベラリズム的雰囲気をかもしだし、暗い時代のカタルシス(浄化作用)文学として広く愛読されたわけである。

 芸術伝道への出発=「銀河鉄道の夜」
 宮沢賢治の児童文学作品が、日本児童文学史上に果した役割のおおよそは右にしるしたことで敷衍しえたと思うのだが、それだけでは、宮沢賢治について語ったことにはならない。若松賤子の場合と異なり、宮沢賢治の作品はいまなお多くの人びとに読まれ続けているからである。もちろんいまもなお、賢治童話はカタルシス文学としての役割を負わされている事実は否定できない。だがそれだけでは片づけられない今日的要素に満ちていることも事実なのだ。たとえばそれをわたしは「銀河鉄道の夜」に認める。
 宮沢賢治は児童文学創作の動機を<国柱会の高知尾智耀氏の奨めもあり、文芸に依り大乗教典の真意を拡めんことを決意す>(略年譜)というあたりに置いている。これは法華経方便品の一節に、
 <乃至童子ノ戯ニ、若シ草木及ビ筆、或ハ指ノ爪甲ヲ以テ、画イテ仏像ヲ作セル、是ノ如キ諸人等、漸々ニ功徳ヲ積ミ、大悲心ヲ具足シテ、皆己ニ仏道ヲ成ジテ、但諸ノ菩薩ヲ化シ、無量ノ衆ヲ度脱シキ>うんぬんとあるのを“芸術伝道”の教えと解したからに違いない。そして宮沢賢治は「銀河鉄道の夜」において、芸術伝道の可能性そのものを追求したのである。
 カンパネルラとジョバンニは<無明>から出発する銀河鉄道という名の輪廻の車に乗せられて、十二因縁の人間的実存を探求する旅に出た。その車窓から見るもの、そして耳にするものは、数かずの芸術である。
 <するとどこかでふしぎな声が、銀河ステーション、銀河ステーションと言う声がしたかと思うと、いきなり目の前が、ぱっと明るくなって、まるで億万のほたる烏賊の火を一ぺんに化石させて、そらじゅうに沈めたというぐあい、またダイアモンド会社で、ねだんがやすくならないために、わざと獲れないふりをしてかくしておいた金剛石を、だれかがいきなりひっくりかえしてばらまいたというふうに、目の前がさあっと明るくなって、ジョバンニは思わず何べんも目をこすってしまいました>
 この部分でさえ、けっして単なる風景描写ではありえない。賢治はジョバンニに美的衝撃を与えて、その目から日常のうつばりをまず取り除かせたのだ。このことによって、ジョバンニの活動は生活(行)から精神(識)へと移行した。この過程をぬきにしては芸術への理解は成立しない。芸術を生活活動のレベルで消化させようという試みは結局、俗流大衆路線にすぎないという教訓なら芸術史・文学史のなかにおびただしくころがっている。過去の社会主義リアリズム論の過誤もまたその点に集約されているではないか。
 宮沢賢治は作品そのものを、自らの法華経的文学方法論の具象化とした。方法をもちこんだだけではなく、作品を方法論そのものとした点において「銀河鉄道の夜」はすこぶる実験的な意欲あふれる作品になりえたのである。しかも賢治が試みた実験は、多くの人びとが精神活動の領域でつねづね試行錯誤を、意識する・しないにかかわらず重ね続けている事柄なのだ。すなわち、人間は、美しいものを求め続けることによって救われるであろうかという真摯な問いかえしである。もちろん賢治は、救われると答えたかったであろう。だが賢治は答えてはいない。<なつかしい星めぐりの歌を>ジョバンニが<うっとりきき入っておりました>というところで「銀河鉄道の夜}の筆はとまっている。ここに文学の、文学者宮沢賢治の限界がある。宮沢賢治が職業的宗教家であったならば、なんらためらうことなもなく、ジョバンニにおける救われの具現を書きあらわしたであろうが、賢治は遂にそれをしなかった。賢治は文学者でありすぎたのだ。限界というのは、そのような意味をこめての表現である。
 現代社会において宗教はほとんどの場合、生活活動のレベルに堕ちている。従って精神活動を基調とする芸術性(美的追求)はほとんど見当らない。その一つの証拠として多くの宗教団体の政治的方向性の明確さをあげることができる。政治的方向性を突っ走るために宗教団体を偽装するものさえある仕末だ。このような時代動向のなかでは、宮沢賢治が持ちえていた一種の混沌がまたぞろ光芒を放つ可能性がある。それをどう受けとめるべきか、せめて児童文学の面でぐらいは明確にしておいたほうがいいとわたしは考え続けているのだが。
テキストファイル化塩野裕子