怪物のマーチ

佐野美津男・ぶん
山口みねやす・え


白い動物たち

 小児病院前という停留所でバスを降りると、すぐ目の前に白い二階建ての建物があり、玄関前の芝生の庭に白セメント製のキリンやゾウが置いてあった。
 あんなもので子どもを喜ばせようとしているのか、とキミは思った。あんなものがあっても、注射の痛さや薬のにがさが半分になるわけじゃない。あんなの、ごまかしだ。
 キミは皮肉っぽい目で白い動物たちを見た。リスがゾウよりも大きいのも気にくわない。
 受付の前に長いすが並べてある。すばやく数えたら長いすは六つ。ひとつに八人はすわれると思う。
 そのときすわっていたのは、ほとんどが母親に連れられている子どもたちで、キミよりずっと年下だ。母と子合わせて三十人ぐらいが順番を待っていた。
「順番がきたら、お名前をお呼びします」
 白い上っぱりを着た若い女の人が母親にいった。どの母親も同じことをいわれたのだろう。若い女の声は、いかにもいいなれているという感じだった。
 キミも長いすに腰をおろした。隣にいた女の子がキミの顔を見あげたので見かえすと、その子は片目だった。
 左の目をつむったままなのだ。どうしたんだろう。けがでもして、つぶれたのだろうか。キミが考えながら女の子の顔をみつめていたら、その子の隣の女のひとがキミにいった。
「変でしょう、この子。ひとを見るときに片目をつむってしまうんです。ふだんはちゃんと両目でものを見ているのに、ひとの顔を見るときになると、片目しか使わないんですよ」
 キミはだまって女の子の顔を見つづけていた。左目のまぶたがぴくぴく動いている。まるでなにかをうったえたがっているようだ。目というよりは、もうひとつの口のように感じられる。
「それは、やはり、神経的なものなのでしょうか」
 キミの母親が女の子の母親にたずねた。
「はい、目そのものは悪くないそうです。眼科のお医者さまがそうおっしゃって、自閉症の一種だろうとのことでした。そしてこの病院を紹介してくださったのです。来年から学校ですから、いまのうちに直していただこうと思いまして」
「そうですかあ。それは大変ですね。ほんとうに子どもの神経って、ずいぶんおそろしいものですわねえ」
 キミの母親はいたいたしそうに女の子を見た。こんどは逆に女の子の母親がキミの母親に質問した。きたきた、やっぱり、とキミは思う。
「お宅のお坊ちゃまも、なにか」
 お坊ちゃま、か。ずいぶん上品ぶってるなあ。母親が上品すぎるから、子どもがはずかしがって、片目つむりになったのかもしれないよ、と心のなかでいう。
「この子は、成長がとまってるんです。三年生の二学期のときから、いま五年生なんですけど、身長も体重もぜんぜん変わらないんですよ。かかりつけのお医者さまは肉体的な欠陥は見当たらないとおっしゃってます。そしておそらくは神経的なものだろうからと、この病院をご紹介くださったのです」
 片目つむりの女の子の母親は、じっとキミの顔をみつめ、さらに全身をながめまわしてから、
「なるほどねえ。三年生のときからねえ。ずいぶんお元気そうなのにねえ」
 なにが、なるほどだ。もちろん元気だよ。おれは病気なんかじゃないからね。キミはそういってやりたかった。でもいわないで、キミはもう一度、女の子の顔を見た。そしてゆっくり笑いかけてやったのだ。
 すると、女の子の左目のまぶたのぴくぴく動きが激しくなった。目をあけようと努力しているらしい。
 あけろ、あけろ、あけておれをちゃんと見てごらん。さあ、早く。
 キミが真剣な顔つきになって、笑いをひっこめてしまったので、女の子の左まぶたの動きもとまった。ぴたりと閉じた貝がらのようだ。そして女の子はぷいと正面を向き、二度とキミのほうを見ようとはしなかった。

 壁も天井も白かった。リノリュームの床はあわい緑色で、サッシの窓も大きく、しかも窓の向こうにこんもりとしげった木があるため、へや全体が明るかった。
 病院という感じの道具は置いていない。消毒薬のにおいもしない。
 へやのほぼ中央のひじかけいすに腰かけている男の人は四十歳ぐらいだと思う。キミの父親と同じくらいの年齢だ。医者なのに白い上っぱりも着ていない。紺地に細く白いたてじまのはいったスーツを着ている。ライトブルーのワイシャツに赤がほとんどのネクタイ。テレビのCMに出ても通用するくらい、きちんとした服装である。でもキミが好きな服装ではない。
「すわりなさい」
 医者はいった。母親は壁ぎわの長いすをすすめられた。
 キミがすわったのは、白いカバーのかけてある回転イスで、とてもすわりごこちがいい。ぐるぐると回ってみたくなる。
 もしも、ここにおれひとりだったら、どんどんスピードをつけて回ってやるんだけどな。いつか、ここへしのびこんでやろうかな。うちの勉強机についている回転いすなんて、まるでスピードが出ないんだからやんなっちゃう。値段も違うんだろうな。こっちはかなり高そうだ。キミは尻をもぞもぞさせた。
「気持を楽にして、こちらのいうことに答えてほしい。答えたくなければ、答えなくてもいいよ」
「はい」
とキミはうなずいた。
「きみは五年生だそうだが、学校の勉強のことが気になるかい」
「なりません」
 気にしたくないのだ。キミのまわりには気にしてるのがたくさんいる。
「きみは勉強でひとに負けたくないとは思わないのか」
 キミは答えなかった。負けたくはないけれど、勝ちたいとも思わないからだ。
「きみは学校がきらいなのか」
「学校が好きなひとっているんですか」
 母親が、まあという声をあげた。まるで悲鳴のようだった。
 医者はにが笑いして、母親をなだめるように手をふった。ここでキミはちょっと調子にのりすぎた。
「だれだってきらいでしょ、学校なんか」
といったのだ。医者は笑いをひっこめた。
「こちらの質問にだけ答えなさい。余計なことをいうんじゃない」
 さらに医者はキミにいった。
「ようするに、きみは自信がないんだね。自信があれば学校だって好きになれる。五年生というのは、その意味でむずかしい」
 このあたりからは母親へのことばだ。
「自信のある子はぐうんと伸びるんです。肉体的にも精神的にも。野球のようなスポーツなら、普通のおとなといっしょにやれるようにもなる。夜おそくまで起きていることもできる。そのために病気になりやすいのもこの時期です。しかし、この子のように自信がなくてはねえ」
 キミはいってやりたかった。自信って、やっぱり勉強のことでしょう。それなら、なくもないですよ。でも、どうして勉強しなければいけないのか、おれにはわからない。だれもちゃんと教えてくれない。やる理由がわからないことを、おれはやりたくないのです。
「とにかく」
と医者はいった。
「きみのような患者はめずらしい。完全に成長が停止している。からだが縮むという病気はあるけれど、この年齢で成長がとまるのはおかしい。きみはめずらしい患者だ」
 結局、その日の診断はそれしか進まなかった。医者はキミに、
「今度からは、ひとりできなさい」
といい、母親には、
「当分、ようすをみることにしましょう。かなりかたくななところのあるお子さんです。原因さえつかめれば、ふたたび成長するでしょう」
といった。

 病院から帰るとすぐに、キミは郵便局へ行って、貯金をおろした。全部おろしたかったけれど、それは手続きがめんどうなので、十円だけ残した。
 日曜大工の店へ行き、スプレー式のペイント(塗料)を買った。青と赤と黒を一個ずつである。
「なにに使うの」
と店のひとに聞かれたので、
「おとうさんが使うんだから、わからない」
とキミは答えた。ほんとうの目的をいったらおどろくだろう。
 キミは小児病院玄関前の、白いセメント製の動物たちに色をぬろうと考えたのだ。
 あの医者の口ぶりからすれば、これから先、何回も、小児病院へ行くことになる。そのうち回転いすを回すチャンスにもめぐりあえると思うけど、どうにも白い動物たちが気にかかる。はっきりいって気にいらない。だから、色を吹きかけてやろうと考えたのである。
 これはおもしろいことだから、だれかをさそってやろうと、キミは思った。
 紙袋に入れたスプレー式ペイントを持ったまま、キミはケンの家へ行った。ケンとキミは幼稚園からずっと同じクラスだ。何回も組みがえがあったのに、ふたりははなれない。もちろん偶然にきまっているけど、なんとなくふしぎな気がする、でもケンはキミとはちがって背も高くなり、体重もふえている。
 母親はいつもケンと比較しては、キミのことをなげくのだ。
 犬がいる。白い秋田犬である。全身が白い。名まえは秀麗号。しかしケンはオイとしか呼ばない。三年生のとき、
「おまえんちの犬は、おもしろい犬だな」
とキミがいったら、ケンはむっとなった。
「これはおまえ、血統書つきの秋田犬なんだぞ。へんなことをいうな」
「ばかだなあ、おまえは。おれはこの犬は、尾も白い、シッポも白いといったんじゃないか」
「なんだ、そうか」
 ケンは顔を赤くして、秀麗号の頭をぽんぽんたたいていた。冗談がつうじないくらいだから、ケンは勉強がよくできる。キミにも、いっしょに勉強しようとさそってくれるのだが、キミはことわりつづけている。キミの母親が、ケンにたのんで、勉強させようとしているらしいのだ。その気配がおもしろくない。
「おまえ、あしたの朝早く、おれとつきあえよ」
 キミがいうと、ケンは首をひねりながら、
「あしたは休みじゃないぞ。学校があるじゃないか」
といった。
「だからさ、朝早くだよ。ほら、ずっと前、カブト虫をとりに朝早く起きたことがあるだろ。あれくらい早くだ」
「あんなの子どものときじゃないか。いまはそんな」
「朝早くは起きられないのかよ。たまには起きてみろよ。朝は気持がいいんだから」
「朝早くから、なにをするんだ。まさか、カブト虫とりじゃないだろ」
「いまごろカブト虫がいるもんか。動物狩りだよ。サハリっていうのかな。ゾウやキリンをつかまえる。でっかいリスもいるんだぜ。へんなリスでさあ、ゾウより大きいんだ。いや、もしかすると、ゾウのほうがおかしいのかな。リスより小さいんだから」
 考えるキミをケンは悲しそうな目でみつめていた。とうとう友だちのキミが、精神異常かなにかになってしまったと思ったのだろう。無理もない。アフリカでもないのに、朝早く起きて動物狩りに行こうなどとキミがいったのだから。
「行くか行かないか、早くきめろよ」
「もちろん、行かない。そしておまえにも行かせない」
「おれは行くさ。ぜったいに行く」
 キミはそういって、くるりとケンに背中を向けた。
「だめだよ。へんなところへ行っちゃだめだ。ちゃんと学校へ行こう」
 ケンはキミにとびかかってきてはがいじめにした。すごいちからだ。さすがは五年生。三年生のままのキミとは違う。
「はなしてくれ。おまえのいうこときくよ」
 ケンは力をぬかない。
「ほんとに行かないか、約束できるか」
「行かない。約束する。ほんとだ」
「よし」
 ほっとしてキミがケンを見ると、ケンの目に涙が光っている。いいやつなのだ。おれのことを心配してくれている。こんないい同級生がいるのに、おれは成長するのをやめている。成長しようかな。だめだ、だめだ。おれは成長停止をつづけるのだ。そのためにも、あの病院の白い動物たちに色をぬらなければならない。おれはひとりで動物狩りにいこう。
 キミはだまって歩きだした。ケンもだまって見送ってくれた。
 電柱のかげから、ハルが出てきた。ケンの弟の三年生で、キミより背が低い。そのハルが道ばたの小石をぽんと右足でけってからキミにいった。
「ほんとはさあ、兄貴とはちがうからさあ、動物狩りに行きたいんだけどね」
「なんだ、おれたちの話、聞いてたのかよ」
「聞こえたんだよ。ぼく、犬小屋のうしろでまんが見てたから」
「犬小屋のうしろって、物置だろ」
「うん。物置の屋根の上さ。だれにも見つからない、ぼくだけの場所さ。うちはまんがにうるさいからね。時代おくれなんだよ」
 とたんにキミはハルに好感を持つ。兄のケンとばかりつきあっていたのでいままで気づかなかったけど、キミと気があいそうなやつがいたのだ。
「動物狩りっていったってほんものじゃないんだぜ」
 キミはハルに説明しようとした。それをハルがとめた。
「いいよ、説明なんかしてくれなくても。ぼくはいっしょに行くってきめたんだから、なんでもいいんだ。待ちあわせの場所と時間と、持っていくものだけを教えてよ」
「よし」
 キミははっきりうなずいた。ハルにはすてきな精神がある。そうだ、心意気というやつだ。心意気のハル。こいつは大切にしよう。キミは場所と時間をきめた。
「持っていくものはない。でも、自転車に乗ってきてくれ。朝早いから、まだバスは走っていないと思うんだ。それに自転車ならカネもかからないし」
「わかった。おたがいに、これだね」
 ハルは右の人差指をたてて、くちびるに当てた。だれにもだまっていようというわけだ。
 キミも人差指をくちびるに。それから次にその指を水平にからだの横へさっと伸ばした。これがキミとハルとの<あいさつ>に決定する。

 キミは母親にいった。
「あしたから野球部の朝練習がある。五時に集合なんだ」
「あんた、いつから野球部にはいったの」
「だから、あしたからだよ。だめなの」
「だめじゃないけど」
「そんなら、いいじゃないか」
 テレビをみながら父親がいった。
「やれよ、野球ぐらい。野球でもやれば、また成長がはじまるかもしれない」
「だったら、いいけど」
 母親は気がなさそうにいう。病院の医者がキミの自信のなさを問題にしたので、母親はキミが野球をやりつづけないだろうと思っているらしい。確かにそれは正しい。なにしろ、キミには、野球をやる気などぜんぜんないのだ。
「道具はあるのか」
と父親にきかれた。
「まだいいんだ。当分は球拾いなんだって」
「そうか、しばらくは補欠だな。いや、補欠の補欠かな。まあ、がんばれや」
 母親にくらべると、父親はキミの成長停止をあまり気にしていない。なぜだろう。子どもを愛していないのだろうか。このことは、おれの宿題だな、とキミは思った。
 寝る前に歯をみがき、顔の下半分だけさっと洗って鏡を見た。
 病院の受付の前の長いすにすわっていた、片目つむりの女の子のことを思いだした。あいつ、鏡で自分を見るときにはどうするんだろう。両目をあいているのかな。
 キミは左目をつむってみた。そのうちきっと、あいつに両目を使わせて、おれの顔を見させてやるんだ。キミは、自分で自分の考えにびっくりした。なんで、あんな、ちょっとあっただけの片目つむりのことが気になるのだろうか。あんなの、気にすることはない。
 それでもキミは、しばらくのあいだ、片目つむりのまま、鏡のなかの自分の顔をみつめていたのだ。


赤いゾウの絵本

 こんなに朝早く起きたのは、キミにとって二回めのことだ。
 いや、違う。朝早く起きたことは何回もあるけれど、家の外に出るのは二回めなのだ。一回めは、まだ一年生のときで、夏休みに茨城の海へ両親に連れられて行ったのである。
 前の日の午後まで、台風のためにひどい雨風だったので、もう海へは行けないとあきらめていたのに、夜になると空が急に晴れあがり、信じられないほどたくさんの星が光った。
 トイレの窓から星を見たキミが、父親にそれを伝えると、父親はわざわざ玄関から外へ出て夜空を仰ぎ見た。
そして、きっぱりといった。
「よし、行くぞ。あしたの始発電車で、茨城の海へ行くのだ」
 母親は、茨城の海は太平洋だから、まだ波が高いとか、朝早いのはたいへんだとか、いろいろ文句をいったけれど、父親はがんとしてゆずらなかった。
 キミは自分の主張をおし通した父親と、夜空に輝くたくさんの星とをいっしょに見て、おとうさんはすばらしいと思ったのを覚えている。
 あれからもう四年もたった。このごろでは、父親をすばらしいと思うことはほとんどない。夜空の星もたまにちらちらと光るだけだ。キミはさみしさを感じながら、ハルとの約束の場所へ、自転車をゆっくりこいで行ったのである。
 パトカーのサイレンが聞こえた。かなり遠くだが、近づいてくる。
 もしも警官に、いまごろどこへ行くのかと質問されたら、「新聞配達です」と答えるつもりだった。そういうことぐらいは、ちゃんと考えていたのだが、パトカーはとちゅうで、道を曲がってしまったらしい。
 ななめになる感じで、パトカーは遠ざかっていった。やっぱりキミはほっとする。
 待ちあわせの場所は、郵便局の前である。郵便局といっても、大きな本局ではなくて、普通の商店のように個人が経営している特定郵便局≠ネのだ。
 それでも郵便局には違いないので、記念切手が売りだされる日には、朝早くから行列ができる。そういう話を切手マニアのだれかに聞かされていたので、キミは郵便局前を待ち合わせの場所にきめた。こういうところも、まさにキミは計画的であった。

 その朝、記念切手の発売はなかったらしい。郵便局の前にはだれもいなかった。
 まだ夜明け前の風に、郵便ポストの差入口の金属製のフタがゆれて、小さな音をたてていた。もちろん、ポストの差入口のフタが風に鳴るなんて、キミははじめて知ったのだ。
 キミは大いに満足した。ポストのフタの音をキミは好きになったからだ。もうこれだけでも、朝早く起きた値打ちがあると思った。
 ハルがやってきた。約束の時間におくれたのではない。キミが早すぎたのである。
「ぼく、まさかおくれたわけじゃないだろう」
 ハルはまずそうにいった。
「ああ」とキミがうなずくと、ハルはにこりと笑って自転車を降りた。
 そこではじめて、キミは気がついた。
 なんと、ハルが乗ってきた自転車は前が一輪、うしろが二輪の三輪車であって、しかもうしろの荷台には、秋田県の秀麗号がすわっているではないか。
「おい、おまえ、犬なんか連れてきたのか。変なことするなあ」
「仕方がないよ」
 ハルは秀麗号の白いあたまをなぜながらいった。
「ぼくは、こいつの散歩係を志願して、こんなに朝早く家を出ることに成功したんだもん。仕方ないじゃないか。いけないのか」
「もちろん、いいさ」
 キミはハルがますます気にいった。すばらしい頭の回転だ。犬の散歩係か。
 近づいて、キミも秀麗号のあたまをなぜた。秀麗号はうれしがって、キミの手をべろべろなめた。キミはハルにいった。
「おまえ、先に行けよ。犬がとびおりたりしたら困るだろ」
「うん、そうする」
 ハルは右の人差指を立てて、くちびるに当てた。次にその指を水平に、からだの横へさっと伸ばした。<あいさつ>だ。
もちろんキミも<あいさつ>を返す。そしてたがいににっこりする。なんというすばらしさだろう。
 ふたりを照らしている街燈の光が、ひときわ明るくなった感じだ。
 キミは自転車にまたがり、ちから強くペダルをふみだした。そのすぐ前を、ハルの三輪車が走っている。
 うしろの荷台の秀麗号の白い毛なみが、まだ明けやらぬ朝の空気のなかで、あざやかに見える。
 動物狩りに行くのだから、犬を連れているのがほんどうなのだ。ハルが秀麗号を連れてきてくれたのは、とってもよかった。
 きっと、すばらしい動物狩りになるぞ。

 途中、道路工事をしているところがった。キミたちは自転車だから、通れないことはないのだけれど、回り道と書いてある立札のとおりに遠回りした。それでも考えていたよりもずっと短い時間で、小児病院前に着いた。まだ、あたりはうす暗い。
 キミたちは相談して、自転車を病院から三十メートルほどはなれた空地に置いておくことにした。万一の場合の用心である。もしかしたら、自転車をとりにもどれなくなるかもしれない。そういうとき、病院の前に自転車があったりすれば、発見され没収されてしまうだろう。
 自転車には住所氏名が書いてある。たちまち身もとがわかってしまう。ヤバイのだ。
 荷台からおろされた秀麗号は、四本足でふんばり立ち、全身をぶるぶるとふるわせた。からだが水でぬれたときにやるような動作である。そしてすぐに小便をした。
「さあ、行こう」
 キミがハルをうながすと、ハルはうめくような低い声で、
「動物狩りか。いよいよやるか」
といった。
 キミにはハルの心のなかの感激がよくわかった。ほんとうにいい相棒だ。
 また、急に、片目つむりの女の子を思いだしてしまった。あいつには、いい相棒なんていないだろうな。いい相棒がいれば、片目つむりになんかなるわけがない。
 おれには、いま、ハルというすてきな相棒がいる。
 キミが自転車のハンドルの前のカゴからおろしてきた紙袋を、ハルが見た。それなあに、という目つきである。
「これは動物狩りの道具だよ。これさえあれば、ばっちりさ」
 キミがそういうと、ハルは両手をひろげ首をすくめた。すばらしい! というジェスチャーだ。
「いるぞ、あれだ」
 キミは病院の玄関前の芝生にいる白い動物たちを指さした。
 もう、あたりはかなり明るくなっている。けれど病院は静まりかえり、玄関の、船でいえばヘサキのようなところについている赤ランプがぼやけている。
「いっぱい、いるなあ」
 ハルがよろこびの声をだす。秀麗号も芝生をよろこんで走り回りたがる。ハルが持っている引き綱がぴいんと張る。
「おれは」
とキミはいった。
「ここにいる動物が気にいらない。なぜかといえば、白いからだ」
「白いのは、きらいなのか」
 ハルが秀麗号にちらりと目をやりながら、キミにきいた。キミは首を左右に強くふる。
「違う。この犬が白いのはとてもいい。おれがいやなのはここにいる動物たちだ。この白が気にいらない」
「それなら、わかるよ。ぼくだって、こんなのは気にいらない。どうしてちゃんと、色をつけてやらないだろう。ゾウならゾウ色とか、キリンならキリン色とか」
 ハルがまじめな顔つきでいうので、キミも笑わずにいった。
「ゾウ色とかキリン色とか、そんなのあるわけないだろ」
「ああ、そうか。でも、ネズミ色っていうのはあるぞ。それから、鳥だけど、ウグイス色もある。それから」
「もういいよ。とにかく、おれはこの白い動物たちに色をぬるんだ。それが、おれの動物狩りなのさ」
「そうだったのかあ」
 ハルはあらためて、キミの顔を見つめた。その目つきには、尊敬が感じられた。ハルはまたていねいに<あいさつ>をやった。
 キミもきちんと<あいさつ>を返した。

 ゾウは青くした。
 キリンは黒に、クマらしいのも黒に、リスは前半分だけ赤ペイントをふきかけた。
 リスなのに、ゾウより大きいので、赤くすると、気味悪いほどめだってしまう。だから、リスのうしろ半分は青になった。
「そのうちちゃんと、茶色にぬってやるからな」
とキミはリスにいった。
「そうしたほうがいい」
とハルが答えた。それから、
「ゾウを赤くしてもよかったね」
という。
「赤いゾウなんておかしいだろ」
とキミがいうと、ハルは小さいころ、赤いゾウの絵本を読んだことがあるのだという。そのゾウは赤い花を食べたので、全身が赤くなってしまったそうである。
「その赤いゾウの絵本、いまでも持っているのか」
「あるかもしれない。さがしてみるよ」
「見せてくれ」
「うん、いいよ」
 ペンギンが白いまま残っていた。ペイントはまだあったけれど、牛乳屋の自転車がやってきたので、キミたちは動物狩りをやめた。
牛乳屋の若い男がキミたちを見たとき、キミとハルは、秀麗号とじゃれているふりをした。牛乳屋は鼻歌を歌いながら、病院の裏手へ消えていった。
 牛乳屋はふだんから、動物の色のことなど気にとめていなかったのだろう。そして子どもが飼い犬と遊んでいるぐらいに思ったのであろう。
 かくて、キミたちの動物狩りは一応の成功をおさめたのである。
 別れるとき、ハルはまた<あいさつ>した。キミも<あいさつ>を返し、
「また、連絡する」
といった。
 朝めしがとてもうまかった。
 母親が満足そうに、キミの食いっぷりを見ていた。
 でも、おれは成長なんか、しないよ。成長すれば、けさのような動物狩りもできなくなる。それはケンを見ていればよくわかる。ケンはもう、おとなのように生きているじゃないか。
 学校が終わるとすぐに、キミは勉強道具を持ったまま、小児病院へ行った。バスである。キミは心がおどるのをおさえるのにけんめいだった。
 目をきつくつむってみたり、窓の外をながめたり、乗客の顔を、ほかのなにかにあてはめてみたりした。
 サルのような顔と、キツネのような顔が多かった。ひとりの老婆は、サンマのひらきの顔にそっくりだった。そういうふうに感じたのである。サンマばあさんは、小児病院の一つ手前の停留所で、ひどくもたもたしながらおりていった。
 バスをおりるときには、わざと動物たちを見なかった。
 門をすぎて、もう玄関にあと十歩ぐらいのところで、はじめて、動物たちが見える角度まで顔をあげた。ゆっくり、あげた。
 キミはおどろいた。
 動物たちは、いなくなっていた。
 一ぴき残らず、白いままのペンギンまで、姿を消していたのだ。
 思わず、声をのむ、とは、こういう状態をいうのだろう。
 しばらく、確実に三分間以上も、キミはその場に立ちつくしていた。
 気がつくと、下くちびるを痛いほどかみしめていた。成功したと思った動物狩りは、まったく形勢が逆転してしまった。キミは、あざやかなペイントに色どられた動物たちを見たかった。それを、自分以外の子どもたちがどう思うかも知りたかった。
 医者にも感想をきいてみたかった。
 でも、それはできなくなった。なにか、心のなかの大きなものが、すっぽりとぬけ落ちたような感じさえする。
「ひどいなあ」
とキミはつぶやいた。このことばは、たぶん見当ちがいだろう。ひどいことをしたのはキミたちなのだ。それはわかっている。でも、ひどいなあ、と思う。思わずにはいられない。せっかくの動物狩りだったのに、その動物を、ほかのだれかに、根こそぎ持っていかれた。
 キミたちよりもあざやかに、動物狩りをやってのけたやつがいる。くやしい。
 キミは鼻の穴の奥がつんつんしてくるのを感じた。いまにも涙がこぼれそうだ。しかし泣くことはできない。
 泣いたら負けだ。泣くもんか。
 キミは玄関をはいらずに、朝、牛乳屋が通っていったように、病院の裏手へ回ってみた。
 物置でもあって、そこに動物たちがしまいこまれているのではないかと考えたからだ。
 しかし、見回しても、物置らしいものはなかった。
 背後でひとの気配がしたのでふり向くと、車いすに乗った若い女が近づいてきた。若い女はキミにいった。
「こんなところへなんの用なの。玄関はあっちよ」
車いすに乗っているけれど、白い上っぱりを着ている。病院で働いている人なのだろう。キミは思いきって、たずねてみた。
「あのう、芝生のところにいた動物たちは、どこへいったんですか。おれ、それが知りたくて」
 女の人はまゆをひそめてキミを見た。それから、ゆっくりうなずいた。
「動物たちは、生まれたところへ帰ったのよ。あなたにもおうちがあるように、動物さんたちにもおうちがあるのよ。たまには動物たちだって、おうちへ帰してあげなきゃ、でしょ」
 ああ、おれは完全にばかにされている。頭が弱い子だと思われている。これはひどい。
 キミはひどくみじめな気持になり、若い女の車いすのわきをすりぬけて、また病院の表がわに出た。
 とうてい、医者にあう気にはなれなかったので、そのままバス停に行き、すぐにやってきたバスに乗ってしまった。
 なんとなく両手をひろげてみたら、左のくすり指のところが赤くなっていた。ペイントがくっついているのだ。
 赤いゾウのことを考えた。
 ハルのところへ行って、赤いゾウの絵本を見せてもらおうと思った。もうさがしてくれただろうか。
 ハルは絵本のことを覚えている。ケンはどうだろう。同じ家の兄弟なのだから、ケンだって、赤いゾウの絵本は見たことがあるだろう。それを、ケンは覚えているだろうか。
 ケンにも絵本のことをたずねてみよう。ケンが絵本のことをわすれているなら、それは記憶力の問題じゃなくて、ケンがそれだけおとなになっているという証拠なのだ。きっと、そうだ。
 ということは、成長を停止しているおれは、絵本のことなんかを、いつまでも覚えていなければいけないというわけだ。
 赤いゾウの絵本があるといいな。
 それにしても、あの動物たちはどこへ行ったのだ。さがしださなければならない。
 追跡だ。
 また、ハルといっしょにやろう。あいつはほんとにいいやつだから。
 バスは大きくカーブして、キミがおりる停留所に近づいた。


オレンジ色の小さな球

 バスからおりて、キミはちょっとだけ考えた。
 いまからすぐに、ハルにあいに行こうか。
 いったん家に帰って、勉強道具を置いてこようか。
 このまま、ハルのところへ行こう、ときめた。家に帰れば、母親が、病院でどうだったのとか、おやつを食べなさいとか、いろいろいうにきまっている。いまのキミは、そういうことにかかわりあっているよゆうはないのだ。
 キミはハルの家の方向に足をふみだした。
 このとき急に、キミはうしろから強いちからでつきとばされた。もうすこしでつんのめるほど、からだが前方に傾いた。
 怒りをこめてふり向いたら、自転車があり、ハルがまたがっていた。新型の三輪車ではなく、ふつうの子ども用自転車だった。
「ごめん」
とハルはいった。
「あわてていたから、ブレーキがきかないことを忘れちゃったんだ」
 キミはブレーキがわりに自転車をぶつけられたわけである。しかし、相手がハルではおこることはできない。
 キミはズボンについていた汚れを片手ではたき落とし、どこも痛くないことを確かめてから、ハルにたずねた。
「なにを急いでいたんだい」
「大変なんだよ。だから、団長の家まで行ったんだけど、おばさんが学校の帰りに病院だって教えてくれたから、ここで待ってるつもりだったのさ」
 キミは、なんとなくわかるような気がしたのだが、念のためにきいてみた。
「おい、その、団長って、だれのことなんだよ」
「もちろん」
といいながら、ハルはキミの顔をぐぐっと指さした。
「団長はあんたさ。ぼくは団員。ぼくらは少年動物狩り団」
「動物狩り団なんておかしいよ。そういうふうにいうんなら、少年狩猟団っていうんだ」
「わかりました、団長」
とハルはすなおにうなずく。すばらしい団員だ。団長は団員にもう一度たずねた。
「おれに、なにか急用なのか」
「うん、大変なんだ」
 ハルはぐっとのどを音させてから、キミに報告したのだ。
「赤いゾウが連れ去られてしまったんだよ」
 もちろん、キミはおどろいた。このおどろきはそうとうに複雑だ。
 まず小児病院の前庭からは、白セメント製の――キミたちがペイントを吹きかけた――動物たちが姿を消した。その追跡調査を決意したばかりなのに、こんどは赤いゾウの絵本が連れ去られたという。事件がふたつも重なりあってしまったのである。これを複雑といわないで、どこに複雑があるのだろうか。
 キミたちは複雑≠ノ巻きこまれてしまったのだ。

 ハルの報告によれば、ハルが学校から帰ってきてみると、家のなかがみょうに片づいている。
 不安を感じながら子ども部屋へ行くと、机の上やたなに積みあげてあった雑誌や本がごっそりなくなっている。赤いゾウの絵本をさがそうと思っていたたなの上もすっかり片づいて、地球儀や置物なんかが並んでいるではないか。机の上には白い花をいけた花びんまで置いてある。
 ハルはすぐに母親にきいた。
「ねえ、本や雑誌はどうしたの」
 母親はおちついて答えた。
「みんなチリ紙交換にだしたのよ。きれいに片づいたでしょう。半日かかっちゃったのよ、全部片づけるのに」
「わあっ」
とハルは悲鳴とどなり声を同時にだした。
「くだらないことするなあ。ぼくは、赤いゾウの絵本をたいせつにしてたんだぞ。おかあさんのバカ」
 ハルのものすごいけんまくに母親もあわてて、
「それはいけないことしてしまったわねえ」と反省したそうだが、いまさらどうすることもできない。
 赤いゾウはいなくなり、あとには四、五束のチリ紙と、「こんど御用の節はお電話をどうぞ」と、チリ紙交換屋がおいていった大型の名刺が残っているばかりだった。ふつうの名刺の四倍はある。
 名刺を見てハルは考えた。
 もしかしたら……早いうちなら、赤いゾウの絵本は、チリ紙交換屋にあるかもしれない。あってほしい。
「もしも団長が、どうしても赤いゾウを見たいんなら、チリ紙交換屋までいっしょに行こうと思って」
 ハルはキミに自転車をぶつけたというわけなのである。
「もちろん、見たい」
とキミはいった。
 大型の名刺によれば、チリ紙交換屋はセキ町にある。自転車で行けば二十分とはかからないだろう。
 とにかくキミは、こっそり家に帰って、自転車を持ちだすことにした。そしてこれはうまくいった。母親が買い物に出かけていて、家にはだれもいなかったのだ。
「そう・いえば・ぼくが・行った・とき・おばさん・出かける・用意を・してた・みたい・だった」
 ハルがキミからもらったおやつのカステラの半分をぱくつきながら、もごもごとしゃべった。
 ふたりはチリ紙交換屋に向かって出発した。もうカステラは、それぞれの胃袋に小さくおさまっていた。
 チリ紙交換屋というからは、どこか、倉庫か大きな物置のようなところだろうと、キミは思っていた。
 ところが、名刺の番地どおりにきてみると、そこはふつうの家が並んでいて、その家並からすこしひっこんだところに、十階建のマンションがあるだけで、倉庫らしい建物は見当たらない。
 十階建の入口には<セキ町スカイマンション>という看板がかかっている。
「おかしいなあ、一の八の三という番地はここだけなのに、チリ紙交換屋なんか、ないじゃないか」
 名刺を見ながらキミがいうと、ハルも首をひねりながらつぶやいた。
「うその名刺なのかな。そんだったら、あたまにきちゃう」
 思いきって、マンションの向かい側のタバコ屋できいてみることにした。タバコ屋の番地は一の八の五である
 タバコ屋のおばさんは、声の大きなひとだった。店番よりもおしゃべりが好きらしい。キミがチリ紙交換屋をきくと、すぐに店のなかから外に出てきて教えてくれた。
「だれだってわかりゃしませんよ。チリ紙交換屋さんは、このマンションなんだからね。まさかと思うでしょ。でも、ほんとなのよ。ぐるっと裏へ回ってごらんなさい。仕切場といってね、品物をよりわけるところがあるから。それがマンションの一階なのよ。前はほんとにもうかったらしくて、マンションを建てちゃったんですよ。それもさあ、スカイマンションだなんて、モダンな名前をつけちゃってねえ」
 すぐにキミたちは、ぐるっと、マンションの裏側へ回っていった。
 波型トタンを張った大きな扉があって、それが半開きになっていて、中に三台の小型トラックが駐車していた。三台とも、<チリ紙交換 金山更生社>と書いてある。名刺のとおりにチリ紙交換屋はあったのだ。とにかく意外なところにあった。

 新聞紙を束ねては、積みあげているひとがいた。若い男だ。学生アルバイトかもしれない、とキミは考えた。
「すみません。ちょっとききたいことがあるんですけど」
 つづいてハルもいった。
「きょうの昼間、ミナミ町を回ったひとはだれですか」
「ミナミ町だって」
 男はそういってから、逆にキミたちに質問した。
「いったいなんのためにそんなことを調べるんだい」
 ハルがすぐに答えた。
「ぼくのおかあさんが、まちがえて、ぼくの本をチリ紙交換にだしちゃったんです。そのチリ紙交換屋さんがここだってわかったから、ぼく、きたんです」
「ふーん、本ねえ」
 男はきょろきょろあたりを見回した。そして仕切場の品物の山のひとつを指さしたのだ。
「ミナミ町のあたりは、鈴木の受け持ちだけど、もう帰ったよ。でも、ブツはあれだ。わかるならさがしてごらよ。だけど、あんまりちらかさないでくれよな」
 男はインディアンのような顔つきなのに、やさしい心の持ち主らしかった。
「ありがとう」
 キミとハルは同時に同じことばをだしてしまったのである。
 団長と団員はいまや心をあわせて、赤いゾウをさがし求める作業を開始した。それ行け、少年狩猟団。
 赤いゾウはみつかるだろうか。
 新聞紙、雑誌、本、ダンボール、そのほかいろいろの束をかきわけて、キミはハルにいう。
「これ違うか。これ、おまえんちのじゃないか」
「違う。そんな本、ぼく、見たことない。ああ、これも違う」
 ハルはキミに答え、自分でもさがしているのだからいそがしい。
 心のやさしいインディアンがのぞきこみにきた。
「本、だっていったな。いったい、なんの本なんだい」
「赤いゾウです。ゾウが赤い花を食べて、赤くなっちゃって、また、もとにもどるんだ。もとよりもきれいになるんだったかなあ。そういう絵本なんです」
「へえ、赤いゾウか。おもしろそうだな。よし、おれもさがしてやろう。ちょっとどいてみろ。本の束だけここに集めちゃうから」
 さすがにインディアンは専門家である。手早く本の束を選びだしてしまった。それを並べてからハルにいった。
「さあ、このなかから記憶にあるのをさがすんだ。自分の家にあったものは、なんとなくわかるものさ」
 ハルはうなずいて本の束を確かめていく。ハル、うまくやれよと声援をおくりたいキミの気持。
 結局、ハルは三つの束を選びだした。
「これと、これとこれがぼくんちのだと思う」
 インディアンが鎌のような刃物でひもを切り、本の束は次つぎに崩れた。
 ハルは地べたにひざをついて熱心にさがす。おれのために、おれに赤いゾウの絵本をかしてくれるために、ハルはこんなにもけんめいになってくれている――キミはほんとうにハルを、いいやつだなあと思った。そして、自分が、三年生のままで成長をやめているからこそ、こういうふうになれたのだと考えた。
 ついに、ハルは赤いゾウを発見した。
 四角い版の、厚いボール紙の表紙の絵本である。
「団長、これです。はい、読んでください」
 ハルがていねいに、本をキミに手渡してくれた。そしてハルはインディアンにもいったのだ。
「あした、チリ紙を返しにきます。この本を返してもらったのに、チリ紙をもらったままじゃわるいから」
 インディアンは白い歯を見せて大声で笑った。
「気にするなよ、そんなこと。おまえ、気を使いすぎるぞ。いいから、いいから」
 でも、キミの手の上の絵本を指さすと、
「もし、よかったら、その本を見せてくれ。おれ、ゾウって好きなんだよ」といった。
 キミはすぐに、絵本をインディアンにわたした。
「はい、どうぞ。おれ、あとでいいです」
「えっ、いま、かしてくれるにかよう」
 インディアンはそういって、腕時計を見た。
「よし、いいや、きょうはもうアガリだ。すぐに読んじゃうから、向こうへ行こう」
 インディアンはキミたちを仕切場の横のへやに案内してくれた。かなり古そうだけど、ソファなんかも置いてあって、ちゃんとした応接間である。
 インディアンのほかには、だれもいないようだ。ハルが小さい声でキミにいった。インディアンは手を洗いに行っている。
「ねえ、あのひとが社長なのかな」
「ちがうだろ、だってここの社長は、このマンションを建てたんだぞ。タバコ屋のおばさんがいってたじゃないか」
「でも、ほかにだれもいないだろ」
「うん、だけどさあ」
 キミはあたまをひねった。そこへインディアンが帰ってきて、机の上に、どさっとキャンディを置いた。
「食えよ。イギリス製のキャンディだってさ。かなりうまいぜ」
 ハルがあっさりきいてしまった。
「おにいさんが、ここの社長ですか」
 インディアンはまた白い歯を見せて、大きな声で笑った。やっぱり社長ではないのだ。
「じょうだん、きついなあ。おれが社長に見えるのかよ。ここの社長は億万長者なんだぜ。毎日、ゴルフやって遊んでるよ。それも外国のゴルフ場だよ。いまカナダかな。おれはバイトの従業員、そしてこのマンションの管理人見習いさ」
 それから急にまじめな顔つきになって、赤いゾウの絵本を手にとった。
「さあ、読ましてもらおう。よかったら、きみもいっしょに読めよ」
 キミはからだをずらして、絵本がのぞきこめるようにした。
 インディアンがゆっくりと絵本を開き、赤いゾウの物語がはじまった。

 太陽がギラギラ、ギラギラと、まっかになって輝いている南の国に、一本の大きな大きな木がありました。
 もちろん、ほかにも大きな木はたくさんはえていましたが、この木は特別に、それはそれは大きな木だったのです。でも、これは、大きな木のおはなしではありません。
 木のまわりには、赤い花が、いっぱいいっぱい咲いていました。まるで火のように、赤い赤い花でした。でも、これは、赤い花のおはなしではありません。
 花には、あまい蜜があるので、たくさんのチョウが、ヒラヒラ、ヒラヒラとんでいて、とてもきれいでした。南の国なので、めずらしいチョウもたくさんいます。でも、これは、チョウのおはなしではありません。
 これは、ゾウのおはなしです。
 夕方になったら、大きな木の下に、一頭のゾウがやってきました。
 太い足。長い鼻。大きな耳。小さな目。
 ゾウはずいぶん遠くからやってきたらしく、とてもつかれているようでした。ゾウは大きな木の下までくると、
「やあ、でっかい木だなあ。こんなでっかい木の下なら、ほんとうに安心してねむれる」
といって、ゴロリとねころがりました。
 ところが、このゾウは、ものすごく、おなかがすいていたんです。
「おれも腹がすいたなあ」
 インディアンが突然そういったので、キミとハルは顔を見合わせて笑ってしまった。おとなのくせに、絵本の話と同じような気持になってしまうのはおかしい。このひとも、精神だけはおとなになりきれていないのかもしれない。キミはそう思いながら、インディアンの横顔を見た。たくましい顔つきだ。

 もともと、ちょっと、くいしん坊なゾウは、あまりおなかがすいたので、ねむったまま、まわりに咲いていた花をムシャムシャ、ムシャムシャ食べてしまいました。ほんとうにくいしん坊ですね。

 キミはイギリス製のキャンディの包み紙を取りのぞき、オレンジ色の小さな球を口の中に入れた。うまいなあ。

 朝、ゾウは目を覚まして、びっくりしました。それはそれは、たいへんなことになっていました。


青い湖は山のむこうに

 キミとインディアンは、絵本の赤いゾウの話を読みつづけた。

――夜中に赤い花を食べてしまったせいでしょうか、長い鼻がまっかになっているのです。
「これは、こまったぞう。さあ、ぞうしよう」
 ゾウがびっくりして、泣きべそをかいているうちに、これはものすごい。ゾウはとうとう、からだじゅう、まっかになってしまったのです。
 ゾウはほんとうに困って、友だちのサルのところへ相談にいきました。

 窓の外はもう、たそがれだった。たそがれというのは、あたりが薄暗くなってひとの姿もよく見えなくなり、「かれは、だれぞ」「だれぞ、かれは」というところから、ずっとむかしにできたことばなのである。
 たそがれのなかで、どこかの犬がほえている。まだ仔犬だろう。声がカン高い。

――「おーい、もの知りのサルくーん。ぼくのこのからだを、もとどおりにしてくれないか」
 ゾウの大きな声を聞いて、サルは林のなかから出てきてくれましたが、ゾウを見ると、びっくりぎょうてん、高い木の上へにげてしまいました。サルはゾウを見て、
(赤いオバケがやってきた)
と思ったのです。
「おーい、サルくん、ぼくのことを、おっかながらないでくれよ。ぼくはとてもかなしいんだ。おーい、サルくーん」
 ゾウはサルをよびました。だけど、サルは高い木の上からおりてきません。
「おいしいバナナも、いっぱいあるよ」
なんて、うそをいっても、サルはおりてきません。
「ああ、かなしいなあ。からだが赤くなったために、ぼくは友だちまでなくしちゃった」
 しかたがないので、ゾウは、ライオンのところへ相談にいくことにしました。ずいぶん年をとっていて、いろいろなことを知っているライオンです。
「なになに、赤い花を食べたら、からだが赤くなってしまったというのか」
 ライオンはひげをビリビリとふるわせながらいいました。それでもライオンは親切でした。
「いいことを教えてやろう。山のむこうに湖がある。とてもきれいな湖だ。その湖へジャボジャボはいって、からだをきれいに洗いなさい」
 そうすれば、からだはもとどおりになるというのです。ゾウはよろこんで、山のむこうの湖へ行きました。
 湖の水はつめたくて、青くすんで、とてもきれいでした。ゾウはどんどん、湖へはいっていきました。

キミは手をのばして、絵本のページをめくった。赤いゾウの話がどこで終わるのか、ちょっと調べてみたくなったのだ。早く終わればいいと思ったのではなくて、帰りの時間が心配になったからで、それも自分のことではなく、ハルのための心づかいだった。
ハルはキミの心配を、すばやく察してしまったらしい。キャンディを口のなかにいれたままで、ハルはいった。
「ゆっくり読みなよ。ぼくはちゃんと待ってるから」
 キミは、ハルと心が通じあえたのがうれしくて、きちんと例の少年狩猟団の<あいさつ>をおくった。ハルも<あいさつ>。

――「ああ、いい気持だなあ」
 魚が泳いできて、ゾウのしっぽをつっつきましたが、ゾウはちっとも気がつきません。
 長い鼻を使って、からだじゅうに水をかけました。すると、ふしぎなことに、ゾウのからだは、だんだん、もとのようになってきたのです。
 やがて、ゾウのからだは、もとどおり以上に、それはきれいになりました。
「よかったなあ。ほんとに助かった」
 と思ったとき、ゾウは、目をさましました。
ゾウはびっくりして、まわりを見まわしました。そこは大きな木の下で、赤い花がいっぱい咲いていました。
「なあんだ、赤い花を食べて、からだが赤くなったのは、ゆめだったのか」
 ゾウは安心しました。だけど、ゆめだとわかって、ちょっとがっかりしたところもあります。なにしろ、ゆめのなかで見た、山むこうの湖は、ほんとうにきれいなところだったのです。
 ゾウは、ゆめのなかに出てきたような青い湖をさがして、旅に出ることにしました。いまでも、ゾウは、きれいな湖をさがして、歩いているかもしれません。

「おしまい」
とインディアンがいった。
 そして絵本をハルに渡しながら、
「また遊びにこいよ。こんどは、おれの本も見せてやるからさ。な、こいよ」
とつけくわえた。
 キミとハルはうなずいた。意外にもチリ紙交換屋の留守番役は気のいいやつだった。ほんとうにキミは、ひまができたら、遊びにきてもいいと思った。
 でも当分は、ひまがないだろう。なにしろキミたちは少年狩猟団なのだ。小児病院前から姿を消した動物たちをさがしだすという仕事がある。それをやりとげるまでは、インディアンと遊んでいるひまはない。さようなら、インディアン。
 キミたちはそれぞれ自転車にとび乗った。

「おれたちは、ばかにされたんだ」
とキミはいった。自転車を走らせながらである。
 せっかくペイントで色をぬってやったのに、それをどこかに片づけられてしまった。小児病院の職員らしい、車いすの女は、
「動物たちは生まれたところへ帰ったのよ」
といった。ふざけたいいかただ。
「動物たちは、病院のどこかにかくされているにちがいない。きっとそうだ」
「もちろんだよ」
とハルもキミの考えを支持した。
「だけど、どこにあるんだろう。普通の家だと、そういうのは物置なんかにしまうけど、病院だと、どうするのかなあ」
ハルが首をひねって考えたので、キミはいってやったのだ。
「病院にだって物置はあるさ。だから、おれ、物置をさぐるつもりだったんだ。そしたら車いすの女が出てきちゃってさあ」
「悪い女だなあ。そいつ、ブスだろ」
「ブスじゃない。とても美人なんだ。でも、おれをばかにしたから、悪いやつだ」
「美人のくせに悪いのか。顔じゃなくて、心がブスなのかな」
 心の問題には答えないで、
「あしたまた病院に行くから、その結果は改めて報告するよ」
とキミはいった。いいながら、これはまるで、おとなみたいないいかただと思った。これに対して、ハルはうなずいただけで、手をふりながら帰っていった。
 家について、自転車を木戸の内側にいれながら、キミはつぶやいた。
「ああ、いそがしいなあ。ひまがないなあ」

 学校でキミはケンにいわれた。ケンはハルの兄で、キミと同じクラスの優等生である。幼稚園のときから、ずっと偶然に同じ組がつづいている。
「弟と遊んでくれてありがとう。弟はキミをとっても尊敬しているよ。これからもなかよくしてやってくれよな」
 キミはろくに返事もしなかった。キミはなにも、ケンに礼をいわれるためにハルと行動をともにしているわけではない。それに第一、遊んでくれて、とは何事か。少年狩猟団は遊びのための組織ではないのだぞ。
 それではなにか、といわれても、うまく答えられないけれど、動物たちにペイントを吹きつけたのも、そのゆくえをさがし求めているのも、遊びではない。遊びよりも、もっと真剣なものである。だからこそ、秘密の行動が必要なのだ。遊びなら、もっとおおっぴらにできる。遊びは、勉強の次に、おとながすすめるものである。勉強より先に遊びをすすめるおとなはめったにいないけれど。
(遊びじゃないけど、勉強でもないな)
と、キミは自分がやっていることについて考えた。遊びでもない、勉強でもない、それならなんなんだ。なんなのだ。
 結局、いまの自分が、もっとも熱中できること、というほかはない。もしかすると、生きがい≠ニいうやつかもしれない。
 でも、それ以上は考えないことにした。考えると成長してしまうように思えたからだ。あくまでも、成長拒否はつづけなければならない。
 学校のすぐ近くにもバスの停留所はあるのだけれど、キミはわざわざひとつ先の停留所まで歩いて行った。バスがくるのを待っているあいだ、クラスのだれかから、
「どこへ行くの」
と、たずねられたりするのがいやだったからである。世の中におせっかいは多いのだ。おせっかいは、するのも、されるのも好きじゃない。
 バスはすぐにやってきた。一番すいている時間である。乗客は小児病院前まで、五十ぐらいの女のひととキミのふたりだけだった。
 車内が静かなので、運転手が歌をうたっているのがよくわかった。それは流行歌で、若い女性歌手がうたってヒットした演歌である。歌詞をわすれたところは鼻歌になる。まあまあシロウトにしてはうまいほうだ。コブシがよく回るのである。
 バスをおりて、キミは病院に近づいた。
 キミはガラスのドアのむこうを見て、あれっと思った。
 意外! 待合室の長いすに、ハルが腰かけているではないか。
 長いすに浅く腰かけて、両足のももの下に両手をさしこみ、からだを前後に軽くゆらしている。ハルもまた、歌でもうたっているのだろうか。
 ドアを押して、キミは病院にはいって行った。
 ハルが、ぴいっという感じでキミを見る。すぐに立ちあがろうとして、からだが大きく傾いた。足の下の手がうまくぬけなかったのだ。でも床にころがったりはしないで、ハルはキミのそばへきた。
「ぼくもいっしょに動物をさがすよ。団長だけに苦労させちゃいけないからね」
「苦労か」
とキミはいった。
「べつに、苦労でもないけどさ。いっしょにやってくれるのはうれしいよ。おれ、診察受けてくるから、ここでもうすこし待っててくれ」
「いいよ、ここはおもしろいもん。さっきなんか、空飛ぶ円盤に乗りこんだなんていってる女がいたんだから」
 ハルは長いすに腰をおろして、足をぶらぶらさせている。
 このとき、診療室のほうから、片目つむりがやってきた。母親といっしょだ。
 片目つむりを指さして、ハルが早口でキミにいった。
「団長、団長、あいつだよ。空飛ぶ円盤に乗りこんだっていってた女は」
「まさか」
とキミはいおうとして、そのことばをのみこんでしまった。
 ちがうのだ。変わってしまったのだ。確かに片目つむりだった女の子なのに、態度がまるでちがっている。
 目は両方とも、ぱっちりとおしひろがり、胸をはって、足どりも大股だ。床がどたんどたんと音をたてている。母親のほうがおどおどしながら、子どものあとをつけて歩いているのである。
 まともに他人の顔を見ることができないで、片目つむりになっていた子が、空飛ぶ円盤に乗りこんだなどといいはじめて、態度がへんにでっかくなった。
 病気が重くなったのだろうか。
 母親の心配そうな顔つきからも、病気がよくなったとは思えない。
 女の子は出入口に向かって、ずんずん大股に歩いていく。
 母親があわてて、女の子の前へ回ろうとした。でも間にあわないで、女の子はガラスのドアに衝突してしまった。
 まるでビンが倒れるように、女の子はぱたんとうしろにひっくり返ってしまった。
 ハルが大きな声で笑った。キミはどなる。
「笑うな! かわいそうじゃないか」
 母親が抱き起こしている。あたりにいたひとがのぞきこんだり、声をかけたりした。けがはなかったらしい。
 女の子はまた、母親の前を大股に歩いていった。からだにあわないほどの大股なので、うしろ姿は、かくんかくんと左右にゆれて、ひどく妙だ。あやつり人形のようである。キミは悲しい気持でそれを見た。
「ごめんなさい」
ハルがキミに頭をさげた。
「いいよ」
とキミはいった。
「でも、あの子、かわいそうなんだ。よく知らないけど、そういう気がするんだよ」
 うんうんとハルはうなずいてくれた。それだけでキミはほっとする。
 受付にいくと、
「すぐに診療室に行っていいですよ」
といわれた。キミは医者に、動物たちのことをたずねようと思っている。

壁も天井も白いへやである。
 中央のひじかけいすに、医者が腰かけている。はじめにきたときと、まるで変わっていない。
 病院なのに、消毒薬のにおいがしないのも前のときと同じである。
 医者の前の回転いすにすわらせられる。
「気持を楽にして、こちらのいうことに答えるように。いいね」
「はい、いいです」
「きみが、いま一番気にかけていることはなんだろう。それを教えてくれないか」
「学校の勉強のことです」
 キミがすらりと答えると、医者は手をのばし、キミがすわっているいすをぐるっと回転させた。キミはうしろを向かされたのだ。
「うそをついちゃいけない」
 医者は怒りをこらえた声でいった。
「わたしがこの前、勉強を気にしないことをしかったので、きみは調子をあわせようとしているのだろう。そういううそはやめなさい」
 キミはしばらくだまっていた。そして、空飛ぶ円盤のことを考えていた。片目つむりだった女の子が空飛ぶ円盤に乗ったという話。それがうそか本当かは知らない。
 たとえ本当だとしても、女の子は片目つむりだったのだから、ほとんどのひとに信用してもらうことはできないだろう。あのハルでさえ、まるでばかにしていたではないか。
 キミは前を向いたまま、うしろにいる医者にたずねた。
「先生は、この病院のことはなんでも知っていますか」
「なんでも、というわけにはいかないね。でも、たいていのことは知ってるつもりだ。それにわからないことは係のひとにきけばいいのだから」
「それじゃ、きいてもいいですか」
「それが、いま、きみの気になっていることなら、いってみなさい」
 キミはおちついて、ゆっくりしゃべった。
「この前、この病院にきたときには、玄関の前の芝生のところに、白いセメントでつくった動物たちがいたけど、きょうはいなくなっている。動物たちはどこへ行ったの」
「きみも、それを気にしているのか」
 医者は「も」というところを強く発音した。
「も」というからには、キミのほかにも動物たちのことを医者に話したひとがいるのだろう。もしかしたら、もと片目つむりの女の子?
「まさか、きみは、動物たちが空飛ぶ円盤に乗っていったなんて考えているんじゃないだろうね」
 やっぱりそうだったのか。
 これはたいへんなことになってきたぞ。気をつけて質問しなければならない。キミはきゅっと回転いすを動かし、医者と向きあったのだ。
「動物たちはどこへ行ったんですか」
「どこかへ行ったのではない。片づけたのだ。だれかが悪質ないたずらをした。白くてきれいな動物たちだったのに、色をぬりつけたやつがいて、きたならしくなってしまった。だから片づけたのだ。それだけのことだよ」
 キミは次の質問を用意して、医者の顔をじっとみつめた。


こげ茶色のぬいぐるみ

 キミは思いきって、医者にいってやったのだ。
「先生はうそをついている。動物は片づけたなんて、それはうそだ」
「うそじゃない。わたしはうそなんかいわない」
 医者はきっぱりと、左右に首までふりながらキミにこたえた。キミはにやりと笑いたいのをこらえながら次のことばを続けた。
「そんなこといってもね、この病院のひとで、先生とはぜんぜん違うことを教えてくれたのがいるんだよ。車いすに乗ってる女のひとだけどさ」
「車いすに乗ってる女? ああ、ケースワーカーのスギさんだな。スギさんが、いったい、なんといったんだね」
 うそをいう必要はない。ありのままでいいのだ。
「動物たちは、生まれたところへ帰ったんだってさ。たまには動物たちもおうちへ帰してやらなきゃ、といってましたよ」
 医者は三度も続けて舌打ちした。よほどくだらないと思ったのだろう。
「なんというくだらない子どもだましをいうことか。まったくくだらん」
「ひとがせっかく、動物たちはどこへ行ったのってきいたのに、生まれたところへ帰ったなんて、ずいぶんばかにしてると思うなあ」
 キミはわざと低い声でつぶやくようにいった。
 医者はうなずいた。
「スギさんには、あとできびしく注意しておくから許してくれ。子どもだからといって、幼稚なその場のがれのうそをいうのはほんとうによくない。あの女は子どもをかわいがっているようでいて、実際はばかにしているのだ」
 キミは医者に対する考えを変えることにした。おしゃれなキザ男という印象だったが、なかなかいい態度も持っているではないか。
 キミはちょっと図に乗って、もうひとことだけつけ加えてみた。
「注意するだけじゃなくて、片づけた動物たちをちゃんと見せてあげればいい。そうすれば、うそはつかなくなると思う」
「その必要はないさ」と医者は笑いならがいった。
「スギさんだって、動物たちを片づけたことは知っているのさ。だから注意すれば、もううそはいわない。安心しなさい」
 じょうだんいうな。安心なんかできるもんか。あの車いすの女が、動物たちの行方をちゃんと知りながらキミに向かって、生まれたところへ帰ったといったんなら許せない。許せないぞ。
 キミは医者に、
「きょうは、もう帰ります」といった。
 医者はすぐに、
「いいとも、またあしたきなさい」といってくれた。医者はキミがかなりおしゃべりしてくれたので、診療の効果があったと思ったのだろう。
「気をつけて」といいながら、ぽんと背中まで叩いてくれたのである。

 待合室の長いすで、ハルはキミを待っていた。そのハルの耳に口を寄せて、
「動物たちのことはわかったぞ」とキミはいった。
「ほんと!」とハルの目がぱっちりする。
「ねえ、どこにいるの。ねえ、団長」
「それもすぐにわかるさ。そのためには車いすの女をさがさなきゃ。ケースワーカーで、スギっていう名前なんだ」
「その、ケースなんとかって、なんなのさ」
「仕事の名前だろ、きっと。医者をドクターっていうのと同じじゃないのか」
「それじゃ、看護婦さんかな」
「看護婦が車いすに乗ってるわけないだろ。もっとほかの仕事だよ」
 キミは受付のひとにきいてみた。
「ケースワーカーのスギさんは、どこにいますか」
「第七病棟だと思いますよ。お呼びしましょうか」
 受付の人は電話の受話器に手をのばそうとした。キミはあわてて、
「いいんです。ぼく、待ってます」といった。
「お約束なのね、それならしばらくお待ちください」
 キミはまたハルの耳にささやいた。
「行ってみよう。第七病棟だってさ。すぐにわかるさ、きっと」

 病院のなかが、こんなにも広いとは思わなかった。
 病棟と病棟とをつないでいる渡り廊下が、これほど長いとは知らなかった。
 そしてどの病棟も、しーんと静まりかえっているので、キミたちはおそろしかった。
 ようやく――ほんとうにようやくという感じで第七病棟にキミたちは着いた。
 そこは病棟というよりは、幼稚園の教室のような感じで、がらんとしていた。
 変わっているのは、へやのまん中に水道があって、水がざあざあだしっぱなしだということである。
 もしかしたら、とキミは考えた。だれかが蛇口を閉め忘れたのかもしれない。きっとそうだ。閉めてやろう。
 キミはへやのなかにはいって行って、水道の水をとめようとした。
 と、いきなり、するどい声がとんできた。
「だめよ! 水をとめちゃ。ユキちゃんといま、お話してるんだから」
 へやのすみ、窓ガラスの下に車いすの女がいて、そのそばにひとりの男の子が立っていた。五、六歳だと思う。
 女と男の子のあいだには、こげ茶色のぬいぐるみのクマの人形がある。女の手も、男の子の手も、ぬいぐるみのクマをさわっている。
 女の手はクマの片方の耳を、男の子の手は後足の一本をそれぞれにぎりしめているのだ。
 男の子の名前がユキちゃんなのだろう。でもユキちゃんはだまっている。車いすの女もだまっている。お話していると女はいったけれど、ふたりとも口をきいてはいない。どういうことになっているのだろう。
 この理由は三分もたたないうちにわかった。ユキちゃんがぬいぐるみの足を持ったまま眠ってしまったので、車いすの女が説明してくれたのである。
「ユキちゃんは、クマさんをとおしてじゃないと話ができないのよ。それも水道のお水が出ていないと、だめ。でも、きっとそのうち、ユキちゃんはクマさんなしでも、話ができるようになると思う」
 キミはハルと顔を見あわせた。そしておたがいに首をすくめた。ユキちゃんという子がぐうぐう高いびきをかきはじめたからだ。
「ユキちゃんはクマさんのように冬眠してしまったのね」
 車いすの女はそうつぶやくと、クマの耳を手ばなし、キミにいった。
「あなたたち、どこの病棟。きみは顔に見おぼえがあるけど」
「おれたち、病棟なんかじゃないよ。おれたち、動物をさがしてるんだ。ほら、玄関の前の芝生にあったやつ」
 女はぱんと手を叩いた。思いだしたらしい。
「ああ、きみはきのうも動物のことを、あたしにきいたでしょ。そうよね。本館の裏のところで」
 キミはうなずき、すぐにいってやった。
「きのうは、うそをついただろ。動物は生まれたところへ帰っただなんてさ」
「うそじゃないわ」
 女はカン高い声でそういった。
「動物たちは、おうちへ帰ったのよ。これはほんとうのことよ」
「うそだ」
キミの声も高くなる。
「おれ、医者の先生にきいたもん。動物たちは色をぬられたので、片づけたんだって。先生は教えてくれたよ。なのに、おまえはうそついてる」
 ハルも女に向かって右の人差指をつきつけるようにして、
「おまえはうそをついてる」とどなった。
 けれども女はひるまなかった。
「うそなんかつかないわよ。どうして、あたしのいうことがうそで、先生のことばがほんだとわかるの。きみたち、片づけた動物たちを見たとでもいうの」
 女の目つきがするどくなった。
「見たわけじゃないけど」とキミは小さい声でいい、
「でも、あれはセメントの動物だから、生まれたところなんて、ないと思う」と主張した。
「それは常識ね。でも、世の中、常識ばかりじゃないわよ。ユキちゃんのように、ぬいぐるみのクマと話ができる子どもだっているんだから」
「それは、あたまがおかしいからだ。パアパアのパアなんだ」
 これはハルのことばである。
「それも常識ね」
と女はいい、車いすをぐるっと動かした。
「それでは、これから、きみたちを物置に案内してあげる。片づけたものなら、たいていは物置にしまってあるはずよ。物置のなかをふたりで調べてごらんなさい」
「もしも、あったらどうする」
 キミはそういって、さらにことばを続けた。
「物置に動物があったら、おれたち、もらっちゃっていいのか」
 女はうなずいた。
「いいわよ。あたしが責任を持って、きみたちのものにしてあげる。それはいいわよ」
 キミとハルは顔を見あわせ、うなずきあった。じゅうぶんに、キミたちは自信があったのだ。
 車いすの女は病棟を出て、長い廊下を進んで行った。キミたちも車いすの動きにあわせて廊下を歩いて行ったのだ。
 どこかで、ローラーカナリアが鳴いていた。病棟でだれかが飼っているのだろうか。
 キミの家の右隣の家には十羽以上もいる。ローラーカナリアのほかに、巻毛カナリアや赤カナリアがいる。隣のおじさんの話だと、カナリアというのはラテン語だそうである。そうすると、ローラーカナリアの長い鳴き声もラテン語なのかな……。

 大きな物置だ。工事現場などに建っているプレハブで、屋根は青いカラートタン、キミたちの学校の新校舎ができるときにも、プレハブの建物はつくられた。
 しかし、感じがすこし違う。考えて、キミにはその違いがすぐにわかった。
「これはやっぱり物置だから、窓がすくないんだ。あんな上のほうにしか窓がついていない」
「物置に窓は必要ないのよ。上のほうから明かりさえはいれば、それでいいわけね。さあ、物置はここだけだから、早くはいってさがしなさい。暗くならないうちにさがさないと、物置のなかは電気がつかないから」
 車いすの女は、鍵をあけてくれた。
 キミたちは物置に足をふみいれた。
 女が扉を閉める。車いすなのにうまくやる。
「ひとがくるとうるさいから、扉は閉めておくわよ。あたし外で待っているから、用がすんだら扉を叩きなさい」
 扉は一枚で、上のほうにだけ戸車がついている。上からぶらさがる形になっていて、下は浮いているのだ。車庫に多く使われている扉である。
 さっき、第七病棟をさがしながら、病院のなかの広さにおどろいたのとはまた別の感じで、キミは物置のなかの広さに目をみはった。これじゃまるで、物置じゃなくて倉庫だ。
 木の香りがする。白木の箱がキミの背の高さの五倍以上も高く積みあげられている。真新しい白木の箱なので、木の香が強いのだろう。
 古い金属製のベッドもある。乱暴に積み重ねられているので、ちょっと離れて見ると、針金細工のできそこないのようだ。
「どこにあるんだろう、動物たち」
 ハルが白木の箱の山のすきまをのぞきこみながらいう。元気のない声だ。
「ハル、どうしたんだよ。腹でもすいたのか、おまえ」
「うーん、そういうわけじゃないけど、こういう広い所って、あんまり好きじゃないんだもん」
「おれもだよ。だからさ、早くさがしちゃおうぜ、動物たち」
 ムシロが束になって、やはり高く積んである。そのうしろあたりが怪しいと考えた。キミは勢いをつけて、ムシロの山の上へよじのぼった。これはかなりおもしろい遊びだ。歩くとムシロが揺れる。バランスをうまくとらないと、ムシロは崩れるだろう。
「おい、ハル、おまえものぼってこいよ」
 キミがからだを動かしながらいったので、ハルもムシロの山の上にのぼってきた。すこし元気な顔つきになる。
「落っことしごっこやろうか。ハル、ホラ、落とすぞ」
「わあ、やめろよ。やめろってば。団長、やめてよ」
 ハルはキミにしがみついた。ふたりいっしょにムシロの山の裏側へ落ちてしまった。しかしそこにも、動物たちはなかった。
 いくら広いといっても、物置なのだからたかがしれている。キミたちは物置のなかを、ほとんど調べてしまった。
 全部といわずにほとんどというのは、白木の箱の山の裏側へは回ることができないからだ。しかし、箱と壁のあいだは10センチほどしかないのだから、動物をしまいこむのは無理だと思う。ほんもののネズミならもぐりこめるだろうけど……とキミは考えた。
 大きく肩で息をして、ハルは
「ない」といった。ため息まじりの声だ。
「この物置じゃないんだ。あの女は、物置はここだけだっていったけど、きっとほかにもあるんだ」
「あのひと、やっぱりうそつきなのかなあ」
 ハルは不満そうに、運動靴の先で、地面に落ちていた小石を蹴った。石は古ベッドの山に当り、かんと金属の音をたてた。
「残念だな。おれ、あの動物をもらったら、学校の校庭にかざってやろうと思ったんだ。赤いゾウを校庭のどまん中に置いたら、校長、文句いうだろうなあ」
「赤いゾウはプールにいれてやったほうがいいよ。赤いゾウは湖が好きなんだから」
「湖のかわりにプールか。ゾウもがっかりするだろうな」
 キミが絵本の赤いゾウの話を思いだしていたのはもちろんである。
 絵本は借りたままになっている。家に帰ったら、もう一度、赤いゾウの話を読み直してみよう。
「それじゃ、帰ろうか」とキミがいい、
「うん」とハルがうなずいたときだ。
 キミは急に不安に襲われた。不安はハルにもたちまち伝染したらしい。ふたりは運動会の徒競走のときよりも早く、扉に向かって走った。
 そしてふたり同時に扉を叩いて、外で待ってくれているはずの、車いすの女を呼んだのだ。
 反応なし。鍵をあける気配もない。
 キミたちは扉に手をかけ、ひき開けようとした。けれど鍵は完全にかかっており、扉はすこし前後に揺れ動くだけである。
「あいつ、おれたちをとじこめたんだ。きっとそうだ。おれが、うそつきっていったから、おこったのかもしれない。失敗したなあ」
 キミは靴の先で扉をがんがん蹴った。にぶい音がするだけで、へんに頼りない反応だ。
 ハルは口をきかない。下唇を噛みしめている。口をきこうとすれば、きっと泣けてくるのだろう。
 急にうす暗くなったような気がする。
 高いところにある窓から差しこんでいた光が弱くなったのだ。もう夕方なのだろうか。
 暗くなったら大変だ。
 夜にならないうちに、なんとか外に出なければならない。
 それにしても車いすの女はひどい。ひどすぎる。
 いまごろどこかで、にたにたと笑っているかもしれない。
 負けるもんか。負けてたまるか。
 キミはぐるっと、物置の内部を見回した。

黒の恐怖

 キミたちはモグラになった。
 車いすの女のために、病院の物置にとじこめられてしまったキミとハルが、外へ出るためには、モグラになるよりほかに方法がなかったのである。
 物置の片すみに積み重ねられている使い古しの金属製のベッドを、キミとハルはちからを合わせてなんども放り投げ、ようやくばらばらに解体したのだ。
 つまりベッドは、何本かの鉄の棒その他になったわけで、その鉄棒のなかの手ごろなやつを使って、キミたちは扉の下の穴掘りをはじめた。
「さあ、おれたちは、この物置からぬけだすために、モグラになるんだ」と、キミはハルにいった。
「でも、もうすぐ、まっ暗になっちゃう」
 ハルは不安そのままの声をだす。
「だからさ」とキミはハルをはげますためにいったのだ。
「おれたちは、モグラになるんだよ、ハル。モグラっていうのはね、目がぜんぜん見えないんだってさ。それでもモグラは、ちゃんと穴を掘る。暗くなっても、モグラになったつもりで穴を掘れば、おれたちは外に出られるんだよ、ハル」
「そうかあ」
 ハルはわりあいのんきな声になった。
「モグラって目が見えないのか」
「うん。でも、モグラは穴掘りの名人なんだ。人間じゃないから、名人じゃなくて、ええと、名手っていうのかな。とにかくさあ、おれたちもモグラで行こうぜ」
「わかったよ、団長」
 もうそうとうに暗いから、ハルがうなずいたのはわからない。それでも確かにハルはうなずいて、鉄棒をぐさっと地面につきたてたのだ。
 あとはふたりとも、えいえい、うんうんとかけ声をだして穴を掘り続けた。
 もしかしたら、このときほど熱心に、キミが一つの仕事をやり続けたことはなかったかもしれない。キミは顔の汗を手の甲でふきとりながら心のなかで、
「勉強なんか、こういうふうにやったら、すぐにできるようになるだろうな」と、つぶやいたほどである。でも、そうするつもりはなかった。
 扉の下の穴はぐんぐん大きくなった。完全に暗いので、穴の大きさを目で確かめることはできない。手で土をかきだしながら、穴の大きさを感じとるのだ。
「もう胸ぐらいまでもぐれるぞ」
「団長もぼくも、からだが小さいから有利だね。大きかったら、ものすごく苦労しちゃううもん」
 ハルのいうとおりだとキミは思った。やっぱり、成長拒否は正しかった――と考えかけたけど、それはとちゅうで考えなおした。
 成長拒否をしていなかったら、病院にくる必要もなかったから、あの、スギさんとかいう車いすの女にあうこともなかった。そうすれば、こうして物置にとじこめられることもなかっただろう。ということは、成長拒否がそもそもの原因になるわけだ。これは都合がよくない。
 負けるもんか。負けるんじゃないぞ、とキミは声にはださずに、自分で自分をはげました。
 子どもが、大きくなるのをいやがれば、まわりからいろいろいわれたり、さまざまなことをされるのは当然なのだ。なにしろこの世の中では、子どもは大きく育って行くものときまっている。
 そのきまりにさからって、成長拒否をやっているのだから、つらいことがあるのは当りまえ。いま、こうして、モグラのように穴を掘っているのも、成長拒否が成功している証拠だろう。負けてたまるか。がんがん掘ってやるぞ。えいっ!
 鉄棒が小石に当って、赤く小さな火花が散った。
「あっ、きれい」とハルがいった。
 そしてハルも火花をだそうと、鉄棒にちからをこめたようだ。
 がちんがちんと音が出て、いくつも火花が散った。ほんとうに小さな、そして一瞬の火花だ。しかしそれは大きく、キミとハルの心をなぐさめてくれた。
 キミも火花に向かって、
「きれいだ」といった。
 もうそのときには、とっくに火花は消えていたけれど、キミは火花をほめたのである。
 まぶたを強くとじると、まぶたの裏がわに、いくつもの火花が見えた。それは楽しいイメージだった。
 キミはハルにいった。
「やっぱり、おれたちモグラじゃないよな。モグラには、火花は見えないと思うんだ」
「モグラはかわいそうだなあ。穴掘りばかりしてるのに、火花も見えないのか」
 このあと、キミたちは穴を掘りながら、ずいぶんでたらめだけれど、モグラのために歌をつくった。
モグラちゃんはかわいそう
いつでもどこでも
暗やみ穴のなか
穴から穴へのトンネル旅行
穴を掘っても火花は見えない
お花見もできない
モグラちゃん
ミミズのマカロニ
ごちそうちゃん
 こういう歌を十回以上、うたうたびに曲が変わって、それでもつっかえずにうたいおえたら、脱出のための穴は完成していた。
 キミたちは、はいずって物置を出たのだ。
 見上げる空には、たくさんの星があって、火花のように輝いていたのである。
 <復しゅう>ということばを、キミが何回もかみしめはじめたのは、ふとんにはいってからだ。
 それまでは、かなりこっぴどく、母親に叱られた。なにしろキミは全身、土ぼこりにまみれ、服はぼろぼろに近いほどやぶれていた。そして家に帰りついたのは、午後九時を五分も過ぎていたからである。
 母親に何をいわれても、キミはだまり続けた。兄のつめたい目にたいしても、にらみ返したりはしなかった。
 父親がまだ帰ってきていないのが、ただひとつの救いだった。もちろん母親は、
「お父さんにはいいつけます」をくりかえしたけれど、それはこわくない。
 父親は母親の言いつけ≠必ず何分の一かに割引いて判断してくれるからだ。
 母親に叱られているあいだじゅう、キミはハルのことを考えた。あいつも、きっと家の人に叱られているだろうと想像するのがつらかった。少年狩猟団の団長としてすまないと思う。今回の作戦は完全に失敗だった。
 失敗の責任はすべて団長の自分にある。団員諸君(といっても、いまはハルひとりだけだが)ゆるしてくれ。ほんとうに申しわけなかった。というふうに、ことばを胸の中で重ねていると、鼻の穴の奥が痛熱くなり、涙が目にあふれてきた。
 涙を見ると、母親の態度が変わった。
「反省してるのなら、もうこれ以上はいわないけど」
ということになったのだ。そして、
「早くねなさい」とやさしくいわれた。
 もちろんさっさと、それでも歯をみがいてから、キミはふとんにもぐりこんだ。
 そして<復しゅう>ということばになった。車いすの女め、かならず、復しゅうしてやるぞ。
 目をとじると、また、火花が見えた。これは、とキミは思った。復しゅうの火花だ。
 おれたちは復しゅうの火花を散らし続けなければいけない。少年狩猟団の諸君、復しゅうの火花をたやすな。復しゅうの火花を。
 火花が流れ星のように消え去ると、キミは眠りの暗やみに落ちこんで行った。

 起きると、からだのあちこちが、ぎくぎくいう感じで痛かった。でも、それを、口にだすわけにはいかない。きのうの、きょうだ。失敗した日のあくる日だ。
 いつもより元気なふりをしていよう。からだのあちこちめ、ぎくぎく泣くな。痛がるな。
 さあ、大きな声でいおう。
「行ってきまーす」
「帰りに病院へ行くのを忘れないでね」と母親の声が追いかけてきた。
 忘れるもんか。たとえ学校へ行くのは忘れても、病院は忘れない。
 復しゅうだ。車いすの女に復しゅうだ。身体障害者かもしれないけれど、あの女のやったことはゆるせない。人間どうしの対決だ。身体障害者だからといって、あの女のやったことをゆるすなんて、それこそ人間的じゃないと思う。やっぱり復しゅうだ。火花だ。車いすに火花だ。女に火花だ。病院に火花だ。人間対人間の火花だ。
 キミの顔を見るとすぐに、ケンがいった。
「ハルが病気になったよ。すごい熱をだしてねている。朝から医者もきたしね」
「なんの病気なの」
 つとめて落着いた声でキミはたずねた。
「はっきりはわからない。でも、心配がひとつあるんだ。キミだから教えるけど」とケンは声を小さくした。
「狂犬病の心配がある」
「キヨーケンビョーだって」
 キミは思わず、でっかい声をだしてしまった。狂犬病はあまりにも意外だった。どういうことになっているのだ。
「ハルはねえ、狂暴な犬とたたかったらしいんだ。秀麗を散歩させてたら、急に大きな犬がとびかかってきた。土佐犬かもしれない。いや、グレートデンかな。とにかく秀麗はちぢみあがってしまった。そこでハルがその大きな犬とたたかうことになったのだ」
 キミにはもう事情がわかった。ハルも脱出のために、どろどろ・ぼろぼろになっていたので、うその事件をでっちあげたのである。そう、狂言というやつ。でたらめ事件。それにまんまと、家のひとたちがひっかかってしまった。兄のケンも、すっかり本気にして、狂犬病の心配をしている。
 しかし、熱をだしているのはほんとうらしい。やっぱり、疲れすぎたのだろう。おれだって、まだ全身が痛い。
「それで、ハルはどうなるのさ」
 狂犬病の心配ではなくて、狂犬病の心配のために、ハルがどういう扱いをうけるのか、それが気になる。
「とにかく、発病をおさえる注射をやる。血清っていうやつさ。そして様子を見るんだ。それから保健所が犬をさがして、狂犬かどうかを調べる」
「その犬、つかまるかな」
 つかまるわけがない。そんな犬ははじめからいないのだ。幻の犬だ。幻犬。
「つかまってほしい。そして狂犬じゃないことがわかれば安心できる」
「でも」とキミはいった。
「その、血清を注射すれば、発病はしないんだろ。おれ、まえにテレビで観たことがあるぞ。外国映画だったけど、血清の注射で助かった話」
「うん、たぶんだいじょうぶだろうと医者もいってた。だけど、血清がすぐに手にはいらないかもしれないんだ。なにしろ、いまは、狂犬病がほとんどないから、病院に用意がないかもしれないんだってさ」
 日本では、もう何年も、狂犬病が発生していないという話は聞いたことがある。だから安心していればいいのに、ケンはなおさら心配している。弟のことがすきなのかなあ、弟のハルは、兄のおまえのことなんか、まるで問題にしてないのに。
「とにかく、おれ、ハルを見舞いに行くよ。おれもやっぱり心配だから」
 キミがそういうと、ケンはうなずいた。
「ありがとう。ハルはキミのことを尊敬してるんだ。最近はことば使いまでキミに似てきている」
「ハルはすてきなやつだよ」
 おまえの弟にはもったいない、とはいわなかった。
 とにかく学校が終わったらすぐに、ハルの見舞いに行くことにした。そのあとで小児病院へ行く。そして車いすの女をさがす。

 キミはいったん駅前の商店街まで行って、タイ焼きを二個買った。二個分のカネしか持ちあわせがなかった。でも、気持の問題だから、二個で充分だと思った。
 一個づつわけあって、タイ焼きを食いながら、ハルと語りあうことにしよう。
 ちょっとわびしいけれども、少年狩猟団としての会食なのだ。タイ焼きパーティ。
 タイ焼きのあたたかさを手のひらに感じながら、キミはハルを見舞いに行って、それまでの軽い気持をふっとばされた。
 ハルの病気は意外に重く、医者の言いつけによって、大きな病院に入院と決定したというのである。
「高い熱のために、意識がもうろうとして、うわごとばかりいっている」とケンが教えてくれた。
 救急車ではなくて、寝台自動車というのが迎えにくるそうだ。それを待つあいだに、ちょっとだけでもハルにあわせてほしいと、キミはケンにたのんだのだが、意識がないのだから、あっても仕方がないといわれてしまった。
 キミとしては、ハルのうわごとの内容が知りたい。ハルにとっては、あの病院の物置にとじこめられたのが、ひどいショックだったのかもしれない。それならば、なぐさめのことばがある。
 たとえ意識がもうろうとしていても、耳に口を寄せて、
「ハル、しっかりしろ、おれたちは脱出に成功したぞ」とくりかえせば、きっと心は安まるはずだ。それをやってやりたい。
「どんな、うわごとをいってるんだい、ハルは」と、たずねても、ケンは、
「知らない。おかあさんにも、わけがわからないらしい。とにかく高い熱なんだ」
というばかりだった。その上、
「あとでまた病院も教えるから、いまは帰ってほしい。入院準備でいそがしいんだから」といわれてしまった。
 じっさい、ケンはなんども母親に、手伝いなさいと呼ばれていたのだ。あきらめて、キミはケンとハルの家を離れた。
 ものすごく心配だ。気がつくと、手に持っていたタイ焼きがつぶれ、あんこがぐっちゃりととびだしている。いつのまにか、かたくにぎりしめてしまったのだろう。
 ハルとふたりでのタイ焼きパーティもできなくなった。キミは責任を重く感じた。それと同時に、車いすの女への憎しみが強まった。キミはタイ焼きを道ばたのゴミ入れに叩きこんだ。
 十五分後には小児病院についていた。もちろんすぐに、ケースワーカーのスギさんはどこにいるかと受付できいた。
「スギさんは、きょう、お休みです。もしも個人的なご用なら、寮のほうへ行ってみてください。たぶん寮にいると思いますよ」
 受付の女の人は、キミを子ども扱いにして、かなり親切だった。キミもていねいに、
「どうもありがとうございました」とあたまをさげた。
 ところが、寮はどこだかきくのを忘れた。もう一度、ききなおすのは恥かしい。キミは通りかかった看護婦にたずねた。
「寮って、どこにあるんですか」
「寮は、この病院の隣の林の中よ」
「隣って、どっちの隣?」
「向かって右。左は道路でしょ」
 ああそうかと気がついて、キミが舌をぺろりとだすと、看護婦は笑いながら受付の隣の薬剤室へはいって行った。
 キミは病院の玄関を出て、右隣を見た。林なんかあっただろうか。
 へえ、と思った。林なんていうから、たくさんの木がはえているように考えたのだ。ところが実際は、せいぜい二十本ぐらいの木が植えられているだけなのである。
 でも、木は全部、白い幹のシラカバで、しかも手入れがゆきとどいているので美しく見える。キミたちの学校の校庭のすみにも二本のシラカバが植えてある。けれど、二本では殺風景だ。シラカバは二十本でようやくさまになる。
 シラカバの林(?)をぬける細い道をたどって、キミは進んだ。
 向こうに見える山小屋風の建物が寮なのだろう。あらためて、キミは、復しゅうの火花を、心のなかに点滅させている。


紅しょうが色のインディアン

 建物ぜんたいが白いのだが、玄関のドアだけがことさらに白い。おそらく、ごく最近に白く塗りなおされたのだろう。それとも新しく取りかえられたのか。
 そのまっ白なドアの右隣の柱に<しらかば寮>という大きな表札がかかっている。
 車いすの女にあったら、はじめになんといってやろうかな。
「おまえのために、ハルが病気になってしまった」と、どなってやろうか。それとも、ぐっと怒りをおさえて、
「どういうつもりで、おれたちを物置にとじこめたりしたのか」と、たずねようか。
 めんどくさい。いっそのこと、いきなり、バカヤローとどなってやるか。
 考えながらキミが白いドアまであと三歩というところまで近づいたとき、ドアがいきなり向こうから、さあっという感じで開いた。
 そして、車いすの女が、ぐるんと出てきた。女はキミを見てにっこり笑い、
「かならずくると思ってたわ。ようこそ、いらっしゃい」といった。さわやかな声だ。
 タイミングを狂わされて、キミは口もきけない。くやしくて顔が赤くなる。
 さあ早く、文句をいってやれ。どなりつけてやれ。もうひとりのキミが命令するのに、キミはまるでだめなのだ。
 くやしくて、もういまにも倒れそうだ。足を踏みこたえるのが精いっぱいのキミだった。ああ、なさけない。だらしない。
 車いすの女はさらにキミに近寄ってきて、キミの腕を白い手でつかんだ。化粧品の匂いがただよう。しゃくだけど、甘ずっぱいような、ほんとうにいい香りだと思う。
「りっぱだったわよ、あんたたち。よく自分たちの力だけで、あそこをぬけだすことができたわね。あたし、現場を見に行って、とても感心しちゃったの。あんな、こわれたベッドの鉄棒なんかで、あれほどの穴を掘るなんて、すごいと思う。あなたたち、まったくえらいわ」
 ようやく口をきけるようになった。
「しょうがないじゃないか。あんなところに、いつまでもいられるもんじゃないだろ」
 車いすの女は大きくうなずく。
「そうよ、その通りだわ。でも、自閉症の子どもだったら、なにもしないで、暗い物置のなかにうずくまっているだけよ、きっと。その点、あなたたちは、自閉症とはなんの関係もない健全な精神の持主というわけね」
 自閉症ということばから、キミが片目つぶりの女の子をおもいだしたのはもちろんである。
 およそ女の子らしくないような大股で、ずんずん歩き、病院の玄関から出て行ったうしろ姿をはっきりおぼえている。母親がおろおろして追いかけて行った。
 女の子はあんまりにも大股で歩くので、からだが左右にかくんかくんと揺れて、まるであやつり人形のように見えた。奇妙な感じだった。キミはかなしい気持で、片目つぶりの女の子を見送ったのだ。

 キミは車いすの女にたずねた。
「まさか自閉症かどうかをテストするために、おれたちを物置にとじこめたわけじゃないだろ」
「その、テストのため、だったらどうする」
「だっておまえ、じゃなくて、あんたは医者じゃないんだから、そんなテストなんて」
 やるわけがない、というのか、やる資格がないというべきなのか。たとえ資格があったとしても乱暴だ。あんなテストはむちゃくちゃだ。げんに、あのテストのために、ハルが病気になってしまった。
 またまたキミの内部に怒りがこみあげてきた。泣きたいほどに気持が高ぶっている。そういうキミの顔色をいち早く察したのだろう。車いすの女は、また白い手でキミの腕をつかんだ。ふりほどこうとしたが、女のちからは意外に強い。車いすを動かしているため、いつのまにかきたえられてしまったのだろう。キミはあきらめて、じっとしていた。
「ごめんなさい。物置にあなたたちをとじこめてしまったことはあやまるわ。でも、あたしは、あなたを信じてたのよ。あなたなら、きっと、なんとかしてぬけだすに違いないと信じてたの。ぜひ、そうしてもらいたかったのよ」
 女のことばには真剣さがあふれている。キミはまともに女の目を見て、
「どうして、ぼくに」といった。
 理由をききたかったのだ。なんで車いすの女は、キミを物置にとじこめ、キミがぬけだすことを信じ、期待したのか。
 信じたこと、期待したこと、やったことが、まともじゃない。異常である。相手がつい先ほど口にしたことばでいうなら、どうにも健全な精神の持主とは思えない。
「実は」と女はいった。
「あなたと友だちになりたかったの。あなたが三年生の二学期からぜんぜん成長していないということは、調べてわかったし、それにセメント製の動物たちのこともわたしにはすぐにぴんときた」
「見てたのか」
「いいえ。見てれば、やっぱりやめさせたでしょうね。あたしだって病院の職員だもん。病院のものがペイントで汚されるのをだまって見物してるわけにはいかないでしょ。でも、とにかく、あんなことをするのは子どもだと思ったし、それにあなたが動物たちの行方を探していたし」
 ここで女は、いったんことばを切ってから、
「あれは悪いことじゃないと、あたしは思っているのよ」とキミの目をみつめながらいった。
 いたずらっぽい目で笑っている。キミは気持が軽くなり、車いすの女に対する怒りはとっくにどこかへ消えていた。
 車いすの女は、友だちになりたいといった。キミは男だ。男と女が友だち同士になれるものだろうか。しかも、おとなの女と、子どもの男だ。いくら若く考えても、十歳以上は歳の差があると思うのだ。そういう関係で、友だちになれるのか。それが問題である。
 いや、その前の問題がまだ残っている。問題は順番に片づけよう。なぜ、車いすの女はキミと友だちどうしになりたがるのか。
「ぼくと友だちになりたいっていうけど、それ、なんでなの」
「もちろん、理由はいうわ。でも、この話、かなり長くなるのよ。だから、ねえ、よかったら、あたしの部屋にこない。あなたのために、ケーキも用意してあるわ」
「ぼくのためにだって」
「そうよ、あなたがあたしのところへくることは、ちゃんと予想してたもん」
 女は車いすをぐるっと回転させた。
 キミはためらいなく、車いすを押して白い建物<しらかば寮>のなかへはいって行ったのである。

――スギ・アキコの場合も、やはり小学三年生のときだった。
 秋の遠足のことで、担任の先生がクラスのみんなにいった。
「もう三年生なのだから、どこへ遠足に行くか、みんなで話しあって決めなさい。今週の学級会は遠足がテーマだよ」
 先生は話しあいが好きだった。でも、たいていのことは話しあいでは決まらずに、多数決で決まってしまう。多く手があがったほうが勝ちなのだ。先生はそれも満足で、
「うちのクラスは民主的だから」とにこにこしていた。
 いつも、といっていいほど、スギ・アキコは多数決で負けるほうだったから、民主的というのが好きになれず、学級会というと、いやな気分に襲われた。
<どこへ遠足に行きたいか>
 こういうことで学級会をやると、かならず、お調子者がすぐに発言する。
「ハワイへ行きたい」とか「世界一周」とか、できるわけがないことを口にするのだ。そしてこれにすぐ悪ノリするやつが出る。
「宇宙旅行がいい」「火星へ行こう」などといいだし、教室はわいわいがやがやの混乱となる。
 それでも先生はにこにこして、だまっている。議長がさけぶ。
「もっとみんな、まじめにやってもらいたいと思います」
 これがきっかけで、発言が整理されてくる。それをさらに先生が整理する。そして結局は、毎年、三年生が遠足に行っているような場所のふたつぐらいにしぼられてしまう。
@なんとか公園
Aどことか山
 どっちに決めるか多数決。スギ・アキコはAの、どことか山にしたかった。なんとか公園は、親に連れられて行ったことがある。面白くなかった。
 しかし、なんとか公園は宣伝が派手だから有名である。やっぱり多数決では、なんとか公園が勝ち、スギ・アキコはまた負けた。
 だが、どことか山を希望する者も十人以上はいたのだ。有名なだけに、前に行ったことがある子も多かった。そういう子は、どことか山のほうに手をあげて、負けてしまった。
 議長が結果を発表した。
「二十三対十四で、遠足は、なんとか公園に決定しました」
 先生がそれを、学人主任の先生に報告するといった。遠足はクラスごとではなく学年単位だから、学級会の決定だけでは本決まりではない。それでもとにかく、先生は満足らしい顔をしていた。
 思い切って、スギ・アキコは発言を求めた。多数決にがまんならない気持だったのだ。
「遠足をふたつにわけてください。どことか山がいいっていう人だって、十人以上もいるんだから、べつべつにすればいいと思います。なんでも多いほうに決めて、すくないほうがそれに従うばかりでは、わたし、いやです」
 そうだ、という声もあった。
 ところが先生は、ものすごくおそろしい顔――鬼のようだとスギ・アキコは思った――でいったのである。
「おまえは、民主的に決まったことに反対する気か。自分勝手なことをいうな!」
 泣きたいのをけんめいにこらえた。次の日から、学校なんか休みたかったけれど、休めばなおさら負けだから、ちゃんと登校した。
 そしていよいよ遠足の日がやってきた。行きたくない、なんとか公園。
 朝。起きようとするのに、どうしても立ちあがることができない。起きようとする気持よりも、ずっと強い、歩きたくない気持が、スギ・アキコの内部ではたらいていたのだろう。
 そのときから、スギ・アキコは車いすを使う身になったのである――。
 だしてくれたのは、チーズケーキだった。チーズケーキは、どちらかといえば、おとな向きの味だけど、キミは好きだった。大きくなることを拒否しているのに、おとなの味のチーズケーキが好きというのはおかしいだろうか。しかし問題は別である。
 きらいはきらい、好きは好き。それでいいのだ。それでいいじゃないか。
「わたしが、あんたと友だちになりたいっていう気持、わかってもらえたかしら」
 車いすの女=スギ・アキコもチーズケーキを食べながら、キミにきいた。
 キミはうなずいて、同時に、口の中のチーズケーキをのみこんで、
「うん、とてもよくわかった。スギさんも、やっぱり健全な精神の持主なんだね」といった。
 スギさんは美しく笑った。
「そうよ、あたしやあなたのような人間こそが、まさに健全な精神の持主なのよ。さあ、おたがいの友情のために乾杯しましょ」
 白い手でコップを持ちあげる。
 キミもコップを持ち、スギさんのコップに接触させた。こころよい響き。
「カンパーイ!」
 でもこれは、酒ではなくて、紅茶なのである。ぐいっと飲んで、キミはいった。
「スギさんも、少年狩猟団にはいってもらいたい。いま、団員がひとり入院中だけど」
 ここで急にハルのことが心配になりはじめた。スギさんの話に熱中しすぎて、ハルのことを忘れていたのを反省する。見舞いに行かなければ……。いや、それよりも、ハルの病気が、物置にとじこめられたショックのためだとすれば、その責任はスギさんにある。その責任追求の前に、乾杯などしたのは間違いではないのか。キミはやや口ごもりながらスギさんに伝えた。ハルの病気を。
「もちろん、お見舞いには、わたしもいっしょに行くわ。それだけが原因とも思えないけど、とにかく責任は感じるから。でも、それと同時に」とスギさんはいったのだ。
「動物たちの行方を追うことも大切よ。わたしとしては、あの動物たちをもう一度、病院の玄関前に並べてやりたい」
「おれ、学校の校庭に置いてやりたいんだ」
「それも、すてきなアイデアね。とにかく、あっちこっちに、あのけったいな色彩の動物たちを出没させて、常識的なひとたちをびっくりさせてやらなきゃ」
 スギさんの目がきらきらと光っている。また、化粧品の匂いがただよった。いい香り。美人だ、とキミは思う。美人なのに、ぶっそうなことをいう。
 しかし、白セメント製の動物たちをあちこちに移動させるのは大変である。とても少年狩猟団ができることではない。二名の小学生と車いすの女では無理だ。できても一頭か二頭の持ち運びだろう。それでは、ひとびとをおどろかすことはできやしない。
 どかっと行かなきゃだめだ。ずらりと並べなければ効果的じゃない。
 キミは急に、インディアンのことをおもいだした。
「そうだ、インディアンにたのもう。インディアンなら、きっとやってくれるぞ」

 インディアンは純情だった。
 たとえ車いすの女とはいえ、スギさんは若い美人である。それがいきなり目の前にあらわれたのだから、もうしどろもどろで、顔面はまるで紅しょうがのようになってしまった。
 動物たちの運搬をスギさんがたのむと、インディアンはすぐに承知した。
「いいですとも。ここはチリ紙交換のトラックが何台もあるし、大型のトラックだってあるんです。ぼくだって運転はできるから、いつでもOKです」
「でも、この仕事はきっと夜になると思うの。いいかしら」
「夜なら、なおさらOKです。夜は、ぼくひとりですらね、ここは」
 キミがインディアンにいった。
「だけど、おにいさんは、留守番だろ。その留守番が出かけるのはまずいんじゃないの」
 おにいさんと呼ばれて、インディアンはまた照れた。くちびるが、とんがる。
「だ、だいじょうぶだよ。すこしぐらいいなくても平気さ。いままでだって、ふろ屋へ行ったりしてるんだから」
「留守番なら、あたしがするわ。どうせわたしは、運搬には役たたずだし」
 インディアンはスギさんの車いすを、かなしそうな目つきで見た。キミはインディアンに同情した。
「おまえは、スギさんがなぜ、車いすを使うようになったかを知らないから、そういう目つきで車いすを見るのだ。スギさんの車いすは、そういう目つきで見るような、不幸なものじゃない。そうさ、健全な精神の持主の乗物なんだよ。いまにきっと、おまえにもわかるさ。おまえだって、心がけ次第では、おれたちのような健全な精神の持主になれるんだ」
 こういうふうにいってやりたかった。でもこれは先のことになるだろう。
 おそらく照れかくしのためもあって、インディアンはキミにきいた。
「ほら、あの、赤いゾウの持主はどうしたんだい。きょうはいっしょじゃないんだね」
「ハルは病気さ。入院してるよ」
「そうか。こないだは元気そうだったのにな。病気はなに」
「わからない。おれたちあとで、ハルの家にききに行くんだ」
 スギさんが車いすを回転させた。
「さあ、行きましょう」
 ふり向いて、インディアンにいった。
「それじゃ、お願いしますね。あとで場所を連絡します」
 なんどもうなずくインディアン。手を振って車いすに続くキミ。
 やがてキミたちは、ハルの病気について、意外な事実を知らされるのだ。


ピンク電話を使って

 せっかく病院まで行ったのに、ハルに面会することはできなかった。
 まだ、どういう病気かわからないので、医者から、面会禁止をいいわたされているのだという。
「いまも熱が四十度もあって、うわごとばかりいってるんです。脳膜炎だったりしなければいいんだけど」
 ハルの母親は、おろおろしながらキミたちにいった。もう狂犬病のほうの心配はなくなったのだろう。もちろんキミははじめから、狂犬病のことは気にかけなかった。しかし、いまもまだ熱がさがらないというのは気がかりだ。いったいどうなってしまったのか。
 物置にとじこめられたショックから、なにか、たちの悪い病気になってしまったのかもしれない。だがそれにしても、どういう病気かもわからないなんて、おかしいとキミは思った。キミはスギさんにたずねた。
「病院でも、病気がわからないなんてことあるの?」
 スギさんは、ハルの母親に、
「どうぞおだいじに」
といい、病室の前をかなりはなれてから、キミにこたえてくれたのだ。
「もちろん、病院の先生にも、病気がわからないということはあるわ。でもねえ」
「でもねえって、なにかあるのかい、スギさん」
 スギさんは声をひそめ、キミの腕をつかんでひきよせると、耳もとでささやいた。
「このカワナミ病院っていうのはね、評判のよくない病院なのよ。ここへ入院したために、助かる病人も助からなかったといううわさもあるし、四年も入院してちっともよくならなかったひとが、よその病院へ移ったらすぐによくなったという話も聞いたし、とにかく、医者はヤブぞろいらしいわ」
「ハルって不幸なやつだなあ。こんな病院へ入院させられちゃって」
 キミが大きな声をだしたので、スギさんがあわてて腕をひっぱった。車いすできたえた強いちからである。
「痛てえ!」
「だめよ、そんなこと大きな声でいっちゃ」
「うん。でも、痛すぎるよ」
 これはふざけっこではない。少年狩猟団のただひとりの団員であるハルが高い熱をだして苦しんでいるというときに、団長のキミが、うじゃじゃけたふざけっこなど、していられるわけがないのだ。
「さっき、ハルのおかあさんがいってただろ、あの、脳膜炎ってどんな病気?」
「脳膜炎っていういいかたは、いまはあまりしないで、髄膜炎っていうようになってるんだけど、むかしの子どもがよくかかった流行性髄膜炎は、いまはほとんどないはずなのよねえ。あのおかあさんは、脳膜炎ということばで、脳の病気の心配をしたのかもしれないわね。高熱が続いているということは、たしかに脳炎のうたがいもあるわけだし」
 キミはぞっとした。よくない想像だ。まさか、あの明るい少年のハルが――。
「脳炎ということは、もしかすると、ハルのあたまがだめになるということかよ」
 キミは怒っていたのである。
「くだらないこというなよ、ハルがパアになんかなるわけないだろう」
 スギさんも深くうなずいた。
「そうよ、そんなバカなことはありえないわ。髄膜炎だの、脳炎だのって、そんなこと」
 あってほしくない、という願いをこめたことばだった。キミは早口でいった。
「ねえ、スギさん、ハルをもっとほかの、ちゃんとした病院に移そうよ。たのむから、その手続きをしてやってくれ。おれ、おばさんに、そのことを話してくる。さあ、早く」
 キミは車いすのうしろに回り、車いすをぐうんと押した。玄関のわきにピンク電話がある。電話を使って、いい病院へハルが移れるようにしてほしいというわけだ。スギさんなら、あちこちの病院に知りあいが多いことだろう。
 キミが考えたとおり、スギさんはピンク電話に近づき、ダイヤルを回わしはじめている。キミは走ってハルの病室へもどった。
 ノックする。ハルの母親が出てくる。
 キミは、背のびして、小さな声で、
「話があるんです」といった。

 ハルの母親は転院をしょうちしなかった。前の病院の先生が、せっかく紹介してくれたのだから、勝手にほかの病院に移すことはできないというのだ。
「でも、この病院はヤブで、へっぽこなんです。だからハルくんのために、ほかのいい病院へ移してやってください」
 キミが何回もそういうのに、ハルの母親はききいれてくれない。キミはもう泣き声になり、さらには腹が立ってきた。
「おばさんは、おかしなひとだな。おれはハルのために病院を変われといってるんだぞ。それなのに、前の先生の好意がどうの、この病院にめいわくをかけるからとか、くだらないことばかりいっている。大切なのは、そんなことじゃなくて、ハルだよ。ちがうっていうのかい」
 ここへハルの父親がやってきたのは幸運だった。もしも父親のくるのがもう三分もおそかったら、キミはハルの母親にとびかかっていたかもしれない。
「まあまあ、お話はわたくしがうかがいますから、大きな声をだしたりせずに」
 と、父親はおちついた声でいった。そして廊下の長椅子に自分から腰をおろした。
「どうぞ、おかけください」
 父親の態度はまるで、子どもをばかにしたところがない。キミは気にいった。あとでケンにきいたら、この父親はある建設会社の苦情処理係なので、ひとの話をきくのがうまいのだという。ひとの話をきく専門家なのだ。
「で、あなたは、うちのハルとどういうご関係ですか」
 キミはしゃべった。少年狩猟団のことはいわずに、自閉症のテストのために、小児病院の物置にとじこめられたといった。
「自閉症のテストとは、初耳ですな。しかも、うちのハルまでがそういうテストを受けるなんて」
 キミは巧く説明した。
「テストは、ぼくのためだったんです。でも、ハルくんがひとりじゃさみしいだろうから、いっしょに受けてやるって、そういってくれたんです。ほんとうですよ、おじさん」
「いいえ、疑っているわけではありません。そうすると、つまり、ハルが犬にかまれたということはないわけですね。それはよかった。それを教えてくれただけでも、わたくしは、あなたに感謝いたしますよ」
「だから、おじさん」
と、キミはいった。話が急に、だからになるのはおかしいけれど、キミはあせっていたのだ。ハルのために、話は早く片づけなければならない。だから、だからなのだ。
「ハルくんは、狂犬病以外の病気なんです。それを早くわからせて、ちゃんとした手当てをしないと大変です。そうでしょう、おじさん」
「もちろんです。しかし、ハルはちゃんとこの病院に入院しているではありませんか」
「この病院は、だめ病院です。ここでは安心できないと、スギさんもいっています」
「スギさん、というのは、どういうかたなのですか」
「小児病院のケースワーカーで、ほら、さっきいった自閉症のテストをやってくれたひとです」
「ほう、病院関係者ですか」
「そうです。病院関係者が、だめだといってるんだから、この病院は、だめなんです」
 ハルの父親は腕ぐみをした。ぐっと考えこむという姿勢だ。
 車いすのスギさんがやってきた。すぐにキミが紹介する。
「このひとが、病院関係者のスギさんです」
 スギさんは、父親に向かってあたまをさげ、
「おせっかいなようですが、ほかの病院へお子さんを移す手続きをさせていただきました。よろしいでしょうか」
 父親は、母親とちがって、あっさりとしょうちした。立ちあがると、ていねいにスギさんにおじぎをした。
「お世話さまでございます。よろしくお願いいたします」
 父親、つまり亭主からも、
「ハルをほかの病院に移すことにしたぞ」
といわれたのに、ハルの母親はまだぶつぶつもんくをくりかえすのだった。
 キミとスギさんは顔を見あわせては、だめな母親だねえ、ほんとにねえ、という感じでうなずきあったのである。
 だめな母親だから、だめな病院にこだわるのだろうか。だめな母親とだめな病院のためにハルがだめにされてはこまる。
 スギさんの手配で、ハルはシノヤマ病院に移った。そしてすぐに、病気の名前もわかった。
 デング熱。
 めずらしい病気である。もともとは南の地方――熱帯地方の病気なのだが、むかし、九州や関西で流行したこともあるという。高い熱が出て、からだのふしぶしや筋肉が痛む。ぶつぶつもできる。けれど、めったに死ぬことはない。脳がだめになることもない。
 あの、ぶーんと飛んでくる蚊がうつす病気なのである。
 はじめ、病気の名前をきいたとき、キミはてっきり、テング熱というのだと思った。そしてハルが、おっかない天狗のようになってしまうのだろうと想像して、おそろしかった。
 赤い顔に、とんがった鼻。目はらんらんと光り、魔法のうちわを持っていて空を飛ぶことができる。そういう超能力になってしまうのならいいが、顔だけが、天狗のようではほんとうに不幸だ。ああ、かわいそうな、ハル。
 しかし、よくきいてみると、ハルの病気はデング熱というのだった。テではなくてデ。
 とにかく日本ではめずらしい病気なので、大学のえらい先生たちも研究のためにハルを診察するそうである。やっぱり病院を変えてよかったのだ。もう心配はないだろう。

 さすがにキミは、くたくたに疲れてしまった。スギさんと別れて家にかえると、玄関の板の間のところへどっかりすわりこんで、しばらくは動けなかった。
 動けない間に、とつぜん、キミは片目つぶりの女の子のことを思いだした。ほんとうにとつぜんだった。
 しかし、これは、まるっきりの、とつぜんではなかったのである。
 なぜなら、このとき家の中のテレビではUFO――空飛ぶ円盤――のことが放送されていて、その説明者の声がキミの耳にもきこえていたからだ。
 空飛ぶ円盤ということばから、キミはすぐに片目つぶりの女の子を思いだしてしまったわけだろう。
 片目つぶりが両目をひらいて、空飛ぶ円盤を見たという。もちろん、まわりのだれも、それを信じない。
 女の子は気ちがいあつかいされている。もしかしたら、いまごろは、どこかの病院にいれられているかもしれない。
 精神病院。
 きっとそうだ。鉄格子のはまった病室に、女の子はとじこめられている。
 精神病院の病室は、物置とはちがうから、女の子がモグラのように穴をほって逃げだすこともできないだろう。
 家の人はテレビに熱中していて、キミが帰ってきたことに気づかなかったらしい。
 キミがみんなのうしろに立って、テレビを観ていたら、急に母親が、ぎゃあっと悲鳴をあげ、父親も兄も、動物的な声をだしてからだをのけぞらせた。
 もちろんキミもおどろいた。なにか、自分のうしろにいるのかと思ったからだ。しかしそれはちがった。母親はキミにおどろいたのであり、父親と兄は母親の悲鳴におどろいたのである。
「いやねえ、だまってそんなところにいて。あたし、てっきり、宇宙人だと思っちゃったわ」
「おどろかすなよう」
 兄もキミにもんくをいったが、父親はぶすっとだまっていた。おとなの男が、おどろいたところを、子どもに見られて、恥かしかったからにちがいない。たしかに、ぶざまだった。
「宇宙人なんて、いるわけないじゃないか。くだらないよ」
 キミはそういったけれど、実際にそう思っているわけではない。いつか、学校で、宇宙人はいるか、いないかの論争になったとき、キミはクラスの半分以上を敵に回して、宇宙人はいると主張したのだ。
 すぐに兄が、
「そんなこと、わかるもんか」といった。
「宇宙人がいるっていう証拠があるのかよ。おまえ、見たのかよ」
 キミの反撃に兄はこたえられない。こういうときは、逆に、
「いないっていう証拠あるのか」とやりかえしてやればいいのである。ぼくならそうするのに、とキミは思った。世界のあちこちには、宇宙人がいない証拠よりは、いたかもしれないという証拠のほうがたくさんある。なのに、やっぱり、優等生タイプの兄では研究が不足なのだろう。テレビのUFOものなんて、ばかばしくて観てられないのが、UFO研究家というものさ――とキミは考えている。
 明らかに問題をずらす感じで、母親が、
「ずいぶん、おそいじゃないの」といった。
「野球だよ」
「こんなにおそくまで練習やるわけないでしょ」
「練習じゃないよ、ミーティングさ」
 キミも野球部については、それなりに研究したので、練習ではなくて、監督やコーチから話をきくのを、ミーティングということぐらいは、わかっている。それを使ったのだ。
 母親はそれ以上はいわない。
 キミはダイニングキッチンで、もうさめてしまった晩めしを食った。
 食い終わるころに襲ってきた睡魔のものすごさ。睡魔とは、人間をねむらせようとする魔物である。睡魔に勝つことはむずかしい。

 片目つぶりの女の子がキミにいった。
「あなたが、宇宙人だということはわかっているのよ」
「ちがう。ぼくは宇宙人じゃない」
「宇宙人じゃないという証拠を見せてちょうだい」
 キミはこまってしまった。
 スギさんがにこにこ笑いながらキミにいうのだ。スギさんは車いすに乗っていなくて、足はすうっと細くて美しかった。ハイヒールをはいている。スカートはミモレだ。
「キミは宇宙人として、この子のいうことをきいてあげるべきよ。それが宇宙人の義務じゃないかしら」
「でも、ぼくは」
「宇宙人なのれす。ぼくらは宇宙少年狩猟団なのら」
 へんなことば使いでハルがいう。まるで、まんがみたいじゃないか。気にいらないな。まんがをみるのは好きだけど、自分たちがまんがになるなんて、いやだ。
 ところがキミもいってしまうのである。
「そうだ、われらは宇宙少年狩猟団である」
 パチパチと片目つぶりの女の子とスギさんが手をたたいた。
 場所が急に変わって、あたりは暗やみだった。すぐ近くで女の子の泣き声がする。片目つぶりの女の子だ。女の子は苦しそうな声でいった。
「早く早く、石をどけてちょうだい。大きな石が空からふんわりとおりてきて、あたしをおさえつけてしまったの。この石は宇宙の石でしょ。だったら、早くどけてよ。あんたは宇宙人なんだから、どれられるはずよ」
 ハルはいない。キミは手さぐりで石にさわってみた。でっかい石だ。ひとりで動かせるわけがない。すると遠くから、合唱みたいな声が、
「巨人になれ、巨人になれ。おお、宇宙の巨人になれ」といった。
 成長を拒否しているキミに向かって、巨人になれとは、なにごとか。キミは怒りをこめて、暗やみをにらみつけた。


青白い子どもたち

暗やみをにらみつけているうちに、キミは小便がしたくなった。したくなったのだから、仕方がない。
 ねる前にするのを忘れてしまったのだ。それを思いだすと、キミはもう、暗やみをにらみつけるのなんかやめにして、便所に行くことにした。
 戸をあける。スリッパがない。
 足の裏が気持悪いけど、キミはがまんして便器に近づいた。
 すうっという感じで便器が逃げる。
 生きものでもないのに、便器が逃げるなんて、ほんとうにおかしい。
 奇怪な便器め。
 キミは便器を追いかける。
 足の裏が、ますます、べたべたする。
 あたりは、便器ではなくて、浅いプールのようになっている。小さな子どもたちが、水遊びをやっている。どの子も、ひどく顔色が悪い。死人のように青白い。水遊びというよりは、けんめいに手を洗っているようだ。
 キミの足の裏をぬらしているのは、水だろうか。それとも小便か。どっちにしても、すごくいやな気分である。
 早く小便をすませてしまおう。
 ようやく、便器が動くのをやめている。
 だが、便器までの距離は遠い。うまく便器までとどくかどうか。キミは自信がない。
 ますます小便はしたくなる。腹の下のほうが、つっぱる感じだ。
 細い板が流れてきた。プールの水は流れているのである。いや、流れるプールなのだ。
 キミは細い板に乗って、便器に近づく。
 体が右に左にかたむく。おっと、まるで曲乗りだ。
 ようやく便器が近くになったのに、うまくできない。
 うしろのほうで、ひとの声がする。
「早くしろ」と、どなっている。
 もちろん、キミだって早くしたいのだ。けれど、うまくいかない。
 ああ、細い板が揺れる。あぶない!

 まったく、あぶないところだった。もうすこし目がさめるのがおそかったら、もらしてしまったかもしれない。便器がちゃんとしていて、ごたごたなしに小便ができていたら、きっと大失敗していたことだろう。
 いまどき、寝小便をやらかすなんて、よっぽどのドジだ。ふつうの子どもは、ちゃんと、寝小便にブレーキをかけることができる。
 キミはほっとして、ほんとうの便所へ行った。それでも、念のために、ほっぺたをつねってみて、自分が起きているかどうかをたしかめた。
 痛い! 現実である。
 さっぱりした。ぶるぶるっと、ふるえた。
 あらためて、キミは夢のなかに出てきたひとたちのことを考えた。
 片目つぶりの女の子。少年狩猟団の団員、ハル。車いすの女、スギさん。
 夢のなかでは、スギさんはちゃんと自分の足で立っていた。細く美しい足だった。
 ふとんにはいってから、キミは問題を整理してみた。
 まず第一は、片目つぶりの女の子である。
 あの子が片目つぶりになったことについては、キミはなんの関係もない。これははっきりいえる。だが、あの子が、大きな光る物体を見るようになり、小児病院の玄関前にあった白セメント製の動物たちが、その物体――どうやら空飛ぶ円盤らしい――によって、どこかに連れ去られたと思いこんでしまったことに関しては、責任を感じる。
 白セメント製の動物たちが姿を消すきっかけをつくったのは、なんといっても、キミのしわざなのだ。
 片目つぶり女の子に、あいに行こう。そしてほんとうのことをはなしてやる。
 第二問題は、ハルの病気だが、これはまもなく、よくなるはずだ。病院を出てきたら、やさしくしてやろう。
 スギさんにはやはり、車いすから降りてもらいたい。でも、ふつうに歩けるようになったら、スギさんは美人だから、どこかへお嫁に行ってしまうかもしれない。それは困る。この問題はむずかしい。当分おあずけだ。
 ……と、なると、やはり、さしあたっての問題は、行方不明の動物たちをさがしだすことである。
 片目つぶり女の子だって、ちゃんと動物たちを見せてやれば、空飛ぶ円盤のことなんか、すぐに忘れてしまうだろう。そうなってほしい。
 ハルの病気だって、動物発見を報告すれば、よくなるのが早まるに違いない。そして、スギさんとおれはますます仲よくなる。
 ――というぐあいに、キミは問題を整理した。
 それにしても、とキミは思ったのだ。世界じゅうのどこに、おれみたいな小学生がいるのだろうか。ほんとにおれは、苦労の連続だ。
 自分の妹でもないのに、片目つぶりの女の子のことを心配しているし、ハルのことも気にかかる。勉強しているひまなんか、まるでないじゃないか。
 しかし、母親は、口やかましいのである。もっと大きくなれというし、勉強もしろという。ああ、ふつうに育って、勉強ばかりしている連中がうらやましい。
 でも、キミは、ふつうの道を選ばなかったのだ。苦労の連続も、もとはといえば、自分がまいたタネである。自分でまいたタネが、大きく育てば、やはり自分で刈取らなければならない。苦労のタネは、成長拒否などしないのだ。苦労のタネはぐんぐん伸びる。
「負けるもんか」
 キミが大きな声でそういうと、
「うるさいな。まだ夜中だぞ」
 兄が寝がえりをうちながら、もんくをいった。キミと違って、兄はまったくふつうなのである。だから、兄のことは問題にしても、ちっともおもしろくない。

 学校がおわるとすぐに、キミは小児病院へ行った。そして診察を受けた。
 その日、キザな紳士の医者はいなくて、若い男の医者がキミにいった。
「なにか不満はあるか」
「不満なんか、ありません」
「してほしいと思うことはないか」
「ありません」
「たべたいものはないか」
「ありません」
 ほんとうに、そうなのだ。たべたくないものなら、学校の給食がそうだし、してほしくないことなら、いっぱいある。いっては悪いが、診察だってしてほしくないのだ。
 このほかにも若い医者は「ないか」をいくつも連発したけれど、キミはそれにすべて「ありません」と答えた。
 ついに医者は腹を立てたらしくて、
「きみは、つまり無気力な子どもなのだ」といった。ヤル気がないと、いうのである。
「冗談じゃないよ」といってやりたかった。
 やりたいことはちゃんとあるのだ。でも、それをいえば、医者はますますキミを異常だというだろう。だから、いってやらないよ。お気の毒さま。いいですよ。無気力でも、ヤル気なしでも。早く帰してくれれば、それでよろしい。
 キミは回転いすの上で、足をぶらぶらさせていた。医者はその足をぴたんと叩いて、「もう、帰りたまえ」と、つっけんどんにいった。
 キミはだまって診察室を出た。するとそこに、にこやかな美人の顔があった。スギさんがキミを待っていてくれたのだ。
「ついにわかったわ」
 スギさんはそういったあと、顔から笑いをひっこめた。
 悪い予感が、キミの背中を走る。
「でも、動物たちは、最悪のところにいるの。ひどい話だわ」
「最悪のところって、どこなのだ」
「夢の島よ。ゴミ捨て場」
 聞いたことがある。ゴミを集めて、海を埋めているところ。ゴミでつくられた新しい陸地が、なんで、夢の島なのだろうと考えたけれど、それ以上の関心は持たなかった。
 ところで、その夢の島が、にわかに、キミの現実にくいこんできたのだ。
「病院では週に一回、ゴミ処理の業者にたのんで、ゴミの始末をしてもらっているわけ。病院のゴミは当然のこと、燃やしてしまうのだけれど、あの動物たちは燃えないので、ほかの業者に、夢の島へ運んでもらったんですって」
「おれ、夢の島へ行ってくる」
とキミはいった。自分がペイントを吹きつけた動物たちが、きたならしいゴミといっしょにされているなんて、たえられない。救いだしてやりたい。救出作戦、ただちに開始だ。

 インディアンのところへ、また、スギさんといっしょに行った。インディアンはもうほんとうに感激してしまって、すぐにでも夢の島へのりこむといった。
 インディアンはかなりおっちょこちょいなのである。スギさんが美人なので興奮してるのか。
「でもね」とスギさんはインディアンをたしなめた。声がやさしすぎる、とキミは思う。
「名まえは夢の島でも、やっぱりゴミだらけのところなんだから、いまからじゃ無理だと思うわ。暗くなったら、どうしようもないでしょう。昼間じゃないと、探せないんじゃないかしら」
「そ、そりゃ、もちろんです」
 調子いいぞ、インディアン。キミはインディアンにいってやった。
「でも、おにいさん、昼間はだめだろ。夜じゃないと、自動車も動かせないんじゃないの」
「いや、そんなことはない。ここの車は、みんなおれの自由になるんだ。なにしろ、おれは、管理人だからね」
 インディアンは、胸を張ってそういったのだ。うそつけ。おまえは管理人見習じゃないか。しかも、アルバイトの。しかし、いまはインディアンの協力が必要である。
「それじゃたのむよ」
 まるで小説やドラマのように都合よく、あしたは土曜日だった。キミは学校がおわったらすぐに、インディアンのところにかけつけると約束した。
 ゆうべ、夢を見たあとで、問題を整理したのがよかったのだろう。夢のあとで問題整理、そしたら、夢の島へ行くことになった。これは不思議なつながりだ。夢から夢へ。
 キミは期待して、土曜日の午後を迎えた。
「夢の島というのは」と、インディアンが教えてくれた。
「だれもが、たやすくはいれるわけじゃないんだよ。ちゃんと許可を受けた車だけがはいって行ける。そうじゃないと、やたらにゴミを捨てるやつがいるからね。いや、ゴミだけじゃない。あそこに死体を捨てれば、すぐにわからなくなってしまう。完全犯罪だって、それこそ夢じゃない。だから、許可が必要なんだ」
「困ったな、それは」
 キミはゴミの山にいる動物たちを想像しながら、ことばのおわりで、ため息をついた。動物救出作戦は不成功に終わるのか。もう一度、キミが大きくため息をつくと、どんとインディアンがキミの背中を叩いた。
「心配するなよ。ちゃんと許可はとったさ。いや、おれが許可をとったわけじゃない。許可をとってるやつの車をかりることにしたんだ。やっぱりバイトでさあ、ゴミ処理の車に乗ってるやつがいるんだよ」
 たちまちキミは、インディアンが好きになる。いいひとだ。金もうけになる仕事でもないのに、ちゃんと協力してくれる。だけど、インディアンは、スギさんのために、スギさんに喜んでもらうために、いろいろ努力しているのかもしれない。きっとそうだ。
 そうなると、おれとインディアンは、ええと、うん、ライバルどうしなのだ。日本語でいうと、恋がたきか。おれだってスギさんは好きだ。キミは夢のなかの、スギさんの細く美しい足を思いだしていた。
 インディアンなら、スギさんのことを、どういうふうに夢見るのだろうか。

 まず、チリ紙交換の小型トラックで出発した。キミは助手席である。
 トラックというのは、運転席がかなり高くなっているので、ふつうの乗用車を下のほうに見ることになる。町の家並も、いつもとは違うふうに見える。キミはまるで地方から出てきたばかりのひとのように、助手席の窓から外の景色をきょろきょろと見回したのだ。
 第一の目的地についた。
 インディアンの友だちの、ゴミ収集車と乗りかえるところである。
 ゴミ集めの車に乗るなんて、もちろんはじめての経験だ。全国の小学生のなかで、いったい何人が、ゴミ収集者に乗ったことがあるだろうか。キミひとりかもしれない。どう考えても、百人はいないだろう。キミは得意になっていた。
「この車、ゴミ集めにしてはきれいだね」
 キミがいうと、インディアンはうなずいた。
「新車だよ。古いのは、ゴミの匂いがしみこんでいて、なれないと気持が悪くなるそうだ。それでわざわざ、新車をかしてくれたのさ」
「親切だなあ」
「なにしろ、おれのダチッコだからね」
 しかし、座席にはビニールがついていて、ごわごわと気持が悪かった。おしめカバーのような感じだ。
 キミは指先で、ビニールをじわじわとやぶいてやった。すこしは風通しがよくなるだろう。
 ひとの姿が多くなる。みんないそがしそうだ。長靴をはいたひとが歩きまわっている。
「中央市場だよ」とインディアンがいった。
 たしかに魚の匂いがする。
 次に海の匂いが近づいてきた。だが、どこにも海は見えない。運河があって、それが海水なのである。もちろん汚れている。
 何本も橋を渡る。
 検問所がある。インディアンが許可証を見せる。係員がじろじろとキミを見た。ゴミ収集車に子どもが乗っているのはおかしいからだろう。キミはそっぽを向いていた。目があうと、ひとは話がしやすくなる。そう思ったから、キミは係員のほうを見ないようにしたのだ。
 係員は、結局なにもいわなかった。そして橋にかかっている踏切をあけてくれた。
 検問所をすぎても、そこが夢の島というわけではなくて、だだっ広い土地があり、ちゃんと舗装された道がはるかに遠くまで続いていた。
「すごく、広いところだなあ。まるで飛行場みたい」
 キミが感心したような声をだすと、インディアンもうなずいて、
「ほんとだよなあ、これがゴミだったなんて、ちょっと信じられない」といった。
「えっ、これがゴミなの」
「そうだよ。ゴミで海を埋めたてたのさ。もとは、ここも海だったんだ」
 チリもつもれば山、ではなくて、ゴミもつみあげれば土地である。
 車は快適に走り続けた。
 海が見えてきた。
「窓を閉めてくれ」とインディアンがいう。
「ハエがものすごいそうだ。うっかりしていると目を刺されるんだってさ」
「ハエが目を刺すの?」
「ああ、白いものにたかる習性があるらしいよ、ハエには」
 キミはあわてて窓を閉めた。よかった。もうすこしおそかったら、ハエがとびこんできただろう。窓ガラスに一ぴきがとまったと思ったら、次つぎにやってきて、黒い点がたちまちひろがってしまった。
 おそろしいところだ。
 動物たちも、ハエに襲われていることだろう。
 ゴミが山になっている。そしてその山の上にずらりと野犬が並んでいた。それはまるで、えものを待ちかまえているオオカミの群れのように思えた。


黄金のかたまりの価値

「これは、とても無理だ」
と、インディアンがいった。
「無理って、それ、どういう意味なの」
 キミは、きっとした表情で運転席のインディアンを見た。
「さがしものなんて、とうていできないってことさ。おれは、このゴミの島のどこかに、黄金のかたまりが埋められているっていわれても、さがす気にはなれないよ」
「でも、おれたちは、捨てられた動物たちをさがしにきたんじゃないか。無理だって、やらなきゃ」
 キミには、黄金のかたまりの価値なんか、はっきりとはわからない。たとえそれが、ずいぶんと高い値段のものだとしても、いまのキミには、白セメント製の、そしてペイントを吹きかけられている動物たちのほうがずっと大切な、すぐれた価値あるものなのだ。
 インディアンがいやがるなら、おれひとりでやってやる。車でここまで連れてきてくれただけでも助かった。インディアンよ、ありがとう。動物たちは、おれひとりでさがすことにする。もうすこしだけでも誠意が残っているのなら、自動車をここに停車させて舞っていてくれ。
 キミはドアを開けて外に出ようとした。
 あわてて、インディアンがひきとめる。
「やめろよ。無理だっていってるだろ」
「やだよ。おれはやるんだ。動物たちをさがすために、ここへきたんじゃないか」
 たちまち十ぴきあまりのハエがはいりこんできた。キミはあわててドアを閉めた。
 あまり大きくはないが、すごく色の黒い、そして動きのすばやいハエである。
「ほら、これで鼻と口をふさげ」
 インディアンがタオルを投げてよこす。顔に当てる。むっと汗くさい。でも、それを気にしてはいられない。インディアンがスプレー式の殺虫剤をまいたのだ。
 ハエはぱたぱたと落ち、羽や足をふるわせながら死んで行った。
「こういうハエが何万何十万といるんだぞ、外には。そして野犬の群れだ。さらに海からの強い風が吹きつけている。あれを見ろ」
 インディアンが指さすほうを見たら、赤い風が吹いていた。
「なんだろう、あれは」
「ビニールかセロハンの切れっぱしだろう。風に飛び散っているんだ。おれの友だちもいってたよ。夢の島ではビニールやセロハンの竜巻きが見られるって」
 たしかに、風はゴミの山にぶち当たると、こんどは逆流するらしく、そこへまた次の風がきて、複雑な竜巻きとなる。
 もちろん風は見えないが、風が運んでいる赤い切れはしは見えるので、それは赤い竜巻きとよぶほかはなかった。
 ゴミの山の上では、野犬たちが吠えている。キミたちが車から出てくるのを待ちかまえているのか。赤い竜巻きにおびえているのか。
「動物学者の研究によると」
 と、インディアンが上半身をハンドルにもたせかけながら、しゃべりだした。
「純粋なオオカミはひとを襲ったりしないそうだよ。ところが犬の血がまじったり、群れに野犬がくわわってくると、ひとに襲いかかるようになるという。オオカミに襲われたという話も、よく調べると、実は野犬だったということが多いらしい。カナダには、いまでも野性のオオカミがすんでいるところがあるんだけど、そのへんで子どもたちが野外キャンプをしても、襲われたことは一度もないといわれている。オオカミよりは、野犬のほうがおそろしいわけだ」
「いいよ、もう」
 と、キミはいった。
「おれも、動物たちをさがすのはあきらめたさ。でも……野犬がこわいからじゃないんだ。おれには……」
 なんだか、涙が出そうになってきた。鼻がつまるような感じだ。
 とぎれとぎれにキミは説明した。とぎれたところは、くすんくすんと鼻を鳴らした音がはいる。

 あの山の上にいるのは
 野犬の群れのように見えるかもしれないけれど
 いやらしい目つきの
 きたたならしいよだれたらしの
 野犬なんかではないのだ
 あの山の上に群れているのは
 ぼくたちがさがしもとめていた
 動物たちにちがいない
 動物たちはあの山にのぼることによって
 それぞれが同じような大きさの
 同じような
 そうだ、同じような精神の
 生きものになった
 ぼくはここから
 あの山の上の動物たちに
 さよならをいおう
 動物たちはほんとうに
 生きものたちの故郷にかえって行くのだ
 やがて風もやみ
 虫たちも息をひそめ
 赤い夕陽が海の向こうに沈むだろう
 そのとき あの山の上の動物たちは
 いっきに
 身をひるがえして
 故郷に向かって走りだす
 走れ 動物たち
 赤い夕陽に毛なみ染めて
 生きものたちの故郷へ――

 キミはインディアンに、ざっと以上のようなことを話したのである。もちろんインディアンはなっとくしてくれて、
「ものすごく、いい考えだ。スギさんだってきっと賛成してくれると思う」といった。
 ところがスギさんは、インディアンの予想とは反対の意見を口にした。スギさんは、キミをののしったのだ。
「動物たちが、赤い夕陽のなかを生きものたちの故郷へかえって行くですって。ふん。そんなの逃避的だわ。問題のほんとうの解決から逃げるための、ごまかしっていうことよ。もう、さがしきれないからあきらめたのなら、ちゃんと、それをいうべきね。それをごまかすために、赤い夕陽だの、ふるさとだのって、まるで安っぽい流行歌みたいなことばを並べちゃってさ」
 キミは脳天をがんとぶちのめされたようなショックを受けた。ショックより、衝撃と書いたほうがぴったりだ。
 ひどい、というよりすばらしい攻撃だ。インディアンも両手で頭をかかえていた。
 たしかにキミたちは、あの夢の島のハエと風と野犬の群れにおそれをなして、動物発見をあきらめてしまったのである。それを、きれいごとの空想でごまかそうとした。逃避的といわれても反論のしようがない。
「でもね、スギさん」
 ようやく、インディアンがいいわけの態勢にはいろうとした。
「ほんとうにゴミの島というところはすごいんだよ。想像をはるかにこえたものすごさなんだ。あれじゃ、なにもさがせやしない」
「だと思うわ。だからそれはそれで仕方のないことでしょ。現実なんだから。なのに、それを空想でごまかそうとしたのは、間違っている」
 それからスギさんは、キミのほうへ上半身を向けた。
「大切なのは、あの白セメント製の動物たちをさがすことじゃないのよね、ほんとうは。そういうことを続けて行くなかで、どういうひとにめぐりあえるかじゃないかしら。あなたは、まず白い動物に色をぬることを考えて実行した。そこでハルくんと友だちになった。それから、あたしや、このインディアンさんとも」
「インディアンだって」
 と、インディアンがびっくりしたので、キミとスギさんは顔を見あわせて笑ってしまった。
「そうか、本人はまだごぞんじなかったのね。あなた、わたしたちのあいだじゃ、インディアンでとおってるのよ」
「ひでえなあ。おれにだって、ちゃんとした名前があるんですよ。おれの名は」
「いいよ、名前なんかわかると、ややっこしいもん。インディアンでいいじゃない。かっこいいよ」
 インディアンは素直だ。キミにそういわれると、もううなずいて、インディアンと呼ばれることを承知してしまった。スギさんが続けた。
「そういう、つまり、ひととのめぐりあいが、一ばん大切なことなのに、自閉症といわれてるような子どもには、それがないのよ。だから、ますます自分のなかに閉じこもってしまう。あたしだって、そうだったわ」
 キミが片目つぶりの女の子のことを思いだしたのはいうまでもない。キミには、自分のなかに閉じこもるというのはよくわからないけれど、それが人間として、ものすごくさみしいことだろうというのはわかるような気がする。さみしいにきまっているじゃないか。でも、キミだって、閉じこもりかけていたのだ。
 両親も、兄も、学校の友だちも先生も、みんな好きになれなかった。だからキミは、成長することをやめた。そうすれば、自分ひとりになれるように思った。小学三年生の二学期のときである。
「ひととのめぐりあいを大切にすること。そのためには、うそをついてはいけない。うそというのは、結局、自分のなかに閉じこもるということなのよ。あなたがハルくんに、動物のゆくえをありのままに報告しなければ、ハルくんはもう、あなたのなかからはじきだされてしまう。あなたはハルくんを、ハルくんはあなたを、それぞれ失うわけよ。だから」
 といって、スギさんは、するどい目つきでインディアンを見た。
「インディアンさんが、あなたの空想に賛成したということは、ふたりのあいだに、ほんとうのつきあいがないからね」
 ううんとインディアンがうなっている。
 キミはハルのことを考えた。ハルにくらべれば、インディアンとのつきあいはたしかに浅い。軽い。すくない。わずかだ。
 スギさんがいったことは、かなりむずかしい。しかし、キミは、ハルにはほんとうのことを報告しようと思った。そうするのが一ばんよいことだというふうには、キミにもはっきりわかったのである。
 それと、もう一つ、インディアンとも、もっと深く、重く、多く、たっぷり、つきあえるように思えてきた。

ハルの入院している病院まで、インディアンが車でキミを送ってくれた。
「いっしょに行こうか」といったけど、インディアンは、
「いや、きょうはいい。かれが元気になったら、また改めてあいさつしよう」とこたえた。インディアンも、スギさんにいろいろいわれて、頭のなかが混乱したのだろう。
「まいったなあ。あのひとは、きびしいなあ」
 と、車を運転しながらくりかえしつぶやいていた。
「ありがとう」
 キミはドアをばたんとしめた。
「またな」
 インディアンの車は、かすかな排気ガスを残して去った。
 病室のドアをノックする。
すぐにドアが開けられた。なんと、ドアを開けてくれたのはハルだった。しかも口にアンパンをくわえている。だから返事もしないでドアを開けたのだ。
「元気そうだな」
 キミはほんとうに感じたままをいった。
 ハルがアンパン半分を口からはなしてうなずく。
「おん、けんけだお」
 うん、元気だよ、といったのに、口のなかのアンパンにじゃまされて、発音が狂ったのであろう。
 こんどは、ぐっとのみこんで、
「もう、大丈夫だよ」と正しく発音した。
 ハルの母親がはいってきた。この病院へ転院させることに反対したのに、すっかり忘れたように、
「もうすぐ退院なのよ。先生がとってもいいひとだから」などといっている。いい調子だ。
「ちょっと話があるんだけど、して行ってもいいですか」とキミがきいたら、母親はますます調子よくにこにこして、
「いいわよ。おばさん、ちょっと買い物したりしてくるから、遊んでてやってよ。助かるわ。よろしかったら、そこにあるパンでもお菓子でも食べてちょうだい。それじゃ、おねがいします」
 と、出て行ってしまった。
「たべなよ」
 ハルがたべものの袋をひろげてくれる。
 ハルと同じようにアンパンをたべようか。
 手に持とうとして、キミはぞっとした。アンパンにハエがたかっている。
 いや、ハエではなくて黒ゴマがついているのだ。けれど、一どハエだと思ったものを食う気にはなれない。
 キミはバターボールを口にいれた。
 黒ゴマがハエに見えるなんて、まだ夢の島の記憶にわざわいされているのだろう。まったく、あのハエはすごかった。
「夢の島って、知ってるか」
 キミがたずねると、都合よく、ハルは知っていた。夢の島の近くから、転校してきた子がクラスにいるのだという。
「風向きが悪いと、ひどくにおうんだってさ。ハエも多いらしいよ」
 話はハエからはじまった。そのハエのものすごい夢の島に、動物たちが捨てられたというので、インディアンといっしょにさがしに行ったが、それはあきらめざるをえなかったのだ――と報告した。
 ハルはやっぱりいいやつだった。
 動物たちをさがしだせなくて残念だったなんていわずに、
「大変だったねえ。ほんとにこわかっただろうな」
 と、キミをいたわってくれたのである。さらにハルは、
「だけどさあ、あの動物に色をぬるのや、さがすのや、いろいろやって、少年狩猟団つくって、ぼくたちなかよくなったし、インディアンとも知りあったんだもん、いいじゃない」
 すばらしい。ハルはスギさんと同じことをいっている。キミはハルに教えてやった。
「おまえとぴったりのこと、スギさんもいってるぞ。スギさんって、ほら、おれたちのことを物置に閉じこめた車いすの女」
 しゃべってから、はっとした。ハルはスギさんのことを、うらんでいるかもしれないのだ。自分が病気になったのは、あの女のせいだと思っているかも。
「団長はあの車いすの女を好きになっちゃったのか」
 へんなききかただなあ。まるで恋愛みたいじゃないか。キミはどぎまぎしながらこたえた。
「好きになったわけじゃないけど、つまり、その、うん、いい人だっていうことがわかったんだ。ああ、そうだ。おまえをこの病院へひっこしさせたのも、スギさんなんだぜ」
「団長がいいと思うなら、それでいいさ。でも、おれ、物置に閉じこめられたとき、とてもこわかったよ」
 ハルは思いだすのもいやだというように、首を横になんどもふった。
「こんど、スギさんにあやまらせる。あのひとだって、おまえにはすまないと思ってるんだから」
 キミとしては、ハルにもスギさんを気にいってもらいたかった。そしてスギさんにもハルとなかよくしてもらいたい。ところが、ハルはどきっとするようなことをいったのだ。
「ぼくは、あんな車いすの女より、片目つぶりの女の子のほうが好きだよ。ぼく、退院したら、あの子にあいに行く。病気のときの夢のなかに、あの子は何回も出てきた。あの子は、ぼくにあいたがっているんだよ、それに違いない」
 ハルの表情は真剣さにあふれていた。


みどりの季節をはずれて

 キミとハルは電車に乗っていた。もちろんハルは、無事に病院を出ることができたのだ。
 そして、はじめての日曜日だった。
 電車はキミたちの大都会を遠くはなれてしまった。途中には、ベッドタウンとよばれる住宅地区があり、それらの駅で乗客たちは次つぎに降りて行った。
「さみしくなるねえ」
 ハルが窓の外を眺めながらいった。
「うん、もう、木や草ばかりだねえ」
 キミもつぶやくようにこたえた。
 もっとみどりの美しい季節なら、ハイキングの客たちが乗りこんでいるのだろうが、いまはもう季節はずれなのだ。電車の終点の駅からは登山鉄道が出ている。
 キミたちのいる車両には、キミたちのほかに三人の乗客しかいない。ずっといねむりを続けている若い女と、スポーツ新聞を読んでいる労務者風の男。それになにやら、ぶつぶつと念仏でも唱えているらしい老婆である。老婆は買物かごをかかえこんでいるため、ことさらに背中がまるい。
「あと二個だ」
 とハルがいう。ハルは駅の数を一個、二個でかぞえるのだ。まあ、一ぴき、二ひきよりはいいだろう。
 ドアがしまりかけたとき、若い女がパッと立ちあがり、すばやく電車から降りて行った。あんなに眠っていても、自分が降りる駅はわかるのかと、キミはひどく感心してしまった。それほど見事な、若い女の行動だった。
「ええ、毎度ご乗車ありがとうございます。まもなく電車はトンネルにはいりますので、窓をおしめください。窓をしめませんと、風のために物が飛んで非常に危険です。窓をおしめくださるようおねがいします」
 車掌の車内放送だ。ところがこのあとすぐ、これと同じことをくりかえしながら、前のほうの車両からひとりの若い男が歩いてきた。
 かなりきたない服装で、やや知能に問題があるように見える顔つきだ。
 男は窓があいていると、しめてしまう。車掌の代理をやっているつもりなのだろう。
 ハルが大きな声で、
「ご苦労さま」
 というと、男はまじめな顔で、
「ありがとうございます」といった。
 うしろの車両から車掌もやってきて、若い男の肩をぽんと叩いた。どうやら顔なじみらしい。そして車掌代理は車掌といっしょに前のほうへひきかえして行った。
「あいつは、あんなことばかり、いっしょうけんめいやっているのかなあ、毎日」
 ハルがまるでおとなみたいな口調でいったので、キミもいってやった。
「いろいろあるのさ、人生なんて」
 電車はトンネルへ突入した。
 車掌と車掌代理が窓をしめ歩いたはずなのに、風がびゅうんとやってきた。
 労務者風の男の読んでいた新聞がふっ飛んだ。男は新聞をひろげ持っていたかたちのままで、呆然としている。
 げらげら、ハルが笑いだしたので、キミもつられて笑ったら、新聞を風に飛ばされた男も笑いだした。
 トンネルをとおりぬけるあいだ、風は何回もびゅうんとやってきて、何枚もの新聞や紙切れがふっ飛んで行った。
 老婆は、風のなかでも念仏をやめなかった。きっと念仏も風に飛んだことだろう。
 最後に車掌が走りぬけた。風に吹かれて、最後部の車掌室に戻ったのである。なぜか、車掌代理の姿は見えない。
 トンネルを出るとすぐに駅。労務者風がキミたちに手をふりながら降りて行った。
「あと一個だ」とハルがいう。もうほんとうにいなかである。
 遠くの山には、雲がかかっている。
 山をかすめるようにして飛んで行く鳥はなんだろう。黒く見えるからカラスだろうか。カラスにしては飛びかたが速い。そして大きい。
 鳥はすぐに見えなくなり、あたりには、同じような風景が続いて、ようやく目的の駅についた。

「かまど神社は、この道をまっすぐに行けばいいんですか」
 ハルがノートに書いた地図を見ながら、駅員にたずねた。
「ああ、まっすぐ行くと橋がある。橋を渡ると道は右にまがる。さらに行くと二つにわかれる。その左のほうの道を行く。山道になる。のぼって行くと、右手に石段がある。それが、かまど神社への道だよ。それにしても」
 と、駅員はいった。
「もう、お祭りなんかとっくにすぎたのに、なんで神社へなんか行くんだい」
「友だちがいるんだよ」
 ハルのこたえに、駅員は首をひねった。
「あそこに、子どもなんか、いたかなあ」
「宮司さんの孫が、きてるっぺ」
 事務室のなかから、年配の駅員がいった。ひどいいなかなまりだ。駅長なのかもしれない。
「だって、あの孫は女で、それもまだ、ちんこいぞ」
 若い駅員もいなかことばになってしまう。
「その、ちんこいのが友だちなんだよ」
 ハルはそういうと、もう、さっさと歩きはじめたのだ。もちろん、きみも続く。ここでは完全にハルが主役である。
 どうしても、片目つぶりの女の子にあいたいと、いうハルのために、キミは車いすのスギさんにも協力してもらって、どこにいるかを調べた。
 キミもスギさんも、片目つぶりの女の子はどこかの病院にいれられているのではないかと思っていたのだが、意外にも、母親の口から、
「いなかのほうの神社で、神主をしているわたしの父のところにあずけてあります。ほんとうにいなかですから、アキものんびりできるだろうと、おじいちゃんもいいましてね」
 ということばをきかされたのである。
 それをハルに報告すると、ハルはすぐに、
「おれ、こんどの日曜に、その、いなかの神社へ行ってくる」といいだしたのだ。
 かくて、キミとハルとは、神社参拝少年団を結成、今度はハルが団長になった。
「神社へおまいりに行く」
 とキミが母親にいったら、母親はびっくりして、キミのおでこに手を当てた。熱でもだして、頭がおかしくなったと思ったのだろう。母親の手を軽くはずして、キミはいってやった。
「心配しなくてもいいよ。その神社には、古代の空飛ぶ円盤があるんだよ。それを見に行ってくるんだ」
 母親は安心した。神さまよりも、空飛ぶ円盤のほうが、キミにはふさわしいと考えているようだ。どっちにしても、不思議なものには違いないのだが……。

 石段はたくさんの自然石でできている。自然石というのは、どこかの山や川から運んできた石のことで、その中から、石段をつくるのに都合のいい石をえらびだし、次つぎに並べて行ったのである。もう、これだけでも、この神社が、たいへんに古い時代にたてられたものだということがわかるだろう。
 キミがかぞえたら、石段は一三五段もあった。とても一気にはのぼれない。
 石段の左右は、うっそうとした木のしげみである。古い神社なのだから、昔からはえているような大木があってもよさそうなものなのに、それはなぜか見当たらなかった。(あとで、この理由はわかる)
「本殿の右の社務所に宮司さんがいる」
 キミが、片目つぶりの女の子の母親からきいて、手帳にメモしておいたままを、ハルにいった。
 本殿の屋根は見上げるばかりの高さである。あたりのなにを見ても、ものすごく古い時代を感じさせられるものばかりで、キミは、ひょっとすると、神さまというのは、ほんとうにいるのかもしれないと思ってしまった。
 なにしろ全体が、ずしんとした静かさなのだ。キミたちも静かに歩いた。
 社務所に、白い着物の老人がいた。小柄でやせている、まるで枯木のようなおじいさんだとキミは思った。ほかに人はいない。そうすると、この枯木老人が、片目つぶりの女の子の祖父なのだろうか。
 ハルが枯木老人にたずねた。
「ええと、あの、アキくんはいますか」
 枯木老人は老眼鏡ごしに、じろっとハルを見た。視線はずれてキミも見られた。キミはいった。
「ぼくたち、アキくんのお見舞いにきたんです。アキくんのおかあさんに、ここにいるって教えてもらったので、きました」
 ほほうとい表情に、枯木老人はなった。
「すると、あなたたちは、アキのボーイフレンドかね。なかなかやるのう、うちのアキも。いやア、さすがだ、おっほんほん」
 古い神社の神主のくせに、枯木老人はしゃれたことをいう。それに笑い声が独特だ。リズムがいい。
 枯木老人は外に出てきた。そして白い鼻緒のぞうりをはく。
「ご案内しよう。アキはかまみや釜宮さまにおる。きょうもお釜をみがいておるじゃろうて、それはもう熱心なものよ」
 なにをいおうとしているのか、さっぱりわからなかったが、枯木老人のあとからついて行ってみて、すぐにわかった。
 片目つぶりの女の子は、直径一メートル以上もある大きな鉄製の釜を、せっせとみがいていたのである。
「はじめはワイヤーブラシといって、鋼鉄の細い針金でできているブラシで、さびをそぎ落とし、いまは紙ヤスリでみがいておる。もう、かなり、光ってきたところもある」
 枯木老人は満足そうに説明してくれた。
 釜がおいてあるところは、あまり大きくない小屋のような建物で、本殿のりっぱさにくらべると、かなりみすぼらしい。しかし、釜は、神社にとってはまことに大切な宝物なのだ。
 小屋の扉の右側には、釜についての説明板がかかげてある。キミはそれを読んだ。
「この御釜は、火の神アメ天ホ穂ヒノ日ミコト命が、高天原より天降り給いしときに、お乗りになったものと伝えられるものであります。
 天穂日命は、火に関係の深い神で、火を用いるすべての職業の守護神であり、同時に火難除けの神としても、古よりうやまわれてきたのであります」
 ハルが枯木老人にいった。
「高天原って空の国でしょう。だとすると、これは空飛ぶ円盤ですか」
「それをいうなら、天の国といいなされ。空ということばは、昔は何もないことを意味しておった。つまり、からっぽのことじゃ。そして空飛ぶ円盤であるが、これを昔はアマノウキハシといった。この字はちとむずかしい」
 枯木老人はその場にしゃがみこむと、地面に指先で字を書いてくれた。
 浮橋、という字と、
 浮艀、という字である。
「アマノは、天のと書く。そしてウキハシは浮かぶ橋、つまりブリッジではなくて、はしけ艀、すなわち小さな船の意味なのじゃ。現代の人はなかなか信じないが、天を旅する乗物は大昔からこの国にもあった」
 枯木老人の説明のあいだも、片目つぶりの女の子は釜をみがき続けていた。その女の子を老人が呼んだ。
「おい、アキ。出ておいで。おまえのボーイフレンドがたずねてきてくれた」
 アキはおでこの汗を、手の甲でぬぐいながら、小屋から出てきた。手のひらは、きっとよごれているのだろう。
 アキは顔をあげて、キミたちを見る。
 片目つぶりではなくなっている。しかも、目に輝きがある。張り切っているんだ、とキミは思った。
「こんにちは」
 同時にキミとハルがいうと、ぱらっと髪の毛を動かして、
「こんにちは」といった。
「お釜をみがいて、どうするの」
 ハルの質問にアキがこたえる。ああ、そうか。ハルとアキか。春と秋。なかよくなりそうだなとキミは思っていた。
「お釜じゃないわ。ウキハシよ。円盤でもいいけど、やっぱり、こういうのは、光ってなきゃ、おかしいと思うの。それに」
「それに、なにさ」
「光っていれば、神さまがまた、お乗りになるかもしれないでしょ」
 ハルはキミのほうを見た。神さまをどう思うかという目つきだ。キミは女の子にきいてみた。
「ねえ、神さまをみたことあるのかい」
「もちろん」
 と、アキがうなずく。キミは枯木老人の顔を見た。枯木老人は、えへんとせき払いをしてから語りだした。
「神さまは見るものではなく、感じるものである。アキはさすがに、わがあきがみ秋上家の血をひいておるので、神さまを感じるちからが強い。あとで証拠を見せてあげるが、とにかく、いまから、わしが神さまにあなたたちがきてくれたことを報告申しあげるから、自分たちも神さまを感じられるかどうか、ためしてごらん。さあ、こちらへきなさい」
 こうしてキミたちは、本殿へ連れて行かれた。いよいよ、参拝がはじまるのだ。

 キミとハルと、そしてアキの三人が、板の間に敷いてあるムシロの上にすわらせられた.板の間は黒く光っている。古代からの長い時間のあいだに、板は黒く光るまでに変わったのだ。もとは白木だったに違いない。
 枯木老人が太鼓を叩きはじめた。
 細い、むちのようなばちを両手に持って、まずはじめは、ばららん・ばららんという感じの音をだす。
 次に、だん・だらん、だん・だだ・だんと変化する。だん・だんだんだんだん……リズムが早まる。早まるだけではない。ちから強いのだ。
 小柄でやせこけた老人の、どこに、あんなエネルギーがひそんでいるのだろうかと、キミはもうほんとうにおどろいて、ただただ太鼓の音に聞きいるばかりだった。
 ……だん。最後の一打ちで、あたりはまた、まえにも増して静かになった。
 老人が、板の間にはいつくばるような、おじぎをくりかえす。
 静けさをひきさくように、のりとがはじまる。神さまへの祈りのことばを、のりとというのだ。大昔から伝わることばだから、キミたちには、まるでちんぷんかんぷん、わからない。
 のりとが終わり、また、枯木老人がていねいなおじぎをくりかえした。
 アキもおじぎをしたので、キミもハルもおじぎをした。参拝は終わったのである。
 枯木老人がキミとハルを交互に見ながら、にこやかにいった。
「どうだね、神さまへのおまいりははじめてだろう。なにかを感じたかね」
 ハルはすぐにこたえた。
「はい。とっても気持のいい風が吹いてきました。そして、からだが、きゅうんとひきしまったんです」
「おお、それは結構だ。あなたは感じるちからを持っているらしい。ところで、そちらのかたは、どうだったかね」
 きかれてキミは、どきんとした。風など吹いてはこなかったのだ。太鼓の音には驚いたが、からだがひきしまるというほどのことはなかった。どうしてハルと違うのだろう。おれには、神さまを感じるちからがないからか。
 いまは、正直にいうより仕方がない。
「ぼくは、特別になにかを感じることはありませんでした」
「うむ」
 と、老人はうなずいて、
「それでも神は、あなたをもうごぞんじである。神はあなたを守ってくださる」といってくれた。キミは、ずいぶん、ほっとしたのだ。
 本殿を出ると、枯木老人は孫のアキの頭に手をおきながら、キミたちにいった。
「それでは、さっきも約束したように、アキがどれほど、神を感じるちからを持っておるか、その証拠をお目にかけよう。あなたたちは素直そうであるから、アキのやることをインチキだ、などとはいわないだろう。では、こちらへ」
 社務所で、はきものを変えさせられた。老人と同じように白い鼻緒のぞうりをはかされたのである。
 さきほど、本殿へはいったときと同じように口をすすぎ、手を洗った。そして本殿のうしろにまわる。
 それほど高くはないが、かたちのいい山があった。石段の左右と同じで、山にも大きい木ははえていない。キミは枯木老人にたずねてみた。
「どうして、この神社には、大昔からの大きな木がないのですか。この山にも、石段のところも小さな木ばかりだけど」
 老人は一瞬、悲しそうな表情になった。
「明治時代に、おろかな役人どもが神社を少なくするということをやり、ここも、あやうくつぶされかかった。わしの父が努力して、ようやくつぶされることだけはまぬかれたのだが、父があちこちへ交渉に走りまわっているうちに、木は切り出されてしまった。明治時代にそういう事実が日本各地であったということを、あなたたちはいまに歴史で教わるじゃろう。そしてさらに戦争中、軍隊用の木造船をつくるというので、残りの木も持っていかれた。ろくな歴史もない大きな神社は大事にされても、小さな神社は、小さいというだけで粗末にされる。ばち当りな話よ」
 神社にも、いろいろなことがあったのだ。大昔には、もっとさまざまなことがあっただろう。それでも、ほろびずにきた神社。やっぱり、神さまがいて守ったのかもしれない。
 キミは本殿の高い屋根をふりかえり見て、その上の青く澄んだ空を見て、遠い昔を考えた。
「この山にのぼると、なにか、あるんですか」
とハルがきいている。老人がこたえる。
「アメノイワクラといって、昔、神が運んでこられた大きな岩がある。めったに人を近づけさせないところじゃが、あんたらは特別、スペシャルサービスじゃ、おっほんほん」
 山道はひどくけわしい。
 山をのぼりつめると、そこに大きな岩があった。
 いや、大きな岩といったのでは、どうにも感じが伝わらない。巨岩といったほうがぴったりだ。とにかく巨大な岩である。
 高さは三メートルを超えている。
 周囲は一○メートルはたっぷりあるだろう。
 黒く、固い岩で、大昔からの雨風にみがかれたので、凹凸はなくなっている。
「こんなにでっかいものを、この山の上に運びあげたなんて、うそだよね」
 ハルが枯木老人にそういうと、老人は首をふりながらいうのだった。
「だれもが、同じようにいう。運びあげたりしたものではなくて、この山ができたときから、岩はここにあったのだろう、とな。だが、それは違うのじゃ」
 枯木老人はあたりを指さした。
「ほれ、見てごらん。このあたりには、ほかに岩とよべるほどのものはない。もしも火山の噴火などで、この岩が飛ばされたのだとしたら、ほかにも岩は飛び散っているはずではないか。だが、それはない。このあたり、というよりも、この地方には、岩といえるようなものはどこにもないのじゃ。やはり、これはどこからか、運んできたものというべきじゃろう。信じがたいことかもしれんが、信じるほかはない」
 確かに、目のとどく限り、どこにも岩らしいものはない。そうすると……しかし……機械もない時代に、どうやって、この巨大な岩を運んだのだろう。キミはもうあきれて、固い岩の表面を手のひらで叩いていた。
「ある土木業者に、いまどき、この岩を、この山のてっぺんまで運んでもらったら、どのくらいのカネがかかるかとたずねたら、一億円もらってもいやだとぬかしおった。そういうことなのじゃよ、おっほんほん」
 枯木老人特有の笑い声がひびく。
「神さまって、ずげえちから持ちだったんだね。それとも宇宙人みたいに、特別の能力を持っていたのかなあ」
 ハルが岩をなぜながら、首をひねっている。キミもいった。
「ほんとにすごいな。やっぱり超能力なんだよ、神さまは。でもさあ、それにしても、なんでこんなところへ、この岩を運んできたんだろう」
 これには枯木老人がこたえてくれた。
「さきほどもいったように、この岩はアメノイワクラと名づけられておる。アメノイワクラとは、神さま用の岩のいすというほどの意味である。おそらく神は、この岩に腰かけられて、この山の上から、この地方を眺められたのだろう。ここからなら、あたりはまったくよく見える。神はあたりを眺め、国づくりの計画をおたてになったのに違いない」
 老人は岩にもたれて、両目をとじている。遠くはるかな昔を想像しているかのようだった。


さび色の鏡をみがく

キミも想像した。目をあけて、巨岩をみつめて想像した。
 巨岩に腰かけている神、それはもう、プロレスの選手なんかよりも、はるかに大きな巨人だったに違いない。
 巨人の頭のあたりには、雲がかかっていたかもしれない。
 ひげの一本一本だって、鉛筆の太さぐらいはあっただろう。
 風が吹く。髪の毛がゆれる。それは、たくさんの大蛇がうごめいているようである。
笑い声は雷鳴のとどろきだ。
 小便は洪水である。くそは海である。くそはくじらのようにぷかぷか浮いて、沖へ流れて行った――。
 キミは、自分が、三年生の二学期のときから大きくならないのでいるのを、はずかしいことだったと思っていた。そう思いはじめている自分に気づいたのだ。
 でも、いまさら、どうすることもできないのではないか、とも考えた。
 子どものときに歩くのを拒否して、そのまま歩くことができなくなったスギさんは、おとなになったいまでも、車いすに乗らなければ動けない。キミも、三年生のときのままで、おとなになるのではなかろうか。
 それは大昔の神にくらべて、あまりにもあまりにも、小さい。巨大な神と、微小なキミ。巨岩に腰かけた神と、岩の一部をぺたぺたと叩いているキミ。
 キミは、自分がみじめに感じられてきたので、想像をやめた。そして枯木老人に、
「あの、さっきいっていた、証拠ってなんですか」
 と、たずねた。

「さて、あなたがた、この岩を動かすことができるかね」
 枯木老人にいわれて、キミとハルは顔を見あわせた。もちろんふたりとも、できるわけがないよな、という目つきである。
 アキがにこにこ笑っている。
「まあ、ためしに、ふたりで押してごらん。ぴくりとでも動けば、おなぐさみじゃ、おっほんほん」
 キミたちは、ううんとふんばって、とにかく岩を押してみた。動かない。
「では、アキにやらせてみよう。アキ、やってごらん。しかし、すこしだけじゃぞ。あまり大きく動かして、岩を下へ落としたりしたら一大事じゃ」
 冗談がきつすぎるとキミは思った。
 ハルもむっとした表情で枯木老人をにらんでいる。
 アキが、ぱらりと髪の毛をかきあげた。長い髪が顔の前のほうへきていたのだ。
 右腕をつきだし、人差指をぴんと立てた。白く、細い指だった。
 指を、岩に近づけた。
 指先で、岩を押した。
 キミはぞっとした。ハルも同じ状態になったらしく、キミに体を押しつけてきた。
 錯覚ではなかった。岩が、くらっと動いたのである。
 アキが指先のちからをぬくと、岩は元に戻る。また、押す。動く。ちからをぬく。戻る。くりかえす。岩は、くらり・くらりとゆれ動いた。
 枯木老人の目くばせで、アキは指をひっこめた。巨岩はでんと動かない。
 ハルが、アキと同じところに、やはり右の人差指を押しつけた。
 指がしなるほどにちからをこめた。こんどは、手のひらで押す。肩をつけて、全身で押す。キミも参加した。
 しかし、岩はぴくりとも動きはしはなった。ふたりは、その場にへなへなとすわりこんでしまった。全身のちからがぬけたのだ。
「わかっていただけたと思う。アキは、わが秋上家の血筋をひいて、神を感じ、神の御ちからをかりることができる子なのじゃ。普通の子とは多少は変わったところもあるじゃろうが、それはやむをえん。わしはこの子の親たちとは違うので、それを気にしてはおらん。それに第一、あんたらのような、ボーイフレンドもおることじゃしのう」
 枯木老人は、キミとハルが、自分の孫の不思議な力に、すっかりおどろいているので、まことに満足であるらしい。とても年寄とは思えないような軽い足取りで山を降りて行く。
 枯木老人のすぐあとを、孫のアキが行き、アキにハルが続いている。
 秋に続くのは冬なのに、ここじゃ春が続いているのかと、キミは、だじゃれみたいに考えた。そういうキミに、びかっとするような感じが襲ってきた。
 キミはいそいで、山道の左側の斜面をかけあがったのだ。そうせずにはいられなかった。ほかの三人は足をとめて、キミを見あげる。
 キミは、背の低い木のしげみをかきわけて、木の根や草の根のまじった土をはらいのけた。そして、一枚の古びた金属板を取りだした。それがなんなのか、キミは知らなかった。まるでわからない。
 しかし、それをもうほとんど無意識のうちに、キミは掘りだしてしまった。
 土にうもれていたものが、キミの目に見えるわけがない。だが、キミはそれを取りに行った。キミにも、超能力がそなわりはじめたのか。それとも単なる偶然か。
 キミは金属板を枯木老人に手渡した。すると老人はすぐにいった。
「これは銅でつくられた鏡である。この山からはもうすでに二十枚の銅鏡が出ておる。大昔においては、銅鏡はたいへんに価値あるものだったのじゃ。それがたくさん出てくるということだけでも、この神社がとうといところであるのは確実である。いや、まったく、よいものをみつけてくれた。もう三十年以上も銅鏡は出なかったのに、また出たとは、まことにめでたい。ほんとうにありがとう。あなたには、神さまの助けがかならずありますぞ」
「でもさあ」とハルがいった。
「そんなにさびちゃってるんじゃ、鏡の役にたたないね。くず鉄みたいなもんだ」
「だいじょうぶよ」
 とアキがいう。そして枯木老人から銅鏡を受けとった。
「あたしが、ちゃんとみがくもん。ねえ、おじいちゃん、これ、あたしにみがかせてね」
「おお、いいとも。社務所に行けば、これをみがく薬がある。わしもときどきは、本殿の銅鏡をみがかせていただいておるでな」
「知ってるよ。その薬って、銅や真鍮でできているものをみがくんでしょ。たとえばドアの取っ手とか」
 キミがそういうと、枯木老人はうんうんとうなずいてくれた。
 山をおりると、もうれつな空腹だった。
 枯木老人はキミたちに、オムライスを作ってくれた。卵は、社務所の裏で飼っているニワトリが生んだもので、そのニワトリも、神社と同じく、古代から伝わっている種類なのだそうである。
 とにかく、神社でオムライスを食うなんて、めずらしい体験だ。それに枯木老人は料理がうまい。早くつくってくれて、それが実においしかった。

 銅の鏡は美しくみがかれた。
「おお、いままでの、どの鏡よりも完全じゃ。うまっていた場所が悪いと、ぼろぼろにくさってしまうものなのじゃが、これはすばらしい。まさに、神からのさずかりものに違いない。ほれ、アキ、おまえの顔を写してごらん」
 枯木老人がよろこんで、アキの顔の前に鏡をつきだすと、そこに意外なことが起きた。
 アキは、ぎゃっというようなものすごい悲鳴をあげて鏡から、確かに一メートルはすっ飛びはなれたのだ。しかも、鏡を指さして、
「だれかがそこにいる。だれかがそこにいる」
 と、わめいた。ハルはすぐさま、アキに近寄り、やさしく背中に手を当てながらいうのだった。
「アキくん、落ちつくんだ。さあ、落ちついて、よく見てごらん。ようく見てごらん」
 やさしい兄のようだ、とキミは思った。ハルには妹も弟もいないのに、兄のようにふるまえるなんて、たいしたもんだ。キミはハルの態度をみつめた。
「これは鏡なんだよ。これはね、だれかがいるんじゃなくて、写るんだ。いいかい、こんどは、ぼくが写ってみるぞ。ほら、ここにぼくがいて、ここにぼくが写っている。次はおじいさん、鏡の前へ顔をだした」
 いまや、枯木老人もハルのいうままである。だまって鏡に顔を近づけている。
 アキはいったん、片目つぶりの女の子に戻った。だが、すぐに両目をあけて鏡を見た。老人の顔と鏡に映っている顔とを見比べて、ふうっと大きく息をはいた。
 そしてアキはキミを見た。キミにも、鏡に写ってみせてほしいというのだろう。
 キミも鏡に写った。アキがうなずく。
 ハルがキミの顔に顔をくっつける。くすぐったい。ふたりの笑い顔が写る。アキもにっこりと笑った。それからハルにきいた。
「あたしのこと、みんなが見ると、こういうふうに見えるんでしょ」
 こういうふうにとは、鏡に写っているようにという意味だ。ハルが深くうなずく。
「そうだよ。アキくんは、ぼくにも、こういうふうに見える。人間って、だれでも、みんなから見られているんだよね。世の中には、自分がいて、自分を見ているひとがいて、自分もたくさんのひとを見ていて、だから、いろんなことがあるんだぜ」
 ハルの説明に、最も感心したらしいのは枯木老人だった。
「すばらしい。ワンダフルである。うちのアキに社会というものをわからせてくれた。わしの不注意で、いきなり鏡を見せ、おびえさせてしまったときは、どうなることかと心配したが、あんたがいて、ほんとうに助かった。いや、ありがとう。ありがとう」
 老人はハルの手をにぎりしめている。もう目にはいっぱいの涙だ。
 アキが大きな声でいった。
「あたし、もっと大きな鏡に、自分をちゃんと、全部写してみたいな」
 ここでキミは、いつまでもハルに負けていられるものかと、胸をばんと叩いていってやったのである。
「それは、おれにまかせてくれ。でっかい鏡のあるところへ、おれはおまえを連れて行ってやるぞ」

 やっぱり相談相手はスギさんであり、そしてインディアンだ。
 スギさんにかまど神社での鏡の話をすると、それは全くすばらしいことだと何度もいった。病院でも、ぜひ実験してみたいという。それから大きな鏡だが、
「それはやっぱり、デパートみたいなところにあるんじゃないかしら」
 と教えてくれた。そのデパートへアキを連れて行くのは、もちろん、インディアンの役割だろう。あの、かまど神社までアキを迎えに行かなければならない。
 またも、まるで小説かドラマのように都合よく、三日後、水曜日は開校記念日で学校は休みである。スギさんも午後からは休暇を取るといった。
「スギさんもいっしょなんだから、ライトバンがいいよなあ。車いすを運ぶのに、普通の乗用車は不便だし、トラックじゃみんなが乗れない。よし、なんとか、ライトバンを都合しよう」
 インディアンは相変わらず張切って、キミたちのために協力することを約束してくれた。
 月曜日と火曜日の過ぎ去るのの遅く感じたことといったら、一日が二十四時間なんていうのはうそもいいところで、実際には五十時間以上もあるのではないかと思えた。
 学校の休み時間になると、ハルがきたり、キミが行ったりで、ふたりは顔をあわせ、
「長いなあ」
「長いねえ」といいあうのだった。
 それでも地球は回転したから、そして時計は動いたから、学校が休みの水曜日はやってきた。
 朝早くから、インディアンの運転する車で、かまど神社へ行き、アキを乗せてくる。昼すぎにスギさんを迎えに行く。
 インディアンは結局、レンタカーのライトバンを都合した。料金は、
「とりあえず、カンパしておくよ。いまはまあ、なんとかなるから」といってくれた。
 枯木老人は、にぎりめしを作ってくれていた。あの古代からのニワトリの卵でこしらえたタマゴヤキもついている。
「孫を、よろしうたのむ。わしは、あんたらを信頼しておりますでな」
 アキは祖父に手をふって車に乗りこんだ。今夜は両親のところに泊まることになるだろう。
 ライトバンはキミたちを乗せて、かまど神社をあとにした。古代のおもかげを、いまに伝えるかまど神社から、大きな鏡のあるデパートへ――。これはまるで、古代から現代への大飛躍だ。インディアンの運転するライトバンはタイムマシンなのかもしれない。
 タイムマシン――実はレンタのライトバン――は順調に作動して、予定通りスギさんも乗せ、デパートに到着した。
 鏡の前――そこは婦人服売場だったのだが――での、アキのよろこびようときたら、それは大変なものだった。とんだり、はねたり、しまいには床にねそべって、鏡に写る自分の姿を眺めた。キミたちと手もつないだし、スギさんの車いすを押したりもした。
 インディアンには、肩ぐるままでしてもらい、両手でインディアンの目をふさぐといういたずらまでやった。もう片目つぶりなんか、ちっともやらない女の子だ。
 だが、ここで、インディアンが、ちょっと調子に乗りすぎた。
「もっと面白い鏡があるぞ。鏡の迷路、ほら、迷い路だよ。A楽天地にあるから行ってみよう」

インディアンと手をつないで、鏡の迷路にはいったとたん、アキはしゃがみこみ、げえげえとはいた。
 まだスギさんは入口にいた。車いすの身はもどかしい。キミにハンカチを手渡して、
「さあ、早く、外に出してあげて」
 といった。ハルがアキにきいた。
「どうしたんだよ。車によったのか」
「いや、いやよ。あたしがいっぱいいるから、気持が悪い」
 迷路は右も左も、前も後も、そして天井までが鏡である。しかもさまざまな角度につくられているので、自分の姿が何人何十人にも見えてしまう。鏡の前にいる自分と、鏡に写っている自分の姿との違いがわかりはじめたばかりのアキを、鏡の迷路に連れこむことは、どだい無理だったのだ。
 キミはスギさんのハンカチで、アキの口のまわりをふいてやった。顔をもちあげる。
 と、アキはまた鏡を見てしまい、キミをおしのけると、迷路の外へとびだした。
 スギさんが悲鳴をあげた。
 一台の小型トラック(売店の品物を運んできたのだ)が走ってきたのである。
 ふり向いたキミの目にも、トラックとアキの接近ははっきり見えた。そのあと、キミは思わず目をつぶってしまったのだが、もう、てっきり、だめだと感じた。事故はおきたと思った。
 しかしアキはスギさんにだきすくめられていた。車いすに乗っていたはずのスギさんに――。
 スギさんは、アキをだきしめたまま、静かに泣いていた。小きざみに肩をふるわせて、スギさんは泣いた。キミには、スギさんの気持がよくわかる。
 小学校三年生のときに、歩くのを拒否したために、車いすに乗るからだになってしまったスギさんである。それが、アキを救うために車いすから立ちあがったら、歩けるようになってしまったのだ。おそらくスギさんは、一生を車いすのやっかいになっておくるだろうと、思っていたに違いない。
 なのに、いま、スギさんは、地面にちゃんと立っている。キミが想像していたように、スギさんの足は細く美しい。
 スギさんは顔をあげて、キミを見た。涙にぬれた目が光っている。だが、もう、スギさんは泣いてはいなかった。静かに笑っている。
「おめでとう」
 キミはスギさんと握手した。
 ハルも、インディアンも、スギさんにおめでとうをいい、手を固くにぎりしめた。
 おれだって、とキミは心に決めていた。
 もう成長拒否なんて、やめだ。
 おれは、でっかくなってやる。ぐんぐん、成長してやる。
 急にあんまり大きくなりすぎて、みんなから、怪物といわれるかもしれない。それでもいい。おれは怪物になるのだ。
 怪物になるために前進だ。
 スギさんが笑っている。
 ハルが笑っている。
 インディアンが笑っている。
 アキも、いまはもう笑っている。
 キミも笑って、両手を空に、大きくふりあげた。

テキスト化天川佳代子