『子ども族探検』(第三文明社 1973)

雲が何に見えるのか

 ジメジメの梅雨が終われば、いよいよ本格的な夏だ。ギラギラの太陽の下、子どもたちは、長く楽しい休みを過ごすわけだ。
 さいきんは、絵日記なんていうへんな宿題もほとんど姿を消したようで、まことに結構。以前はあの絵日記のために、どこかへ旅行しなければ……というようなことが多かった。
 去年は海へ行ったから、今年は山へ――なんていう計画を、絵日記のために、ムリして立てたりすることがすくなくなかったのだ。
 ところでこの夏、子どもとともに何をするか。夏空の下で、どんな対話をするべきか。
 たとえば、片山雄一クンのような子どもを持った場合、回答はすぐに出てくる。
 片山雄一クンたち一年生が、センセイを中心にして輪をつくり、みんなで空を見上げたのは、五月のはじめの、青空がすがすがしく、それこそ洗いたてのように美しかった日のことだ。センセイは雄一クンたちにたずねた。
 「ホラ、向こうに白い雲が浮かんでいるね。ゆっくり流れていくね。あの雲、なんだか気持よさそうだな。ねえ、みんな、あの雲の形、なんに見える。じゅんじゅんにいってごらん」
 馬のようだ。カバみたい。パンのように見える。花だ。人の顔だ……などなど、いろいろ出てきた。ところが雄一クンのいうことだけがほかの子どもとはちがっていた。ちがっていることでセンセイの記憶に残ったのである。
 「あの雲は、おじいちゃんのフトンだと思います」と雄一クンはいった。
 センセイは、なぜ、雲がおじいちゃんのフトンだと思えるのか、その理由をたずねた。そしてつぎのような説明をききだしたという。
 ――長いあいだ病気だったおじいちゃんが、こないだとうとう死んでしまった。おじいちゃん、死んで、どこへ行ったのって、おばあちゃんにきいたら、空のお星さまになったといった。もしもおじいちゃんが空の星なら、フトンがなければいけない。なにしろ、おじいちゃんは長いあいだ病気だったんだから。
 雄一クンの、おじいちゃんをしのぶやさしい心情は、センセイの胸をうった。この話はきく者の心をさわやかにする。
 しかし、雄一クンがいつまでも、おじいちゃん星や雲のフトンにこだわるならば、これはもうだめである。
 空に浮かぶ雲を何に見るか。この答えはなんでもいいのだが、それがいつまでも同じというのは、想像力の停滞を意味しているからだ。雄一クンの場合、想像は、ごく身近な生活体験のなかから生まれた。
 おそらく他の一年生の想像は、まえの子が何かをいうと、その類推の上に立って生まれてきたものだろうと思う。だからこれは想像というよりは、単なる思いつきにしかすぎないというべきかもしれない。しかし、雄一クンは他の子どもがなんといおうと気にせず、自己の想像するままを答え、センセイを感動させた。
 だからといってそれをもう一度繰りかえしたら、センセイはいささかも感動しない。いつまでも祖父の死にこだわりつづけるなんて、子どもらしくないと考えるかもしれない。それほどに、想像力の停滞はみにくいもの、非感動的なことなのだ。
 親(あるいは教師)は、しばしば、子どもの想像力のはたらきに接し、感動させられる。そうしたことに気をくばる親ならば、雄一クン程度の"話"はどんな子どもからも発見することが可能だろう。
 ところが親はついウッカリとそれをほめたり、たたえたりしてしまうものだ。すると、子どもは味をしめ、想像力を停滞させて、思いつきばかりを繰りかえしはじめる。ダメな親は、その思いつきをさえほめてしまう。そして、子どもの想像力は枯渇してしまう。
 雄一クンの想像は生活体験のなかから生まれたといった。だが思いつきは、生活体験とは無縁のところからも生まれる。これはつまり、つぎのようなことを意味する。
 すなわち、想像力とは生活力の変形だということ。想像するということは、自分の生活をみつめるということ。想像のあるところ、かならず、生活の"みつめ"があり、生活のみつめがあるところに想像があるという相関関係。
 したがって想像力がとぼしいということは、生活力がまずしいということだ。生活力といっても、この場合、カネとは直接関係なし。
 学校教育は、子どもの社会的水準をたえず問題にする。ひとりひとりの生活=想像を、社会=クラス成員に同化させる作業を繰りかえしおこなうのが学校教育の主たる目的だといえるだろう。だが、ここではしばしば、思いつき、モノマネの精神が大きく評価されてしまう。異化作用よりも同化作用が重要視されているからだ。
 しかし夏休みはちがう。片山雄一クン的な想像力が、どんどん発達していく可能性を持った長い瞬間なのである。さて、答えは出たはずだが……。

親たちの戦記

 八月十五日。終戦記念日。なぜ、敗戦といわずに終戦というのか。やってきたアメリカ軍を、なぜ、占領軍といわずに進駐軍といったのか。なぜ、大東亜戦争といういいかたをやめて、太平洋戦争などというのか。
 いまの親たちは、戦時の子どもたちだ。あるいは戦後の少年少女たちであるだろう。ふりかえればかならず、それぞれの"戦記"がある。子どもたちだったから戦争には参加しなかったなどということはない。子どもは子どもなりに参加させられたのがあの大東亜戦争なのだ。それを太平洋戦争などといってしまうから"戦闘"ばかりが戦争であるかのようなサッカクを子どもに与えてしまうことになる。
 八月十五日。戦没者慰霊祭とかいうものが挙行されたらしい。この"戦没者"のなかに、わたしの父母、そしてふたりの姉ははいっていない。昭和二十年三月十日、東京大空襲でわたしの家族は行方不明となった。つまり死んだ。かんぜんに戦争のために没したのだが、国が大東亜戦争という呼称を捨て、太平洋戦争とか第二次世界大戦などと、あの戦争を呼び改めているかぎり、わたしの父母、そしてふたりの姉の死は"戦没"として扱われないのである。このインチキさ。
 八月六日、佐野斗美クン(小五)は父親に向かって質問した。
 「おとうさん、きょうはなんの日か知ってる?」
 「きょうは、広島に原爆が落ちた日だろう」
 「そうだよ、きょうは原爆記念日だ」
 子どもは原爆記念日なるものを知っている。それでいて、三月十日の東京大空襲を知らない。自分の祖父母やオバの殺された日を知らされていない。国が子どもたちに教えこんでいる"戦記"のなかには、もっとも身近な戦争犠牲者の記念すらふくまれてはいないのだ。国の戦記は子どもにとって他人ごとでしかない。
 戦記が他人ごとであるかぎり、子どもがそこから、戦争のなんたるかを知り、平和を希求する心情を持つようになる可能性はほとんど考えられない。子どもには、他人ごとを自分の問題におきかえたり、自分のことを一般化するちから=抽象化能力が不足しているからだ。そこを狙って、他人ごとの戦記がデカイ面でまかり通る。
 子どもにとって、他人ごとではない戦記はないのか。ある。それが親たちの戦記だ。太平洋戦争ではなく、あの大東亜戦争の、銃後の戦没者扱いもしてもらえない惨めな庶民の死や、焼けだされや、食糧難や、発疹チフスや、疎開などまったくミミッチイ、はなやかさなんかミジンもない戦争の記憶――これが、いま、子どもたちに向かって語られなければならない。"親たちの戦記"なのである。
 それにひき比べて、いまの子どもたちは幸福だなどという必要はない。親たちはタンタンと、自分の戦争体験を語ればよいのだ。
 佐野斗美クンが五年生になったとき、父親はいった。
 「おまえ、もう五年生か。あと一年だな」
 「何が、あと一年なの?」
 そばにいた妹のあゆみサンが早のみこみでいう。
 「あと一年で中学になるってことよ。ねえ、おとうさん、そうよね」
 「ちがう、あと一年で親がいなくなるってことさ。オレはそうだった。オレは国民学校初等科六年のとき、ひとりになったんだよ」
 「ああ、戦争だね」
 「そう。戦争だ。だけど、戦争じゃなくても親は死ぬ」
 きょうだいは、親が死ぬさまざまな原因を討論しはじめた。日本人の平均寿命なども考慮に入れている。年をとって死ぬならばしかたがないが、年もとらずに人間が、自分の意志でもないのに死んでいくのはよくないことだという結論が出る。だから戦争は悪だ。いや戦争と同じように悪いものが、いまでもたくさんある。ここで、親の戦記と子どもの現実は重なりあいを持ってくる。
 平和といわれているいまでさえ人間がかんぜんに生きていけるという保証はない。これがもしも戦争になったら、親だけでなく、自分たちも死ぬだろう。
 戦場に行った者だけが死んだのではない。徴兵忌避をしたからといって、生きのびられたわけではない。街の片隅でほそぼそとタツキの煙をあげ、子どもを生み育てていた親もまた、戦争によって殺されなければならなかった。それゆえに、戦争は惨めなものなのだ。
 惨めをかくした戦記、無名の死者をないがしろにした終戦記念日の慰霊祭からは、子どもは何も知りえない。知りえたとしても、ゴマカシの栄光だけだ。あの戦争で栄光をかちえたやつらを、いま改めて、戦争犯罪人として子どもたちに確認させるためにも、親の戦記が必要だと思う。

テキスト化塩野裕子