「待つ」発想

岩崎ちひろの絵本・雑感

『子どもの国の太鼓たたき』(上野瞭/すばる書房/1976.08)

           
         
         
         
         
         
         
    
 岩崎ちひろに『ぽちのきたうみ』(至光社)という絵本がある。
ちいちゃんという女の子が、犬を残して、おかあさんといっしょに海へいくはなしである。ちいちゃんは、犬のことが気になって夏休みを楽しむことができない。そこで犬に手紙を書く。「ぽちがいなくてさびしいです。このおてがみをよんだらうみにきてください。ずっとおよがないでまっています。」やがて、おとうさんが犬を連れてくる。ちいちゃんは犬を抱きあげて、「てがみ、ついたのね」という。犬がきて、ちいちゃんのほんとうの夏休みがはじまる・・・・・。
 ぼくがはじめに、この絵本を持ちだすのはきわめて私的な理由によっている。数ある岩崎ちひろの絵本の中で、ここにはぼくを引きつけるものがあるからである。手紙にあらわれた女の子のやさしさ、あるいは、女の子に仮託された作者のあたたかさ、それをいっているのではない。もちろん、そうしたものにも、ぼくの感性は微妙に反応するが、引きつけるもの・・・という時、この絵本では、ことばによる表現よりも絵による表現を指している。岩崎ちひろのファンには申し訳ないけれど、『あめのひのおるすばん』(至光社)、『ことりのくるひ』(至光社)と、世評の定まった絵本に溶けこめなかったぼくは、やっと、この『ぽちのきたうみ』で、構えずじぶんをゆだねる風景に出会ったということである。その風景とは、主人公のちいちゃんが手紙をだしての帰り道、すこしだけ海辺へ行ってみる場面である。
 見渡す限り、海と空がひろがっている見開きのページ。そこに、黄色い帽子をかぶったちいちゃんが、波間から呼びかける男の子の方を向いている。ちいちゃんも男の子も、小さく点景のように描かれている。この二人の子どもを、やわらかく包みこむように描かれている淡いみどりの海。その海と溶けあうように描かれる青いぼかしの空。さらに水彩の濃淡を生かした雲のつらなり。それらが、この風景を限りなくひろがりあるものにしている。
 ぼくはここにきて、主人公のちいちゃんといっしょに、ほんとうに海と空に向きあっているような気持ちになる。それだけではなく、じぶんが、解きはなたれたそんな空間にいる気持ちになる。これは、犬のぽちがきて、ちいちゃんといっしょに浜辺を走るすこしあとの場面にも通じるのかもしれない。しかし、ぽちとちいちゃんか走る海辺の風景は、はじめの風景にくらべて、それほど、ぼくを自由な開放感で充たさない。そこでは空が、青一色のひろがりのかわりに、赤紫、黄色、うすみどり、オレンジの、淡く重なりあう色のひろがりになっているからだろう。それは、『ゆきのひのたんじょうび』(至光社)の冬の夕暮れの景色(見開きページの、主人公の淋しさを表現している風景)。あるいは、『あめのひのおるすばん』の「だあれもいないおへや」の色彩感。それらとどこかで重なりあうものを持っているからだろう。つまり、「きょうからほんとうのなつやすみ」といって、ちいちゃんと犬が、白い砂浜を走りまわっているのに、海も空も、その躍動を伝えるには、あまりにも淋しすぎる色に思えるということだ。
 もちろん、これは、はじめに記したように、きわめて私的な色彩反応である。岩崎ちひろのファンの中には、こうした多色の重なりとぼかしこそ、岩崎ちひろの独自の世界を示すものだと指摘するむきもあるだろう。それは否定できないし、否定するどころか、むしろ、そのとおりだと、ぼくも思う。思うだけではなく、事実、岩崎ちひろの世界は、常に輪郭の不分明な色彩融合の上に成り立っている。たとえば、『あかちゃんのくるひ』(至光社)の二羽の小鳥を、主人公がじぶんと赤ちゃんになぞらえる絵。『あめのひのおるすばん』の、窓に願いごとを書きつける場面。あるいは『ことりのくるひ』の、小鳥が鳥篭からはなされる場面。岩崎ちひろは、そうした個所で、いくつもの色を重ねあわせ、重ねあわせた色を淡々とぼかしている。これはまぎれもなく岩崎ちひろ独自の画風である。しかし、とぼくは考える。いったい、岩崎ちひろのこうした濃淡の色彩融合は、何を意味しているのだろうか・・・・・。

 岩崎ちひろという時、多くのファンは、まずその少女像を思い浮かべる。下ぶくれの顔立の、夢見るようなつぶらな瞳に胸を熱くする。ぼくは男の子であるせいか、そうした共鳴の仕方から、いつもずっと遠いところにいた。これは、少女像の「美しさ」を認めながら、そこに、同化できない何かを感じていたためといえるだろう。その「何か」というのは、ぼくの場合、少女像に漂う「あどけなさ」や「夢見るような瞳」のことなのか。もし男の子であるが故に、そうした「美しさ」に反発しているとするなら、男の子であるということは、何と味気ないものになるだろう。しかし、「夢見る瞳」は持たないまでも、男の子もまた「夢見る」存在なのであって、ぼくが少女像に同化できないことは、あながち、その「つぶらな瞳」のせいばかりではないように思うのだ。ぼくが岩崎ちひろの絵本に距離を置いて対するのは、そうした少女像のせいというよりも、少女像に集約される絵本の発想、いや、そこに一貫している作者の発想のせいに思えてならないのだ。
 仮にそれを、「待つ」発想と記しておこう。岩崎ちひろの絵本は、常に何かを待ち受ける緊張感、あるいは何かを「待つ」内的葛藤が中軸になっている。たとえば、『あかちゃんのくるひ』では、赤ちゃんのくるのを待ち受けているし、『あめのひのおるすばん』では、おかあさんの帰ってくるのを待っている。こうした視点からいえば、『ことりのくるひ』では小鳥を、『ゆきのひのたんじょうび』では誕生日を、またはじめにあげた『ぽちのきたうみ』では、犬のやってくるのを待つことがその核になっている。岩崎ちひろは、その待ち受ける気持ちを、単色あるいは多色のぼかしでつぎつぎ表現した。つまり、岩崎ちひろ絵本における涙のようににじむ輪郭の溶解場面は、すべて主人公の少女の期待と不安のひろがりだといえる。
 ぼくは、じっと「待つ」そうした少女の姿、いや「待つ」ということに閉じこめられる人間の提示に、同化できないじぶんを感じていたのに違いない。『ゆきのひのたんじょうび』と『ぽちのきたうみ』には、多少、主人公の「行動」があるから横に置くとしても、『あめのひのおるすばん』をはじめとする至光社の他のオリジナル絵本は、すべて主人公が室内に閉じこめられている。たとえば、『ことりのくるひ』で行動しているのは、小鳥を捕らえようとしている窓外の少年だけで、主人公の女の子は、「だけど、ことりがほしいの」と、そうした行動を見ているだけである。ぼくは、そうした主人公に同化して、室内で息をひそめ、不安の想いをさまざまに繰りひろげる在り方、それに息苦しさをおぼえるのである。「待つ」ことだけが人生だろうか。ぼくのこの疑問が、ぼくと岩崎ちひろの絵本の間に距離をつくる。

 もちろん、このことは、『あめのひのおるすばん』のような、心象風景そのものを表現することを否定しているわけではない。心象風景の表現という場合、たとえばぼくは、谷内こうたの世界を考えてしまう。『のらいぬ』(至光社)にしても『なつのあさ』(至光社)にしても、それは谷内こうたの内的世界の表現である。とりわけ『のらいぬ』は、夏の砂丘から心象風景が大きくひろがり、まっ白な灯台に主人公たちをかりたてる。青い空にむかって飛翔する少年と犬。それは、あきらかに、心象風景でありながら躍動がある。躍動の形で心象風景そのものが、人間をひろい世界に解きはなとうとする方向を持っている。その点、岩崎ちひろはどうだろうか。すでに触れたように、ぼくら読者は、心象風景の中にはいりこめばはいりこむだけ、「待つ」ことの不安と期待、主人公のそうした姿勢の中に閉じこめられて、出口を求める息苦しさを感じるのだ。
 ぼくははじめに、『ぽちのきたうみ』を取りあげ、そこに、ぼくを引きつけるものがある・・・といった。それは、右の、絵本の世界のひろがりと関わっている。ぼくはその絵本の中で主人公のちいちゃんといっしょに、海と空を前にして、ふいに解きはなたれることを感じたからだ。もし、ちいちゃんが、犬に手紙を書いたあと、『あめのひのおるすばん』のように、その内面の不安や期待の表現だけで示されていたならば、(ということは、先に触れた輪郭の不分明な多色の重なりとぼかしの表現法へつづいていたならばということだ)たぶん、ぼくは、息をつまらせたまま本を閉じたことだろう。しかし、『ぽちのきたうみ』は、ちいちゃんの緊張や葛藤を描きだすのに、ひろびろとした海辺の光景を用意し、それをぼくらに示すことで、予期しないひろい世界にぼくを連れだすのだ。そこには、なおかつ主人公の待ち受ける姿勢があるとしても、ぼくらを、「待つ」ことに閉じこめる発想はない。そんなふうに思える。狭い室内での内的葛藤のかわりに、海が、空が、そうした葛藤を秘めた人間をひろい世界にときはなつ。岩崎ちひろは、心象風景のかわりに、さわやかな真夏の情景を描きだすことにより、心象風景表現の無限の可能性を、この絵本の中で探りあてたとはいえないか。ぼくはちいちゃんの背後に立って、この情景を眺めるたびに、少女像では感じなかったかすかな胸の疼きをおぼえるのだ。
 岩崎ちひろが、情感豊かに内面世界を語りかける作家であることは、誰しも感じるだろう。ぼくもまた、すべてのものをじぶんの内部風景として描きだすその発想に、距離を置きながら感心しているのだ。しかし、『戦火のなかの子どもたち』(岩崎書店)を手に取る時、ぼくはそこに、切ないまでの岩崎ちひろの願いを読みとれても、そこから一歩もでない人間の在り方を感じとって、いいようもなく悲しくなるのである。赤いシクラメンの花の中に、戦争で死んだ子どもたちを閉じこめ、「わたしのちいさなおともだち」「わたしのこころのおともだち」と見つめつづける発想。これもまた、『あめのひのおるすばん』同様に、ひたすら「待つ」発想ではないだろうか。もちろん、この場合「待つ」とは戦火の終焉、平和の到来を待つことである。このことは、日常生活において、岩崎ちひろが何をし、何を考えたかということとは直接に結びつくものではない。絵本そのものが、結果として、じぶんの内部の痛みを見つづけるもの、そこに死者を閉じこめて、閉じこめたまま眺めつづけるものになっている、ということである。これは、戦火に踏みにじられた子どもたちを描くというより、そうした子どもたちに寄せる岩崎ちひろの想いを描きだしたというだけにはならないか・・・・・。
 もちろん、祈念や詠嘆がよくないというのではない。ぼくは、岩崎ちひろが、おのれの内なる疼きを描きながら、それをそのまま人間の悲劇、『戦火のなかの子どもたち』と表題化した点に足を止めているのだ。そこには、心象風景としての把握、あるいは、表現ではすくいとれないものがあるように思えてならないのだ。

 内へ内へ秘める想いへの傾斜。「待ち受ける」発想。よきにつけ悪しきにつけ、それが岩崎ちひろ独自の世界を生んでいる。つぶらな瞳の夢見るような少女像に結晶している。ぼくの周囲にも、そうした少女像へのたくさんのファンがいる。その一人にどうしてこんなに「待つ」だけの女の子がすきなんや・・・・・とある日、愚問を発したところ、ジーパン姿のそのファンは、ぼくを軽蔑するようにこういった。
「女の子はいつの時代でも待つものです。待っていたら、そのうちきっといい人があらわれる、しあわせがくる、そんなふうに考えるものが女の子なんです」
 ほんまやろか。ぼくは、改めて岩崎ちひろの絵本を眺めかえしたしだいである。(テキストファイル化上原真澄