モーリス・センダクに関する覚書

『子どもの国の太鼓たたき』(上野瞭/すばる書房/1976.08)

           
         
         
         
         
         
         
    
 きわめて不勉強なわたしは、モーリス・センダクといえば、いまだに一冊の絵本の作者のように思いこんでいる。五十冊以上の子どもの本のイラストをやり、ほかにもオリジナル絵本があるというのに、反射的に「あの怪物の作者だな」と考えてしまうのである。独断と偏見といえば、まさにそのとおりだが、反対に『かいじゅうたちのいるところ』("Where the Wild Things Are"1963, 神宮輝夫訳/冨山房)というこの一冊の絵本は、それほどまでも強烈に、わたしを魅了しているのだともいえる。
 アメリカの七才になる少年は、この絵本を見て、つぎのような手紙をセンダクに送った。
「怪物のいるところまで行くには、どれくらいお金がいるんですか。そんなに高くないなら、妹とぼくは、そこで夏をすごしたいんです。どうかすぐ返事ください。」
 センダクが、この少年に、どんな返事を書いたのか、それはわからない。わかっているのは、インタビュアーであるナット・ヘントフに、この手紙を見せたということである。(これは、小説『ジャズ・カントリー』を書いたナット・ヘントフの、"Among the Wild Thing"によっている。ナット・ヘントフのこのセンダク訪問記は、なかなか興味深いものである。わたしが、この小論の中で引用するセンダクのことばは、以下、この本の中のセンダクの発言である。そのことを前もってことわっておく。)この手紙でもわかるように、怪物たち(the Wild Things)に魅了されたのは、わたしだけではない。子どもたちも……というより、むしろ子どもたちの方が、強い反応を示していたということである。いうまでもなく、センダクは、この作品で、一九六四年カルデコット賞を受けている。受賞式のためセント・ルイスへ出かけたセンダクは、そこでこう話している。
 「『かいじゅうたちのいるところ』によって、わたしは自分の長い見習い期間が終わったように思う。ということは、わたしはこれまでの全作品は、この絵本のための苦心にみちた準備だったように思われるということである。」
 わたしが、センダクからこの一冊の絵本を思い浮かべるのは、あながち無理な話ではないだろう。センダクの上の発言によっても、怪物たちの登場する絵本が、センダクの一つの到達点だったことがわかるからである。それ以後の作品としては、"Hecter Protector"(1970)"Higglety Pop !"(1967)"In the Night Kitchen"(1970) しか、わたしは見ていない。(もちろん、一九六八年の"A Kiss for Little Bear"を含めてもよい。しかし、これは、オリジナル絵本というよりも、ミナリックの物語によっている。)反対に、それ以前のオリジナル絵本として知っているのは『ケニーの窓』("Kenny's Window"1956, 神宮輝夫訳/冨山房)くらいである。センダクは、一九五二年の、ルース・クラウスの"A Hole is to Dig"のイラスト以後、独立して自由なイラストレイターになったといわれている。その"A Hole is to Dig"をわたしは見ていない。ルース・クラウス文のものでは、"I want to paint my bathroom blue"(1956) である。わたしが、反射的に『かいじゅうたちのいるところ』を思い浮かべるのは、センダクの絵本に関するこの読書量の圧倒的な少なさによるのだろう。いずれにしても、この一冊の絵本は、子どもたちのみならず、わたしをも魅了したのだが、その魅力のほどはどこにあったのだろうか。
 今、改めてページを開くと、はじめてこの絵本を開いた時とおなじように、手足をふる怪物たちのその地ひびきの音が、はっきりと聞こえてくる。扉にあたるこの見開きのページの右側には、この物語の主人公マックスの身ぶりを真似て踊っている。左のページいっぱいに、巨大なwild thing が二匹、マックスの身ぶりを真似て踊っている。三頭身ともいうべきその姿形。頭と胴と足の大きさが奇妙なバランスを保っている怪物である。ずんぐりふっくらとしたその一匹は、つのをはやし、針金のようなひげ面だし、もう一匹は、やわらかな赤毛のウェーブした長髪である。毛むくじゃらの、一見、怪物らしいこの生きものの、何とユーモラスな顔つきだろう。赤く染った団子鼻。それに押しつけるように描かれた黄色い大きな二つの目。この扉ページを開いたものは、誰だってこの表情に引きつけられずにはいかない。疑うことをしらない目と、じぶんの失敗をおそれるおずおずした目が、少年の一挙一動を追っている。この怪物の姿が、アメリカでも物議をかもしたことは有名だが、センダクは、それほどまでユニークに架空の存在に形を与えたわけである。
「センダクの魅力の鍵は、ペン描きと色彩の結合であり、それによって、細部や雰囲気をつくり出す熟練にある」と、ベッティーナ・ヒューリマンはいっている(Picture Book World・1965)。そのことばどおり、この怪物たちもまた、細かなペン描きによって命の厚みを与えられている。わたしたちは、この絵本の冒頭から、ありえないものの存在することに衝撃を受け、つぎには、そうした空想に与えられて形の、あまりにも生き生きしていることに感動するのだ。それは躍動的であり、同時に異様でもあり滑稽でもある。わたしたちは、扉のこの絵から、すでに「もう一つの世界」と呼ぶ現実を超えた世界に入ることを予感する。ページのむこうには、わたしたちの日常生活が再現されているのではなくて、それを超えた「何か」が待ち受けていることを知る。

 扉のつぎのページを開く。主人公マックスが狼の縫いぐるみを着て、いたずらをしている。そのつぎのページもおなじで、マックスはむく犬をおどしている。注意深い読者なら、この見開きの白いページの右側に、窓枠のように天地左右を白く残して描かれた絵の大きさが、すこしずつ拡っていくことに気づくだろう。それだけではない。マックスは、耳のとがった衣装を着ているため、まるでいたずらな小悪魔のように見える。つぎのページ。見開き右の画面は、天地左右をすこしまた拡げる。母親が、隣の部屋から、マックスに「怪物さん!」と呼びかける。マックスは、それに対して、「ぼくはおまえを食っちゃうぞ!」といいかえす。そこで、夕食抜きでベッドへ行かされる……という場面だ。マックスは、ふくれっつらをしている。
 つぎのページで、画面の枠はさらに拡がる。いつの間にか、マックスのその部屋に木がはえだす。窓のむこうの月は、もうすぐ満月になることを読者に告げる。すこしばかり不貞くさったマックスは、うしろに腕を組んで歩きまわっている。部屋のドアや、ベッドの四方からはえた木は、茂りあったその葉で天井をかくしている。わたしたちは、画面の枠の拡がりにつれて、現実が退き、かわりに空想の世界が拡がっていくことを一目で理解する。
 つぎのページ。右側の天地左右の余白は、うんと縮まっている。もう部屋の中は、草のおい茂る森の一歩手前まできている。ベッドもドアも、かすかな描線で示されるだけで、部屋だったことを示すものは、窓のむこうの月と星だけである。マックスはすっかりごきげんになり、一人ほくそ笑む。
 つぎのページ。見開きの右半分は、すっかり夜の林の絵に変わる。もう現実を示す余白はまったくない。わたしたちは、マックスといっしょになって空想世界に入りこむ。マックスは、月にむかって手足をふる。わたしたちは、この「もう一つの世界」のはじまりから、つぎのページに対する期待を抱く。
つぎのページ。右半分を占めていた絵は、左の白の中にまで拡ってくる。マックスは、夜の林を抜け出し、真昼の波立つ海上を、ヨットにのって滑りだす。得意気な顔……。
つぎのページ。画面は、右から左のページへ、さらにのびる。海中から上半身をもたげる怪物の息で、マックスのボートは右手の島に近づく。
 つぎの見開きページで、画面は左右いっぱいに拡がる。余白は、見開き両ページ下の3分の1強だけになる。わたしたちは、ここにきて、扉の見開きページで見たあの怪物たちの歓迎を受ける。黄色い目をして、きばをむきだした三頭身の怪物は、マックスをおどすように両手をふりあげている。しかし、上陸したマックスは、反対に、怪物たちを催眠術でもかけるようにしておとなしくさせてしまう。おびえているのは、巨大にして異様な、そのくせ、どこか滑稽な怪物たちである。画面は、この見開きページで、ほんのわずか下に拡っている。つぎの見開きページで下の余白は、さらに狭くなる。怪物たちの王様となったマックスの前で、怪物たちはおそれいっている。マックスは、怪物たちに、ばか騒ぎを命令する。
 つぎの見開きページで、わたしたちは、余白の部分がすっかりなくなったことに気づく。左右のページいっぱい、マックスといっしょになって踊りはねる怪物……。月は満月である。わたしたちは、巨大な怪物のとびはねる音を聞く。つぎのページでは、マックスと怪物たちが、木にぶらさがっている。怪物たちの何と楽し気な表情……。つぎの見開きページは、圧巻である。両画面いっぱいに、王であるマックスを肩にのせた怪物たちが、手足をふりながら行進している。本来、「恐怖」であるはずの怪物が、その巨大さ・異様さを「恐怖」の増幅としてではなく、「よろこび」や「楽しさ」の増幅にふりむけているおもしろさがある。扉の見開きページで予感した「何か」が、ここで最大限にふくらんだことを感じる。それは「もう一つの世界」のふしぎさであり、楽しさでもある。それに、目も見張るような形の与えられたことをわたしたちは感じる。のし歩く怪物たち。その表情。マックスの空想世界(それは読者の空想世界でもある)は、ここで最高潮に達し、やがて退潮にむかう。夜は去ろうとしている。見開き六ページにおよぶ空想世界は、つぎのページで、「現実」を示す余白の部分をまた取りもどす。マックスによって、食事を与えられないまま眠る怪物たち。ここには、夕食を与えられないままベッドに追いやられたマックスの、その腹立たしい気持ちの投影がある。マックスは、母親そっくりに怪物たちを扱うことによって、そのいらだちを解消するだろうか。マックスの心の占めるのは、さわやかな開放感ではなくて、反対に、いいようのない淋しさである。怪物の王であることも、怪物を拒絶させることも、この淋しさを解消するものではない。マックスは、じぶんをもっとも愛しているもののところへ帰りたくなる。
 余白は拡がる。つぎのページでは、歯をむき、とがったつめをふりあげて、吼えたける怪物たちに手をふるマックスがいる。マックスは、日常生活にむかって船出する。画面の余白は拡がり、やがて、じぶんの部屋に到着する。テーブルの上には、マックスの夕食が用意してある。マックスの冒険は終る。
 最後のページ。ここには絵がまったくない。見開き二ページにわたるまっ白な紙の上に、「夕食はまだあたたかかった」と記されているだけである。『かいじゅうたちのいるところ』は、ここで完全に終る。わたしたちは、物語の終ったことを知ってほっとする……。

 こういえば、きわめて簡単に、一冊の絵本を「説明」してしまった感じがしないでもない。この絵本のおもしろさを削減しているような感じさえする。わたしは、置きかえのきかない絵の世界を、むりやり言葉に置きかえようとしている。おかげで、センダクの絵のユニークさは、言葉の間からこぼれ落ちてしまった気がするのだが、しかし、この絵本の構成なり、画面展開なりは、このむなしい作業によっても、おぼろげにわかるではないだろうか。「現実」ないし、わたしたちの「日常性」を示す白の部分。その中に、すこしずつフレームを拡げていく色彩の部分。空想と現実は同一平面に息づき、やがて、その一方が他方を圧倒する過程が、みごとに示されている。わたしたちが引きつけられるのは、「現実」から「空想」へ、「空想」からさらに「現実」へのこの自然な移行法であり、それを納得のいく形で描きだした細密な画面のせいだろう。「ありうるだろう」いたずらっ子の話が(子どもの日常性が)、いつの間にか、「ありえない」怪物の世界(子どもの空想)につながっていくおもしろさ。子どもたちは、そこを楽しむのであり、そこで示された空想の可能性の、その躍動的な形象化に共鳴するのだろう。
 このことは、センダクが、一方的に大人の空想の奔放さを示している……ということを意味しない。むしろ、反対に、現実の子どもなら、たいていのものが、一度や二度は経験した出来事、あるいは空想した事柄に独自の形を与えている……ということを意味する。この絵本の主人公マックスでなくても、子どもは、こうしたいたずらに夢中になる。また、母にさからって、じぶんの行為の誤りを認めないものである。夕食を抜きにされるかどうかは別として、小言をくらったあと、不貞くされて、そのやり場のない気持を空想に仮託する。じぶんの非がわかっていながら、それを素直に認めたくない気持。その中には、そうした屈折したじぶんの気持を、そのままわかってほしいという願いもある。そうしたやり切れなさを、そっくり包みこんでくれる母親の登場を待ち望む気持がある。子どもはそうした複雑ばじぶんの気持を、じぶん自身で整理できない。泣き、わめき、手足をばたつかせることで表現する場合もある。じぶんの持ちもの、おもちゃの類を投げることによって表現する場合もある。センダクの描いているのは、そうした無数のマックスの内的世界である。表現したくても、きわめてまずい表現方法しか思いつかない子どもの、その内的に形を与えているわけである。狼の衣装をつけたマックスは、いうならば、そうした表現の子どもの集約された姿だろう。少なくとも『かいじゅうたちのいるところ』が、子どもを魅了することのその底には、上のような意味での子どもの共感があるに違いない。そして、さらに押していえば、この子どもの内的世界へのアプローチ、あるいは表現ということは、「怪物たち」の絵本以前、以後にわたって、センダクが一貫して描こうとしてきたことではないか、といことである。
 たとえば、『ケニーのまど』を開いてみればいい。ここでも、わたしたちは、一人の子どもの内的世界に出会うのである。ケニーは、夢の途中で目をさます。夢の中で、ケニーは、半分は昼、半分は夜の庭にいて、雄鶏から一枚の紙切れをもらう。夢がさめたあと、その紙切れが、じぶんの手元にあることに気づく。そこには、七つのなぞなぞが記してある。ケニーは、その一つ一つを解いていく。そして最後に、黒馬と白い船を手に入れる。といっても、この馬も船も、現実のものではない。それを欲しいと願う気持の中で形づくられていくイメージとしての馬や船である。ケニーは、七つのなぞを解く過程で、じぶんの持ちものや犬をめぐって「人生体験」を積み重ね、最後に「夢を見ること」のすばらしさに到達する。それが約束する何物にも拘束されない自由。それをあらわすものとして、馬と船が描かれる。センダクは、ケニーを通して、子どもの内側に息づく「ふしぎなもの」への憧れ、その志向性が本来ふくんでいる自由な生き方への願望に、一つの形を与えたといえる。
 もちろん、『かいじゅうたちのいるところ』の細密なペンの走り具合、その色彩感を考えるならば、『ケニーのまど』の絵は、粗描の感じがするだろう。「怪物たち」の重厚さに比べて、この絵本には簡潔な描法しかない。これは同じ一九五六年にでたルース・クラウス文の"I want to paint my bathroom blue"にもいえる。センダクの絵は、水彩画特有のあのにじみを利用して、淡彩の中に、命のしなやかさや子どもの世界のやさしさを定着している。わたしたちは、この翌年(一九五七)、ミナリックの『こぐまのくまくん』("Little Bear"松岡享子訳/福音館)で、センダクもペン描きみ出会うのだが、その細密な線描は「怪物たち」の絵本を間にはさんで、一段飛躍をとげていることに気づく。同じLittle Bearを主人公にしたものでも、『だいじなとどけもの』("A Kiss for Little Bear"1968)の小熊の世界は、第一冊目に比べてはるかに重厚である。センダクは、この前年(一九六七)、犬のジェニイが家出する"Higglety Pigglety Pop! "という愉快な物語を書いているが、このイラストはすべて彩色なしの細密ペン画である。こうした画風を見る時、センダクは、その手法にあいて、「怪物たち」以前と、「怪物たち」以後に、一つの変貌をとげたといえるのかもしれない。とりわけ、"In the Night Kitchen"(1970)では、「怪物たち」の画風を離れてComic strip風に変わっていく。しかし、その画風の変化にかかわらず、センダクが、子どもの内的世界を描こうとする点は一貫している。
 たとえば、わたしは、Comic strip風にといったが、そのことはあとで触れるとして、"In the Night Kitchen"の場合も、また子どもの空想世界に形を与えたものなのだ。
 夜、ミッキイ少年は、騒々しい物音で目をさます。ベッドからむっくり起きあがって、怒鳴りつけたあと、この少年は「現実」から「もう一つの世界」に落ちこんでいく。いつの間にか裸になり、夜の台所の、パン焼きのための練り粉の中にはまりこむ。そこにいるちょびひげをはやした三人のパン作りの職人。この三人は、目が細く、赤鼻の、二重あごの「そっくりさん」である。顔形がそっくりであることによって、一種の不気味さと滑稽感を漂わす。この容貌のふしぎに眩惑されないならば、この三人のBakerが、あのマックスの出会ったwild thingの役目を果たしていることに気づくはずである。
 三人の男は、ミッキイの入った練り粉をこねる。このあたり、始終にこにこ顔の大人として描かれているため、(そして、練り粉の中からミッキイの片手が突きだされているため)ブラック・ユーモアを連想させないでもない。マックスが怪物たちに出会ったように、ミッキイもここで、一つの「恐怖」に出会うわけである。しかし、子どもたちは、空想の中で、いつも冒険の主導者である。ミッキイは練り粉の中からとびだすと、その練り粉で飛行機をこねあげる。プロペラのまわらない練り粉の飛行機は、台所用品の並んだ夜の町を上昇し、ミルク瓶に到達する。ミッキイは、瓶の中にとびこみ、三人の男たちにミルクを流してやる。トリオ・ロス・パンチョスよろしく、よろこびの声をあげる「そっくりさん」。ミルク瓶から滑り降りたミッキイは、いつの間にか寝巻きを身につけ、ベッドの中にもぐりこんでいる。楽しげな顔で眠るミッキイ……。
 これは、子どもの夢をそうしたものとして想定して、それに形を与えたものだともいえる。また、「怪物たち」の絵本と同じく、「現実」から「空想」へ、そしてまた「現実」へ……という空想物語のあのパターンを展開したものだともいえる。いずれにしても、「子どもならそんなふうに考えるだろう」という世界を、コミックに描いたものである。もちろん、現実の子どもの、具体的な夢、あるいは空想そのものに形を与えたものではない。センダクのことばをかりていえば、こんなふうになる。
「私は、子どもたちが感じること……というより、むしろ、私が子どもたちにならそう感じるだろうと考えることを描こうとしているのです。それは、私が一人の子どもとして感じたことです。」
「私は、一人の子どもとしてじぶんの感じたことを、私の描く子どもの中に持ちこむ時、ひどく偏ったり不正確であったりするかもしれません。しかし、私のやらなければならないことは、私の知っていること――つまり、私の子ども時代だけではなく、今も生きているものとして、私の子どもだったことを描くことです。」
 センダクは、じぶんの中の子どもを通して、子どもの考えるだろうことを探りだし、それに形を与えていくということである。「怪物たち」の絵本や「夜の台所」のミッキイでもわかるとおり、センダクの「内なる子ども」は、ひどく空想的だったといえる。センダクのこの素質は、父のフィリップから受け継いだものだろう。センダクの父と母は、第一次世界大戦前に、ワルシャワ郊外の小さな町から、アメリカへ移住してきたユダヤ人である。
「父はすばらしい即興詩人で、幾晩にもわたって話をしてくれました。」と、センダクは語っている。ちなみにいえば、センダクは六才頃まで病気がちで、ほとんどベッドで暮していたという。ナット・ヘントフに語った話を読むと、おもちゃを相手に暮していたことがわかる。おもちゃとの間に友情を育んだその体験は、先に触れた『ケニーまど』の中に、充分反映されている。片目の熊の縫いぐるみバッキイ。二人の人形兵士。これらへの愛着が、ケニイの言動を通して伝わってくる。父の語る神話や空想物語で想像力を刺激された少年は、おもちゃを相手に、じぶんの空想を形にあらわしていく。そこへ、姉のナタリーの与える本が、センダクに「読書の楽しさ」を教える。センダクは、はじめて手にした本の名前を告げている。それは、『乞食と王様』であり、『三銃士』である。
「私はまだ、それら二冊の本の装丁の匂いや感じを覚えている。長い間、それらの本を読んでいない。しかし、今でも、それを持っているような気持がする。彼等は私の中に生きているし、私が見つけた多くの生命のないものに生命を与えたといえる……。」
 おくればせながら付け加えれば、センダクは、一九二八年六月一〇日、ニューヨーク、ブルックリンに生まれた。少年時代、兄のジャックといっしょになって、新聞写真を切り抜いたり、じぶんの家族をスケッチしてマンガを描き、本をつくったことは、よく紹介されていることである。一九四六年に、ラファイエット高校を卒業しているが、在学中から"All American Comics"で働いている。卒業後、マンハッタンにあるウインド・ディスプレイの店で働き、一九四八年から三年間、F.A.O.Schwarzの店に勤めている。この店のフランシス・クリスティの紹介で、ミス・ノードストロムに出会い、それがきっかけで、マルセル・エーメの"The Wonderful Farm"(1951)のイラストをやる……。
 わたしは、空想的な子どもだったセンダク、そうした「子ども」を内側に取りこんだセンダク……のことを語ろうとして、すこし横滑りしたわけだが、それは、"In the Night Kitchen"の絵にもどりたかったからである。先に、この絵本の画風を指して、Comic strip風といった。わたしは、この絵本を見た時、まずアメリカ的な、いわゆるアメリカ風なマンガを連想したのだ。ミッキイが牛乳瓶をかかえて円型のマークの中に立っている姿。いや、それよりもむしろ、練り粉の飛行機で、夜の台所を牛乳瓶に着陸する場面。金米糖のように散りばめられた星空もそうなら、三人のでぶのぱん焼き職人の顔も、飛行中のミッキイの顔も、すべてComic strip風なのである。ルース・クラウスの"I want to paint my bathroom blue"にあったあの淡彩でしなやかな感じも、また、『かいじゅうたちのいるところ』にあったデリケートな陰影も、ここでは姿を消している。故意に陰影を切り落し、色彩の対比で画面を強調しようとする原色マンガ風な作品。センダクは、ここで、じぶんの押しすすめてきた独自の表現法を横に置いて、既存のアメリカ・マンガ、あるいは現代風なポスターの表現法を逆手に取って、じぶんの内的世界に形を与えようとした傾きがある。細密な線描。それに融合する色彩の濃淡。そうしたセンダクの手法を、大衆化した既存の画風にとってかえることは、センダクにおける一つの新しい試みだった、とはいえないだろうか。わたしは、この絵本で、センダクが、じぶんの「内なる子ども」に影響を与えたもの、いいかえれば、「マンガの王様」だったディズニーに挑戦したと考えるのだ。挑戦ということばが不適当とするなら、じぶんの中にあるディズニーの影響を、はっきりと見すえ、それを取りだし、その限界を知った上で、その発想の枠組みを利用し、それを超える一冊の絵本を仕上げようとした、といいかえてもいい。センダクの内側には、十代のセンダクがいて、それを圧倒したウォルト・ディズニーがいる。
「ウォルト・ディズニーをのぞいて、その頃、私に深い影響を与えた子どもの本や芸術家を思いだすことはできない。恥しいことながら、ディズニーは、私にとってとってもすばらしい何かだった。彼の絵は動いていたし、たくさんの空想に形を与えた。金があればあるだけで、カラーの切り抜き絵本を買ったし、私は、その主人公たちによって、じぶんで物語の続きを生き生きとつくりあげた。それから、ラジオ・シティ・ミュージック・ホールでディズニーの『白雪姫と七人の小人たち』を見た時、じぶんが特に何をやりたいのか、ぼんやりとだが知った。私が、ディズニーの、美しい物語の破壊や、アニメーションにおける着想の誤りを知ったのは、ずっとあとのことだった。子どもは、いつだって、下品さや低俗さに気づかないものである。私にとって、ディズニーは神様だった。私は、コンフレークスの大きい箱の上のミッキー・マウスの顔を覚えている。何とファンタスティックな顔だったことか! こんなにも大きくて、まばゆくて、生き生きとしたすばらしい顔だ! 私の野心は、ディズニーのために働くことだった。」
 わたしが、"In the Night Kitchen"をセンダクの内なるディズニーへの挑戦ということは、右のことばでわかるのではないだろうか。ディズニーをシンボルとするアメリカ・マンガがある。その影響を受ける無数の子どもがいる。センダクもかつてそうだったように、そこには子どもたちの手放しの礼賛がある。それは、ディズニーの死後も、アメリカのComic stripが存在する限り続くだろう。そうしたフォルム・マンガの発想を無視することはできない。その形や枠組みを借りて、それが内包している批判すべき側面を越えること。"In the Night Kitchen"にはそうした意図があったように思えてならない。そうした意図と共に、センダクは、Comic stripの発想で、どこまで内的世界が表現できるか、一つの試みをやったといえないでもない。いずれにしても、新しいもう一つの道をここに発見し、センダクはその世界を拡げたといえる。
 センダクは、牛乳瓶の中でうれしそうに体を動かすミッキイを描いている。この「動き」の表現は、技法の変化にかかわらず、センダクの描く子ども像になっているように思う。"I want to paint my bathroom blue"の「ぼく」。この少年が、大きな白いドアを描き、光を浴びて踊りあがっている姿。また、ジャニス・メイ・アドリーの"Moon Jumpers"に見る月にむかってとびあがる少年少女。さらに「怪物たち」のあの躍動性。センダクは、踊りや歌を、子どもたちの、表現しがたいものを表現する方法として理解している。ナット・ヘントフの観察によれば、その仕事場には、すばらしいハイ・ファイ・セットがあり、マーラー、モーツアルト、ベートーベン、ワグナーなどの相当なレコードが置かれているということである。また、センダク自身も、仕事に取りかかる前に、まず、じぶんの構想にふさわしいレコードを見つけようとするという。センダクの内側で、まず躍動する「子ども」がいるに違いない。それがWild ThingsとなりMoon Jumperになって、画面いっぱいに手をのばすのだろう。さて、ナット・ヘントフの"Among the Wild Things"によれば、むすびのことばに、「誰のために書くか」というセンダクの発言が置かれている。そのことばの一部を、この小論の最後に置こう。
「……私の描いているのは子どもためではない。ほんとうは自分自身のために本をつくっている。」
(注・"Among the Wild Things"は"ONLY CONNECT"1969 所載)テキストファイル化松本安由美