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世界はいつも最善のなりゆきでまわっている……などというセリフを語らせながら、実は最悪のなりゆきに充ちた世界を描いてみせたのは、つい先頃封切られたヤコペッティの『大残酷』である。いかにも「きわもの」的な邦画名だが、原題はMondo
Candid。18世紀のボルテールの作品を下敷きにしている。(と、映画館で買ったパンフレットには書いてある) 無垢なカンディドが、愛する女性を求めて、過去から現在へ、「時間」「空間」をこえて遍歴する筋書だが、そのさきざきに待ちかまえるのが、まあいってみれば、「残酷」な人間の生きざまである。殺戮、破壊、不信、抗争……。映画は、女性のヌードをふんだんに挿入しながら、内乱のアイルランドからイスラエル、アラブの流血の状況まで、物語展開のために取り入れていく。(この赤いケシの花畑での戦闘場面は、きわめて「美しく」死を描いている。しかし、アラブやイスラエルの若者が見たならば、頭にくるのではなかろうか。なぜなら、ヤコペッティ先生は、両者の抗争の歴史的事情などまったく無視して、じぶんの考えや美意識を満足させるため、この場面を持ちこんでいるからである。) この映画のおもしろさは、場面転換の独特の着想にあって、たとえば、中世紀風の古城に、突如、ギターをかかえた二十世紀の若者の一群が、オートバイで侵入してくる。あるいは、コロンブスの乗りこんだ船が、現代のニューヨークに到着する。また、「過去」の哲学者が、今やテレビ・ディレクターであるなど、さまざま奇をこらしている点にあるわけだが、しかし、この映画から、そうした手法と「映像美」(?)を差し引いた時、いったい何が残るのであろうか。主人公のカンディドが、いみじくもラスト・シーンで叫んだように(スゴロクのフリダシにもどるというあの仕掛け同様、この映画のラスト・シーンは、冒頭の場面につながっていく)、人生なんてろくなことはないぞ、行くな、とどまれ……と、交通信号みたいな「人生訓」(あるいは「世界観」)が残るだけである。映画は、主人公の遍歴体験からくるこの忠告に関わらず、またぞろ、別のカンディドが、そして、未来の無数のカンディドが(子どもたちが)、雨傘なんかを背おって、同じ「残酷」の森へ喜々として駆けこんでいくところで終る。これはこれで一つの結末の付け方には違いないのだろうが、それにしても、これを見ていると、いかにもこの人は古い人だな……という感じがしてくるからふしぎだ。古い……という言葉が誤解を招くなら、人生を平板化して見ている、といい直してもいい。そのペシミズムの程はさて置くとしても、この映画の世界を支えているのは、カンディドという孤立した視点にすぎないのである。いったい「世界」とか「人生」とか呼ばれるものは、孤立した人間たちの、その「関係」を通してのみ成立するものではないのか。ヤコペッティの映画は、そのところを、すっぽり抜かして、きわめて閉鎖的な個の立場から、「人生」だの「世界」だのといっている。(もちろん、この主人公のそばに、奴隷から自由人となった黒人が配され、何となくあいまいな「関係」らしきものが描かれるのだけれど、この黒人の最後のセリフ、それが人生だ、何度でも繰りかえすのが若さだ、行かせてやれ……というのは、カンディドの、いや、ヤコペッティの「人生嘆きぶし」を強調する役割を果しているにすぎない) 仮りに、「行くな、とどまれ」という主人公の忠告に従うとしたなら、映画のラスト・シーンの、川むこうに集まった子どもたちは、いったい、どうすればいいのだろう。ただひたすら、雨傘を背おって、てんでばらばらに川岸を走りまわっているだけでいいのか。もし、ヤコペッティが、その場面を「遠景」としてとらえずに、カメラを近接してとらえたとすれば、そこにもまた一つの人生があり、それは無数の関係によって成り立っている世界であることを知るのではなかろうか……。 どうも、ぼくは、映画『大残酷』に多少こだわりすぎているきらいがある。しかし、ぼくは、もともとここでで、映画感想文を書くつもりなのではない。机の上に、木村泰子の三冊の絵本をひろげて眺めているうちに、この楽しげな絵本の方に、実はぼくたちの世界の表現があり、一見、もっとも「現代的」なヤコペッティの映画の方に、ぼくたちの世界の不在を感じて(いいすぎだろうな)、ついまわり道をしてしまったというわけである。木村泰子の世界を語るなら、何もヤコペッティなど引き合いにださなくてもいい。オーバーである。そういう声も聞こえそうである。(じぶんでもそう思っているんだから)そこで、ヤコペッティ先生に別れを告げ、絵本の方にもどるとどうなるのか……。 ちいさな魚が、森の中を「とっとこ、とっとこ」浮遊しながらママを探す話……といえば、いうまでもなく『たべちゃうぞ』(至光社)である。『たべちゃうぞ』は、この魚が猫に出くわし、その猫をまきこみ、虫に出くわし、その虫をまきこみ、鳥に出くわし、その鳥をまきこみ……という形で、出くわすものすべてをまきこんで、母親の魚を救いだす物語である。おそらくこの絵本に出くわす読者は、一度で作者の名前を覚えこんでしまうだろう。なぜなら、木村泰子の描く世界は、これにつづく『かいぶつになっちゃった』(ポプラ社)にしても、最近作『だいじなものがない』(至光社)にしても、一度見たら忘れることのできないユニークな生きものたちにあふれているからである。魚。虫。鳥。さらに大きい動物たち……。かれらは、この現実世界の約束事に関係なく、作者によって、てんで自由な生態を与えられている。その顔だち、形態もそうだが、第一、どうして魚が空中を泳ぐのか。泳げるのか。たぶん 木村泰子以外、いかなる生物学者も答えられないだろう。また、なぜ青虫や小鳥が水にもぐるのか、もぐれるのか、(『だいじなものがない』の場合)これも動物学者や昆虫学者の推測の域をでるだろう。木村泰子は、カボチャを馬車に変えるという時代がかった魔法は使わないとしても、みずからの絵本で、動物を自由に再編するくらいの魔力は持っているのである。空中を泳ぐ魚、水中をとぶ小鳥……。それだけをそういうのではない。青虫と犬と猫と魚が、それぞれのテリトリーをこえて共存する世界、つまり「なわばり」をはずした共同体を作りだす構想力を持っているということである。 もちろん、ぼくがこういえば、これに対して、それは、「みんな仲良し」的世界だと誤解するむきがあるかもしれない。とりわけ、魚の母親探しに、すべての生きものが協力する内容だけを抽出して、そうだと早合点する読者もあるだろう。しかし、木村泰子の構築する共同体は、こと程左様に「仲良し」的世界かどうか。そもそも『たべちゃうぞ』という書名からしてわかるとおり、この生きもの共同体には、常に「食うか食われるか」というきびしい生存条件が存在している。だから、一致協力して水槽をぶっこわしたあと、猫も虫も鳥も「けむくじゃら」も、たちまちにして本来の欲望に目ざめるのだ。幸いにして、魚のママが、おいしいスープを作れたからいいようなものの、もしそうでなければ、この魚の親子は、一転して救助隊に食われてしまったはずである。ここのところを、「仲好し絵本」だろうと考える読者は、どうせそうなるはずだった、作者は最初から、魚の親子を食べさせる気はなかったんだ……と思うのだろうが、それならば、最初から『たべちゃうぞ』などといわずに、猫も虫も鳥も「けむくじゃら」も、「どうしたの?」とちいさな魚に、心配そうな顔をつきだすだけでよかったわけだ。しかし、木村泰子の構築する共同体は、そうした手放しの「友情世界」とは違って、まずそこに、「食うこと」があって成立しているものであった。常に誰かが「食われる」危機をはらみながら、その危機の上に、危機をこえて「協力」しあうというような、なかなか示唆にとんだ共同体であった。木村泰子は、みずからの空想世界を、意識する、しないは別として、そうした共同体として設定したということ、このことは大いに注意を払うに価するだろう。 そこで、その証拠に……といえば何だが、『かいぶつになっちゃった』を引き合いにだす必要があるのだが、この絵本では、共同体を危機に陥しいれるイージーな連帯ということが中心になる。 ある日、一羽の小鳥が森の奥にある古い屋敷にまよいこんだ。その屋敷には、怪物がすんでいるという噂があった。その噂どおり、小鳥は怪物におどされる。小鳥は、ほうほうの体で「生きもの共同体」へ逃げかえる。小鳥の報告する怪物の有様に、共同体のメンバーは、口ぐちに誇張した姿を語りはじめる。怪物に「食われる」前にやっつけなくちゃと考えるようになる。さまざまな動物が寄り集まって、小鳥の報告した怪物の大きさになろうとする。共同体のメンバーは、鳥も動物もおたがいの体を押しつけあい、おたがいの体の上に重なり、どんどんでかくなっていく。でかい「怪物もどき」の形を作りあげていく。ついに完成した動物たちの塊は、共同体の、それに参加しなかった仲間たちをもおびえさせる姿になる。かくて、怪物屋敷にのりこむ「怪物ほど大きくなろうとした動物たちの塊」。かれらがそこで発見したものは、ただのタケノコである。小鳥は恐怖心のあまり、タケノコを怪物に見まちがえた、ということがわかる。しかし、いざ「塊」から、個々の動物にもどろうとすると、動物たちの圧縮された体は離れない。かれらは「塊」のまま、森をさまよい歩く。やがて圧縮された個々の体の融合作用がはじまり、かれらは一個の怪物そのものに変身してしまう。今や、ほんとうの怪物になった「もと共同体のメンバー」は、じぶんたちがかっておなじ仲間であったことを忘れ、歯をむきだして森の住人たちをおそいはじめる。この絵本は、「もりのおくの、ふるいやしきに、いまでもおそろしいかいぶつがすんでいる。」というところで終る。怪物化してしまった「もと共同体のメンバー」が、古い屋敷の屋根の上で、歯をむきだし、おそろしい目つきで、森の方をにらんでいる場面で終る。 木村泰子は、ぼくが手前勝手に推測するように、共同体の危険を描こうとしたのではないかもしれない。むしろ作者は、こうした形の「遊び」を試みることによって、そこに生まれる怪物の姿を楽しんでいただけかもしれない。その意図は、この絵本の創造主である作者にまかせておけばいいだろう。しかし、ぼくは一読者として、(鶴見俊輔さんの書名ではないが)「誤解する権利」を行使して、やはり、つぎのようにいわないではいられない。木村泰子は、この絵本の中で、共同体のメンバーが、幻影におびえて「塊りあった」時、それがそのまま、かれら「生きもの共同体」をおびえさせ、恐怖に追いやる危険を生みだす物語を描いた。いや、結果として、そうした内容を生みだした。共同体の危機は、共同体のメンバーの関係の組み方、共同体を形成する個々の中にあった……。 こういえばもちろん、「けんきょう附会」もいいとこだろう。それでは『だいじなものがない』はどうなんだ……といわれそうな気もする。『だいじなものがない』は、一匹の犬が、じぶんの尻尾にしばりつけておいた大事な骨のことを忘れ、おなじく共同体のメンバー総出で探しまわる話である。ここには『たべちゃうぞ』にみられる「食われる」危機感、あるいは『かいぶつになっちゃった』の内部危機意識もない。いうならば、はじめに触れた「仲良し」的世界があるように思える。 しかし、主人公の犬は、どうして物語のはじめから、じぶんの探しているものを、共同体のメンバーに打ちあけなかったのだろう。「あのね、しろくてきれいで、つるつるしたもの」などいう、あいまいな説明をしたのだろう。この絵本の冒険の場面で、主人公自身が、その理由をはっきりといっている。「みんなにはなしたら、とられないかしら。」と。この言葉からわかるとおり、主人公は、共同体の構成メンバーに、全幅の信頼を置いていない。また、それがいいすぎだとしたら、共同体のメンバーを信頼しているにもかかわらず、この主人公は、じぶんだけの楽しみを保留しておきたいという、そんな個としての立場の確保があるということだ。つまり、この絵本でもまた、先に触れた、いわゆる無葛藤な「仲良し共同体」のかわりに、相互に微妙な対立緊張関係を秘めた共同体が描かれているということである。登場人物たちの面つきを見ている限り、何の屈託もないすっとぼけたアニマル・コミュニティに見えるかもしれない。しかし、そうした世界を描くかに見せて、実は、常に危機や対立の内在している「生きもの共同体」を、木村泰子はきわめて「楽しい絵本」として仕あげてしまったとはいえないだろうか……。 それにしても、ぼくは、木村泰子について一番かんじんなことをいっていない。それは、これが「絵本」であり、「絵本」であるからには、右のような「生きもの共同体」を描くにあたって、独自の画風・表現法があるということである。「絵本論」とは本来、この点からはじめるものだろう。それを、「生きもの共同体」など繰りかえし、「無葛藤仲良し絵本」と対比する方向に走ってしまったのは、はじめにヤコペッティなどを持ちだしたせいである。ヤコペッティは、人生あるいは世界を、カンディド一人の視点でとらえた。そこには、対立・抗争のなまぐささはあったとしても、そうした中において生きていかねばならぬぼくたちの「関係」の組み方、あるいは共存の把握はなかった。それに反し、木村泰子は、一見、ヤコペッティよりも「やわ」に見える世界を描きながら、はっきりと生きものの相互関係(そこに潜在する危機もエゴイズムも含めて)、共同体の有りようを描きだしている……。ぼくはそのことをいうためにせっかちで、木村泰子の絵本の「絵」の方を横に押しやってきたきらいがある。そこで一言、故意に無視してきたその点に触れるとこんなふうになる。 ちいさな魚にしても、『だいじなものがない』の犬にしても、また共同体のどのメンバーを取りあげてもいい。木村泰子の描く愛すべき登場人物(?)たちは、みな「触角」ないし「ぺんぺん草」のごときものを頭のてっぺんにつけているということである。それは、頭髪ないし「ひれ」、その他の誇張された表現と受けとるべきかもしれない。しかし、ぼくは、このひらひら・もしゃもしゃこそ、木村泰子によって共同体のメンバーに与えられたアクセサリー、いいかえると、独自の共同体を確認するための「身分証明書」でもある……と考えるのだ。アクセサリーをつけた魚や犬や小鳥たち。これを指して愛玩用「ぬいぐるみ」の発想というのはやさしいだろう。また「少女趣味的」と見すごすこともできるだろう。しかし、このアクセサリーこそ、実は「仲良し子良し」のうじゃじゃけた動物絵本とは「一味ちがう」ことを示すためのシンボルなのである。 そういえば、ぼくも、この一年ばかりのあいだ、洋服やシャツにアクセサリーをつけてすごした。はじめが猫のワッペンで、つぎが、雲をあらわす空色のブローチ、三番目が、ペンギンのバッジだった。人はそれを見て「なぜ?」と繰りかえした。なぜ? なぜ? なぜ? どうして人は、それを問う前に、じぶんでも別の何かをつけてみないのだろうか。ぼくはアクセサリーをつけているあいだ、「そこに山があるから……」といった登山家の気持がわかるような気がした。木村泰子もたぶん 、魚や犬たちに、触角やぺんぺん草を描きながら、一人の幻想的登山者になっていたのだろう。だからどうだというのか。一番かんじんなことだけれど、それにしても『だいじなものがない』のこの犬、実に魅力ある顔をしているなあ……。(テキストファイル化あかばのぶゆき) |
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