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それが何のコマーシャルであったかは忘れた。ともかくテレビで何度かお目にかかったやつだ。特定の商品が示される。その優秀性(?)を保障するように、インディアンの扮装をした男が登場し、「インディアン、嘘つかない」というあれだ。ぼくは、このコマーシャルを見た時、ひどく腹が立った記憶がある。 それを思いつき、つくりあげたやつへの腹立ちと、それを放映しているスポンサーやテレビ局への腹立ち。さらにいえば、それを見ている側、批判するにせよ受け入れるにせよ、それを眺めて、結局素通りしていくぼくならぼく、つまり視聴者に対する腹立ちだったといえる。これは、そうしたコマーシャルの作り手、送り手、受け手という三つの立場に対する腹立ち・・・・・・というふうに分けられるが、ほんとうは、三者に共通する「インディアン像」、いいかえるならば、ぼくら日本人の無意識なる人種差別の感覚に対する腹立ちだといってもよい。腹立ち・・・・・・などというと、いかにも、ぼく一人が「正義の味方」くさく聞こえるので、ここは、「恥ずかしさ」といいかえてもいい。とにかくぼくらは、『ソルジャー・ブルー』などという映画を見ながら、(そうした映画で、いかに白人が、インディアンを非人間視したか、ということを知りながら・・・・・・いや、知っていると思いこみながら)ほんとうは少しも、インディアンを、ぼくらとおなじ人間として見ていないことを、そのコマーシャルから端的に感じとったからだ。 たとえば、そのコマーシャルを作った人物は、たぶん、ヤッタゾ、くらいに考えているのだろう。推測だから、はずれの部分はあるとしても、つぎのように考えたのではなかろうか。某インスタント・コーヒーのコマーシャルに、スイス人やフランス人が起用されている。そっちがヨーロッパ人を起用して成功しているなら、こっちはインディアンを起用しよう。白人に「ヨワイ」日本人に、インディアンの起用は、他人種を逆手にとった効果があるだろう。「白人でさえ愛用している日本商品」という発想に対して、(拝外思想といえるだろう。ヨーロッパ人を、ぼくたちより一段高い人間に想定して、その疑似「権威」によりかかって、特定商品を価値づける考え方だ、)「あのインディアンさえ愛用している商品」という発想・・・・・・。つまり、ヨーロッパ人(白人)に、「文明開化」(?)の程度の数等遅れたインディアンさえも知っている商品だという考え方を起用したこと・・・・・・、ここに、インディアンを蔑視する「作り手」の意識が働いていたことは否定できないだろう。この無意識のうちの差別意識が、アメリカの西部劇映画から生まれたものかどうか、その点は横におくとしても、ぼくら視聴者もまた、人種差別を頭で知りながら、こうしたコマーシャルを許容している点で、その「作り手」と、さほど変わらない人種蔑視感覚を持っているに違いない。あれはインディアンをばかにした考え方だ・・・・・・などいいながら、その放映を受け入れている限り、ぼくらもまた、インディアンをばかにしていることになる。 それにしても、こうした話をはじめに持ちだすのは、スコット・オーデルの『ナバホの歌』(犬飼和雄訳/岩波書店/1974/Sing Down the Moon,1970)を読んだからである。スコット・オーデルは、この作品の中で、アメリカ人の立場ではなく、ナバホ・インディアンの立場に身を置いている。そして、1860年代に実際に起こった合衆国によるインディアン迫害の史実を背景に、子どもの物語をつくりあげている・・・・・。 主人公は「アカルイアサ」という名のあるナバホの少女である。物語は、この少女の「語り」の形で、一人称で進められる。 わたしの部落は深い峡谷の底にあった。日課のように、わたしは羊の群れを台地に連れていった。部落には、「ノッポ」と呼ばれる戦士がいて、わたしを嫁に欲しがっていた。わたしもまた、「ノッポ」が嫌いじゃない。そんなある日、「ノッポ」が戦士を連れて戦いにでていった。白人兵たちが、その留守にやってくる。「ノッポ」たちが、どこかを攻撃するならば、部落を焼き払うとおどしていく。わたしと「カケアシドリ」(おなじナバホの少女)は、白人兵のことを話しあいながら、部落から離れた台地で羊を放牧していた。その時、ふいにスペイン人の奴隷商人に襲われ、わたしも「カケアシドリ」も、しばりあげられてしまった。峡谷を抜ける奴隷商人は、わたしたちを白人の町に連れていった。わたしたちを、白人に売りとばした。わたしはその白人の町で、おなじくさらわれてきたネハナという娘に知りあい、彼女の計画で脱走を試みる・・・・・。 物語は、「ノッポ」の負傷、戦士からのかれの脱落、やがて、白人の命令で、ナバホ・インディアンがすべて強制移住させられることへとつづいていく。住む土地、家、それに家畜をうばわれたナバホ族が、武器の前に、無気力になっていく様子も語られる。それは、西部劇映画に見る「勇ましさ」とはきわめて対照的である。じぶんたち独自の生活をうばわれたものの哀しみに充ちている。物語は、主人公の「アカルイアサ」と「ノッポ」が結婚し、二人して峡谷にもどり、子どもを育てていこうというところで終わるが、(そして、このささやかな願いが、この物語のかすかな希望になっているのだが)残された八千余人のナバホ族には、暗たんたる未来しかない。スコット・オーデルは、そんなふうに悲しみの歌のうちにペンを置く。抵抗も、反乱も、解放もない結末である。しかし、物語の最後に、スコット・オーデルは、つぎのように「あとがき」を付けている。インディアン虐殺の首謀者チビングトン牧師の事実をのべたあとである。 「千五百人ほどのナバホ族が、サムナーとりでで天然痘などの病気で死んだ。でも、そのとき生きぬいたナバホ族は、いまでは十万人以上になっている。ナバホ族は、生きていくことをのぞんだ。〈アカルイアサ〉のように、ひっしに生きぬいた。いまでも、そうである。いまでも〈アカルイアサ〉そっくりの娘たちが、シェイ峡谷の世話をしている。ビロードのブラウスをき、すそかざりのついた六段のきりかえひだをもったスカートをはき、髪の毛をたばねてうしろでまげてゆっている−それは、ずっとむかし、サムナーとりでにいた将校の妻たちがしていた姿である」 事実に即して物語をつくりあげる場合、こうした結末以外は不可能だったのかもしれない。スコット・オーデルは、「生きる」ことに固執する。抑圧の中で、人間を踏みにじる状況の中で、生きのびることを告げる。しかし、もし仮に、ナバホの娘が、この歴史的悲劇の中の生き方を語ったならば、こうした物語に終始しただろうか。ぼくは、スコット・オーデルが、白人の視点をすて、インディアンの立場で語ろうとするその誠実さを認めないわけではない。しかし、それでもなおかつ、やり切れないものを感じるのである。もちろん、長篇大作の中で、インディアンを描いたローラ・インガルス・ワイルダーの描き方に比べるなら、スコット・オーデルの方を推すだろう。しかし、繰りかえすようだが、スコット・オーデルは、彼が指摘した虐殺人の牧師チビングトンとおなじ白人として、そこに、じぶんを重ねるべきではなかったか。ぼくの不満は、ここに、追われるものの哀歌はあるが、それを追い立てる側への鋭い切り込みがないという点にある。 ずっと以前、おなじアメリカの児童文学者、マインダート・ディヨングの『六十人のおとうさんの家』という作品を読んだことがある。中国の一少年の立場に立って、中国人を軍靴で踏みにじる日本軍を見たものであった。そこに描かれている出来事は、まさに、ぼくたちの父兄が中国大陸でやった何万分の一かの蛮行に裏付けられていた。そのことは納得できた。しかし、ついおしまいまで、正義の化身のようなアメリカ兵と、悪の化身のような日本兵は、それぞれ痛みや苦しみをもつ人間として描かれることがなかった。加害者と被害者に、明確に分離されたままだった。ディヨングは、その時点で、ベトナム戦争を知らなかったともいえる。もし、ソンミ村の虐殺を知ったあとなら、母国の兵士を、『六十人のおとうさんの家』のような形で描けただろうか。日中戦争の時点では、アメリカ軍の中に、「カーリー」のような兵士がいなかった・・・・・・とはいえまい。ぼくたちは、被害者でありうると同時に、常に加害者となりうる可能性を持っている。そのところがすっぽり抜け落ちたとき、作品はきわめてうすっぺらなものになる。そうした点を、スコット・オーデルはどう考えているのだろうか。『ナバホの歌』は、ぼくたちの中にある「インディアン、嘘つかない」というあの侮蔑的発想に比べれば、数等すぐれた作品だ。しかし、だからこそ、スコット・オーデルに、その白人の立場を、今一度考えてほしくなるのである。 ぼくが、スコット・オーデルを知ったのは、タウンゼンドの『作家論』(A Sense of Story)によっている。『青いイルカ島』が激賞してあった。遅ればせながら理論社版の訳本で読んで、すこしばかり違和感を持った。これも一人の少女の物語である。その少女の世界を荒らす侵入者があらわれる。ぼくの違和感は、少女と自然が、保護すべきもののように描かれている点にあった。スコット・オーデルの中には、常に自然を保護する意識がありすぎて、それを壊す側に自己を置かなすぎるということがあるのではなかろうか。これは、未刊の一冊"Kings' fifth"を読んでみないとわからないのだが・・・・・・。(テキストファイル化沖津ふみ) |
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