『モモちゃんとアカネちゃん』

松谷みよ子の作品について

『子どもの国の太鼓たたき』(上野瞭/すばる書房/1976.08)

           
         
         
         
         
         
         
    
 どういうわけか、ぼくは松谷みよ子の「モモちゃん」シリーズ(講談社)が好きである。『ちいさいモモちゃん』も『モモちゃんとプー』も、それぞれ二回か三回は読みかえした。別に、わが家に「モモちゃん」くらいの年頃の子どもがいるわけではない。子どもといえば、ぼくのせがれは高校二年生だし、高校生のくせに(?)田島征三みたいな長髪をして、おなじようなヘアバンドをして、オートバイの尻にまたがってとびまわっている。ぼくはきわめて「教育不熱心な親だから」(いやその「親」という意識も年々希薄になりつつあるから)ぼくのそのせがれが子どもの頃……つまり、「モモちゃん」の年頃の時代、どんな本を見ていたのかさっぱり覚えていない。またその時期に、その年齢にふさわしいとされている本を、意識的に買い与えた記憶もない。かれが(というのはせがれのことだが)、子どもの本を夢中になって読んでいたのは小学生の頃で、とりわけ、「これ、おもしろいわ」と繰りかえしていったのは、C.S.ルイスの『ライオンと魔女』(岩波書店)や、ピアスの『トムは真夜中の庭で』(岩波書店)である。たぶん、「モモちゃん」のような世界は、そうした物語を読むよりも、じぶん自身で生き抜いてきたのだろう。その時、もし「モモちゃん」シリーズが手元にあれば、かれは、自分が今通過しつつあるその幼年期について、再確認する楽しみを味わっただろうか。というわけで、「モモちゃん」シリーズをぼくが愛読するのは、まったくぼくひとりの興味関心のせいである。
 それにしても、「モモちゃん」シリーズが好きだ……というのに、「どういうわけか」などというあいまいな言葉を冒頭に置くのはそれこそどういうわけか……ということだ。一言でいえば、それは、ぼくのまわりに、「モモちゃん」シリーズに首をかしげる読者が意外と多いせいである。どういうわけだろう。あれはおもしろいよ……というと、「うーん、モモちゃんはね……」という「警戒的」な反応がある。ぼくはいたって気が弱いから、そういう疑わしげな目付に出会うと、ぼくのほうが間違っているような気持ちになって、それ以上の反問を呑みくだしてしまうのだ。その結果「モモちゃん」の好きでない読者の、その理由を聞きのがしているのだが、それは、次のような点だろうか。
 いかにも「幼年童話」童話した(こんないい方はないと思うのだが)人形を配した装丁。あるいは子どもの本の挿絵はこれでいいといった挿絵の描き方。それに両親をパパ・ママと呼ばせる発想。ふんだんに使われる「赤ちゃん言葉」。そうした装本・表現の細部にあらわれている「幼年童話らしさが」気に食わないのだろうか。あるいはまた、いかにも日本の中産階級らしい状況設定、その小市民的平穏さが頭にくるのだろうか。なるほど、「モモちゃん」シリーズを、今日の世界の「子ども白書」的発想で眺めかえすと、一定の経済水準の上に成立した「幼年童話」といえないことはない。一定の経済的裏付けがあるからこそ、「モモちゃん」も猫の「プー」も、比較的平穏な日常が保持される。物語で描かれているように、すくすく成長できるのだといえる。しかし、(とこれは批判する側の考え方を推測するのだが)日本の家庭は、すべて「モモちゃん」の家庭とおなじではない。そこには、もっと悪条件の家庭、抽象的ないい方をすれば「反モモちゃん的世界」、あるいは「非モモちゃん的生活」もある。それなのに、「幼年童話の世界」といえば、なぜ「モモちゃん」なのか……という反発的なり批判なりが、そこにはあるのだろうか。
 ぼくはそれはそれで否定しないし、時には、モットモダ、モットモダと小原庄助さんのようにうなずきもする。しかし、児童文学がさまざまな表現の可能性を持っているように、その一分野である「幼年童話」も、さまざまな世界の表現方向、あるいは可能性を持っているのではないだろうか。それを「反モモちゃん的世界」が存在するからといって、「モモちゃんの世界」の楽しさを、まるで「あげ底」か「にせもの」のように否定し去ることは、少しばかり筋違いである。問題は、「モモちゃん」イコール「幼年童話」とする短絡的な発想のほうにあるのであって、そうした固定観念を無意識のうちのつくりあげ、「モモちゃん」とは別の「幼年童話の世界」を、開拓しないでいるぼくたちの側にあるのだろう。
 ぼくが「モモちゃん」シリーズを好きだというのは、それが「即幼年童話」であるからではなくて、成長していく子どもの姿が、物事の認識の仕方なり、まわりの人間への反応の仕方なりを通して、よくとらえられているからである。たとえば、と、ここで、ぼくは例をあげて語るべきなのだろう。しかし『ちいさいモモちゃん』については、幼児期のアニミズムを、松谷みよ子がどのように楽しく言葉で形を与えていたか……という点にしぼって、別のところで触れたので、再説は避けようと思う。ただ付け足しておきたいのは、ぼくはそこで、「モモちゃん」という子どもだけでなく、「モモちゃんのママ」もまた(つまり、大人もまた)成長するものである、「母親になっていく」ものとして描かれている……と指摘したのだが、この点は明記しておく必要がある。
 世の中には時として、「母親」というものを不動の座標のように考える人がいるからだ。たとえば、ぼくもその一人で、ぼくもまた、生きることに疲れ、家財道具一切を叩き売って酒をくらい、血を吐いて死んでいった一人の人間を、「母親」としてしか考えられない子どもだった。二十年も三十年も生きてきて、なおかつ、「母と子」の関係でしか一人の人間を見なかった。子どもというものは、そうした枠組みをはずしにくいものなのかもしれない。いや、はずせないのかもしれない。いわゆる「大人」でさえもそうである。いわんや、「モモちゃん」のような子どもにとって、じぶんの「母親」を、成長しまた変化する「人間」であるなどと思えるだろうか。一定の年齢に達するまで、(いや、一定の年齢に達して、批判し、反抗し、自立するにいたっても)不動の座標のように考えるのではないだろうか。
 一方、子どもを生み、母乳を与え、その保育に専念する人間の側も、そうした事実だけで、じぶんを「母親」と考えがちである。それはその通りで、それに違いないといわれれば、それに違いない。しかし、きわめて常識的なことをいえば、「母親になる」ことや、「母親でありつづける」ことは、子どもを生むこととは別だろう。ところが、ぼくたちは、誰もが子どもを生むことで、「母親」なり「父親」なりに「なった」と思い込む。無意識のうちに、それだけの事実で、じぶんの立場を不動のものとして考える。しかし、ぼくらはたぶん、そうした「親」という立場にいる限り、一歩一歩、常に「なりつづけなければ」形骸化した「父」なり「母」なりで終わるのではなかろうか。松谷みよ子は、そうした点で、『ちいさいモモちゃん』や『モモちゃんとプー』の中で、たとえ充分でないとしても、一喜一憂しつつ「母親になっていく」ママの姿を描いた(あるいは意識するしないにせよ描こうとしていた)ということである。
 このことは、『モモちゃんとアカネちゃん』に関わりのあることだろうか。ぼくはここで、「モモちゃん」シリーズ第三作、『モモちゃんとアカネちゃん』について話すつもりである。それを、前二作について、余りにもスペースを取りすぎたきらいがないでもない。しかし、子どもがあり、それを育てる限り、一人の女性が「母親」となりつづけなければならないように、(つまり、成長し発展し、時には、悲しみや不安に陥る場合もあるように)その「親子関係」の場である「家庭」も不動のものではないということである。時には、平穏無事な小市民の世界も、一転して不安の渦に巻きこまれる。これは何も小市民世界に限らず、ぼくたち人間すべての在りようなのではなかろうか。そもそも変化し発展し、時には退落しない人生など存在しないはずである。その意味で、『モモちゃんとアカネちゃん』一篇は、そのゆれ動く人生の一端を、前二作とは比較にならないくらい激しく、「ママ」の姿を通して描きだしたといえる。
 もちろん、こういういい方が、きわめて抽象的なものであることは、ぼく自身感じている。だから、ある読者はこうした作品を前にした場合、つぎのようにいうかもしれない。「要するに、松谷みよ子は、幼年童話の中において、離婚の苦しみを描きだしたのだろう。その点は痛いほど分かる。しかし、幼年童話の中にそうしたことを持ち込むべきだったか。たとえ、比喩・寓意の形でそれを表現したとしても、それは幼児には理解できないだろうし、理解させるには大人の問題でありすぎるのではないか…」と。また別の読者はこう考えるかもしれない。「よくぞまあ、この出版社はこうした内容のものを幼年童話として出版したものだ。松谷みよ子だからこそ、そのまま本になったのではなかろうか。ふつうなら、この内容では……と首をかしげられるだろう」このほか、ゴシップ的感想というものもあるだろう。正直いって、ぼくの中にも、それは多分にある。ぼくもまた、「ママ」のところに「死神」がおとずれてくる個所や、「パパ」の靴だけが毎夜帰ってくるところを読んで、作品を離れ、ぼく自身の心象風景の中を歩き出した。しかし、それは他人の不幸を楽しむあの「のぞき趣味」ではない。ぼくもまた、靴だけになって家にかえるだろう可能性を持っているし、ほんとうはその「ママ」だって、靴だけになって家に戻ってくる可能性を持っているということである。つまり、ぼくらは、偶然の生と突然の死のはざまにある不確かな存在であるということ、その不安定な生存条件をふいに突きつけられたような、いや突きつけられるようなものとして、この作品を読んだということである。
 それにしてもこの作品がどのように読まれるか、そうした推測は横に置こう。「ママ」にしぼってこの作品を考えるならば、ここで「モモちゃん」の両親の離婚を描くことは、「幼年童話」として少しも不適切ではないということである。もし、不適切という言葉を使うなら、それは「歩く木」「宿り木」「根わけ」といった比喩の仕方、いや、そういう形で「ママ」だけがじぶんの悲しみをのりこえようとする発想、つまり、「モモちゃん」に語りかけるのではなく、松谷みよ子が「ママ」に語りかけるその点が問題だといえよう。ぼくは、もっとやさしく、「モモちゃん」にむかってそれは語られるべきだったと思う。「どうしてパパは一緒に引っこししないの」「どうしてママとアカネと二人でくらすの」と「モモちゃん」は(子どもは)たずねるだろう。それに対して、「木」の比喩で説明することも一つの方法かもしれない、しかし、ぼくは、猫のプーや熊さんを動員してでもいい。もと「モモちゃん」をうなずかせる説明が欲しかったと思う。これはもちろん、「ないものねだり」のたぐいかもしれない。しかし、常に「母親となりつづける」一人の人間を「幼年童話」の中に描きだし、そうすることによって「平穏無事な小市民生活」の枠をこえる作品をつくりだした松谷みよ子に対して、ぼくは一人の読者としてはやはりそこの点を期待してしまうのだ。
 「幼年童話」だから……といういい方は、多分、見当はずれな評価しか生まないだろう。「幼年童話」で、どれだけのことができるか……ということが、松谷みよ子の踏み出した方向だろう。そういえば畏友・今江祥智も、「児童文学だから」という枠を踏みこえて、「児童文学でどれだけのことができるか」という試みに挑戦している。たとえば、『優しさごっこ』。これもまた、多くの別の「モモちゃん」にむかって、ひどくむつかしい大人の問題を語りかけるものになるに違いない。(テキストファイル化鍋田真理)