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子どもならだれでも知っていることだが、例の『かもめのジョナサン』についてこんなジョークがある。「かもめが百羽いました。一羽はジョナサンという名前でした。あとの九九羽は何という名前でしょうか」。いうまでもなく、答えは「かもめのタクサン」である。このジョークはさまざまに応用されて、「かもめのミナサン」だの「かもめのアマサン」だの、いろいろ答えを用意するものまで生まれている。他愛ない「言葉遊び」だといえばそのとおりである。しかし、きわめてカッコイイ『ジョナサン』の生き方を、たちまちのうちに「笑い話」に転化する発想。この中には、意外と皮肉な形で、わたしたちの今日の在り方が示されているのではなかろうか。つまり、子ども・大人を問わず、わたしたちは、他人をリードする少数のエリートではなく、常に「かもめのタクサン」であるという認識である。 もちろんこれは、自嘲と受けとれないでもない。また反対に、多数の人間の価値を重視するあらわれだともいえる。いずれにしても、「かもめのタクサン」であるわたしたちの在り方こそが、一羽のジョナサンのそれよりも、今日では、より検討に価する問題だ、ということである。 それにしても、「かもめのタクサン」であるということは、ただ群をなし、羽根をつらねて飛びまわるだけなのだろうか。かつて児童文学は、そうした「多数の連帯」を用意することによって、多くの物語を生みだしてきた。極端ないい方をすれば、唱歌『かもめの水兵さん』ではないが、多数の子どもが、「明るく楽しく手をつなぐ」ことで物語を終らせた。しかし、現代の児童文学は、「かもめのタクサン」であるわたしたちに、ほんとうの「タクサン」であるためには何が大切なのか、ということを問いつめるまでにいたっている。人と人の、その「きずな」となるものに焦点をあわせようとしている。たとえば、E・G・スピアの『青銅の弓』(渡辺茂男訳/岩波書店)、また、高史明の『生きることの意味』(筑摩書房)がそれである。 『青銅の弓』は、はるか昔、まだイスラエルがローマ帝国の支配下に置かれていた時代の物語である。主人公は十八歳のダニエル。かれはローマ兵に父を殺され、その結果、母を失い、妹を廃人同様の目にあわされている。憎しみと復讐の炎に包まれたかれは、ゲリラとなりローマ兵の抹殺を誓う。そんなダニエルの前に別の生き方を示そうとするシモンや少女タシア。そして事もあろうに、敵であるローマ兵を愛してしまう妹のレア。ダニエルは激怒し苦悩し、妹を徹底的に傷つける。折からガリラヤの町にあらわれた大工のイエスが、「ほんとうの敵はローマ兵ではなく、人間の内なる憎しみだ」と語りかける。ダニエルはそれでもなお、憎しみの中に生きつづけようとする。この物語は、文字どおり胸を打つ場面で終るのだが、ここには、「時代」「宗教」「国籍」をこえて、まっすぐ現代のわたしたちに突きささる人間の姿がある。 高史明は書いている。 「人間のやさしさとは、良き朝鮮人、良き日本人であることを通して、しかもそのわくづけを乗り越え、良き人間であろうとするとき、はじめて良き日本人、良き朝鮮人を助ける力として生まれてくるものではないでしょうか」 これは、『生きることの意味』の中で、朝鮮人である「わたし」と、日本人である阪井先生との「人間としての出会い」の個所の言葉である。しかし、これは、『青銅の弓』のダニエルとローマ兵にも、そのまま重なっていく言葉であろう。 それにしても、『生きることの意味』は、傑出した自伝である。下関市のハモニカ長屋での幼児期の記憶にはじまり、「きのしたたけお」と日本名を胸にはりつけた小学校の入学式。その日から始まる「朝鮮人であること」への不安と恐怖。それが何であるのか。なぜ「おどおどした自分」を生みだすのか。そうしたことを一切説明も理解できぬ「わたし」が、日本人社会で歯を食いしばって生きていく姿が、痛いように描かれていく。説明しがたいその恐怖感が、荒々しい暴力の形を「わたし」にとらせる。そのあとにくる「さびしさ」。高史明は、そうした少年期の心情を、現代に引きもどして分析する。 暴力は他人を傷つけるだけではなく、暴力をふるうものの(言葉によるそれをも含めて)人間性をも「暴力」に閉じこめる。それは、人間相互の矛盾を解決するものではなく、人間の「弱さ」「さびしさ」の責任転嫁である。もちろん、言葉はこのとおりではない。しかし、ここにある体験に根ざした考察は、わたしたち「かもめのタクサン」のよく噛みしめねばならないものだろう。 わたしは、この自伝の中の、父親像、兄の生き方にも触れるべきなのだろう。だが、ここでは、アラブの少年とユダヤの少女を描いたA・ルーブルの『友情は戦火をこえて』(末松氷海子役/あかね書房)の言葉をもって、なぜ現代に右のような子どもの本が必要なのか、そのしめくくりにしたいと思う。それは同時に、「かもめのタクサン」であるわたしたちにかかわっているからである。 「一人前の人間になるには、二十年かかる。しかし、その人間を殺すには、たった二十秒でたりる」 ※ 数多く出版される子どもの本の中で、きわめて印象的だったのは、K・M・ペイトンの『フランバーズ屋敷の人びと』全三巻(掛川恭子訳/岩波書房)と、今江祥智の長編『ぼんぼん』(理論社)である。 両者に共通するものは、子どもの本でありながら、その読者の枠組みを踏みこえて、まっすぐ大人にも語りかける内容を持っていたことであり、現代の成人文学の置き忘れがちな「文学の楽しさ」をあざやかにさし示したことである。 ペイトンは、すでに、現代の反抗的若者の行動と心理を描いて(『卒業の夏』学習研究社)、その構想力の豊かさと問題意識の鋭さをよく知られている。『フランバーズ屋敷の人びと』は、そのぺイトンが、時代を第一次世界大戦前までさかのぼり、ようやく実用化しはじめた飛行機の世紀に、否応なしに立ちあわねばならなかった一人の娘の、愛と苦悩の姿を追求したものである。 主人公クリスチナは、フランバーズ屋敷に引き取られる。フランバーズ屋敷に君臨するラッセルおじは、馬と狩猟こそ人生最大の価値だと考える男である。その生き方を何の疑いもなく受け入れる長男のマーク。それに反発して新しい生き方を求めつづける弟のウィリアム。さらに、フランバーズ屋敷には、貧しさを背負った使用人のディックがいる。クリスチナは、こうした屋敷の人びとの間で、自分の在り方を探りつづけ、結局、ウィリアムと共に屋敷をとびだしていく。(第一部『愛の旅だち』)。しかし、ウィリアムは、飛行機に魅せられた若者である。時にはクリスチナのことより、飛行機そのものを愛しているように振舞う。クリスチナは、そんなウィリアムを愛し、信じようとして、何度か不安にかり立てられる。やがて第一次世界大戦の勃発。(第二部『雲のはて』)。 二人の結婚生活は、戦争によって引き裂かれる。ウィリアムの墜落死である。ウィリアムの子どもをかかえて、クリスチナはフランバーズ屋敷にもどってくる。かつて彼女を押し潰すように立ちはだかった古い屋敷は、今、クリスチナにとって新しい人生を踏みだすための唯一の場所である。そこに再び姿を見せるマークと使用人のディック。クリスチナは、自分が共に生きるものとして、ディックを選びとる……。(第三部『めぐりくる夏』)。 この物語のすばらしさは、右の「あらすじ」紹介では伝えきれないような、濃密な人間のドラマがあることである。それも、クリスチナという一人の娘の、「愛の物語」におわることなく、すぐれた時代史が同時に描きだされている点にある。古い世代や古い世界を象徴する馬や狩猟。そのよろこびを活写するペイトンは、一方、自動車や飛行機に象徴される新しい世界の胎動を描きだす。そのあざやかさは、ロジェ・マルタン・デュガールの『チボー家の人びと』を連想させるほどである。個人史が同時に時代史でもあるという細密な構成。「過去」が化石化した時間ではなく、現代同様に一回限りの命の燃焼にみちていることを、この『フランバーズ屋敷の人びと』ほどはっきりと伝えるものはないだろう。 「忘れしまったことは古く、忘れられないことはきのうあったことだ。物さしは時計ではなくて、価値である」 そういったのはケストナーであるが、今江祥智の『ぼんぼん』を読むと、そのことばが自然に浮かんでくる。なぜなら、『ぼんぼん』もまた、作者の忘れがたい記憶の上に組み立てられている物語だからである。これは、作者の……というより、戦争時代を生き抜いた日本人の物語といいかえてもよい。今江祥智は、かつてわたしたちを巻きこんだ太平洋戦争の時代に焦点をあわせ、その動乱の日々に子どもであった人間の姿を、ユニークな形で描きだした。 物語は、洋と洋次郎という兄弟が、電気科学館のプラネタリウムで、十万年後の星座を見るところからはじまる。絶対不変の位置を占めているはずの北斗七星が、たちまち崩れてしまう有様を見る。これは、少年にとって確かなものに思われていた人生が、不確かで不安定なものであることを気付かせる。冒頭のこの話は、きわめて象徴的で、作品全体にひそかな影をおとす。突然の父の死。それに続く祖母の死。やがて始まる戦争が、日々の生活をそれまでとはまったく違ったものに変えていく。 その頂点が大阪大空襲であり、そのあとに訪れる敗戦である。この物語は、戦後二年目の祇園祭の場面で終わるが、本を閉じたあと、あざやかにその祇園囃しの音が聞こえてくる。記録でもなく、体験の反芻でもなく、これが一編の文学であるからだろう。作者は子ども像だけではなく、佐脇仁平という魅力ある大人像を描くことによって、日本の児童文学に新しい道をさし示したといえる。終末意識の濃厚な現代において、『ぼんぼん』は、『フランバーズ屋敷の人びと』と共に、人間復権のドラマであることは間違いない。 ※ 子どもが人生と出会う時……などといえば、何となく堅苦しい話のように受けとられる。しかし、最近出たアナトーリー・アレークシンの『青春への誘い』(樹下節訳/理論社)は、文字通りその「出会い」を描いて、しかも、さわやかな感動を与えた作品集である。たとえば、その中の第四話「時間表にない旅」はこんなふうにはじまる。 ぼくの両親はきわめて仲がいい。それぞれ名前があるのに、エメリヤノフ夫妻といつもコミで呼ばれている。それに反し、ぼくと祖母は「ふまじめな人間」で、両親が出張すると、未成年者入場禁止の映画館へも出かける。そんなある日、ぼくは一通の手紙を受けとる。父の名前とぼくの名前はおなじだから、ぼくはじぶんあての手紙と思ったのだ。それは知らない女の人から父にあてた手紙だった。ぼくはこの手紙を読んだ瞬間から、人生が単純だなんて思えなくなってしまった……。 もちろん、これは冒頭の部分の要約である。このあと、ぼく(主人公セルゲイ)は、この手紙をきっかけにして、今までじぶんの知らなかった他人の世界に踏みこんでいく。父は、「人間の一生は誕生という駅から死という駅までのルートなのだ。途中に事件や停留所がいくつも待ちかまえている。必要なのは、道からそれず、ダイヤを乱さずに、ルートを終えることだ」といった。しかし、ぼくは、時間表にない飛行機や列車にのることこそ大切なのだと考えるようになる。 子どもがどんな形で人生と出会うか。また、どんなふうに、その「出会い」の中から人間であることの意味を自覚していくか。これは、現代の児童文学が、さまざまな方法で描きだそうとしてきた一つの方向である。アレークシンもまた、右の作品集の中で同一の主題を追っている。出世しないパパのために、子どもとして精一ぱいの知恵を働かす少年。(第一話)兄を有名人にしたいばかりに、嘘をつく少女。(第二話)姉のために努力した結果、大人であることの重荷を知る末っ子。(第三話)どの一編を取りあげてみても、あざやかに子どもが人生と出会う時の「痛み」や「喜び」を描きだしている。社会制度、家庭事情、習俗の違いはある。しかし、それにもかかわらず、これはソビエトの物語というよりも、わたしたちのすぐ身近な生活の中の出来事のように思えてくるのである。ここにはたぶん、さまざまな枠組をこえる人間の息吹があるからだろう。(テキストファイル化中島京子) |
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