カニグズバーグに関する「つぎはぎ」的覚書

作品論の試み

『子どもの国の太鼓たたき』(上野瞭/すばる書房/1976.08)

           
         
         
         
         
         
         
    
 自分自身のための広告・・・・といえば、確かノーマン・メーラーの本の題名だったと思うのだが、『クローディアの秘密』の作者、E・Lカニグズバーグにもその題名をほうふつさせる一文がある。"FortyPercent More Than Everything You Want to Know About E・LKONIGSBURG"(Atheneum・1974)がそれである。
「お望み以上のものまで見せます」(いや、「お知らせします」)とでも訳せばいいのか、何だかストリップショーの「特出し」的発想の題名である。多分この出版社は、つぎつぎに舞い込むファン・レターへの返事をかねて、この「カニグズバーグ女史楽屋話」なるものを印刷したのだろうと思うのだが、読者であるわたしたちは、果して彼女について「知りたがっていることよりも、さらに40%以上」のことを、このパンフレットから知ることができたかどうか。わたしに関していえば、このパンフレットを、松永ふみ子さんより送ってもらった時、「手の内、見せます」というその内容のおもしろさもさることながら、インタビューされるようなふりをして、こんなふうに「自分自身のための広告」をやってのけるこの児童文学の書き手に、なみなみならぬ自信のほどとユーモアの資質あることを感じたのである。
 ちなみに何個所かを抜きだしてみるとつぎのようになる。彼女の仕事や生活について質問したいというインタビュアーの問いかけ(実は彼女自身の想定した質問なのだろうが)に答えて、「年令と体重以外のことなら何でも話しますよ」というふうにこれは始まる。

------ どこに住んでいらっしゃるんですか。
------ フロリダのジャクソンヴィルです。これでいいんでしょ、簡単にいえば。
------ カニグズバーグさん、あなたは作家なんですよ。それをお忘れにならないように。お子たちは何人ですか。
------ 三人です。三人の名前はポール、ローリイ、それにロスです。三人ともよくわたしの本の挿絵のモデルになってくれます。ローリイは『クローディアの秘密』のクローディアですし、ロスはおなじ本のジェイミイです。ポールは『ジョージ』のベンジャミン・ディクソン・カーです。

 いうまでもなく『クローディアの秘密』は、松永さんの手で訳され岩波書店からでている。(From The Mixed-up Files of Mrs. Basil E.Frankweiler)しかし『ジョージ』("((『George))"・1970)の方は邦訳が待たれる状態である。そこで、事のついでに、「あらすじ」らしきものを書き抜いてみるとこんなふうになる。

 ベン(ベンジャミン)は、弟のハワードと母親のカー夫人と三人で暮らしている。父親は、彼が小さかった頃、カー夫人と離婚し、今はマリリンという女性と別の家庭をつくっている。しかし、学校が休暇にはいるたびに、ベンとハワードは、その父親の家をたずねていき、そこで過すことになっている。カー夫人は、どちらかといえば少しばかりだらしない母親で、じぶんのストッキングが見当たらないとベンに探させたりする。学校の帰り道、ベンをスーパーマーケットへ買物にいかせたり、気がむけば読書に夢中になって、あたりかまわず大声をあげて笑ったりする。食事もたいていは、冷凍食品とインスタント・ポテトである。だから、ベンもハワードも、「オレンジ・ジュース」といえば、缶にはいっているものだと思いこんでいる。それが生のフルーツであることを知るのはマリリンの家である。マリリンは、カー夫人とは反対にきれい好きで、心理学を多少勉強している。つまり、子どもの心理ということにも興味を持っている。こうした対照的な二人の婦人の間を、ベンは行き来しているわけである。
 物語は、ベンの幼年期から始まる。ベンはじぶんの中に、「ジョージ」というもうひとりの人間が住んでいるのに気付く。母親のカー夫人に一度そのことを話すのだが、カー夫人はそれを一時的な空想だと片付けてしまう。その頃まだ離婚していなかった
父親も、「もう一人、赤ん坊でも生まれればそんなことは忘れてしまうだろう」といい切る。そして、はじめに記した弟のハワードが生まれる。ハワードはきわめつきの「いたずらっ子」で、幼稚園を追いだされたりする。そこで兄のベンが説教しなければならなくなり、じぶんの中の「ジョージ」にその役を頼む。「ジョージ」は、ベンとは違って太い声でハワードを諭す。その結果、ハワードだけが「ジョージ」の存在を信じるようになる。
 事件はベンが六年になった時はじまる。ひとつは学校の中に化学実験コースを新設したバコーウィッツ先生の件である。たまたま家族でロートン・ビーチへ出かけた時バコーウィッツ先生がカー夫人に関心を抱き、カー夫人もカー夫人でバコーウィッツ先生をにくからず思うようになる。これがベンをいらいらさせ、内なる「ジョージ」との口論に導く。もうひとつの事件は(これがこの物語の中心となるのだが)上級学年のウィリアムの問題である。ベンはウィリアムに近づくが、「ジョージ」はそんなベンに腹を立てる。折から実験器具の紛失事件が続発し、その容疑者としてベンが見られるようになる。もちろんベンは無実である。しかし、バコーウィッツ先生をはじめ母親のカー夫人までベンを疑う。この事件の結末は、ウィリアムのLSD密造問題に展開し、ウィリアムのかわりにベンが逮捕されることになる。
 もちろん、物語はこのようにすんなりとは進まない。さまざまな出来事のあと、そこへくる。
 留置場の中で、ベンは、この事件の解決法を考える。その時「ジョージ」が、「ベンよ、おまえはもう、ぼくの意見なんか聞かなくってもやっていけるよ」という。これが「ジョージ」との別れ(?)になる。
 事件のあと二年して、ベンは精神分析医からも解放される。「ジョージ」はすっかり消え去ってしまったが、いまやベン自身が「ジョージ」そっくりの声で話すようになっている。ベンの最大の関心は食事に移り、とりわけオレンジの種やスイカの種を決して食べないように心をくばるようになる。なぜならそれは、盲腸炎を引きおこすもとだし、そうなれば外科手術を受けねばならないからである。ベンの今の最大の心配はそのことである・・・というところでこの物語は終る。

『クローディアの秘密』でもそうだったが、この『ジョージ』においても、主人公の自立が中心にすえられている。開放的で行動的な弟のハワードに比べ、内攻的で人のいいベンが、「ジョージ」と訣別するまでの話が興味深く描かれていく。ほんとうは、きわめて深刻な問題なのに、それが物語全体を灰色に染めてしまわないのは、脇役であるハワードのおもしろさのせいである。『クローディアの秘密』の弟ジェイミイ・キンケイドがそうであったように、ハワードが、ここでもユニークな個性を発揮する。それがどういう点かということは(できるならば)後で触れるとして、とにかくカニグズバーグの作品の場合、主人公のそれもさることながら、バイ・プレイアーの描き方が傑出しているのである。さて、インタビュー風文章にもどってみる。

------ なにかペットはお飼いになっていますか。
------ きわめて甘えん坊のブロンドのコッカースパニエルを一匹、飼っています。
 
    ジェイソンという名前で、この犬は、わたしのことよりも、じぶんの胃袋のことばかり考えているんです。あなたは、わたしに夫があるのかどうかおたずねにならないのですか。
------ それは質問事項のつぎにあげておいたことですよ。カニグズバーグさん、そうせっかちにならないでください。ご主人はいらっしゃいますか。
------ ええ、おりますよ。夫はディビッドといって心理学者です。

 これを読んでいたせいもあって、わたしは、ディビッド氏に会うまで、彼を学者か何かだと思いこんでいた。しかし、来日したカニグズバーグ夫妻と奈良へいった時、頼みの綱の松永ふみ子さんが、カニグズバーグ女史とさっさと前を歩いていくため、ディビッド氏と二人になる短い時間ができ、仕方なく「学者なのか」など質問することになった。それに対してデイビット氏は首を横にふり、現在の仕事の内容などを説明した。松永さんの助けによってわかったことだが、彼は相当に大きな会社の重役で、人事部長か何かだそうである。穏やかな人柄の、知的な二枚目、というところがディビッド氏である。これはその夜、カニグズバーグ女史と話しあうため、わたしたち(松永さん、菅原啓州さん、わたし)がグランド・ホテルの一室に閉じこもった時、その二時間ばかりのあいだ、ディビッド氏の話相手をしたわたしの女房から聞いたことだが、ディビッド氏とミス・イレーヌ(カニグズバーグ女史)は隣町同士の知りあいだった。そのディビッド氏が彼女と結婚の決意を固めたのは、朝鮮においてだという。「朝鮮戦争」が一九五〇年にはじまっているから、その頃の話だろう。ミス・イレーヌことカニグズバーグ女史が、ピッツバーグの大学院をでて私立女学校で生物などを教えていた時期かもしれない。その後、三人の子どもが生まれて、この子どもたちが学校へ通うようになって創作活動にはいった・・・と、同じインタビュー風文章でも語っているからである。
 ついでにいえば、ダンナのこのディビッド氏は、彼女の三人の子ども同様挿絵のモデルになっていて、『ロールパン・チームの作戦』(岩波書店/1974=B'NaiBagels,1969)31頁の挿絵(日本版)の「パパ」がそれである。もちろん、実際のディビッド氏はもっと好男子である。ふつう一般の家庭では、奥さんの方が用事で出かける時、多少ダンナの方が、家事手伝いをしたりするものだが、カニグズバーグ家ではそうしないことになっている。彼女が講演や会合で留守の場合、ディビッド氏は子どもといっしょに外食するそうである。

------ 『クローディアの秘密』の着想はどこから生まれたのですが。
------ この本の場合、三つの事柄(experiences)がきっかけ(ideas)だったのです。
そのうちの二つは読書体験でした。
わたしは、ニューヨークのメトロポリタン美術館が、225ドルをだしてある彫像を買ったということを「ニューヨーク・タイムズ」で読んだのです。この像を購入した時、美術館はそれが誰によってつくられたものか、知らなかったのです。でも、イタリア・ルネッサンスのだれか有名人によってつくられたんだろうと予測はしていました。
つまり、すごい掘出し物を買ったとわかっていたのです。(ともかく、その彫刻は、「サクラソウを持った婦人」と呼ばれています。天使じゃありませんし、また、ミケランジェロの作品でもありません。)
 新聞でその記事を読んだすぐあと、わたしは、子どもたちの冒険を語った一冊の本を読みました。その子どもたちは、島の家からイギリスへ船で送られる途中、海賊たちにつかまってしまうんです。海賊たちの生活の中で、子どもたち自身も海賊みたいになるんです。つまり、子どもたちが、島の家で身につけた文明のうすっぺらな上皮をなくしてしまったのです。
 三つ目の事柄はたまたま起こったことで、わたしたちの家族がイェローストン公園で休日を過ごしたピクニックでした。サラミやパンやチョコレート・ミルクや紙コップや紙皿や紙ナプキンやポテト・チップスやピクルスを買いこんだあと、食事をする場所を探しました。そこには戸外用のテーブルも椅子もありませんでした。そこで、森の空地まできた時、そこで食べようかといったのです。わたしたちは地面にしゃがみこんで、食べ物をひろげはじめました。その時、不平がはじまったのです。チョコレート・ミルクが生あったかくなってきたとか、食べものの上にアリがついたとか、カップケーキのころもが溶けだしたとかね。これは、それほどがまんできないことじゃなかったんです。でも、わたしたちは、不快な思いしか抱かなかったんです。
 わたしは考えてみたんですけれど、もし、じぶんの子どもたちが家を離れたとしたなら、たとえ海賊に捕らえられたとしても、決して海賊みたいなもの(barbarians)にはならないでしょう。文明は、子どもたちにとって、薄皮じゃなくて、堅い外皮だったからです。少なくとも今の子どもたちは、少しばかり特別な優雅さをプラスした家庭の快適さを求めることでしょう。子どもたちはは家出をするとしたら、どこへ行こうと考えるのか。きっと子どもたちは、優雅さという点で、メトロポリタン美術館以下の場所など考えにはいれないでしょう。そう、メトロポリタン美術館です。まったくすばらしいベッド類とさまざまな優雅さのあるところ。そこでわたしは、子どもたちがメトロポリタン美術館にいる間に、謎にみちた掘出しものの彫像の秘密を発見するだろうとか、そうすることによって、秘密を持った彫像からもっと大切な秘密、他人とは違っていたい気持ちを発見できるだろうとか考えたのです。
------ あなたの本の中の人物は実在の人ですか。
------ 『天国でのめぐりあい』をのぞいて・・・・・この物語の人物はすべて実在したのですが・・・・すべて架空の人物です。

 もちろん、カニグズバーグに『天国でのめぐりあい』などという本はない。"AProud Taste For Scaret and Miniver"(1973)がそこにはいるべきである。それを、仮にもこんなふうな題名にしたのは、この物語の構成の仕方によっている。十三世紀初頭に死去した女王エリノアが、天国においてじぶんの夫の入国するのを八百年も待っていることが、この物語の前後に描かれているからである。
 物語は、天国での会話をはさんで十二世紀のヨーロッパにもどる。アクィテンの娘エリノアはフランス王ルイと結婚する。しかし、ルイとエリノアは性格や考え方の違いから愛情を失っていく。エリノアはどちらかといえば才気煥発、その上に質素な生活より、吟遊詩人や織物といった文化的な雰囲気に包まれることを望んでいる。その結果、彼女はルイと離婚し、やがてヘンリイ王と再婚する。二人は海峡を渡りイギリスで戴冠式をあげる。新しい夫ヘンリイ王は、法のもとに国家統一する事業に着手し、エリノアもまた水を得た魚のように夫の事業に力を発揮する。エリノアの前夫ルイ王の軍隊を打ち負かし、今やヘンリイの権力は絶大化する。彼は、エリノアの反対にかかわらず、トーマス・ベケットをカンタベリの大司教に任命し、教会の掟と国王の法の一体化を目指す。しかし、ベケットは教会の掟の絶対性を主張し、ヘンリイに追われてフランスに逃亡する。
 やがてエリノアがアクィテンにもどる日がやってくる。表向きの理由は、夫ヘンリイ王の要請で故国の治世にあたることだが、エリノアの本心は、夫ヘンリイの新しい恋人を見たくないためである。エリノアはエネルギーにあふれた無秩序な若者のために、宮廷内に「愛の作法」を確立し、「騎士道」をつくりあげる。
 一方、エリノアとヘンリイ王の間に生まれたリチャード、ヘンリイ、ジョフリイ、ジョンたちが成長して、父王であるヘンリイに反抗するようになる。ヘンリイ王は、わが子を人形かロボットのように勝手気ままに操作するからである。エリノアはこの子どもたちの味方につく。反乱が起り、子どもたちの軍勢は、父王の力に打ち負かされる。騎士の姿に身を替え、逃亡を計ったエリノアは捕らえられる。エリノアは離婚を訴えるがヘンリイは許さない。かつて栄光と希望にみちて渡った海峡を、エリノアは囚われ人としてイギリスへ送られる。軟禁されたエリノアは、一人馬にまたがり、過去の遺跡を訪ねることを日課とする。そうしたある日、巨石に興味を抱いた彼女は、記録を調べ、それをもとにして「アーサー王と円卓の騎士」の物語を詩人たちにつくらせる。
 その間も内紛と反乱は続き、若きヘンリイは死ぬ。続いて夫であるヘンリイ王の死。やがてリチャードが王位につくが、そのリチャードも戦闘で死去する。夫の死後、軟禁をとかれたエリノアは六七歳である。彼女は天国で、永遠に六七歳でいることを希望する。なぜならエリノアは、牢獄生活の中で真にじぶんの自由ということを理解したからである。もちろん、エリノアの人生は、その後十五年間つづく。彼女は、新王リチャードのために通貨の統一や尺貫法の制定などをやり、リチャードなきあとは、ジョンのために政治的手腕をふるう。1204年、エリノアの死去。彼女は、人生において善と悪を充分に知りつくし、何一つ無駄にはしなかったと、天国で語る。八百年遅れて、夫ヘンリイ王が天国にはいることを許される。彼は、ウィンストン・チャーチルとエイブラハム・リンカーンの二人と連れだって天国の門をくぐる。エリノアは、今や、この夫と共に語り合う永遠の時間があることを知る・・・
・。
 こんなふうに物語を要約すれば、味も素っ気もないものになってしまう。しかし、実在の人物・歴史に素材をとったこの物語は、いわゆる「歴史小説」ではない。その証拠に各章の切れ目ごとに、死者たちの憩う天国に話は引きもどされ、今や利害対立関係を喪失した、「もと人間」の対話がはいる。また、物語の展開は、各章「語り手」を交替し、エリノアがいかに生きたかを証言する形を採っている。すなわち、大修道院院長ベルナールから義母のマチルダ、騎士のウィリアムが自分との関わりにおいてエリノアの人生を語っていく。そして、しめくくりの話として、エリノア自身の回想が加わる。「あらすじ」あるいは構成は、右のとおりだが、この物語のおもしろさは、ここに登場する歴史上の人物が、さまざまなエピソードによって肉付けされ、一人の女性の激しい生き方と関わっていくその関わり方にある。しかし、何よりも興味深いのは、『クローディアの秘密』『魔女ジェニファとわたし』『ロールパン・チームの作戦』(以上はすべて松永ふみ子訳・岩波書店)で「子ども」を主人公にして「現代」に取り組んだカニグズバーグが、なぜこうした「大人」を主人公にした「歴史的衣粧」の物語を書きあげたのか・・・・ということである。
 わたしはインタビューをしたとき、(前記グランド・ホテルでのこと)カニグズバーグ女史に、主人公の問題はさて置いて、作品内の「母親像」あるいは「大人像」に関心がある旨を告げ、(たとえば『ロールパン・チームの作戦』のマダム・セッツアーや、『ジョージ』のカー夫人、あるいはマリリン)そこにある共通性ということに触れたが、その時、この「エリノア」は少し違うのではないか・・・・といったことがある。それに対し、彼女は、そうではない、これもまた共通性があり分身である、というように答えた。ただ「身分」が女王であるため、一見異質の冷やかさを感じさせるのだが、セッツアー夫人やカー夫人同様、じぶんの内なるものの投影であるというような返事がかえってきた。そうした返答から考えて、カニグズバーグは、この作品で一種独特の自己表現をやったともいえるのである。すなわち、特定の時代の制約の中で、常にその枠組みをこえる発想を持った女性は(あるいは人間は)、どのように生きるものであるか。そうしたおなじ資質を持った(あるいは、そうした自意識を秘めた)カニグズバーグ自身が、その現代の自己を、こうした「古い衣」の下にひそめて提出したとも考えられるのだ。
 もちろん、この「分身」説(?)、あるいは「自己表現」説(?)は、あのヒッチコック映画におけるヒッチコックの登場のようなものではない。たとえば、『ジョコンダ夫人の肖像』("Second Mrs. Gioconda"松永ふみ子訳/岩波書店)という近作に触れて、カニグズバーグ女史は、繰りかえし「じぶんの努力の跡を見せないこと」の大切さを語っていたから、エリノアの物語においても、彼女自身の生な投影部分は全部削り落とされていたに違いない。しかし、そうしたストレートな自己表現がないとしても、そこに、現在のじぶんの興味・関心(あるいは、志向性)と重なりあうものがないとしたら、どうしてカニグズバーグは、そんな「古い話」を掘りおこす必要があったろう。ただの歴史的興味だけなら、たぶん、十二世紀まで立ちもどり、その時代の一人の女性を、このような形で描きだす必要はなかったと思うのだ。インタビューのとき、先にあげた「セッツアー夫人」あるいは「カー夫人」の共通性として、パッショネイトという言葉がとびだしたが、「エリノア・オブ・アクィテン」もまた、そうした性格を多分に持っている人物なのである。あの知的な、それこそ激情とは程遠いカニグズバーグ女史の中に、じつは、もっとも多感な、しかも一切の制約をこえようとする激しい情熱が息づいているのではなかろうか。それが、『天国でのめぐりあい』のエリノアの中に集約されていると考えられないだろうか。
 ところで、インタビュー風文章にもどっていうと、カニグズバーグは、おしまい近い箇所でじぶんの作品を列記している。その中に、"The Dragon in the GhettoCaper"(1974)というのがある。
 アンディという少年が、名探偵になろうと志し、名探偵はみんな「サイドキック」(助手というべきか、子分というべきか、とにかく、シャーロック・ホームズにおけるワトソン役である)を持っていることを考え、既婚者エディをそれに任命し、事件に巻きこまれていく話である。この物語の中で、カニグズバーグは「ドラゴン」ということを強調している。それぞれの内側に「竜」を持っているかいないか。あるいはそれに気づいているかいないか。それが、その人間の在り方を決めるという考え方である。年齢こそ違え、アンディとエディはそれぞれ「じぶんの竜」を持っていて、それを人生の中で自覚していくわけである。物語の方は『ロールパン・チームの作戦』や『ジョージ』同様、少年を主人公にして、きわめて愉快な展開を見せるのだが、ここで気付くことは、この物語に提示された「ドラゴン」こそ、じつはカニグズバーグが
『クローディアの秘密』以来、一貫して追及してきた人間の内なる可能性のシンボルだということである。クローディア。マーク。ベン。アンディ・・・。カニグズバーグの主人公たちは、常に「じぶんが何であるか」「どんなふうに他人と違ってじぶんは存在するのか」そのことを知るため、さまざまな行動をとってきたといえる。いうならば、クローディアもベンもアンディも、いろいろな事件の中で、それぞれの「ドラゴン」を知ることが問題だった。このことは翻って、カニグズバーグ自身に「ドラゴン」が伏在し、それが常に彼女の創作活動の中心課題となってきたことを示唆している。

------- あなたの本の中でもっとも気にいっているのはどれですか。
------- 特別好きなものはないということにしているんです。もちろん、あることはあるんですけどね。でも、それがどの作品かいう気はないんです。わたしについてはもう充分おわかりでしょ。
------- しかし、年令と体重以外のことなら何でも話すとおっしゃったでしょう。
------- ええ、いいましたよ。でもね、わたしは、誰しも人は、内側に秘密を持つべきだともいったのですよ。その問題は、わたしの内なる秘密の一つなんです。わたしの年齢や体重は外側の問題で、誰にだってわかることなんです。
------- 質問すべきことは大体これくらいだったと思います。どんなふうにこのインタビューをしめくくったらいいのか。
------- 「どうもありがとう」といってみることですね。
------- どうもありがとう、カニグズバーグさん。
------- どういたしまして、カニグズバーグさん。

"Forty Percent More Than Everything You Want to Know About E.L.KONIGSBURG"は、ここで終わっている。このしめくくりかたでもわかるように、インタビュー風のこのパンフレットは、アンドレ・ジッドや花田清輝のやったあの「架空のインタビュー」と同工異曲なのである。カニグズバーグはここで、「一種の遊び」を試みているのである。彼女におけるこの「遊び」の発想は、作品創造の場合、きわめて重苦しい問題を、暗く重いものになることから救いだし、読者をぐいぐいと引きつけていく「おもしろさ」に転化させる。それは『ジョージ』における弟ハワードの行動や、『ロールパン・チームの作戦』における兄スペンサーを見ればわかるだろう。『クローディアの秘密』における弟のジェイミイや"The Dragon in the Ghetto Capar"のイーディス・ヤコッツもその一つの例であろう。カニグズバーグがただの「娯楽読物」ではなく、じぶん自身の主題を追求する作品を作りだしながら、いわゆるテーマ主義的な物語を生みださなかったのは、問題を抱えた主人公以上に、それら「まわり」の人間に関心を示し、それらバイ・プレイアーの「常識」はずれの行動を「主題」同様に受けいれる「しなやかな精神」の持ち主だったからである。
 わたしが、『ロールパン・チーム』におけるセッツアー夫人と、『ジョージ』における夫人の対照的な性格であることに触れた時、カニグズバーグ女史は、にっこり笑って、それはどちらもわたしだといった。この返答は、彼女がじぶんを、ひいては人間をどのように受けとめているかということを暗示している。もちろん、彼女に限らず「書き手」というものは、さまざまな登場人物の中にじぶんの分身を挿入するものである。しかし、時としてせっかちな「書き手」は、じぶんの主題に酔うあまりに、その代弁者のみを分身視するものである。主題をはずれた人物たちと「遊ぶ」ことを欠落させるものである。カニグズバーグはその点、さまざまな人間の可能性を尊重し、それぞれの在りようを形象化しようとした。

------イレーヌはね、書けても書けなくても、午前中はじぶんの書斎にはいりこむのです。その時間は、書いているか書くことを考えているかそのどちらかです。だから、午前中は、誰がたずねてきてもでません。電話のベルがなってもでません。原稿が書きあがった時、まずわたしに見せます。わたしはだから、イレーヌの一番はじめの読者なのです。

 これはダンナであるディビッド氏の言である。そういえば、「都ホテル」の一室で、わたしたち「子どもの本を考える会」の有志が、夫妻と座談会を持った時、今江祥智の質問が理解できないでいるカニグズバーグ女史を見て、横からディビッド氏が何度か助け舟をだしていた。この夫にしてこの妻あり。いや、この妻にしてこの夫あり・・・・・である。二人はつぎの日、飛行機で日本をはなれた。(テキストファイル化小野寺紀子)