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8月22日、「ナショナル・エアラインズ」474便というのでサンフランシスコ空港を出発する。朝7時である。この飛行機は、ロス・アンジェルス、ラス・ベガス、ヒューストン、ニュー・オルリンズを経由して、夕方5時45分にジャクソンビルに着くことになっている。ほぼ3千マイルを10時間で飛ぶ計算だが、実際は7時間の旅ということになる。3時間は「時差」というわけで、ジャクソンビルに着いた時、時計の針を進めればすむ。 窓のすぐそこに鉛色の主翼が見えていて、上昇・下降のたびに今にも引きちぎれそうなもろい鉄片に思えてくる。小田実が『ガ島』という小説で書いていたが、確かにこんな鉄の塊りが、空を飛ぶことがふしぎでさえある。人間がどうしても、こんな道具を利用してまでも行かねばならぬアメリカの広さというものが、空中から見おろしていると一つの実感となってくる。機長はマイクを通して、かの有名なグランド・キャニオンを見てれ……などと放送したが、壮大さという点では、ミシシッピー川とその周辺の町を見た時ほどの感動は湧かなかった。赤茶けた川を下る汽船、あるいは小さなはしけ……。それが、そこに人間の生活があることを思い起こさせ、一転して、あそこで暮らしているアメリカ人にとっては、「天皇制」や「未解放部落」の問題は、一生考えることさえないのだろう……という奇妙な間がいにつながった。(9月5日深夜放映された『ハーツ・アンド・マインド』でベトナムの町や村を爆撃した元パイロットの証言が挿入されていたが、それによると、超高度ということもあって、地上に生活する人間のことなど思いも及ばなかった……ということである。確かに高空から見る都市や村落はオモチャの町に似ている。しかし、それを、そうした「風景」と見るか、じぶんとおなじ人間の、異質の生活と見るかは、「見る側」の姿勢、あるいは想像力の問題に関わっている。もちろん、こうはいっても、ぼくはニュー・オルリンズの町を眺めながら、その上に急降下爆撃するじぶんを想像できたし、また、そうした想像のできるじぶんの中に、人間のもろさのようなものを感じた。ベトナム戦争は終ったというが、ぼくらの中には常にベトナム戦争が息づいていることだろう) ジャクソンビルに定時着。空港は郊外にあって森に囲まれている。この春、京都で会ったディビッド氏が(カニグズバーグ女史の御亭主が)、バークレイからだしたぼくの速達をひらひらさせて出口に立っている。一週間前、電話を入れておいたのだが、その時「何便」の飛行機かいわなかった。念のため、つぎの日、手紙を書いた。それがハンカチがわりにふられている。挨拶のあと、シスコへもどる座席の予約をすませ、ディビッド氏の車で家に向かう。 地図で見ればわかることだが、ジャクソンビルはフロリダ北東端の町である。人口約50万、市の中央をセント・ジョンズ川が町を二分する形で流れている。国際空港は、この町の北端にあり、ディビッド氏およびイレーヌ・L・カニグズバーグ女史、それに三人の子どもと一匹の犬のいる家は、その反対の南端近いピックウィック・パークにある。その間にジャクソンビルの中心街があり、ディビッド氏の会社もそこにそびえ立っている。空港からピックウィック・パークまで車で一時間。クーラーは入っているのに、久しぶりに「夏の暑さ」を思いだした。それほどもバークレイは涼しく、ジャクソンビルへくるまでのほぼ三週間、そこは秋か秋のおわりのような低い気温だったわけである。都心部で多少の交通渋滞のあったほかは、スピードを落すことなく車は走る。 ピックウィック・パークは、いうなれば分譲住宅地域である。ただ日本のそれとの違いは、うっそうとした木立がまわりを取りまいていて、一見「お屋敷町」かと思いこむほどの静かなたたずまいだろう。ぼくは、世界旅行をするほどの作家だから、どんな立派な邸宅に住んでいるのだろうかと、心ひそかに勝手な住居図を思い描いていたのだが、それは日本の一般家屋に比べれば優雅なものの、決して大邸宅ではなかったことも確かである。むしろ簡素な家であって、果して「客用の部屋」があるのだろうかと心配したくらいである。もちろん、こういういい方は、まったく失礼ないい方になる。少くともアメリカにくる時はジャクソンビルにもぜひ……とカニグズバーグ夫妻はすすめてくれたのだし、またそれが一種の社交辞令でなかったことも手紙のやり取りではっきりしている。去年、松永ふみ子さんが泊っているし、その松永さんが「大丈夫よ」といってくれたことも頭にあって、たぶん「どかんとしたお屋敷」か何かを頭の中に作りあげていたこっちの方に問題があるのだろう。 「お屋敷」といえば、つぎの日、カニグズバーグ女史の車で、図書館やショッピング・センターへ出かけたのだが、その時、彼女が、「この家を見て。これがこのあたり一帯の大地主なのよ」と、わざわざ車を停めて見せてくれた邸宅がそれで、道路際に門があり、その門柱にものものしい彫刻などが飾ってあって、そこから玄関口までずっと手入れされた小道があって……という風だった。生け垣をめぐらしたそうした「お屋敷」がピックウィック・パークにも何軒かあって、彼女の説明によると、木立を切り開いて住宅を建て、瓜にだしているということだった。話のついでにいうと、すぐ近くに教会があり、そこには『アンクル・トムの小屋』を書いたストー夫人の血縁者が牧師さまをしているということだった。(子どもか孫……と聞いたように思うのだが、19世紀末に死去したハリエット・エリザベス・ストーの子どもなら、果して何才だろう……など考えると、まさしく英語の「聞きとり」のまずさの結果で、「血縁者」としておく方が無難である。聞きかえす前に、ぼくはその聞くべきことを頭の中で組み立てねばならぬ。しかしね彼女の車はその教会の前でストップしなかったのだ) ぼくは長男のポールの部屋を占領(?)することになる。彼は大学生である。カニグズバーグ女史が『クローディアの秘密』を書いた時、13才だったというから、その頃はその下にまだ二人の子どもがあってたいへんだつたろうな、とわかる。ポールはまったく折目正しい青年で、きびきびと世話をやいてくれる。ぼくの着いた日、ディビッド氏の兄さんという人もきていて、フットボールについて話しかけてきたが、その英語がわからないと、ポールが一段とわかりやすい英語でいいかえてくれた。カニグズバーグ女史も「このドミトリイでは日本語が通用しないからね」と笑う。そして、一語一語、納得できるまで区切って話してくれる。それでもわからないと紙に書いてくれる。それを見て納得することもあったし、納得できないで辞書をくることもあった。日曜日の午後、ビーチから帰ったあとやった児童文学の話も、この「筆談」まじりのものだったが、今はまだ金曜日、ジャクソンビルへ着いたばかりである。長女のローリィ、次男のロス、犬のジェイスンにも対面。結局夜中まで坐りこんで片言で話してしまう。それにしても、もっとも気にしたのは煙草である。一家あげて酒も煙草ものまないのに、こちらはヘビー・スモーカーときている。テレビのある部屋、食堂、居間、果てはポールの部屋まで煙を漂わせる。その上、「明日一番に何をしたいか」と問われて、「まず煙草を買いにいきたい」といったことから、カニグズバーグ女史、とうとう取っておきの記念煙草(米ソの宇宙ドッキング記念のそれ)を取りだして、中味は吸っていいが箱だけは残してね……という。(8月16日、たまたまシスコにあるリチャードの家でパーティがあった時、RYO、ここで休んでもいいよ……といわれて、リチャードの書斎で煙草を吸っていてギョッとしたことがある。Group against Smoking Population のポスターが貼ってあって「どうかこの部屋では煙草を吸わないで!」と書いてあったのだ。それ以来、煙草を吸わない人間に出会うと、じぶんの煙がひどく気になる。そのくせ、一度だってやめようと考えたことはないのだから困った話である) 23日、土曜。ディビッド氏とポール、ロスはビーチへでかける。カニグズバーグ女史が車で近くを案内してくれる。“Dragon in the Ghetto Caper”(1974)に「フォックス・メドウ」という柵をめぐらしたお金持ちの居住区が描かれていたが、そのモデルになった場所を教えてくれる。そのあと図書館へ。両手一かかえの本を返却し、またおなじくらいの本を借りだす。(ほとんどが、ウーマン・リブに関する本らしい)その間、司書のミセズ何がしという女性に案内され、児童文学の研究書の棚を見る。一番新しい児童文学関係の評論ないし研究書を質問したところ“Only Connect”と“Written for Children”を示されたので少しがっかりした。バークレイやサンフランシスコの本屋でも、これとトールキンは置いていたからだ。車にもどってからそのことをいうと、彼女、家にもどったらいい本を紹介するから……といってくれる。昼食には、おもしろい店に連れていってくれる。“ANNIE TIQUES”という19世紀サルーン風に飾りたてた食堂である。室内装飾、音楽その他、わざと大時代なつくりにできている。どう思う……と笑うので、ケッサクやと思わず笑ってしまった。ただし、そんなに勘定の安い店ではない。(アメリカにきてから常にドルを円に計算しなおす癖がついている。その上、税金とチップの額をはじきだす習慣になっている。バークレイでは“Le Bateau Ivre”という喫茶店によくいったが、そこのビアンコというコーヒーが30セント。いつも灰皿の横にチップ5セント置いて、これは日本円やったら15円やないか。こんな安い金額でも本当によろこびよるのやろか、と首をひねったものである) 午後、ショッピング・センターのひやかし。時間を打合せて別行動をとる。帰り、スーパー・マーケットに寄る。今夜のパーティの買物だそうだ。 ところで、これは「もうおしまい」というところで記すべきことかもしれないが、ぼくはジャクソンビル滞在中、一人の日本人にも出会っていない。日本人がいないわけではない。カニグズバーグ女史の言によると、下町の食堂に一人いて、ぼくの作品(『目こぼし歌こぼし』)を読んでくれたそうだ。彼女が貸してやったということだ。日本にもあんなcuriousな大人がいるの……と聞かれたが、それがどんな意味でいわれたことなのか、うーん、と首をひねってしまった。それはさて置き、食堂に一人いるということは、他にも何人かいるのだろう。しかし、バークレイのことを考えると、ここではまったく目につかない。少くともシスコで時どき日本人と間違えた中国人や二世にもお目にかかっていない。そこでいうのではないが、ショッピング・センターの街頭絵描きと話していて、ふと考えたことがあるのだ。それは、いったいバークレイとは何か……ということである。バークレイはアメリカである。それは間違いない。もっとも自由な学園都市であるということも確かだろう。しかし、はじめて日本人を見たというこの絵描きのいるジャクソンビルもまたアメリカである。そして、どちらかといえば、日本人を知りすぎていて、それを多数受け入れているバークレイに比べ、よりここに一般的なアメリカがあるのではないか。つまり、バークレイはこうした平均的(かどうか知らないが)都会に比べると、アメリカの「PR」都市臭い感じがするということである。生きているショー・ウインド……といえばよいか、無意識の裡にバークレイはアメリカの「自由」や「知的状況」の対外的(対日的でもいい)出窓の役割を果しているということである。いや、こうした役割は、({生活しているアメリカ」を演出している町は、)バークレイに限らず、日本人ないし他国の研修生を多数受け入れる都市なら必ずそなえているものだろう。 さて、パーティにもどっていえば、その夜、カニグズバーグ家を訪れたものは、ジャクソンビルの大学で児童文学を教えている30代の先生、それにミッキイと呼ばれる学校の先生と御亭主、法律家夫妻の三組だった。この児童文学の先生がフィリパ・ピアスを知らないのには、少し奇妙な気がした。そういえば、カニグズバーグ女史も『トムは真夜中の庭で』を読んでいなくて、この朝、図書館で借りだしたばかりだった。(この本はつぎの日、ビーチにいった時、半分ばかり読まれ、「ハティ」の描き方がとてもいい……という感想になる。しかし、全体としてどうなのか、それは聞いていない)パーティでの会話は早くてほとんど聞きとれない。ローリィが、「今おまえさんは、わたしがフランス語の会話を聞いている時とおなじ気持だろう」と笑う。つまり一語一語を日本語に置きかえて何とか理解しようと苦心しているところだろう……というわけだ。その苦心にかかわらず、直接じぶんに向けられた質問以外は一切わからなった。仏教を日本人は本当に信じているのか……という問いに、形式化した宗教、坊主の形式性ということを、それこそ汗のでる思いで話した。松永さんが、「パーティなどやってくれるのよ。そりゃ大変なのよ」といっていたことがあったが、松永さんなら互角に話し合ったんだろうな、とすこぶる情ない……。 つぎの日。ビーチへ。ここは彼女の“《George》”という作品で、「パコーウイッツ先生」が、主人公のベンの母親に近づくその舞台に使われている場所だ。それほど美しい海ではない。しかし、日本の海水浴場とは比較にならないほどひっそりした海岸である。沖合に漁船が見える。ひろい砂浜に、三々五々、体をやいている家族連れや若いカップルがいる。ディビッド氏とヒゲづらの友達がゲームなどをしているので、その間に水着姿のカニグズバーグ女史をカメラに収める。 午後、例の「筆談」まじりの話。彼女、シド・フライシュマンをひどくほめる。作品の魅力と人間の魅力、この二つを持ちあわせている作家……ということである。キーツがそれに比べて失望だった……という話はおもしろかった。話はレストランへ行くまでつづいたのだが割愛。つぎの日、8月25日、ポールの車で空港へ。バークレイにもどったぼくは、熱をだして寝こんでしまった。(テキストファイル化古賀ひろ子) |
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