児童文学で何ができるか

『子どもの国の太鼓たたき』(上野瞭/すばる書房/1976.08)

           
         
         
         
         
         
         
    
 第一作を書いてからほぼ六年目に、創作の第二作をだすことになった。『目こぼし歌こぼし』(あかね書房)がそれである。六年目に一冊の書きおろし……といえば、まず寡作の方だろう。一時、「創作児童文学の花ざかり」などといわれたが、あまりにお粗末なはなしといえないでもない。
 『笹まくら』(河出書房新社)を書いた丸谷才一が、『たった一人の反乱』(講談社)を出版した時、三年間この一作に打ちこんでいたというふうなキャッチフレーズがあったが、真偽のほどはさておいて、わたしもまた六年間、この一作に打ちこむというようなそんな気概があるべきだったと、ひそかに顔を赤らめている。
 要するに、わたしの場合の六年は、孤高壮絶からほど遠く、きわめて怠惰に日々を流されていたにすぎない。その怠惰なわたしが、よりによって「長篇」を書こうとしたのは、いや、書いてしまったということは、どういう風の吹きまわしだろう。
きわめて「私的」な理由をあげれば、わたしを一人の「児童文学評論家」(何だかムズムズするようなことばだが)としてではなく、一人の物語の「書き手」として「教唆扇動」してくれた人がいたことで、この現代にはまれな教唆扇動者のおかげで、わたしは身のほど知らずにも「創り手」の側に「一とび」したということになる。
この教唆扇動者が、なぜ現代にはまれかといえば、わたしの「書き手」としての可能性を、敬遠されがちだった第一作『ちょんまげ手まり歌』(理論社)から推測し、とにかく採算を度外視して、第二作を書かせた点にある。『ちょんまげ手まり歌』は、「はたしてこれが児童文学か……」というひそかな疑惑を生み、某子ども文庫の本棚から追放されるという名誉をになった。そうした作品を書く「批評家風情」に、物語の書きおろしを頼むというのは、それこそ「現代にはまれな」危険な肩入れではないだろうか。
 またまた敬遠されがちな「変種」児童文学が生まれないとは保証できないのだ。わたしは、そうした不安をいだきながら、あえて教唆扇動者となった編集者の中に、編集者の枠をこえたものを発見し、それにこたえるために机の前にすわったといってもいい。
 それにしても、「私的」な理由だけで、一篇の物語は成立するものだろうか。もしそうした作品があるとすれば、それは「文学」以前の何かに違いない。およそ「児童」というコトバが付くにせよ付かないにせよ、「文学」というものは、おのずから語りたい事柄の上に成立するものである。わたしの側に表現の衝動がないならば、いかに「私的」理由があっても作品は成立しないだろう。正直いって、わたしは「わたしの児童文学」を書いてみたかったし、それが「わたし個人」の興味関心をこえて、「児童文学にかかわる世代」の興味関心と重なることをひそかに考えていたといえる。
 多くの書き手が無意識のうちに志しているように、わたしもまた、物語を書くことによって、架空の次元での読者との共鳴、あるいは体験の共有といったものをめざしていたのである。
 これは、人間および人生に関する共鳴といっていいかもしれない。わたしというひとりの大人が、この日常的世界では孤立的に生きている。国籍、年令、体験、性、思想、情念の個別性のゆえに、他の大人あるいは子ども同様、相互理解の断ち切れた状態で生存している。
 人間の日常的関係とは、本来この不連続な共存である。わたしたちは相互に垣根をこしらえあい、垣根ごしに話しあっている。とりわけ、大人と子どもの間には、垣根というよりもビルの屋上から地階にむけて話しあうほどの距離がある。年令と体験と社会的役割が、同一空間にいる場合でさえ、子どもをむこうへ押しやってしまう。
大人であるわたしたちは、子どもと共有しうる体験なり年令なりを持ちえないものなのか。そこにあるのは、親子関係、師弟関係、保護者・被護者の関係だけなのだろうか。
かつて児童文学は、「理想主義の文学」であるといわれた。また、「教育」と深いかかわりあるものとして規定されたことがある。それらの規定の底にあるものは、「人生、あるいは人間の生き方」を架空の世界に仮託して、「教示」しよう(あるいは教示しうるもの)ということだった。
 たぶん大人は、その体験の厚みによって、人生経験の乏しい子どもに、「教示」しうつ何ものかを持ち、また、その資格なり義務なりがあると考えたのだろう。少なくとも、「教育」というものは、この発想によって成り立っている。
 しかし、「文学」は、そのまま「教育」の発想によって成り立つものなのかどうか。「教育」が教示者と被教示者の関係において成立している世界ならば、「文学」の関係は、それとは異質の人間のコンタクトでなければならないはずである。
 物語といい創作といい、架空の世界の提示は、子どもがそれを通って大人の「教示」に達するための「通路」ではない。結果として、子どもが大人の思想や信条に達する場合があるとしても、架空の世界は何かの「ための通路」であるよりも、まず、人間の出会いの場でなければならない。あるいはまた、人生を共有する世界といいかえてもいい。書き手は、経験も生活状態もじぶんとは異質の登場人物を生みだすことにより(あるいは生みだそうと努力することにより)、日常的自己(あるいは世界)をこえて、人間のさまざまな可能性に形を与えようとする。読み手は、そうした架空の世界に参加することにより、日常的世界では見失われている異質の体験や人生に出会う。
 いうならば、架空のこの次元は、書き手にとっても読み手にとっても、相互の垣根を取り払った世界、つまり、「かくもありうるだろうし、かくもありえた」人間に立ちもどる世界……年令・性別・体験の差違をこえて、人生を共有する世界だといえないか。
 児童文学が「文学」である独自性は、この体験の共有、あるいは人生の共有にある。つまり、書き手・読み手ともども、人間の無限の多様性、あるいは可能性を共有しようという点にある。架空の次元で、大人も子どもも、はじめて共有しうる人間に出会い、その人間(あるいは猫や熊や魔法使い等)を通して、「日常性」が遮断した「自己の可能性」を生きるわけである。
 わたしは、こうした体験の共有、あるいは人生の共有を用意したすぐれた作品として、ローズマリ・サトクリフの『王のしるし』(猪熊葉子訳/岩波書店)を思い浮かべる。
ローマ軍団の支配するスコットランド。その「歴史年表」的に古い時代に、フィドルスは奴隷の子として生を享ける。母の自殺。馬同様に転売される少年時代。やがて剣闘士として競技場に立ち、親友ボーティマックスを刺殺して手に入れる自由人の資格……。
 わたしたちは、スコットランドがいかなる土地かも知らない。まして、はるか「過去の時代」のスコットランドの情景を思い浮かべることも不可能である。おそらく、作者サトクリフにとっても、それは暗闇に閉ざされた未知の世界に違いない。しかし、サトクリフは、歴史的記述の中に埋葬された土地を再生し、その中に人間の存在を探りだし、生命の灯を点じるのである。
 いうまでもなく、サトクリフは二才の時発病し、肉体的行動を制約されている作家である。その不自由さが、『太陽の戦士』では右腕の不自由なドレムとして形を与えられ、この『王のしるし』では「奴隷」という自由を奪われた人間の在り方に投影されているとも考えられる。その意味で奴隷フィドルスは、彼女の分身といえないことはない。書き手の「日常性」が、架空の次元に持ちこまれているということができるのかもしれない。
 しかし、サトクリフは奴隷剣闘士の体験を持ってはいない。ダルリアッド族の一員でもない。彼女は、じぶんの不自由な身体をバネにして、自由でない人間を想定し、その行動を思い描いたとしても、明らかにフィドルスの人生は、その構想力による冒険の所産である。
 彼女は彼女と異質の人間を創造し、その行動を記述する。わたしたち読み手は、スコットランドの歴史も、奴隷の生活も知らないままにその架空の次元に足を入れる。歴史、国情、生活、発想の違いが、わたしたちのこの参加をはばむだろうか。具体的人間関係において、民族や国家や国民性の枠は、わたしたちをはじきかえすことがあるとしても、この架空の次元ではそうした人間の属性は、何のさまたげにもならない。
 わたしたちは、冒頭の死闘シーンからフィドルスと一体になり、奴隷の人生をわが事としてして体験する。サトクリフもまた、そこで「日常的自己」とは異質の人生を生きることになる。
 書き手のサトクリフも、読み手のわたしたちも、架空の次元では、一回限りの生命の燃焼に自己の生の姿を感得し、人生を共有する。サトクリフが、目をくり抜かれた、マイダー王子であり、また「王の狩」で疾走するマーナであるように、わたしたちも、マイダーとなりマーナとなるわけである。
繰りかえすようだが、この壮大な人間ドラマは、わたしたちをして、年令、国籍、性別の枠をこえさせる。日常的世界では体験することのできない人間の体験に導きいれる。そこに描かれている事件がいかに凄惨であっても、またその人生がいかに苦痛にみちたものであっても、わたしたちは、それが日常的世界とは異質の次元の出来事であることによって、一つの可能性を生きていることになる。
 もちろん、児童文学の開く可能性は、サトクリフの描くように峻厳な人間体験とは限らない。たまたま、サトクリフの選んだ可能性の追求が、苦難の中の人間のそれだということであって、別の方向も児童文学には開かれている。
 たとえば「空想物語」における「ふしぎさ」や「楽しさ」の共有体験、そうした「ありえない出来事」を生きる可能性も存在する。ミルンのプー横丁も、バリのネバーランドも、サトクリフとは別の形で開かれた可能性の世界である。それは、わたしたちに『王のしるし』とは異質の体験の共有、あるいは人生の共有を用意する世界である。
 児童文学はその意味で、無限の方向を持っている。可能性に対して多様な道を開いている。わたしたちは、この可能性の世界で、二度も三度も別の人生を生き、いくたびも違った死を迎え、さらにまた、実人生では許されることのない諸体験をくりかえす。こうした多様な人生体験の共有こそ、本来「文学」の働きである。
 わたしたちは、いくたびも死に、いくたびも別の人生を生きることによって、わたしたち自身の本来なる自由に目ざめていく。わたしたち自身の生の、一回限りの短さを心からいつくしむようになる。高邁なる理念や献身的姿勢を作品から学ぶことは、文学の副次的働きであって、何よりもまず、わたしたちは、そこから、人間であることのかなしさや、この一回限りの生をいつくしむじぶんに至るのである。
 わたしは、作品を書くということをそのように考えている。この考えは、『ちょんまげ手まり歌』を書いた時、まだ意識の底によどんでいたものである。『現代の児童文学』(中公新書)から少しずつ形をとり、『目こぼし歌こぼし』に至っている。この考えは変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。いずれにしても「絶対視する」考え方は、わたしのものではない。わたしはやがて、すべてを御破算にしそうに思うし、御破算寸前のところを何とか生きていくようにも思う。
『ちょんまげ手まり歌』を書いた時、これは「現代の寓話」だという指摘があった。たしかに、この作品では、わたしの現代ともいうべきものが反映していた。この指摘からすれば、それは、現代をデフォルメして模写したという解釈さえ成り立ちそうである。
 そうした意図がなかったとはいわないが、しかし、わたしは、まったく「ありえない世界」をつくることを最初から考えていた。ここにある国家の現実的規制に対して、国家が「持ちうるだろう」おそろしい可能性を描くことを考えていた。人間を描くのではなく、状況を主人公にすること、そうしたことは可能か……ということが出発点だった。
 これは児童文学だろうか……という声を聞いた時、わたしは心外だった。無限な方向に開かれた可能性に対して、扉を閉ざす発言にさえ思われた。
 児童文学はハイキング・コースだろうか。多くの人間がたどる道標付きの道だけが、子どもの文学の進行方向とするなら、それはあまりにもイージーではないか。子どもはよろこばない。子どもにはわからない。子どもは読まない。そうしたことと、さまざまな可能性をさぐる努力とは、まったく別のものである。読み手が選択しないことは自由だとしても、書き手は常に冒険にのりだす必要があるではないか。
『目こぼし歌こぼし』では、わたしは、状況の中を人間が通るのではなく、人間の中を状況が通る話を書こうとした。
足柄七十郎。〈とろろ〉のおたまちゃん、それに殺し屋浪人の木佐木鉄次郎。目こぼしのゴクモンや、カンオケのじいさん……。
 わたしは壮大な冒険小説を書くつもりで机の前にすわった。わたしの知らない城下町を思い浮かべ、谷間の村を想像した。わたしは一人前になりきらない足柄七十郎として、その世界に足を踏みいれた。ノートもメモも何もない。足を踏みいれた以上、そこで生きるしかない。しかし、七十郎であるわたしと、七十郎でないわたしが常に口論するうちに、
『目こぼし歌こぼし』は冒険小説から道を踏みはずし、奇妙な谷間に落ちこんでしまった。
 今、この作品を書き終って、これはこれでいいのだと思っている。これはこれなりに「もう一つの世界」なのである。もっとはなやかな、もっとふしぎな世界は、こうした試行錯誤の旅をやればこそ、ぜひ、つぎにはたどりつきたい世界になるのである。
 そこでもまたわたしは、人間を踏みつぶす怪物に出会うかもしれない。そうだとしても、わたしはまた旅にでるだろう。出発しなければ、「児童文学で何ができるか」は、誰にだってわからないのだから……。(テキストファイル化矢可部 尚実)