SFに関する支離滅裂なる感想

『子どもの国の太鼓たたき』(上野瞭/すばる書房/1976.08)

           
         
         
         
         
         
         
    


 ロバート・シェクリイをはじめて読んだ時、ひどく感心した記憶がある。
 針ねずみのような遊星に着陸した人間が、そこにあった缶詰を開く。すると、笑う食べものや伸びあがる食べものが出てくる話である。(『人間の手がまだ触れない』一九五四)宇宙の彼方からの無限の食欲を持って飛来する「ひる」。あるいは、殺人予防のために旋回する「監視鳥」の話。(『無限がいっぱい』一九六〇)
 わたしはそこに、人間の空想がまだ触れえない世界があるように思って、目を輝かせた覚えがある。
 ところで、十数年ぶりに、それらの作品を読みかえしてみて、今度はひどく失望してしまった。いったい、わたしは、シェクリイのどこに感心したのか。改めてその「未来小説」の発想について考えこんだのである。
 それを一口でいうと、こうなるだろうか。「未来小説」とはいえ、シェクリイの描いているのは、「未来」ではない、「現代」の人間のあり方ではないのか。たとえば、『生活費』という短編を読むと、わが子の将来までも担保に入れて、電化製品を購入しようとする未来人が出てくる。また、『乗船拒否』には、人種差別が消滅したはずの未来社会に、なおかつ残る人間の偏見が描かれている。『怪物』という短編では、二五日目毎に、妻を殺すことを美徳とする有尾人が登場する……といった具合で、一見、未来的構図を取りながら、そこに描かれる人間たちは、じつは、現代を生きるわたしたち自身、それも、きわめて浅はかで欲深な、偏見にみちみちた姿だったといえる。シェクリイは、わたしたちの中の愚かさや悲しさだけを抜き出してきて、それを未来人という形で拡大してみせた……といえばよいか。極端ないい方をすれば、シェクリイは読者と共に同時代人を笑ってみせようとした、とわたしには思えるのだ。わたしは、たぶんに、じぶんの戯画化であり矮小化であるそれらの未来人を、愚かにも他人事のように笑っていたことになる。
 わたしの失望は、こうした人間の自嘲に、空想力が駆使されたことだけではなく、そうした自嘲の世界の中に、シェクリイ自身が加わらず、「人間見世物」の小屋主のように冷静に、その外側から、じぶんは傷つくこともなく、太鼓を叩いて客寄せをしていた点にある。
 こうした作品を前にしていると、わたしはいらいらしてしまい、J・G・バラードのような作家が、そのあとに出現した理由も、うなずけるような気持ちがしてくる。
 J・G・バラードは、一九六五年、『溺れた巨人』を発表した。(日本版は大谷圭二訳/創元推理文庫/一九七一)この短編が、いかにシェクリイ的発想から遠いものであったかということは、そこに登場する「わたし」の描き方からもわかる。
  ある町の海岸に、嵐の翌朝、正体不明の巨人の溺死体が打ち寄せられる。噂はひろがって、図書館で研究に従事している「わたし」が行ってみると、黒山の人だかりである。はじめ、「おそれ」と「おののき」のあまり遠巻きにしていた見物人も、勇敢な野次馬が巨人の体にはいのぼるのを見て、一人また一人とのぼりつき、やがて一団となって巨人の体に取りつく。巨人の死体は、それでも端正な顔を見せて、海に仰臥したままである。数日して、「わたし」はまた、巨人の姿を見にいく。「わたし」も巨人の体にはいのぼり、靴でその肉を踏み破ってしまう。腐敗のはじまったその肉体は、もうはじめの荘厳さを失って、見物人の踏み荒らすままになっている。人びとは、その耳や目のくぼみに入りこみ、皮膚にいたずら描きをしたり、その上で焚火をしたりする。「わたし」がもう一度、巨人の死体を見にいった時、手足は切断されて、クレーンで運び去られている。やがて、巨人の噂も消えてしまい、その頃になると、ばらばらにされた骨が、博物館、カーニバル、サーカスの見世物として出されるようになっている。波打ちぎわに残された白骨の断片は、今は、鴎の止まり木としてあるばかり……。
 
 話はそれだけのことである。ところで、わたしたちが「巨人」という時、反射的に浮かべるものは何であろうか。巨人といえば、ジェイコブスの収録したイギリス昔話『ジャックと豆の木』の大男を思い浮かべる場合もあるだろうし、さねとうあきらの『地べたっこさま』を考える場合もある。そこには、巨人と化す鍛冶屋の紋太が登場する。山中恒の『うすらでかぶつ』も一種の巨人譚だし、斉藤隆介の『八郎』『三コ』も巨人の話である。そして、きわめてポピュラーな巨人は、スウィフトのプロブディンナグ国のそれだろう。一七二六年に書かれたこの『ガリバー航海記』によれば、ガリバーは最初、『溺れた巨人』同様に、リリパット国(小人国)の海岸に打ち寄せられた。リリパット人たちは、『溺れた巨人』の人間同様、その体に取りつき、ガリバーの体の上で「ヘキナー、ディーガル」と叫んだり、「ボラック、ミヴォラ!」と仲間に呼びかけたりした。しかし、ガリバーは、バラードの巨人のように解体されることなく、逆に、ポケットに牛や羊をつめこんで帰国した。巨人(ガリバー)はここで、リリパット人を見下す立場、いいかえるならば、人間の矮小性を具象化したリリパット人を嘲笑する批判者の立場を取っていたことになる。つぎにガリバーが訪れた巨人国プロブディンナグでは、巨人は、人間の醜悪さを拡大投射したものとして描かれた。ガリバーことジョナサン・スウィフトにとっては、先に触れたロバート・シェクリイ同様、巨人(あるいは「非巨人」)は、同時代人の愚劣さを笑うための便利な道具だったわけである。スウィフト自身は、そうした物語の中で、裁かれることもなく、嘲笑されることもなく、一人、まともな「人間」の立場を保っていたといえる。人間どもは愚劣で醜悪だ……といいながら、じぶんだけは、そうでない「人間」だとする発想。諷刺物語の作者たちは、常に、こうした「特別席」の人間観を持っていたのではないだろうか。それとは反対に(といえるかどうかわからないが)、斉藤隆介やさねとうあきらの巨人譚には、常に、人間は偉大である……という考え方が伏在し、その価値というか、尊厳というか、人間が人間であることのあかしを、巨人というシンボルに投射していた傾きがある。
 いずれにしても、従来の巨人像の中には、人間の愚劣さか、人間の偉大さかの意味づけがあり、わたしたちは、それを眺めることによって安心したり、勇気づけられたりしてきたといえる。
 バラードの『溺れた巨人』は、そうした人間の安心感や、希望のあかしを、「特別席」の視点を含めて打ちくずしてしまった。巨人はここで、これまでどおり、人間のシンボルであるにもかかわらず、一挙に解体されるものとして描かれたからである。
 「わたしにとって、あの巨人はまだ生あるもの、いや、それどころか、見物人の大半よりも、はるかに生命に満ちたもの、に思えたからだ。これほどまでに、わたしを魅惑したのは、一つには巨人のとてつもないスケール、わたし自身のちっぽけな四肢の正体を確認しているような、あの手足の占める厖大な空間なのだが、なによりも物をいったのは、巨人の存在という、ただそれだけの定言的事実だった。わたしたちの生活のすべてが懐疑から逃れられぬものであっても、あの巨人だけは、生死に関係なく、絶対的意味での存在をたもっており、そのきわめて不完全かつ貧弱な雛形にすぎぬ海岸の人間たちに、絶対者の世界を垣間見せてくれるのだ。」(前出・大谷圭二訳)
 これは、流れ着いた巨人の水死体を前にしての、「わたし」の感慨である。巨人は、その巨大さの故に、わたしたち現実の人間よりも確かな存在として見物人には受け取られた……。つまり、不確かな生命を持ったわたしたちに、それでも人間は「存在すること」を示すシンボルだったということだろう。バラードの巨人は、右のことばから推測できるように、わたしたち人間の存在感のシンボル、もう少し水増ししていえば、人間の生命や尊厳、あるいは、人間が人間であることの具体像として、作品の中に登場させられたといえる。そうしたものを前にして、見物人(人間)はどうしたか……。先に紹介した「あらすじ」でもわかるとおり、人間は、それに足をかけた。はじめは、少数の者がおずおずと、やがて、多数の者が、それを土足で踏みにじりはじめたのである。それだけではない……。人間自身のシンボルである巨人を、人は遊び場のように徘徊し、傷つけ、最後には、ばらばらに解体してしまった。「わたし」もまた、それを制止することなく、いっしょになって踏み破り、解体されていくさまを、まるで不可思議なドラマの進行のように、ただ眺めていたわけである。
 これほど恐ろしい話はない。人間が、人間自身の存在を冒涜し蹂躙するからである。この短編には、わたしたち現代人の、救いようのない人間軽侮の姿が、象徴的手法で描き出されている。ここでは、作者も共犯者で、他人の人間解体を嘲笑するどころか、「わたし」という姿をとって、いっしょに、それに荷担していたことが明記されている。ここには、シェクリイ的「特別席」はない。いや、考えてみれば、シェクリイ的発想こそ(=未来人の姿を借りて、同時代人の愚劣さを笑いとばすこと)、この『溺れた巨人』における「見物人」の立場であり、「わたし」の立場だったといえる。
 ジュディス・メリルは、『SFに何ができるか』(浅倉久志訳/晶文社/一九七二)の中で、こうした バラードの仕事をつぎのようにほめたたえた。
 「ジェイムズ・バラードは、SFのはじめて生み出した、真の意味で自覚と制御力を持つ文学者になりつつある。彼が、現代的な文学技法と実験形式を試みてそれに成功した、きわめて数すくない作家のひとりであることは確かである。しかし、大半の斬新な作家についてそういえるように、その作品を読みおわったあとで、わたしはよく、いったい彼はなにを言おうとしているのだろうか―あるいは、彼自身それがわかっているのだろうか―と、疑問を持つことがある。」
 わたしの疑問は、このジュディス・メリルと違って、作品の意図にはない。『溺れた巨人』は、(もちろん、ジュディス・メリルは、この作品のことをいっているのではないだろう。『時の声』や『結晶世界』などの長編のことかもしれない。)確かに現代を裁断するすぐれた作品であった……。しかし、これもまた、シェクリイの立場を超えるとはいえ、シェクリイ同様、人間の「亡びの歌」ではないのか、ということである。たまたま、小田実の『ガ島』を読んでいたところなので、その一部を抜き書きすると、こんなふうなことばがある。大阪はトンカツ屋の西川という主人公の独白である。
 「いちばん大きなバクチ場へ行った。マカオデイチバンノ金持氏の第一夫人が社長をしているバクチ場である。入ると、まず、人いきれ、煙草のケムリ、ざわめき。とにかく、むやみと人が多い。日本人らしいのがゾロゾロあちこち見物に歩いていて、日本語がいやでも耳に入って来る。バクチ場へ行ったが、わたしはたいしてバクチに興味をもっているわけではない。それどころか、バクチをするようなお人はアホウやと思っているのである。わたしに言わしてもらえば、人生というもの、それだけですでに賭けである。バクチである。大企業につとめて、のんきに日を暮しているから、賭けでもしたくなるのだろう。そこへいくと、わたしの商売など、明日にもどうなるかしれたものではない。トンカツ屋を三軒もち、つけ加えて、アンミツ屋までもっていれば十分ではないかという人がいるかもしれないが、わたしはそんなことで満足している人間ではないのだ。こうも言えばよろしいか。私の人生はまだ賭けにみちているのである。つまり、終っていないのである。トバクというようなもの、あれは人生がすでに終わった人がやることである。」
 わたしもまた、トンカツ屋ではないが、賭けごと一切に否定的気持があるため、この個所に目がいったのである。しかし、右の一文は、もちろんそれだけのために引いたのではない。このことばをなぞっていえば、わたしたちの地球がまだ終っていないのに、なぜ「亡びの歌」や人類の「死にざま」に空想力を駆使するのか、ということである。バラードはユニークであるけれど、それは、人間の「亡びざま」を描いて傑出していたということである。わたしたちは、いずれ死を迎え、地球もまた、バラードの巨人のように解体するかもしれない。それがたとえ確定した事実であったとしても、それまでのわずかな生に、わたしは執着する。これは、日本脳炎などという五万人に一人、発病するかしないかという奇病にかかって、間一髪のところで生きのびたわたしの、「生」への執着からくるものである。できれば、「死にざま」「亡びざま」ではなく、「生きざま」へその空想を……と、バラードを閉じたあと考えるのである。もちろん、「巨人」を再び「希望のあかし」として描くことは望まない。空想力が、自己犠牲の巨人的記念像をいくら打ち建てたところで、それは所詮「死にざま」への賛歌だろうと思うからである。巨人(人間のシンボル)ではなく、まず人間の「生きざま」を……。わたしが、仮想の「未来」譚の中で考えたことは、それだけのことである。
 付け加えていえば、映画『昨日・今日・明日』ではないが、「明日」と「今日」にむけられた空想力が、わたしたちの「亡びざま」を伝えようとする時、「昨日」の中にみごとな「生きざま」を探る作品が二つ出た。K・M・ペイトンの『フランバーズ屋敷の人びと』(掛川恭子訳/岩波書店)と、今江祥智の『ぼんぼん』(理論社)である。わたしは、これらの作品を読んで、ロアルド・ダールの『昨日は美しかった』という書名を改めて思い出した。もちろん、「美しかった」ということは、この「昨日」の物語が、じつは、「今日」「明日」にむかって人間の「生きざま」を伝えようとしていたからである。「明日」を語る「未来小説」が、「明日」を人間から閉ざしている時、これら「昨日」の物語が、「明日」にむかって一つの通路をつくっているということ……わたしはここに、児童文学の一つの可能性を見るのである。いや、そればかりか、「昨日」への旅立ちが、実は「明日」への旅立ちであるということは、これまた、考えてみれば「すばらしいファンタジー」ではないかと、最近とみに支離滅裂となる頭の片隅で考えるのである……。
(テキストファイル化清水真保)