わたしの遠野物語

旅の覚書・その1

『子どもの国の太鼓たたき』(上野瞭/すばる書房/1976.08)

           
         
         
         
         
         
         
    

 柳田国男の『遠野物語』を読んでいると、きわめて残酷無残な話に出くわす。「一一番」親殺しの話である。母親が一人息子の嫁とうまくいっていない。そのため、嫁はしばしば実家にもどってしまう。事件の起こったその日も、たまたま折合いの悪い姑が家にいて、気分でも悪かったのだろう、嫁は朝から寝込んでいたというのである。
 〈……昼の頃になり突然と倅の言ふには、ガガ(母の意)はとても生かしては置かれぬ、今日はきっと殺すべしとて、大なる草刈鎌を取り出し、ごしごしと研ぎ始めたり。その有様更に戯言とも見えざれば、母は様々に事を分けて詫びたれども少しも聴かず。嫁も起出でて泣きながら諌めたけれど、露従ふ色も無く、やがては母が遁れ出でんとする様子あるを見て、前後の戸口を悉く鎖したり。便所に行きたしと言へば、おのれ自ら外より便器を持ち来りて此へせよと云ふ。夕方にもなりしかば母も終にあきらめて、大なる囲炉裏の側にうづくまり只泣きて居たり。倅はよくよく磨ぎたる大鎌を手にして近より来り、先づ左の肩を目掛けて薙ぐやうにすれば、鎌の刃先炉の上の火棚に引掛かりてよく斬れず。其時に母は深山の奥にて弥之助が聞き付けしやうなる叫声を立てたり。(筆者注……弥之助は、一人息子に斬り殺されるこの母親の兄で、深夜、山奥の小屋で女の絶叫を聞く。この話は「一○番」に記されている)二度目には右の肩より切り下げたるが、此にても猶死絶えずしてある所へ、里人等驚きて馳付け倅を取抑へ直に警察官を呼びて渡したり。警官がまだ棒を持ちてある時代のことなり。母親は男が捕へられ引き立てられて行くのを見て滝のやうに血の流るる中より、おのれは恨も抱かずに死ねるなれば、孫四郎は宥したまはれと言ふ。之を聞きて心を動かさぬ者は無かりき。孫四郎は途中にても其鎌を振上げて巡査を追ひ廻しなどせしが、狂人なりとて放免せられて家に帰り、今も生きて里に在りけり。〉
 引用が長くなったが、この本文は、親殺しの凄惨さをよく伝えていると思うのだ。ぼくは一冊の本を繰りかえし読むほどの「篤学の読者」ではないが、『遠野物語』を手に取るたびに、どうしてか、この話に目をむけてしまう。人によっては、『遠野物語』とは、馬を愛した娘の話であり(六九番、オシラサマの話)、マヨヒガこと山中の不思議な家の話なのかもしれない(六三番)。もちろん、ぼくとても、マヨヒガやゴンゲサマ(一一○番。木彫の像にして、獅子頭とよく似て少しく異なれり……とある。軒端の火を喰い消している)、あるいは、猿ヶ石川の川童が人間を妊ませる話(たとえば五五番)に興味がないわけではない。とりわけ、柳田国男は、『遠野物語』序において「山神山人の伝説」を指摘しているくらいだから、その「ふしぎさ」に引きつけられる。しかし、『遠野物語』という時、ぼくは何よりもまず、この凄惨な親殺しの一話を思い浮かべてしまうのである。この話がなぜ、「山神山人の伝説」あるいは霊界奇譚と共に採録されたのか、ふと考えこんでしまうのである。
 言うまでもなく柳田国男が、これらの話を佐々木鏡石こと喜善から聞き書きしたのは、明治四二年(一九○九)のことである。聚精堂よりの出版が翌四三年(一九一○)六月。すでに半世紀を上まわる古い話になる。柳田国男は、『遠野物語』を上梓するにあたって、その意図するところをつぎのように記した。
 〈思ふに遠野郷には此類の物語猶数百件あるならん。我々はより多くを聞かんことを切望す。国内の山村にして遠野より更に物深き所には又無数の山神山人の伝説あるべし。願はくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ。此書の如きは陣勝呉広のみ。〉
 繰りかえし引用される個所だが、その意図の一端は明示されている。遠野の伝承譚(あるいは、それに類する国内の口碑)は、それによって「平地人を戦慄せしめ」るために編まれた……ということである。言うまでもなく、「平地人」とは、いわゆる山間の伝承と絶縁した(あるいは、それを忘却した)ぼくたち「都会人」を指すのだろう。いや、もう少し「時代的」に言えば、柳田国男がこの書を世に問った時点は、自然主義文学の隆盛期である。また一方、白樺派の抬頭期だったから、そうした思潮に見られる一種の「近代主義」、言いかえるなら市民革命すら持たずして急速に国家の営為で推しすすめられた近代化(擬似近代主義)、あるいは、その上によりかかった「擬似近代意識」の同時代人を、「平地人」と仮称したことも充分考えられる。
 〈思ふに此類の書物は少なくとも現代の流行に非ず。如何に印刷が容易なればとてこんな本を出版し自己の狭隘なる趣味を以て他人に強ひんとするは無作法の仕業なりと云ふ人あらん。されど敢て答ふ。斯る話を聞き斯る処を見て来て後之を人に語りたがらざる者果してありや。〉
 〈要するに此書は現在の事実なり。単に之のみを以てするも立派な存在理由ありと信ず。〉
 ぼくは『遠野物語』序のこの後半を、任意に抜き書きしながら複雑な気持ちになっている。確かに明治四〇年代においては、柳田国男の仕事は、「現代の流行」ではなかったかもしれない。「狭隘なる趣味」と曲解されるむきもあったろう。しかし、桑原武夫の、「こうした豊かなわが国の口承文学を味わいえぬものとはついに文学を語りえぬ」(昭一二『遠野物語』から――より)という「公憤」的評価を経て、今日では、『遠野物語』そのものが「現代の流行」となっている。それが観光に供されるという「現在の事実」がある。(昭和四三年発行・桑原武夫全集第三巻の同文付記において、桑原武夫は、「かかる文章は今日では無用に帰したようである。しかし『遠野物語』再版のころは、金田一氏をのぞき、これに言及された人はほとんど皆無であった……」といっている)
「此書の如きは陣勝呉広のみ」と柳田国男が記した時、あえて『遠野物語』を、中央集権的統制国家「秦」に反逆した陣勝と呉広になぞらえたその裏には、ただの「おさきばしり」という意味だけではなく、反対に、同時代の学問、あるいはその時代的思潮に対する最初の反逆者というひそかな自負があったのではないだろうか。ぼくは「陣勝呉広」なる人物の説明を、畏友新村徹にしてもらったのだが、それを聞きながら、柳田国男の、なみなみならぬ同時代への挑戦意識を感じたのである。
 もちろん、柳田国男の着目した常民文化研究への必要が、今日では「狭隘なる趣味」視されることはなくなったといえよう。むしろ反対に、それが「現代の流行」であるということは、ぼくのような不勉強なものさえ遠野へおもむかせることでわかる。また、遠野駅のかたわらには、遠野市商工観光課と遠野市観光協会による「遠野観光案内所」が建っている。観光案内の内容は、言うまでもなく「心のふるさと」「民俗学のメッカ」「遠野物語のまち」のコース・ガイドであり、「見どころ」の重点的紹介である。いくつかのパンフレットや絵入り地図が用意されていて、それには市役所を中心にして「観光地点」までの距離も明記してある。たとえば、ぼくが遠野に滞在している間中、もっぱら愛用したのは「貸自転車」だが、これもまた市観光課の推薦によるものであり、自転車「観光」にふさわしく、四色刷りの「民話のふるさとサイクリング観光モデルコース」地図さえ無料配布される仕組みになっていた。おかげでぼくは、真夏の炎天下を、孤独なレーサーのように四日間走りまわったのだが、しかし、これは楽しみでこそあれ、文句をいう筋合は一つもない。問題は『遠野物語』が、そんな形で「現代の流行」になっていることであり、そうした受け止め方で、遠野が、その町の独自性を強調していることである。また、それをそのまま受け入れている観光客が、いいかえると現代「平地人」のぼくらが、いるということである。これはかつて柳田国男が、「願はくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と意図したその「戦慄」の喪失を意味しないだろうか。
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 ぼくははじめに、『遠野物語』の中の親殺しの話を抜きだした。この話が『遠野物語』を考える時、まず頭の中に浮かんでくると記した。このことは、オシラサマやザシキワラシの話が、「戦慄」を呼びおこすより、現代では「見世物的興味」をかき立てるのにくらべ、唯一の「戦慄」的挿話になっている……ということではない。確かに凄惨な事件だが、もし「殺し」ということについていえば、現代も負けず劣らず「戦慄的」であるはずだ。とすると、柳田国男が、この話を佐々木喜善に聞き、それこそ「一字一句をも加減せず感じたるままを書き」つづった時、この出来事の何に「戦慄」していたのだろうか……ということである。その殺害方法の恐ろしさ。親殺しに踏み切った孫四郎の異常さ。そうした「ありえざること」の「ありえた」ことを念頭に置いていたのか。なるほど『遠野物語』には、「異常」な出来事が無数に併記されている。
 たとえば、狐の話もその一つである。
 〈船越の漁夫何某、ある日仲間の者と共に吉利吉里より帰るとて、夜深く四十八坂のあたりを通りしに、小川のある所にて一人の女に逢ふ。見れば我妻なり。されどもかかる夜中に独此辺に来べき道理なければ、必定化物ならんと思ひ定め、矢庭に魚切庖丁を持ちて後の方より差し通したれば、悲しき声を立てて死したり。暫くの間は正体を現はさざれば流石に心に懸り、後の事を連の者に頼み、おのれは馳せて家に帰りしに、妻は事もなく家に待ちてあり。今恐ろしき夢を見たり。あまり帰りの遅ければ夢に途中まで見に出でたるに、山路にて何とも知れぬ者に脅かされて、命を取らるると思ひて目覚めたりと云ふ。さてはと合点して再び以前の場所へ引返して見れば、山にて殺したりし女は連の者が見てをる中につひに一匹の狐となりたりと云へり。夢の野山を行くに此獣の身を傭ふことありと見ゆ。〉(一〇〇番)
 別に、この話が「異常」譚の代表というわけではない。たまたま『遠野物語』を開いてみたら、そこにその話が記載されていたというだけである。「異常」といえば、つまり、それほど『遠野物語』は「異常」な話が列記されているということである。この話のかわりに、蛇塚の話(二〇番)、あるいは、早池峯の山中で大男に出会った附馬牛村の猟師の話(二八番)を置いてもいい。生霊、死霊、神かくし、夢の告示ならいくつもひろいだせる。柳田国男は、そうした話の「異常性」をこそ、「戦慄」すべきこととして伝えようとしたのか。たぶん、そこには、そうした「異常」譚への興味もあったのだろう。しかし、それよりも『遠野物語』において本来、柳田国男の示してみたかったのは、そうした「出来事」の異常性よりも、ぼくたち人間の自己不可測性ではないだろうか。自己不可測性というこのことばは、多少、神秘主義的な感じがしないでもない。そこで、ことばをかえていうならば、人間この矮小無力なるもの……という考え。それと同時に、この矮小無力な存在の中にある計量しがたい情念の世界のひろがり、あるいは深さということになるだろう。有限なる存在の、無限なる生きざまということである。表面だけが急速に近代化する中にあって、その「擬似合理主義」や国家体制の要請する人間像の中から、みごとに抜け落ちた本来の人間性そのものを、柳田国男は「遠野譚」の中に感得し、それを「戦慄」すべきものとして提示したのではないのか。この場合、「戦慄」とは、人間がみずから省みて、おのれの生に「おそれ」と「おののき」を抱くことである。遠野郷の奇譚異聞の中に、自己の存在の「もろさ」や「おそろしさ」を読み取り、改めて人間であることを「戦慄」することである。言いかえれば、「平地人」であるぼくらを、「遠野譚」の中にいざなうことにより、そこに喪失することなくあった人間の自己不可測性の自覚を、ぼくらに感得させようとした……のではないか。
 たとえば、ぼくは、遠野を去る前日、「釜鳴神」を見にいっている。「釜鳴神」は『遠野物語拾遺』九三番の話である。
 〈遠野一日市の作平という家が栄え出した頃、急に土蔵の中で大釜が鳴り出し、それが段々強くなって小一時間も鳴っていた。家の者はもとより、近所の人たちも皆驚いて見に行った。それで山名という画工を頼んで、釜の鳴っている所を絵に描いて貰って、これを釜鳴神といって祭ることにした。今から二十年余り前のことである。〉
 この話では釜の絵を祭ったことになっている。しかし、現在ではどういうわけか、釜そのものが祭ってある。市役所の裏手の道を、東へ一キロばかり自転車で走ったところの、「及川」というふつうの家の入口右手に、塀がわりに植えた立木のかげに釜はある。小さな社はガラス張りで、それを通して赤錆びた大きな釜が見える。そこは腐蝕したのだろう、釜といっても「ふち」だけである。これが明治の頃、突如鳴りだした釜かどうか、真偽のほどはわからない。しかし、そうだ……と記した説明札が立っていて、小さなケースの中に安置されている以上、そうなのだろう。ぼくはこれを眺めて、半信半疑どころか、まったく笑いたくなったのだが、(そして、現在では多くの観光客が、苦笑したり、微笑を浮かべたりしながら、この釜の前で、じぶんの読んだ『遠野物語拾遺』のあの話の釜だなと「確認」した気持になっているのだろうが)考えてみると、ぼくらは何を笑っているのだろう。
「ありえない」と信じこんでいることを、「ありうる」と信じる時代のあったこと、いや、そういう人間のいたことを笑っているのだろうか。それを愚かなこととして嘲笑しているのだろうか。ぼくらは多少とも「学校教育」や「社会通念」のおかげで、怜悧になったと錯覚している。知識と社会体験のおかげで、じぶんの所属する時代や世界を「前時代」よりも前進したものと考えている。過去は迷妄に充ち、錯誤にあふれた世界だと思いこんでいる。しかし、そう思うことによって、ぼくらは「現代社会」という枠組みの中の自己を絶対視し、その枠組みからはずれた人間、あるいは、その枠組みを抜きにした場合の人間のありようを推測さえできなくなったのではないのか。ぼくらは、「釜鳴神」を信じる人びとを笑っているつもりで、実は、そうしたことさえ信じられる人間の可能性、あるいは、そうしたことを思い描ける人間存在の自由な発想力を、笑いとばしていることにはならないか。ぼくらは、それほどまでに尊大になることによって、人間の矮小無力さの自覚を失い、同時に矮小無力なる故に潜在する無限の想像力を排除してしまったとはいえないか。
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『遠野物語』には、繰りかえし「自然」を語ることばが出てくる。
 〈遠野郷は今の陸中上閉伊郡の西の半分、山々にて取囲まれたる平地なり。〉(一番)
 〈四方の山々の最も秀でたるを早池峯と云ふ、北の方附馬牛の奥に在り、東の方には六角牛山立てり。石神と云ふ山は附馬牛と達曾部との間に在りて、その高さ前の二つよりも劣れり。〉(二番)
 〈始めて早池峯に山路をつけたるは、附馬牛村の何某と云ふ猟師にて、時は遠野の南部家入部の後のことなり。其頃までは土地の者一人として此山に入りたる者無かりし也。〉(二八番)
「遠野の南部家入部の後」というのは、徳川幕府の支配体制が確立された頃を指すのだろう。当時、南部藩は、遠野の城主・阿曾沼広長を策謀によって追放し、遠野郷を自藩の所領としている。しかし、問題は、そうした為政者の歴史にあるのではなく、遠野の生活者の姿勢にある。右に引いた『遠野物語』の冒頭の地勢叙述でもわかるとおり、遠野は四方を山に囲まれた世界であった。人間が自然に包みこまれる形で暮らしを営んでいた。まわりにそびえ立つ山々は、今日でいう「なつかしき自然」であるよりも、人間を否応なしに「矮小無力なもの」として知覚させる「人間を超えた何か」だった。遠野人は、山に足を踏み入れることを恐れ、たとえ足を踏み入れたとしても、じぶんのよって立つその自然を恐れつづけた。そうした人間の「おそれ」と「おののき」は、『遠野物語』の随所に見られる。
 〈千晩ケ嶽は山中に沼あり。此谷は物すごく腥き臭のする所にて、此山に入り帰りたる者はまことに少し。〉(三二番)
 〈境木峠と和山峠との間にて、昔は駄賃馬を追ふ者、屡狼に逢ひたりき。〉(四七番)
 〈仙人峠にもあまた猿をりて行人に戯れ石を打ち付けなどす。〉(四八番)
 もちろん、自然への「おそれ」と「おののき」は、そこに棲息し出没する狼や猿のせいだけではない。そうした獣の類を自由に抱えこんでいる山、あるいは、そうした恐ろしさを常に含んでいる峠や山道、つまり自然そのものへの「おそれ」であった。そこにはまた、人間に危害を与える野獣だけではなく、まさに人間の予測を超えた存在や不思議さもあった。
 〈山々の奥には山人住めり。栃内村和野の佐々木嘉兵衛と云ふ人は今も七十余にて生存せり。此翁若かりし頃猟をして山奥に入りしに、遥かなる岩の上に美しき女一人ありて、長き黒髪を梳りて居たり。顔の色極めて白し。不敵の男なれば直に銃を差し向けて打ち放せしに弾に応じて倒れたり。其処に馳せ付けて見れば、身のたけ高き女にて、解きたる黒髪は又そのたけよりも長かりき。後の験にせやばと思ひて其髪をいささか切り取り、之を綰ねて懐に入れ、やがて家路に向ひしに、道の程にて絶へ難く睡眠を催しければ、暫く物陰に立寄りてまどろみたり。其間夢と現との境のやうなる時に、是も丈の高き男一人近よりて懐中に手を差し入れ、かの綰ねたる黒髪を取り返し立去ると見れば忽ち睡は覚めたり。山男なるべしと云へり。〉(三番)
 もう一つあげてみよう。
 〈松崎の菊池某と云ふ四十三四の男、庭作りの上手にて、山に入り草花を掘りて我庭に移し植え、形の面白き岩などは重きを厭はず家に担ひ帰るを常とせり。或日少し気分重ければ家を出でて山に遊びしに、今までつひに見たることなき美しき大岩を見付けたり。平生の道楽なれば之を持ち帰らんと思ひ、持ち上げんとせしが非常に重し。恰も人の立ちたる形して丈もやがて人ほどあり。されどほしさの余之を負ひ、我慢して十間ばかり歩みしが、気の遠くなる位重ければ怪しみを為し、路の旁に之を立て少しくもたれかかるやうにしたるに、そのまま石と共にすっと空中に昇り行く心地したり。雲より上になりたるやうに思ひしが実に明るく清き所にて、あたりに色々の花咲き、しかも何処とも無く大勢の人声聞えたり。されど石は猶益昇り行き、終には昇り切りたるか、何事も覚えぬやうになりたり。其後時過ぎて心付きたる時は、やはり以前の如く不思議の石にもたれたるままにてありき。此石を家の内に持ち込みて如何なる事あらんも測りがたしと、恐しくなりて遁げ帰りぬ。この石は今も同じ所に在り。折々は之を見て再びほしくなることありと云へり。〉(九五番)
 ぼくは「釜鳴神」のことから遠野の生活者を取り囲む「自然」の話に横滑りしているのだが、これは遠野人の「おそれ」と「おののき」を伝えるためである。山あるいは峠というものを媒介にして、人間がおのれの「矮小無力さ」を知覚していることがいいたいのである。その例証として「地勢叙述」や遠野人の「異常体験」を引用しているのだが、遠野郷の人びとは、不可思議な「自然」に取り囲まれることによって、じぶんを超えたもののあることを知った。じぶんが何ものでもない無力な存在であることを知った。この人間自覚こそ、「平地人」の失った第一のものだろう。また、人間であることの「おそれ」と「おののき」の喪失は、同時に、不可視なものの、あるいは不可測なものを「見る」豊かな想像力を喪失したことにつながるのではないか。ぼくら「平地人」は、現在唯今の知識体系と社会的規範の枠内でしか物を「見る」ことができなくなり、そうした人間規制の枠のを超えた別世界を想像することすら不可能になったのではないか。そういいたいのである。つまり、ぼくらは「現代社会」のじぶんを信じるあまり、それを超えた世界の存在を信じなくなったということである。
 ぼくらは、ユリ・ゲラーの超能力をテレビで眺める。あるものは、その念力で壊れた時計が動きだしたといい、あるものは、スプーンが曲ったという。しかし、そうした不思議さへの感嘆は、まさに奇術魔術に対する驚きと質的におなじであり、それを眺めるぼくら「平地人」は、存在の底からつきあげてくる「戦慄」とはまったく無縁の地点に安住しているのである。ぼくらは「超能力」というショーを眺める観客にすぎないのであり、じぶんの内なる想像力を駆使して「別世界」を垣間見ているのではないのだ。
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 ぼくらの喪失した「おそれ」と「おののき」。この人間という存在にまつわる「矮小無力」感。その「戦慄」感のかりたてる不可測なるものへの感得。そうしたものが『遠野物語』全篇を貫いている。山男といい、神かくしといい、それは、川童やオシラサマやコンセサマの話を含んで、すべてそれを「見る」(感得・戦慄する)人間の側の話なのである。ぼくはそんなふうに『遠野物語』を考え直す。そして、そうする時、はじめて冒頭に引用した「親殺し」の話が、「山神山人の伝説」と共に記述されていることが納得できるのである。いや、それだけではない。『遠野物語』の随所に、人間の不可測性を直截に語った話が併記されていることに気づくのである。
 鉄という男が、狼の口に手をつっこみ、狼も死んだが、鉄も程なく死亡した話(四二番)。熊という男が、熊と四つに組み、谷川に転落して奇跡的に助かった話(四三番)。あるいは、芳公馬鹿と呼ばれる三十五、六才の男が、火事のおこる家を予言する話(九六番)。ひろいだせば、人間の、いわゆる「合理性」を超えた話はいくつか抜きだせる。これを存在の不条理と呼べば「実存主義」めいて、また一つの枠組みで人間を規定することになろう。そこで、ぼくは、こうした人間のありようを、ぼくらの形成する「社会通念」や「人間学」から、人間がいかにはみだすものであるか、いや、はみだす可能性を潜在させた存在であるかということで納得するしかない。「親殺し」の挿話は、その意味での端的なしるしであり、ぼくらに内在する「戦慄」の投射なのであり、決して狂気にかりたてられた人間の発作的特殊例では終らないのだ。しかし、ぼくは、繰りかえしおなじ指摘をする必要はないだろう。問題はそれよりも、今日のぼくらが、柳田国男の『遠野物語』を反芻し、それだけで現代の遠野を眺め、遠野を固定化した世界と考えるその発想にある。
 かりに『遠野物語』を、明治四三年の常民による人間論とするならば、現代の『遠野物語』とはどういうものになるのだろう。その一つの解答として、加藤秀俊・米山俊直の『北上の文化――新・遠野物語』(社会思想社)が浮かんでくる。これは、遠野の歴史、経済や生活を「現代」の視点から検討したものである。ぼくは、この文庫本を、遠野滞在中宿泊した旅館「福山荘」の土産物陳列ケースの中から買いあげ、夜、所在ないままに読み切ったのだが、こうした社会科学的アプローチは、とうてい、ぼくのよくするところではない。とすれば、ぼくの「非民俗学的・新遠野物語」とは、何をどのように語ることによって成立するのか。
「語る」という時、ぼくには、つぎの一話が自然と浮んでくるのだ。
 〈土淵村山口に新田乙蔵と云ふ老人あり。村の人は乙爺といふ。九十に近く病みて将に死んとす。年頃遠野郷の昔の話をよく知りて、誰かに話して聞かせ置きたしと口癖のやうに言へど、あまり臭ければ立ち寄りて聞かんとする人なし。処々の館の主の伝記、家々の盛衰、昔より此郷に行はれし歌の数々を始めとして、深山の伝説又は其奥に住める人々の物語など、此老人最もよく知れり。〉
『遠野物語』一二番の記述である。柳田国男にこの話を語った佐々木喜善が、はたしてこの老人から話を聞いたのかどうか、それは知らない。しかし、柳田国男が、この話を、つぎの「一三番」の話(新田乙蔵爺の生活ぶり)と共に『遠野物語』に書き加えたことは興味深い。この挿話には、「遠野譚」のような山間の伝承が、こうした生活者の「語りつぎ」によって成立していったことと、いま一つ、これまで述べてきたように、それが有限な人間の無限の生きざま例の伝達であることをよく示しているからである。現在、佐々木喜善の生家のある山口部落の入口には、観光客向けの立札が立っている。それに記されているとおり、遠野は、過去においても無数の旅人の通過する村であった。旅人は、一夜の宿を請い、もてなしを受ける。その返礼として、さまざまな他国の見聞譚を語り聞せたのに違いない。それに応えて、遠野人も、山間の伝承や見聞を語り、話し手は聞き手となり、聞き手は話し手となって「遠野譚」は形成されたのだろう。映像文化も存在しない時代において、「話」は酒肴であり、娯楽であり、時には歴史であり、人間認識であったといえよう。それは地域社会の独自の文化であり、乙爺のような無名の「語部」たちによって、時代から時代をかいくぐってきたのだろう。
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 それにしても、「国内の山村にして遠野より更に物深き所には又無数の山神山人の伝説あるべし」ということばで指摘されるように、こうした「語りつぎの話」は、遠野のみならず、日本の随所にあったはずである。たとえば、ぼくは、右の「国内の山村にして」以下のことばを読んだ時、「水尾(みずのお)」の里のことを思いだした。山陰線保津峡駅下車、そこからほぼ四キロ奥に水尾はある。現在は、町となり、道路も整備されて、ハイキング・コースとなっている。しかし、保津峡駅のできる以前、嵯峨駅から徒歩で六丁の峠をこえ、保津川を下手に見ながら、半日がかりでたどりつく山間の村だった。この村の出であるぼくの祖母は、多くのふしぎな話をしてくれた。それは狸の話であり、泥棒の話であり、また、山越えで京の町にでる領主の話だった。すべては、水尾の里での見聞譚である。しかし、そのおもしろさ、ふしぎさにかかわらず、『水尾物語』は生まれなかった。『水尾物語』だけではない。日本各地に点在する伝承の類は、『遠野物語』をのぞいて陽の目を見なかった。これは、それぞれに、地域内伝承者を持ちながら、その地域の枠をこえて「語りつぐ」すぐれた伝播者にめぐりあわなかったからだろう。すぐれた伝播者とは、地域社会の独自な伝承の中に、それをこえた人間の姿を読みとるものである。すなわち、『遠野物語』の場合の柳田国男である。佐々木喜善の話を聞き書きした柳田国男は、それを公刊しようと考えた時、「遠野譚」を「遠野郷遠野譚」としてではなく、「遠野郷日本譚」としての巨視的把握があった。それと同時に、柳田国男は、乙爺とは異質の「語部」であることを自覚し、その「語りつぎ」である。言うならば、柳田国男こそ活字時代の「語部」であり、その行為によって、「遠野譚」は「日本の遠野譚」となり、「日本の遠野譚」は、すぐれた「人間戦慄譚」として、ぼくらの中に定着したのである。
 ぼくは、新田乙蔵老人の話を興味深いといった。それは、右に記したような「語部」のことをいろいろ連想させるからである。しかし、興味深いという時、いま一つ、つぎのようなことがある。
 新田乙蔵老人は、「老衰して後、旧里に帰りあはれなる暮らし」のうちにこの世を去った。それは『遠野物語』一三番に記述されたとおりである。さて、柳田国男が、わざわざこうした人間の生きざまを『遠野物語』として語りついだとすれば、ぼくらはそれに応えて、乙蔵老人にかわる別様の人間を記述する必要があるのではないか、ということである。少くとも『遠野物語』を、「異常な出来事」の視点からではなく、「人間」の視点から斜め読みしたぼくとすれば、ぼくの「非民俗学的・新遠野物語」では、乙蔵老人にかわる有限の人生の、予測をこえた生きざまを書き記す必要がある。旅というものは、そうした地域社会の中の独自な人生を発見し、それを地域という枠組みの中から取りだして、「語りつぐ」役割も背負っているのだろう。もちろん、「飲み、食い、見る」旅があっても少しもおかしくはない。しかし、およそ、名所旧跡・名物名産に関心のうすいぼくとしては、旅の中で別様の人生に触れることをまず考えてしまう。これをもって「わたしの遠野物語」というには、あまりにも枝葉末節的発想かもしれない。それに、ぼくは、地域社会の生活者の中に溶けあって、そこから独自の人生をつかまえてくるほど熱心な探求者ではない。行きずりに、ふと心ひかれた既知の人間を、ぼくなりに整理し直してみる程度である。「されど敢て答ふ。斯る話を聞き斯る処を見て来て後之を人に語りたがらざる者果してありや。」と、『遠野物語』序文にも記されている。ぼくは、このことばを故意に曲解することによって、あえてぼくなりの旅の覚書を改めて書き記すつもりなのである。(テキストファイル化桜井岳)