続・わたしの遠野物語

『子どもの国の太鼓たたき』(上野瞭/すばる書房/1976.08)

まゐり来て御本堂を見申せや、いかな大工は建てたやら、建てた御人は御手とから、むかしひたのたくみの立てた寺也
『遠野物語』一一九「ほめ歌」より

遠野の北東に駒木というところがある。正確には松崎町駒木と呼ばれている。附馬牛に至る県道ぞいにあって、一口にいえば山腹にひらけた町である。もちろん、町といっても、目につくものはタバコ畑と点在する農家である。遠野市街のにぎわいを考えるならば、駒木は、町というより山間の村という感じがする。この駒木にあるのが、ぼくの興味をかりたてた福泉寺である。
なぜこの寺に興味を抱いたのか、そのことは後で触れるとして、まずこの寺の粗描からはじめよう。
福泉寺は真言宗の寺である。「新四国八十八カ所、新西国三十三番」の霊場と肩書のあるとおり、弘法大師に関わりを持っている。しかし、この寺を、遠野の中できわだたせているのは、そうした古い事蹟のせいではない。古さを誇る寺ならば、十六世紀創建の万福寺(浄土真宗)、十七世紀建立の大慈寺(曹洞宗)、あるいは瑞応院(臨済宗)、それに善明寺(浄土宗)、常福寺(時宗)など、この寺以外にいくつかの寺が浮かびあがってくる。また、愛宕神社が「火防の神様」で、常堅寺が「カッパ狛犬」で、『遠野物語』や『遠野物語拾遺』にその名をとどめているように、そうした「物語」との関わりも、この寺にはない。福泉寺を、遠野の「見どころ」としているものは、まったく新しい「木彫日本一大観音」なのである。ちなみに、『福泉寺案内』というパンフレットから、この観音像に関する記述を抜いてみよう。
「大観音は一本彫のもので、壱千弐百年の巨木を住職自らの苦心の力作。一週間の断食百回決行の上二十年の歳月を要して完成した。総丈五丈六尺(十七米)、日本最大である。」
この木彫像は、大観音堂に安置されて、小高い山頂に位置を占めている。説明は前後するが、福泉寺は文字どおり、小さな山一つを「山内」にした寺なのである。県道ぞいに見あげるようにして建っている山門。(この極彩色のあたかも浦島太郎絵本の竜宮城のような山門を見て、ぼくは福泉寺への興味をかきたてられたのだが、それには、遠野をたずねる前にいった、瀬戸内海生口島耕三寺の話をする必要があるだろう。すくなくとも耕三寺に抱いた興味が、この東北の寺を見て、おなじくぼくの中に湧きあがってきたからだ。それはどういうことなのか。そのことを語る前に、もう少し退屈な寺社案内の真似事をする必要がある。)山門をくぐると、左右に木立のうっそうとした参道がある。参道の突きあたりが山内受付である。コンクリートでかためられたこの建物は、寺の入口というよりも、ロープウェイの駅そっくりである。はじめてここにはいった時、ほんとうにぼくは、空中ケーブルを待つ乗客のような気分になったものだ。それは、拝観者を順序よく送るための鉄柵のある進行路、駅の切符販売所を思わせる窓口、コンクリートの階段のある地下道待合室のような建物、そうした、およそ「寺」ということばからくるイメージとは、その受付があまりにもかけはなれていたからだろう。しかし、コンクリートの階段をむこうへあがったとたん、拝観者はひろびろとした自然の中にでる。重なりあう木立の中の道は、本堂までの参道というより、自然公園の中の散歩道の感じである。さらに、本堂から山頂観音堂までの道は、ちょっとした山歩きの気分を与える。ぼくは、京都にある吉田山にのぼるつもりで、のんびりと山頂を目ざしたのだが、しかし、山頂の観音堂建立の際、じつはこの道を、三十六キロからの水をかついで登り降りした人がいるのだ。「これが工事中毎日である。汗は滝のように流れ、息はハアハアするし、腹はへとへとになる。全力を尽し、歯を喰いしばり、正に根限り力の限りをつくした重労働であった。恐らく監獄人といえども、これほどの重労働は無いことと思われた。霊場巡拝の人がたが、ただ一度の登りにさえも汗水流して難儀する坂道を二斗の水をかついで、よくもやり終えたものと、我ながら驚嘆の外はなく、工事が終えた時には、ホッとした。後世の者、誰がこれを信ずるであろうか。知るはただ観音様と私だけである。苦悩の連続の中でも、この作業は一番私の身にこたえた。過重な労苦であり、それだけにまた終った時の嬉しさは格別で、その感激は、私のみの知る特権である。それからのち私は、この坂を『煩悩坂』ということにした。」
これは、福泉寺住職の摺石宥然の『大観音の生まれるまで』(福泉寺発行/昭和四十八年)の中の一節である。ぼくはこの小冊子を、観音堂内の売店(?)で買ったのだが、そこにいた係の娘さんは、とても信仰心の篤そうな人だった。この小冊子を買うと、ひろい堂内にまぎれこんだただ一人の拝観客であるぼくに、信仰のありがたさを説きかけてきた。それなのにぼくの方は、生返事をかえして、おさい銭もあげずに観音堂をでている。こんなうすっぺらな印刷物が五百円とは高すぎる……などと考えている。いや、そればかりではなく、金箔を塗りこめた大観音像を、いわゆる「日本一」として「観光に供する」発想に、その時点では多少の反発をさえ感じている。しかし、観音堂前の人工池といい、コンクリートでかためられた山頂から出口までの拝観客用の帰路といい、ぼくの中で反発を引きおこす「モダーン」な要素は、矛盾したいい方になるが、同時に、ぼくの中に、説明しがたい期待感を生みだすものだった。事実、その夜、宿にもどって、昼間の小冊子を読みはじめた時、ぼくは、じぶんの期待に応える人間がそこにいたことを感じた。その小冊子を高すぎるなどといったことに、ひそかに赤面した。それのみか、『大観音堂の生まれるまで』を読み終った時、反発とは反対に、「日本一大観音」に感動し、ロープウェイの駅のような受付、人工池、極彩色の山門に奇妙な親近感をさえ抱いたのだ。それはどういうことなのか。一口にいえば、ただ一人の人間が、こうした最大の木彫をつくりあげたこと、それを中心に、山門や受付をつくりあげたことである。はじめに、なぜこの寺に興味を抱いたのか……と記したが、福泉寺に対するぼくの興味は、いうならば、この寺をそうした奇異な寺としてつくりあげた人物、つまり摺石宥然に対する感動(あるいは関心)だったということだ。
ぼくは、この未知の住職を「わたしの遠野物語」の中の、あの新田乙蔵老人にかわる別様の生きざまとして取りあげるつもりなのだが、それではいったい、この住職は、どのようにして木彫観音像を 生みだしていったのか……。



『大観音の生まれるまで』によると、摺石宥然は明治三十五年(一九〇二)遠野の小国村に生まれている。大正七年(一九一八)住職の死を契機に、二代目福泉寺住職となっている。昭和二十年(一九四五)日本の敗戦。四十歳をこえた宥然は天皇の放送を聞いて泣く。「……自分は日支事変勃発以来、毎月一週間断食苦行して出征兵士のため、武運長久を祈り続けて来た。夏には楽に行なわれるけれども、寒中に氷を割って水をあび、一週間も断食すると実際骨と皮ばかりになって、目方は一貫目も減ってしまう。寒さはひしひしと身にしみる。それでも第一線に戦う兵士の苦労を偲んで行法を続けた。時には三週間、四週間まで連続決行したこともあった。」
それなのに敗戦である。宥然は力を落した。しかし、「泣いてばかりはおられない。このままでもおられない。一体、いま我等何をなすべきか。」眠れぬままに考える。「日本一億の悲しみ……それは大悲……それに真から同情する慈しみ……それは大慈だ。大慈大悲?とは、それは観音様だ……。そうだ、大きな観音様を建てよう……。」宥然はそう決心した。
現在、山頂の華麗な観音堂に安置されている像は、敗戦直後の、この暗中模索の心境の中で着想されたものである。もちろん、敗戦を契機にして、こうした発願をした人間は、摺石宥然一人ではないだろう。たぶん、ぼくらの知らぬ地域社会で、それぞれに悲願を抱いた信仰者はいたと思うのだ。しかし、こうした決意から、以後二十年にわたって、それを実行に移した人物が他にいたかどうか。摺石宥然は発願どおり、昭和四十年、観音堂の落成にいたるまで、その建立に取り組みつづけるのである。
まず、敗戦の翌年から原木探しに取りかかる。何しろ日本一大きい木彫り観音像をつくろうというのである。摺石宥然は、綾織(遠野の西にあたる)へいき、早池峯山麓へでかける。しかし、払いさげてもいいといわれる大木は、どれもこれも運搬不能である。宥然は三十三回の断食を決行し、結局、綾織の篤志家から松の大木の寄進を受けることになる。原木の入手のあとに伐採の問題がおこる。それを何とかやりとげると、今度は、運搬の問題が立ちはだかる。大金を投じての事業ではない。資金はゼロに近い状態である。だから、労賃を支払うこともできない。それに運搬賃もない。地図で見てもわかることだが、綾織から遠野福泉寺までは相当な距離である。砂子沢から綾織駅まで運びだし、そこから遠野駅まで一駅、貨車運搬しなければならない。また、遠野駅から福泉寺まで約六・五キロの山道を、七つの木橋を通って運ぶ必要がある。さらに、観音堂建立予定地の山頂まで、その巨木を引きあげる作業がある。直経三メートル余の松の大木を前に、摺石宥然は何度も頭をかかえる。しかし、運搬の問題は、遠野の人びとの予想をこえる無償奉仕で解決されることになる。約三千人の人が、伐採された巨木をロープで引いてくれるのである。もちろん、これは雪の季節を利用しての運搬である。このあたりのことは、説明すれば数行で片付く。しかし、三千人の遠野の人が、幾日も、手弁当で、宥然の仕事に協力していった有様は、こうした粗描では伝え得ないだろう。
「この作業に取りかかる時、寺には全財産わずか二万円だけの貯金しか無かった。これだけあれば何とかなるだろうと甘く考えていた。ところがやって見ると、ソリや金具、ロープなどの準備費にもたりなかった。仕方なく町の商店に借りて歩いた。さいわい断わる人もなく、みな喜んで貸してくれた。お酒、豆腐、金物、ロープなど、何でもかんでも手当たり次第必要に応じて品借りして歩いた。のちに請求書を求めたら、何と三十三万円で、当時の三十三万円は私として驚くほどの大金であった……」摺石宥然はそう記している。
原木探しから伐採と運搬に、ほぼ六年の歳月がかかっている。このあと摺石宥然は、花巻へ高村光太郎をたずねていく。運搬した巨木から、観音像をつくりあげてもらおうというのである。高村光太郎はその申し出を断わる。「君は、坊主だ、自分でやりなさい」という。そのことばを契機に、宥然はじぶんで木彫をやろうと決心する。一週間の断食苦行三十三回を改めてやることにし、はじめてナタやノミを手にする。仏像の選定。その表情の構想。さらに加えて、台座つくりのコンクリート練り。あるいはブロックをつくるためのセメント購入問題。鉄筋の買付けと資金集め。そして、観音堂の個所で引用したようにコンクリートを練るための水の運びあげ。仕事はつぎつぎ宥然の肩にかかってくる。それが二十年にわたる彼の「日常」となる。もちろん、二十年にわたる発願実行の過程には、小冊子にも記されているとおり、多くの協力者や後援者があったわけだが、しかし、何よりもまず、それらすべての作業に直接関わっていった摺石宥然がいるのだ。とりわけ、一人の素人にすぎない僧侶が、原木に蝉のように取りつき、オノをふるいノミをにぎりしめ、現在見られるような長大な観音像を生みだしていく過程には、表現しがたい苦しみがみちていたに違いない。そのあたりの苦心のほどは、この小冊子をこえて想像するほかはない。
ぼくは、小冊子読了後、改めて「日本一観音像」に感動した……と先に記したが、この感動は、いうまでもなく二十年にわたる一人の人間の行為にむけられている。持続する志……、いや、そうしたものへの感動もあるが、それ以上に、一人の人間が予想をこえた生き方を選びとったことへの感動といえるだろう。これは、いいかえるなら、金箔を塗った長大な像への感嘆ではなく、そうしたものを構想し、事実、長年月かけてその実現に取り憑かれた人間への感嘆である。
しかし、この感嘆は、摺石宥然を手放しで賛嘆することにはならない。初志貫徹の二十年、ということで、宥然のすべてを受け入れ、肯定することとは別である。たとえば、日本敗戦の受けとめ方を、彼はつぎのように記している。「建国のはじめに、天照皇大神が御孫瓊々杵尊に『豊葦原瑞穂の国は我子孫の君たるべきの地也。汝皇孫往きて修めよ宝祚の盛なる事天壌と共に窮り無かるべし』と、のり給い、その時から我が国は農業立国として経済的に恵まれ、世界に類なく万世一系を誇り、一天乗至尊の君と仰がれ、現人神として君臨し、二千六百年栄え来たった歴史ある君主制大日本帝国は、事実上、ここに終止符が告げられ、陛下は、自ら人間天皇を宣し、神の御位を放棄せられ、民主主義国家として、再発足するに至ったのである。」
こうした「皇国史観」が、摺石宥然の前半生を支えてきたことは理解できる。また、それが、敗戦によって崩されたこともわかる。しかし、敗戦の時点で崩された彼の「日本観」は、それ以後二十年の歳月の中で、一度も問い直されることはなかったのだろうか。大観音建立という悲願に生きる人間として、天皇はさておき、じぶん自身の「日本」との関わりを問いかける機会はなかったのだろうか。「敗戦」から「発願」までの章を読んでいると、出征兵士のために断食苦行した宥然の、敗戦を迎えた悲しみはわかるが、そこから「人殺しは人生最大の罪悪であり」という断定に至る過程、あるいは内面の葛藤はわからない。「日本一億の悲しみ」から「世界平和と祖国再建」の祈念へ、何の自己への問いかけもなく結びついていくように思える。その結果、大観音建立は、敗戦直後に流通した「一億総懺悔」の発想の所産かともいいたくなるのである。
さらに、摺石宥然のひたむきな生きざまの中で、いま一つ、そのひたむきな志によって相殺しえないものがある。それは一種の世俗的権威に対する彼の姿勢である。詩人高村光太郎を花巻にたずねたことを先に記したが、この人との会見の有様は、きわめてへりくだったものになっている。これは、一人の詩人の業績や苦悩の所産に対する深い共鳴からでたものではない。すでに「名を成した」人物への、その世評を受け入れての「へりくだり」である。このことは、のちに資金集めに苦慮する時、鹿島建設の社長にあうくだりがあるが、そこにもよくあらわれている。宥然は「世に時めく参議院議員。業界では日本最高の地位にある方で、私ごとき者は足元にもよれない権威者。」と相手のことを記している。天皇、議員、社長、有名詩人……宥然は仏弟子として、そうした世俗的権威をこえるかわりに、それをそのまま受け入れる姿勢を示している。
こうしたことを指摘するのは、もちろん、摺石宥然の事業にケチをつけるためではない。宥然その人が、いわゆる「名僧」でもなく「悟達の人」でもなく、きわめて平凡な一人の人間であったことをいいたいためである。その普通人が、どのような動機からであれ、一つのことを思いつめ、それに二十年の歳月をかけたこと、そこに人間の予測をこえた情念のほとばしりがあったということである。さまざまな限界を持ち、さまざまなマイナス面を持っている人間が、おどろくようなことをやってのける……といえばいいか。すくなくとも、摺石宥然の生きざまの中には、現代の「平地人」を戦慄させるものがある。
ぼくが、「わたしの遠野物語」の中へ摺石宥然を加えるのは、上のような理由からである。つまり、福泉寺住職の中に、人間の予測をこえた執念と行動を見るからである。これはぼくたち人間の不可測性といえないだろうか。それにしても、この寺に抱いた興味は(といよりも、この寺に関わりのある人間の生きざまへの興味は……というべきだろう)、瀬戸内海生口島耕三寺に抱いたそれとおなじものだ……とはじめに記した。それはどういうことなのか、つぎに記す必要があるだろう。



遠野をたずねる前、ぼくは瀬戸内海の島をまわっている。島といっても、芸予諸島のごく一部である。弓削島から因島、因島から生口島、大三島と一人で歩きまわっている。その中で、旅の目的とはまったく無関係に、ぼくを感動させたものが耕三寺である。いや厳密にいえば、耕三寺をつくりあげた金本耕三である。
いうまでもなく、旅行案内書の類には、この寺のことを「西の日光」として紹介している。絢爛豪華、まさに一見に価すると記している。しかし、「名所見物」に反発するぼくの偏狭さが、この寺を旅の計画から除外していた。耕三寺に興味を持ったのは偶然である。夏のはじめ、ぼくは、生口島の東海岸にある渡場前からバスにのった。島の北西にあたる瀬戸田港にむかうためである。造船所のそばを通りすぎると瀬戸田の町並が見えはじめた。その町のとっかかりにあったのが、耕三寺のシャボテン園と山門である。極彩色の、文字どおりキンキラキンとした建物だった。山門の絢爛豪華さは、寺院のそれというよりも、遊園地の人工色けばやかなおもちゃの門を思わせた。まったく異質の世界であるが、この時ぼくの連想したものは、奈良のドリームランドのことである。俗悪といえば俗悪、華麗といえば華麗、そのいずれというべきか、ぼくは迷った。これが寺であるとしたなら、清水寺や苔寺は何というべきなのか、と考えこんだ。洗練された美。枯淡の味。そうした「古めかしさ」を寺と思いこんでいたぼくは、とまどいの中に、この寺に対する激しい興味を抱いてしまった。
いったい、だれが、どのような考えのもとに、こうした極彩色絵本のような建物をつくりだしたのか。ぼくの好奇心は、旅の計画を変更してまでも、その山門のむこうを見ようというまでにふくれあがった。
のちに、『潮声山耕三寺の案内』『耕三寺夜話』(ともに耕三寺文化部発行)を買って知ったことだが、バスから見た左手の山門は、「冥加の門」と呼ばれ、京都紫宸殿をそっくり写しとったものだった。もちろん、紫宸殿は白木造りであるが、「冥加の門」は鋼材十三トンを使って建てられている。ちなみにいえば、広大な山腹に建ちならぶ耕三寺の堂塔は、いずれもみな、オリジナル(現存する日本の伝統的堂塔)を模したコピー(複製)なのである。たとえば、その一例をあげてみるとつぎのようになる。
中門=奈良法隆寺の楼門のコピー。
五重塔=奈良室生寺のそれ。
孝養門=日光東照宮陽明門のそれ。
本堂(阿弥陀堂)=宇治平等院鳳凰堂。
多宝塔=近江石山寺。
鐘楼=新薬師寺のそれ。
これはほんの一例である。大講堂、八角円堂、銀竜閣、救世観音、大尊像と、上以外に数えきれないコピーの堂塔が山内を占めている。しかも、そのオリジナルにあたる日本の堂塔が、古色蒼然たる趣きを誇示しているのに対し、これら等寸のコピーは、豪華絢爛、その極彩色の人工美を誇っている。山内は、古寺院にみる荘厳さ、あるいは沈静した雰囲気とは正反対に、明るく「モダーン」なのである。そのみごとさは、人工の別世界を見る感じさえする。ここでは、コピーがオリジナルの美を否定して、コピーそれ自体の美を確立している。しかし、もし、こうした複製建築の独自性を、別の視点からいえばどうなるだろう。まさに「見世物」的建築群、カーニバル的発想の寺院、あるいは、人工着色立体のぞき眼鏡の世界ということもできるだろう。
ぼくが感動したのは、それら「日本一の堂塔」と評されているものをコピーとして一山に集約したこともさりながら、このおなじ発想者が、本気になって「地獄極楽」をこの山内につくりあげた点にもある。山頂阿弥陀堂の右手に「千仏洞地獄峡」の入口がある。この入口は、地下十五メートルの深さをトンネルとして掘り抜き、本堂下を通り三百五十メートルつづいているものである。これが、いかに本気になってつくられたものであるかは、この地下通路が(地獄図絵から千体の仏像群のあるところまで)、富士山の熔岩と浅間山の焼石を取り寄せ、それを鉄筋コンクリートで固めたことでもわかるだろう。おどろおどろしき地獄の相と、遍在無限の極楽の相を、目のあたりに見せようという発想である。従来から日本にある多くの「地獄極楽図絵」の立体化である。この、江戸川乱歩の『パノラマ島奇談』的地下利用は、「千体洞地獄峡」だけではなく、庫裡涅槃城(まるで東映の時代劇撮影用の東映城である)の前から、バス道路の下をくぐってシャボテン園にでる場合にも使われている。また、シャボテン園の一号館から三号館に至るのも地下道である。こうした地下道をくぐりつづけていると、これは寺というよりもカラクリ屋敷にまぎれこんだおもしろさをさえ感じてしまうのだ。
さらにいえば、本堂阿弥陀堂の扉内部に描かれた絵、中門の左右にある大禽舎も、ぼくを感動させた一つである。扉絵は、きわめて型破りである。ふつう、こうした場所には御来迎の絵が、阿弥陀堂にふさわしい図柄が選ばれる。それが、ここでは、てんでばらばらなのである。曾我兄弟の墓の絵に、名古屋城の絵。長谷大仏の絵に、西郷隆盛の銅像の絵。さらに、中禅寺湖や鶴ケ岡八幡宮、どういうことか韮山の反射炉の絵までもでてくる。確かに、ここに描かれたものは、有名といえば有名である。その一つ一つは、ぼくたちに親しい建造物である。しかし、それらが一切合切、歴史的関連も何もなく、ただ有名であるだけで描かれている点がひどく興味深い。また、大禽舎の鳥類を見てみると、ここでも独自の「日本一」意識にぶつかる。だれがいったい、寺の住職の身で、これほど世界の珍鳥を集めただろうか。マレーの「こさいちょう」(バナナのようなくちばしをしている)。南米の「きむねおおはし」(文字通り黄色い胸をした鳥だ)。ブラジルの「紅冠鳥」。オーストラリアの「えみゅう」。マレーシアの「おおさいちょう」。大はインドの孔雀から小はカナリアに至るまで、世界各国の二百数十種類の鳥が大禽舎で飼育されているのだ。これは、シャボテン一千種、新宝物館の寺宝百点などと共に、この寺のつくり手の独自性を伝える。この耕三寺にないものは、エスペラント運動と信仰集団だけではないのかと、ふと大本教の出口王仁三郎を連想さえしたくらいだ。もちろん、出口王仁三郎と耕三寺耕三は同質に語るべき人物ではない。しかし、スケールの大きさ、奇想天外なコピー寺院、こうしたものが、昭和十一年(一九三六)に起工され、昭和四十二年(一九六七)にひとまず完成したこと、(ひとまず……というのは、高さ十五メートルの救世観音像の完成までをいっている)その三十余年にわたる堂塔建立を推しすすめたものが一人の人間であったことは、否応なしに、その一人の人間への興味をかりたてる。
その一人の人間とは、鉄工業者金本耕三である。のちに初代耕三寺耕三和上と呼ばれる人物である。明治生まれで、八十才で他界している。没年は、昭和四十五年(一九七〇)だろう。だろう、というのは、出版物による推定だからである。「和上遷化」という松野自得の文章によっている。この一文によれば、万国博を見物したその年に、往生をとげたと受けとれるからである。この推定に誤りがあるといけないから、つい数年前に他界した、といいかえてもいい。ともかく目を見張るような耕三寺は、遠い過去の人物によって構想建立されたものではなく、ぼくたちとほぼ同時代を生きた人間によってつくられたことを
指摘すれば足りる。それでは、この和上がどのような人物であったのか。耕三寺耕三が折りにふれて記したという『耕三寺夜話』からその点を抜きさしてみよう。このことは、はるか東北の、摺石宥然に抱いた興味と、この人物へのそれが、どこで重なりあうのかを多少明らかにするだろう。



昭和二十六年頃の話である。京都西本願寺で蓮如上人四百五十回忌の法要があった。耕三は、すでに門主から得度を受けて、耕三寺住職となっている。そこで、浄土真宗のこの本山にやってくる。ところが、耕三は長髪のまま法要にでるのである。由井正雪のような頭といえばよいか、現在、潮声閣(耕三が母のために建てたもの。博物館八号館となっている)の一室にその写真があるが、(この写真もばかでかい)肩までたれる長髪である。その顔つきは僧侶というよりも「芸術家」を思わせる。まったく坊主らしからぬ雰囲気がある。たぶん、この長髪で法要に出席したのだろう。年配の老僧連があきれて問いただした。その頭で本堂へ入るつもりなのかと。それに対して、耕三のいったことはこうである。
「貴方がたの様に頭に毛のない者でも出られるといっていましたよ。」
耕三はつぎのように考えているのだ。
「肉食妻帯をして五欲六塵の中にもがいている癖に、有髪、無髪を論ずる事こそ笑うべきである。」
「一本も毛のないものが、僧侶の本分と思っている僧侶より、幸いに人並に毛のある系統に生まれさして頂いたお陰で、毛のあるまま布教させて貰っている。」
耕三が、いわゆる「俗人」の立場から、「僧籍」を得たのは昭和十年である。前年、母が他界し、それが得度の契機だといわれる。耕三寺耕三は、得度以前、大阪西淀川区の径大鋼管製造株式会社の社長であった。父親は生口島の出身で、明治二十三年神戸に移り住んでいる。耕三が十四才の時、死去している。その耕三の経歴をみるとつぎのようになる。
明治四十二年頃、大阪桜島のオキシゼーヌ・アセチレーヌ会社に入社。下っぱの使い走り小僧となる。十八才の秋である。この会社に入ったのは、フランス人技師セギーが、日本の陸海軍の技官に酸素熔接と切断法を教えるため、ここにやってきたからである。それまでの耕三は、九州筑豊に住んでいたという。耕三は見習い工ではないから、オキシゼーヌ・アセチレーヌ会社に入っても、セギーの直接の指導は受けられない。そこで毎日曜日、人気のない工場にもぐりこみ、見よう見真似で熔接法を練習した。そのことを、やがてセギーが知るに至り、一躍、熔接工の指導員に抜擢される。(ぼくは、戦争時代、このガス熔接をやったことがある。舞鶴海軍工廠造機部製罐工場において、である。敗色濃い日本の対米英戦争に、動員学徒としてかりだされたのである。その時、一年にわたってやりつづけた熔接や切断は、ギゼー技師によって日本にもたらされたものだったのか。耕三の話を読んでいて、ひどくこの個所に親近感を覚えたのは、ぼくもまた、酸素熔接にであったのが十六才だったからであろう。)耕三は、セギーに見こまれる。ぜひフランスへくるようにと誘われる。それを断念したのは母のためである。二十三才で結婚。二十九才の時、径大鋼管の発明。はじめに記した鋼管会社を設立する。のちに耕三の会社は、指定軍需工場となり、爆弾をつくるようになる。
上の略歴からいえば、耕三は成功者である。すくなくとも国家目標と自己の仕事の方向が合致したため、相当の財をたくわえるに至っている。これがのちに耕三寺建立の資金となったのかどうか、その点は語られていないが、たぶんそうなのであろう。「時々私に面会を申込んで来る。さて面会してお話となると百人が百人まづ第一に聞かれるのは『耕三寺建立の費用は幾らかかったか』である。私はその人に『そんな馬鹿なことを聞くものではない。そういう質問は失礼だ』と言ってやる。この耕三寺は母親の墓である。誰れでも親の墓はつくる。私はその親の墓石を木や瓦に代えてお寺を作ったのである。お寺を建てるのに金の事を考えたこともないし建てた後いくらかかったかを計算した事もないので、値段を聞かれても答えることが出来ないし、その上たまらなくいやな気持がする。」
耕三は、繰りかえし「ただ」(一銭も不要)ということをいう。建築費の明細を拒否する。たとえば、「陽明門と廻廊の建築費が国家が造るとなると四億円かかると言う。それが私がやれば、『ただ』で出来る。これは甚だ誇大した様な話であるが、この位にいっても差支えないと思う。」というふうに語る。しかし、上の話からわかるように、「孝養の門」とその廻廊部だけで四億に等しい建築費がいるのである。耕三寺のほかの堂塔を加えれば、何十億(いや、もっと多額かもしれない)の資金がいったに違いない。その点を、「母の墓」ということで語りたがらないのはなぜだろう。耕三に聞くすべはないとしても、建築費について思いわずらうことなく堂塔建立ができるそんな立場にあったということを、落すことはできないだろう。彼は耕三寺住職であると共に、相当な利潤をあげる会社の経営者でもあったからだ。ついでに記せば、耕三は、浄土真宗である。浄土真宗は、いうまでもなく親鸞の教えを受けつぐ集団である。およそ弟子を一人も持たず候……といった親鸞と、この耕三寺の絢爛豪華さは対照的である。東西の本願寺教団もまた、信仰よりも信仰形式の維持を重視する傾きがある。そうした状況の中で、耕三寺が、親鸞とすっぱり切れた発想の上に成立している点は、かえってさわやかなものを感じる。浄土真宗(本派本願寺派)というよりも、むしろ耕三寺派と名のる方がふさわしいだろう。
話は前後したが、耕三寺は母親の墓である。耕三自身は、繰りかえしその点を強調している。「世の母はみな観世音花の春」と記念石があるように、一万二千坪の広大な領域は、すべて「慈母孝養の真心」のあらわれなのである。確かに、耕三はその母を敬愛していたのだろう。そのことは『耕三寺夜話』の随処にみられる。しかし、このスケールの大きさ、絢爛豪華さは、ただ「孝養心」のあらわれだろうか。母親の冥福を祈るためなら別の方法もあっただろうと思うのだ。たとえば、五代将軍綱吉の時代、各藩より孝子節婦を選出させ『官版孝義録』というものをつくっている。今治藩では、上弓削村百姓荘兵衛なるものが選ばれた。これは弓削人の誇りだと、末永等の『弓削町史考』には記されている。ぼくは生口島へ渡る前、たまたま弓削島にいて、これを読んだから持ちだしているのだが、こうした古い時代の「孝子褒賞」にかわる現代の「孝養顕彰」が、どうして耕三の中に浮かばなかったのだろうか。「孝養」という時、なぜ、こういうばかでかい複製寺院の建立の形をとったのか。つまり、耕三寺の創建縁起は、孝養心、霊夢、その他さまざまに語られているが、それは表層の契機であって、もともと壮大な堂塔への発想は、耕三自身の内部にあったものではないのか、そういいたいのである。
耕三は、生地生口島をつぎのように記している。
「私の様に小さい時から他国に出て転々としたものには、生国をきかれる度に肩身のせまい思いをしたものである。」(観光の話)「昔の瀬戸田町は、海岸から耕三寺前までの両側には、百年も昔に建てた、間口の狭い、軒の低い家が、曲りくねった狭い道の両側に並んでいた。(中略)旅館も海岸に旅人宿がたった一軒あった。終戦頃迄昔の瓦斯灯が軒先にかけてあった。」(桟橋の話)
「昭和十五年も過ぎた頃の瀬戸田町は、文化も教育も無いといっても過言ではなかった。」(学校の話)
そこで、耕三は、瀬戸田学園高等女学校を創立し(昭和十七年。これは京都の光華女学校の模倣だと記している)、塩田三ケ浜を犠牲にして、現在の瀬戸田桟橋を建設した。(昭和三十年)また、「昭和の初め頃から一点ずつ美術品や工芸品を集めて、島の出世、島の出世と思って持って帰った。」(これが昭和二十七年、文部省指定の耕三寺博物館となる。)そのほか、耕三は、生口島一周道路をつくるため、地元負担金を全額寄付したり、塩田の改良、製塩工場の設立、製材工場の建設にも力を入れる。戦争中は、鉄材不足の折なのに、製塩工場の釜をつくったため、憲兵隊に摘発されて有罪になっている。戦後は戦後で、生口島を日本中に知らしめるため、宣伝カーにのって走りまわっている。
現在、生口島は、広島県瀬戸田町と呼ばれ、高根大橋でつながる高根島と共に、きわめてにぎやかな町に変わりつつある。こうした島の近代化への第一歩は、粗描したように耕三寺耕三の努力によってなされたといえる。これを「郷土愛」と呼ぶべきか「愛島心」というべきか、そこのところはわからない。しかし、はっきりしていることは、耕三が、この生口島を、きわめて卓抜な自己の構想実現の場にしたことだろう。美術、工芸、建築、鳥類等、あらゆる事柄に対する深い関心(それも「日本一」のそれに対する……である)それを耕三寺という形で結集しようとした執念。これらは、郷土愛や孝養心の形を取りながら、実は一人の人間の、抑えがたい内なる衝動、自己実現のあらわれではなかったか、とぼくは考えているのである。
さて、遠野の摺石宥然がそうであったように、このユニークな人物、耕三寺住職金本耕三も、一つの「限界」を持っている。「日本一」に対する異常な執着はすでに触れたことだから置くとして、彼もまた、時の世俗的権威に奇妙な敬意を払っていた。たとえば、じぶんの血縁のものを紹介する場合、「大谷連枝長女」と結婚したものであるといったり、「総理大臣池田勇人氏の仲介」で式を挙げたと記したりする。耕三寺博物館には、大臣を迎える耕三の写真が掲げてある。こうしたことは、ほんのささいなことかもしれない。しかし、耕三が、真の自由人であることを否定する証拠といえば証拠になるだろう。つぎの例も、耕三のそうした枠組みを示すエピソードといえる。
尾道の寺へ仏像を拝観にいった時、耕三は茶室に通される。薮内流燕庵写しの席である。耕三は困ってしまう。「困った困った、兎に角困った。十六才の春から四十三才の六月迄、母の在世中は横目もふらず唯、来る日も来る日も、鋼鉄を相手に働いた私、文化も芸術も何一つ知らない。ほうほうの体で大阪に帰ると、その日の中に京都薮内流家元紹智宗匠に師事した。井戸茶碗も入手した。古伊賀の水指も、剣仲の茶杓も、八島大海の茶入れも、耕三寺宝物となった。いつ庵の茶席も落成した。薮内流茶道中国総司所の表札も瀬戸閣の玄関に掲げられた」(お茶の話)
耕三は、たちまち「権威」を許容し、それとの同化をはかるのである。この一例からわかるように、耕三は、一見、耕三独自の発想を持っているように見えながら、世俗的に「権威あるもの」から自由でないのだ。どうしてじぶん勝手に茶をすすらないのか、といっても、耕三には、それができないのである。オリジナルなものがあって、はじめて耕三は、じぶんの世界をつくりだすのである。まさしくこれは「二流の人」である。これは、コピーをして、オリジナルをこえる独自の価値だと、耕三が自認しない限り、こえられない粋である。さらに、耕三には、社会性で一つの枠がある。
「私達の若い時、明治四十年頃には労働争議というようなものは、言葉にも字引きにもなかった。朝太陽が出て西の山に消えてゆく迄働いた。働かして貰った。」(お母様の労働賃金の話)それなのに、近頃はストライキが盛んになっている。これは考えねばならぬことだ……という発想である。
この耕三の考えが、事実に即しても間違っていることは、明治の年表を調べるだけでわかるだろう。明治二十五年、海軍造兵廠ストライキ。明治二十七年、大阪天満紡績ストライキ。明治二十九年、三重紡績ストライキ。明治三十四年には、「ストライキ節」が流行している。明治三十七年頃より社会主義小説が抬頭し、耕三のいう明治四十年代には、東京市電のストライキがある。もちろん、当時は、今日のように情報伝達の手段が発達していなかったということもあるだろう。しかし、耕三は、一度でも「ストライキ節」を耳にしなかったかどうか。いずれにしても、上の一文は戦後のものである。歴史をふりかえる時間は充分ある。それなのに、労働争議など「言葉にも字引きにもなかった」といい切る点は、耕三の一つの限界を示すといえるだろう。豊かな空想力を持ちながら、ついに既成社会の枠組みを抜けだせなかった金本耕三。彼は本物をしのぐ贋金をつくりながら、ついに贋金独自の価値を理解せず、常に流通する政府発行の貨幣を追い求めたといえないか。

ぼくははじめに、遠野の福泉寺の話を書いた。その山門をはじめて見て、瀬戸内海生口島の耕三寺を連想したと記した。それがどういう点で共通するものだったか、すこしは説明できただろうか。福泉寺の極彩色の山門は、耕三寺のそれを思わせたし、「日本一木彫観音像」は、「日本一」の堂塔をコピーする耕三寺耕三を連想させたということである。一方は、二十年かけて観音像の製作に打ちこみ、もう一方は、三十年かけて日本一の複製建築に全力を傾けた。それが、摺石宥然、金本耕三という個人である。いや、一人の人間の生きざまだといっているのだ。この二人は、繰りかえすようだが、「悟達の人」ではない。
「名僧智識」でもない。そのことは、一つの限界として、「世俗的権威」に関わる彼らの姿勢を取りあげたことでわかるだろう。宥然も耕三も、「時代」や「状況」をこえる自由人ではなかった。状況との関わりでいえば、きわめて保守的な(時には狭量な)視点の持ち主だった。そうした普通人が、契機は何にせよ、人目を驚かすような仕事をやりとげた。たとえ「俗悪」と呼ばれ、「見物」とかげ口をたたかれても、おのれの思い描くものの実現に長年打ちこんだ。ここに、現代の「非民俗学的遠野物語」の人間がいる。ぼくはそう考えているのである。人間とは何たることをしでかすものなのだろう。明らかに、予測や計算や理論をこえた行動を、この二人はやっている。そして、この二人の生きざまは、たまたま「観音像」や「複製寺院」の形で他人の知るところとなったが、ぼくら多くのものは、他人にも知られず、おのれでも気付かず、それぞれの場で不可測な時間を持っているのではなかろうか。ぼくらの中に、そうした不可測な人間が生息していないならば、きわめて飛躍したいい方になるが、ぼくらはどうして空想物語を生みだしたり味わったりすることができるだろう。ぼくらは常に、予定された日常性を逸脱する可能性を持っている。それははじめに記した「親殺し」ともなり、宥然や耕三の観音や堂塔建立ともなりうるものなのである。



話はとぶが、今年の夏、ぼくは『エクソシスト』という映画を見た。十二才の少女に悪魔が取りつき、それを追い払うという筋書きだった。映画評には「とてもすごく、とてもおもしろかった」ということばが並んでいた。もちろん、上映中に笑いだす観客もいた。おそろしいといい滑稽といい、そのいずれの反応も、一人の少女に悪魔がついた、ついている……という他人事としてのそれであった。なるほど、ぼくらは、カソリックではない。アメリカの少女でもない。そこに展開する話は「つくりごと」かもしれない。しかし、一歩さがって考える時、ぼくらもまた、悪魔ではないにしても、何かに「憑かれている」のではないだろうか。それが「悪魔的」なものなのか、そうでない何かであるかは横に置くとして、ぼくらもまた、あの映画の中の少女とおなじように思えて仕方がないのである。残念ながら(というよりも、幸いにも……といった方がよいか)、ぼくらは口から汚物を吐き散らすほどに、深く何かに取り憑かれていないだけだ。だから「エクソシスト」(悪魔払い師)も気づかず、やってくることもないのだろう。
テキストファイル化杉本恵三子