「ハエかて命や」という発想

『兎の眼』のこと

『子どもの国の太鼓たたき』(上野瞭/すばる書房/1976.08)

           
         
         
         
         
         
         
    
 灰谷健次郎さんの『兎の眼』(理論社)という長篇が出た。
 この作品について、ぼくはぼくなりの「読書感想文」を書こうと思うのだが、その前に、どうしても記しておきたいことが一つある。それは『兎の眼』に直接関わることではないかもしれない。しかし、『兎の眼』の内容を考える時、触れずにはすますことのできないことなのである。なぜなら、この物語には、臼井鉄三をはじめとして、塵芥処理所の子どもたちがたくさん出てくる。不潔だとかキタナイとか乱暴だとかいわれる。また、「ちえおくれ」の女の子が登場して、まわりの子どもたちに迷惑をかけるといわれたりする。もちろん、これはそうした子どもたちの生活に無理解な大人たちが、いうことになっている。この大人たちの中には、先生も含まれる。先生を含めて多くの大人が、この子どもたちとその生活を無理解なまま批難する構成をとっている。これは、物語の中の大人の姿だから、「そういうこともあるだろうな」と読みすごす場合もあるだろう。しかし、ほんのすこし冷静にふりかえってみると、その中に、読者であるぼくたちも(いや、ぼくも)含まれるのかもしれない。ぼくたちは、この物語を読むかぎりでは、塵芥処理所の子どもたちを理解した(あるいは、している)つもりになる。蛙を踏み潰しハエを収集する鉄三くんの味方であると感じる。また、結婚十日目で、この一年生を受け持つ小谷先生・・・・・・、何度も泣かされ、じぶんからも何度か泣き、足立先生一流の思いやりに支えられて、この子どもたちを理解していく小谷先生の側に立っていると感じる。しかし、物語に感動できる自分自身が、その感動のゆえに、現実生活のなかで、こうした疎外された子どもたち、あるいは、差別された人間の生活を理解したり、じぶんの問題としたりしているだろうか。涙を浮かべることはやさしいが、他人の生活意識に身を置くのは、きわめてむずかしいのだ。ぼくはその意味で、この物語に感動するぼくたちも、あるいは鉄三くんたちに無理解な大人の側にいるのかもしれない・・・・・・といっているのだ。だが、「どうしても記しておくたいこと」とは、こうしたぼくたちのあり方ではない。

 ・・・・・・公害がどうのこうのと騒いでおりますが、わが国の経済の発展、国民生活の向上からいえば、雨漏りの一滴二滴であり、水道のカランがゆるんでいるようなものであります。

 これは、今年(一九七四年)の六月三〇日(日曜)、七時三〇分からNHK総合テレビで放映された発言の一部だ。七夕選挙目がけて、五党の党首が自党への投票を訴えた番組である。その中で一番手に立った内閣総理大臣が、右のような発言をした。汗をしたたらせながら熱弁をふるう総理の姿は、印象的だった。物おぼえの悪いぼくは、今その発言を思いかえしながら、はたしてそのとおりだったかどうか、多少考えこんでいるのだが、突然ハッとした記憶があるから、「公害が」云々の前に、「水俣病や水銀中毒などの」という具体例があげられていたように思うのだ。たとえ、それがぼくの思いすごしだとしても、「公害問題」を「雨漏り」や「水道のカランのゆるみ」つまり、「水もれ」だといい切った点は確かである。その個所の論旨は、国民多数の生活の向上がある以上、少数の犠牲はやむをえない、いや、大騒ぎするほどのことではない・・・・・・ということだった。テレビの画面には、この総理の
断定的発言に、多数の聴衆が拍手するところが映った。この政談講演会(だったと思う)の録画を見たのは、ぼくだけではないだろう。数え切れないほどの視聴者が、この演説を聞き、総理の自信にあふれた姿を見たに違いない。視聴者のあるものは、ぼくのようにギクリとしたのかもしれないし、あるものは、ギクリどころか、怒りで息を詰まらせたのかもしれない。また反対に、画面の中の聴衆同様、その発言を是としたものもあるのかもしれない。そうした個々の反応は不明だとしても、一国の総理が、少数の犠牲者を水道栓の水もれに喩えた事実は明白である。大多数の、生活の向上につながるならば、苦痛や迷惑をこうむっている少数者の問題は騒ぐにあたらない・・・・・・といった発想は忘れ去ることができない。
 ぼくはつぎの日、同僚の教師にそのことを語った。すると、あるものは、「ああ、あの男ならそれぐらいはいいかねない」といい、もう一人の同僚は「政党演説会」に時間を潰すような人間は愚の骨頂だというふうに笑いすごした。ぼくは、つぎの日から、新聞にそのことの投書がのらないかと丹念に「声」の欄を探した。予算委員会が開かれていたなら、この発言は取りあげられただろうか。ぼくはこの時、まず、じぶんが怒りの表明をしないで、他人の反応を見ようとした点で、じつは、この「公害水漏り説」を、結果として許容したことになっている。
『エミールと少年探偵』を書いたケストナーは、『わたしが子どもだったころ』の中で、ドレースデンの町が破壊された怒りを述べている。その中で、ケストナーは、戦争責任に触れ、将来は即刻政府を罰せよと語っている。国民を罰するのではなく、すぐさま政府を罰することを訴えている。「速刻」というその点では、ぼくは立ち遅れている。総理大臣の「数量」の思想、人間個々に立ちもどらない発想に、じつに遅れた反応を示している。
「大多数」と「少数」を選別するそうした思想は、とりもなおさず、灰谷さんの描きだした処理所の子どもたち(いや、大人も含めて)を、「必要悪」あるいは「やむをえない犠牲」として切りすてる考え方につながるといえる。総理の視点の中には、人間個々が、一回限りのさし替えのきかない存在だということが入っていない。「日本民族の将来」のためには、「現在」のぼくたちの生活は、多少の犠牲もやむをえないという考え方である。これは「現在」の生活を、多少の「がまん」ですり抜けられる「恵まれたもの」の発想だろう。今日唯今、塵芥にたかるハエしか遊び相手にできない『兎の眼』の鉄三くんたちは、いったい何を「がまん」すればいいのか。
 ぼくがはじめに、どうしても記しておきたいことが一つある・・・・・・といったのは、右のような考え方を平気で口にする総理大臣が、ぼくたちの国の政治をやっているということだ。個人の生命や価値を、「大多数」という「数」の思想で選別し、それを毫も恥じないでいられること、いや、そうした個々の人々の生命を軽視する人物が、一方では「教育」や「教育者」のあり方を論じ、「五つの大切、十の反省」を提唱し、教員の給与は引きあげました、大多数の先生は「りっぱな先生」ですが、一にぎりの先生は断じて許せない・・・・・・といっていることである。たぶん「許せない」と極言されている先生とは、組合をつくり、じぶん自身を労働者と自覚している先生だろう。『兎の眼』にもどっていえば、処理所の子どもたちのために、屑屋をやり、ハンストを決行する足立先生のような「教員ヤクザ」を指すのだろう。総理大臣は、先生方には教育に専念してもらいます・・・・・・といったが、その「専念」すべき「教育」の実体が、はたしてわかっているのだろうか。この物語には、学校給食の時間、塵芥処理所の子どもは不潔だからといって、給食当番からはずす話が出てくる。足立先生や小谷先生は、それを「教育的」でないとして反駁するが、総理大臣もまた、その「大多数」主義からいえば、鉄三たちを除外する「教育」に行きつくのではなかろうか。
 ぼくは『兎の眼』の「読書感想文」を書こうとして、ひどく的はずれなところからはじめている。それだけではない。「児童文学作品」としての『兎の眼』を、現実の為政者の前に置くことによって、一見「政治的」に評価した(いや、しようとした)と受けとられるようなことを書いている。これは、灰谷さんにとって、しごく迷惑な話だろう。なぜなら、灰谷さんは、この作品において「政治的スローガン」など一切かかげなかったし、また、そうしたかくされた意図さえ持たなかったからだ。それどころか、この作品は、すぐれた人間のドラマであり、人間個々の生きざまをみごとに描いてみせた力作である。ハエにとりつかれ、それをきっかけにして小谷先生とのつながりを生みだしていく鉄三。新婚の夫と反目してまでも、じぶんの教師としてのあり方を追い求める小谷先生。この処理所の子どもと小谷先生の人間関係を中心軸にして、さまざまな大人と子どもの姿が描きだされる。「みなこ当番」の章で胸をつまらせたぼくたちは、「せっしゃのオッサン」の登場で笑い、「バクじいさん」の告白で胸を打たれる。ここでは、大人と子どもが対等の視点で掘りさげられているのである。冒頭近い個所で、小谷先生が教師であることに自信を失うところがある。
「もちろん学校をやめたいという小谷先生の願いは、まわりの人たちにかんたんにつぶされてしまった。そういうことをいちいちきいていたら、学校の先生は一〇年もたてばひとりもいなくなってしまう、と小谷先生をからかう同僚もいた。」
 このことばは、今日の「教育」のきびしさを語っている。この「そういうことをいちいちきいていたら、学校の先生は一〇年もたてばひとりもいなくなってしまう」という「世界」、いや、そういう日本の学校。そこに生きる人間の姿を、灰谷さんは生き生きと描きだしたのである。この作品世界のありようこそ、じつは繰りかえしいうことだが、ぼくたちの国の総理大臣が、「雨漏り」とか「水道のカラン」からもれた水滴といい切って、「大多数」や「日本民族の未来」の何おいて無視した、人間の姿なのである。ぼくは、じぶんが深く動かされた個所を列記して、それをこれからの読者に伝えたい気持ちもする。しかし、「文学的感動」そのものが、まさにそれだけで、一国の為政者の「教育論」よりも立ちまさり、そのむなしさを照射していることをまず指摘したいのである。もちろん、ぼくは、じぶんの「ダメな教師体験」から、この中の小谷先生にいいたいことがないでもない。だがそれよりも何よりも、まず灰谷健次郎さんにいいたいのである。
「ぶぶぶのおっちゃん、ガンバリハリマスナア。タヨリニシテマッセ・・・・・・。」

テキストファイル化田中麻衣子