なぜ現代の児童文学を語るのか

上野瞭
『ネバーランドの発想』(上野瞭 すばる書房 1974.07.01)

           
         
         
         
         
         
         
    

 ずっと前に、枕ほどもぶあつい『少年倶楽部名作選』という本が出たことがある。いうまでもなく読者対象は大人であり、現代っ子ではない。この大人を「少年倶楽部世代」と呼ぶべきかどうか、そこのところは問題だが、とにかく子どものころに、この雑誌を愛読して育った大人がいることは確かである。この『名作選』は、そうした大人に、「古き良き時代」(?)を想い出させる一つの手がかりとして出版されたのだろうが、わたしもまた、「少年倶楽部世代」の一人として、この『名作選』をふらふらと買ってしまった。
 ふらふら……というところは、なんとなく「のぞき趣味者」めいて、じぶんに苦笑してしまうのだが、大人が、じぶんの子ども時代をふりかえる時、多少、この「のぞき」的発想がないでもない。というのは、じぶんの過去を、変に美化したり、純化したりして、大人は、都合のよい思い出し方をするものであり、また、その改変した「子ども時代」に、目をきらきら輝かせたりするものだからである。子どもを天使のように錯覚し、大人であるじぶんを不潔の塊りのように思いこむのも、この手前勝手な回想法と関係がある。子どももまた成長しつつある人間である……というそこのところが抜け落ちているのだ。
 わたしもまた、「ふらふら」と『名作選』に手を出した時、子どもの時代を(とりわけ、子どもの時代の本を)色目がねで見なかったとはいい切れない。もう一まわり上の世代が、『立川文庫』をなつかしむように、『少年倶楽部』をなつかしんだ、といえばよいか。その結果、子どものころの感動が、そのまま新たによみがえってきたか……というと、まるで正反対なのである。
 佐藤紅緑の作品にしても、田河水泡の『のらくろ』にしても、それを読んだり楽しんだりした時点での、あのわくわくどきどきした気持ちは、どこへ行ったのか……という途まどいがある。たとえば、現代の子どもの本の一冊、子どもマンガの一篇を、この『名作選』の横に置いてみるとはっきりする。フィリパ・ピアスの『トムは真夜中の庭で』にしても、手塚治虫の『どろろ』にしても、大人であるわたしを、ぐいぐい「もう一つの世界」へ引きこんでいく。ところが、かつて子どもだったころの物語やマンガは、なぜ、こんなにも感動したのだろうかと、つい首をかしげるものが多いのである。
 たぶん、読みかえさずにいたなら、あの作品はよかった、毎号、待ちかねて耽読した……という記憶だけが残り、それがだんだんふくらんで、「大傑作」「感動的名作」という虚像が出来あがるのだろう。事実、大人の中には、じぶんの子ども時代に読んだ本だけを、とても価値あるもののように考える人がある。それはそれでどうということはない。そうはいえるが、その先に問題がないでもない。過去のその読書体験を、無意識のうちに絶対化して、それを基準に、現代の子どもの本を評価する傾向である。こうした大人にぶつかると、子どもは、きわめて不幸になる。「古き良き時代」(?)の価値観で、狭く小さく、子どもの領域がしばられてしまうからである。
 親子づれが、本屋さんで途まどっている光景をよく見る。ずらりと並んだ子どもの本。そのどれを買うかで迷っている。親の方は、子どもの迷いにいらいらしてきて、最後には決断を下す。「これにしなさい、これに。アンデルセンは、かあさんも読んだから、これにしなさい」。母親の過去の読書体験が、現代の子どもの本の選択の基準になるわけである。ここでは仮りに、アンデルセンといったが、アンデルセンのかわりに、別の古典童話、あるいは先にあげた『少年倶楽部名作選』がはいってもいい。もちろん、鈴木三重吉の創刊した『赤い鳥』だっていい。トラバースの『メアリー・ポピンズ』だってかまわないのだ。ともかく、大人が、じぶんの子ども時代の本だけを、唯一の子どもの本の選択の基準にすることが問題なのである。子どもの本……といえば、そういうものだろうと、じぶんの知っている本を反射的に思い浮かべることが問題なのである。


 『少年倶楽部名作選』の話からはじめたから、ついでにいうと、この雑誌には、「おもしろくて、ためになる」というキャッチ・フレーズがついていたように思う。ように思う……とは無責任な話だが、枕ほどぶあつい本を取り出すのは大変だから、(というのは、わたしの本棚は、まるで無秩序に本を横つみにしているから)ひとまず憶測ということにしておく。いいたいことは、雑誌に、そんあことばがついていたかいなかったか……ということではなくて、じつは今なお、子どもの本を評価する基準に、この「ためになる」ということばが使われている……ということである。
 わたしは、子ども時代に、「ためになる本を読め」と、しきりにいわれた記憶がある。『譚海』という雑誌や、『スピード太郎』というマンガを読んでいると、「おもしろくて、ためになる何年生の童話」といったたぐいの本を、むりやり買い与えられたことがある。そのころ、もっとも愛読していた謝花凡太郎(だったと思う)のマンガなど、常に「よくない本」のように、まわりの大人がいったことを思い出す。
 子どものわたしは、ただ「おもしろいからやめられない」わけで、ひそかに布団をふっかぶって読んだものだが、「おもしろい」ということは、それほど「ためにならない」ことだろうか。そこまでいい切らなくても、「ためになる」ということは、それほど、子どもの本の場合、必要な要素だろうか。「ためになる」子どもの本……ということば、むかしの子どもを追いまわしたこのことばが、今もなお子どもを追いまわしている、といえばいいか。正直いって、うんざりしないでもない。
 今の大人は、子どものころ、ほんとうに「ためになる」本を読んでいたのか。それとも、「おもしろい」本を読みながら、「ためになる」ということばだけを別に覚えこんだのか。そこの点が、ひどく気になる。もっと悪いのは、子どものころ、「おもしろい」本がなくて、そのかわりに「おもしろい」遊びに熱中した。そのことを忘れて、じぶんの子ども時代の埋めあわせのつもりで、今の子どもに「本を読め、ためになる本を読め」と、一方的に押しつける大人のいることである。「ためになる」とは、どういうことなのか。なぜ、こんなことばを大人たちが一つの基準にまつりあげたのか。そこのところを、すっぽり抜かして、便利な説得語として使う。これは無責任だし、第一、子どもと本の関係を、悪化させるだけではないのか。
 教科書や参考書は別として、本などというものは、「おもしろい」から読むものなのだ。だれが「退屈する」ために本を読むだろう。退屈だから「おもしろい」本でも読もうか……ということになるのであって、その逆はありえない。そこのところを忘れて、本を、まるで胃薬か、頭痛薬か、下剤のように「役に立つ」ものだと考える人々がいる。「ためになる」ということばで、本をビタミン投与のようにすすめる考え方がある。
 「おもしろい」ということが、じつは、一つの価値なのだと、どうして考えられないのだろう。マルレーン・ハウスホーファーの『犬のウォータンは同級生』だとっか、シド・フライシュマンの『ぼくのすてきな冒険旅行』だとか、現代の子どもの本を一読するだけでいい。こうした現代児童文学の「おもしろさ」が、「ためになる」という従来の考え方よりも、数倍、それこそタメニナルものだ……ということが、わかるのではなかろうか。もちろ、タメニナルなどカタカナで記したのは、皮肉である。「ためになる」子ども読書論への批判である。こういえば、「おもしろい」ことが、なぜ、一つの価値なのかと、反論がないでもない。そのことを、理屈として説明したい気持ちもないではないが、その前にまず、「おもしろい」現代の子どもの本はたくさんなる。その一冊を、せめて手にとってほしいのである。

テキストファイル化鷹見勇