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子どもに本を読ませよう……というのは、どういうことなのだろうか。今さら何を、といぶかる人もあるだろうが、「ちかごろの子どもは本を読まない」ということばを聞くたびに、私は首をひねってしまうのである。 子どもはテレビにかじりついてばかりいて本を読まない、というのだろう。それはよくわかる。しかし、テレビのかわりに本を……という場合の、その「読書のすすめ」には、どうもつぎのような考え方があるような気がしてならない。テレビは感心しないが、せめて一冊や二冊、本を読んでくれたなら、すこしは「ましな人間」になるのではないか。そうした考え方である。つまり、子どもに対する大人の「読書のすすめ」には、本が役に立つものだという考え方、あるいは「ためになる」という通念があるのではないか、ということだ。 たしかに、「役に立つ」本、「ためになる」読書ということはある。学校の教科書や動物図鑑などは、文字を覚えたり、一定の知識を身につけたりすることができる。それは否定できない事実だが、だからといって、この基準を、すべての「読書のすすめ」にあてはめることはどうだろう。わたしの興味をもっている児童文学の世界に関していえば、かならずしも、大人の考える意味での「ためになる」物語ばかりあるとは限らないのだ。いや、むしろ、現代の児童文学は、子どもの「ためになる」という考え方、あるいは「役に立つ」という考え方を批判し、時には、まっ向から否定し、そこから離脱する形で独自の世界をつくりあげてきた、ともいえるのだ。 今はもう古典になってしまったが、マーク・トウェインの『トム・ソーヤの冒険』(一八七六)一冊を取りあげてみてもわかるだろう。ここに出てくる子どもは、今日の大人が考える意味での「いい子」では決してないのだ。勉強は大きらい。家の手伝いなんか絶対いや。家出はするし、女の子のことばかり考えている。冒険ごっこや洞穴探険に夢中になっている。こうした物語を、世界中の子どもが愛読し、子どもの本の古典として引きついできたことは、これが大人のいう「ためになる」本だからではないだろう。子どもが一切の束縛から自由になろうという姿、いや、それよりも子どもにとって一番大切な「遊び」ということが、生き生きと描かれていたからに違いない。子どもは「遊び」を通して、人間の自由というものに目ざめていく。人間がさまざまな可能性にみちた存在だということを知っていく。児童文学は本来、この子どもの中に眠っている人間の可能性、あるいは、自由への願望に、形を与えるものだったといってもいい。 これは、大人の文学にも共通するものだろう。子どもだけの願望ではなく、大人もまた、常に求めつづけるものである。しかし、大人はかつて子どもであったその時代のことを忘れ、いつのまにか、子どもを狭いワクの中にしばりつけるようになる。現代のように、とりわけ学歴や年功序列がものをいう社会では、それに合わせて、子どもを育てようとする。その結果、少しでも、この社会に適応できる人間に育てるため、子どものうちから「役に立つ」生き方を身につけさせようとする。大人のいう「ためになる」本、あるいは「読書のすすめ」とは、子どもが子どもえあることを大切にするよりも、子どもが大人の考えるワク組みの中に、少しでも早く自分を合わせることを大切にするものだ……とはいえないか。子どもの「ためになる」読書のすすめの中には、子どもの本(ここでは児童文学作品のことをいっているのだが)の本来の働きを忘れて、子どもからその「楽しみ」をうばい取る考え方、「遊び」を制限する考え方がある、ということだ。 子どもが本を読むということは、何かの「ためになる」からではない。ずっと後に、結果として、そういう働きが出てくる場合があるとしても、もともと本の世界は、まず「楽しい世界」なのである。毎日、毎日の生活の中で、見失いがちな自由を発見し、人間が自由であることのよろこびを知る世界なのである。そうした点を忘れて、テレビよりは「役に立つ」だろう「ためになる」だろうと本をすすめる考え方に、私は首をかしげているのだ。テレビが子どもの自発性を閉じこめるとするなら、「ためになる」読書のすすめにもまた別の意味で、子どもの自由を束縛するものがある。こうした子どもを狭く限定する考え方を否定する形で現代の児童文学はつくられつつある。それは、たとえば、思わず吹きだすような子どものふしぎな体験を描いた山下夕美子の『ごめんねぼっこ』(あかね書房)や、現代の親子関係を鋭くえぐった山中恒の『ぼくがぼくであること』(実業之日本社)によくあらわれている。こうした物語は「ためになる」読書のすすめが、いかんかたよったものであるかを、改めてわからせてくれるはずだ。 テキストファイル化鷹見勇 |
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