カジノ・リブモンテーニュ氏への配慮

上野瞭
『ネバーランドの発想』(上野瞭 すばる書房 1974.07.01)

           
         
         
         
         
         
         
    
 ちかごろ、ひどくなまけものになったせいか、あまり本を読みません。かろうじて、ジョン・ファウルズの『魔術師』(小笠原豊樹訳・河出書房新社)と、カジノ・リブモンテーニュ作・中田博訳の『ポルの王子さま』(ニトリア書房)を読んだくらいです。
 ジョン・ファウルズの方は、『コレクター』の作者として興味があったわけですが、カジノ・リブモンテーニュ氏の方は、いうまでもなく、サン・テグジュペリの『星の王子さま』をいかに料理しているか・・・その津々たる興味のせいです。
 『星の王子さま』については、すでに、寺山修司が、『便所の中の星の王子さま』(『ぼくが戦争に行くとき』収蔵)を書き、その考えを批判していたのですが、ここにまた、きわめて猥せつな形で(少くとも、表面は猥せつ性を売りものにするような顔をして)『星の王子さま』論の出たことに拍手をしたくなります。
 こういうと、『ポルの王子さま』は、文字どおりポルノグラフィであって、論にも何もなっていないという意見、あるいは、こうした作品はパロディと呼ぶべきであって、『星の王子さま』批判ではないという意見も出そうです。いや、それにもまして、「まじめ」な雑誌の中に、こんなふざけた作品を持ちだし、拍手喝采を送るとは何事か、モット、マジメニヤレといわれそうです。
 そこで、そもそもパロディとは・・・と弁明をはじめるかわりに、こうした「もじり」(原作の滑稽化)が、まず、子どもの文化と無縁の発想でないことを、ほんのちょっぴり抜き書きしてみたいのです。

 ブルー・コメッツというグループ・サウンズが、(・・・とこういうと、まったく古い奴だ、と笑われそうですが、たまたま、覚えていたので持ちだすのです)かつて、『ブルー・シャトー』という歌をはやらせました。

もりといずみに かこまれて
しずかに ねむる
ブルー、ブルー、シャトー

・・・というやつです。当時、子どもは、この歌を正確に覚えて歌うと同時に、たちまち「替え歌」に変貌させてしまいました。子どもの「替え歌」には、その地域によって、多少、歌詞の違いはあります。しかし、およそつぎのような具合です。

もりトンカツ、いずみニンニク、
かコンニャク、まれテンプラ、
しずかニンジン、ねむルンペン
ボロー、ボロー、ボロシャツ。

 もと歌は、いかにもロマンチックな、いささかバター臭いやつだったのですが、子どもの手にかかると、たちまち、食い気と、うすぎたないイメージの歌になりました。子どもは、これを声をあわせて高らかに歌い、大いに楽しんだわけです。「遊び」の感覚といえばいいか。「遊び」を通して、子どもは無意識のうちに、じめじめした『ブルー・シャトー』の発想を否定したのです。
 これを、原作(ないし原曲)に対する冒涜といえるかどうか・・・。ケシカラン話デアル。マジメニヤレ!と、作曲者あるいは周囲の大人から異議申し立てがあった・・・という話は聞きません。なかには、今はないこのグループ・サウンズの熱烈なファンがいて、「たかが子どもの遊びだ」という無視(あるいは黙許)に、憤慨したかもしれないのですが、およそ、そうした反論は起こらなかったように思うのです。
なにしろ、狂歌、川柳の伝統もあることですし、(いや「本歌どり」という作歌法も、忘れてはなりますまい)それに、子どもといえば、いつも「まじめ」な歌を「ざれ歌」に変える名人だった以上文句をつけてみてもはじまりません。それに、こうしたことは、わが国だけの文化現象ではなく、バッハやベートーベンをジャズ化するという形で、海のむこうの国々でもあったことなのです。

 この抜き書きでわかるように、パロディということは、子どもを含めて普遍的な行為であり、さほど「ふまじめ」なものとはいえないことがわかるはずです。
ただしかし、子どもから、(いや、人間から)「遊び」をうばいとることを「まじめ」と考えている大人なら話は別です。たぶん、こうした子どもの「遊び」を、「悪ふざけ」した「ふまじめ」なものと、こわい顔でにらみつけると思うからです。いや、そればかりか、やはりはじめにもどって、サン・テグジュペリの『星の王子さま』を、ポルノ化するとは何事か・・・と、慨嘆しそうに思います。
 そこで、いったい、「まじめ」とは何か。『ポルの王子さま』になぜ拍手するのか。どうしても理屈をいわなければならなくなるのです。

 『星の王子さま』は、相当広範囲にわたって愛読されている「童話」です。(こうして、カッコつきにした点は、注意してほしいと思います。わたしは、『星の王子さまに関する覚書』(理論社刊『わたしの児童文学ノート』収蔵)において、この作品が児童文学作品かどうか、疑問を呈しておいたからです)この愛読者の中には、相当な大人が含まれていることは事実です。それは、なぜか・・・ということは、ここでは割愛しますが、こうした愛読者の胸中には、まず、この作品を、至極清潔な童心の結晶というイメージがあったことを、落とすわけにはいかないでしょう。
 『星の王子さま』は、「まじめ」に、人生や人間について語りかける物語であること。いや、裏がえしていえば、この物語の愛読者は、ほとんどが、人間のあり方や人生を考える場合、その最高値とまでいわなくても、評価の比重を「まじめさ」に置いていたのではないか・・・ということです。
「まじめ」には価値があって、「ふまじめ」には価値がない。そこまでいい切ることはできないとしても、「ふざけ」「遊び」「おもしろさ」を、少くとも「まじめ」よりも低次元の価値とみなす考え方があったのではないでしょうか。
 もちろん、これは無意識にのうちに・・・という条件を付けてもかまいません。どんなわからず屋の大人だって、「子どもに遊びは必要だ」という時代です。そのくせ、実際に、子どもが自由に遊べる時間、遊べる場所のないことは、あまり気にかけません。(NHKの出した『日本人の生活時間』だったと思いますが、そこに付けられた小学校上級から中学生までの、一日の「遊び時間」と、その内容を、一度のぞくだけでも、子どもの現状はわかるでしょう)
 タテマエとしては、子どもに「遊び」が必要である。しかし、遊んでばかりいると、ろくな結果にならない・・・という考えがさらに進んで、子どもは、やはり勉強しなければならない。そうでないと、こういう年功序列や学歴偏重の管理社会では、結局、本人が不幸になるだろうという配慮(?)に発展し、それにはマジメニヤルコトダ。やはり、なんたっても「まじめ」にさえやっていれば・・・という考え方に深化し(?)、もともと、過去の遣制的発想の中に身につけてきた「まじめ主義」にくるりと還って、一ばんはじめに、ふと考えた「遊び」の重要性などは、いつかずっと未来の、もっと人間が開放されるだろう日まで棚上げされてしまった、そうはいえないでしょうか。
 事は、子どもの問題だけのようにみえますが、じつは、子どもをこえて、大人を含む人間の問題としていっているのです。
『星の王子さま』という一篇の作品は大人の、(いや、人間の・・・といってもいいかもしれません)この「まじめ至上主義」を示すシンボル・マークとなっていたのではないか、といいたいのです。
よく考えてほしいのですが、人間は「まじめ」になるために、日夜努力しているのでしょうか。それとも、人間として、じぶんの持っている可能性をのばすために、あるいは、この一回限りの人生をより自由に生きようとして努力しているのでしょうか。すぐに「現状論」を持ちだす大人がありますが、現状が人間を規制しているにせよ、いないにせよ、人間は、本質的にどちらを志向するものなのでしょうか。
 「まじめ」ないし「まじめ主義」の奨励の中には、悲しいかな、この現状の規制を優先させる適応の思想があるようです。「まじめ」だけが、人間を幸せにするだろうという限定の思想が内在しています。
 しかし、人間は、そんなふうに狭くじぶんを限って生きていけるものでしょうか。子どもが、気づかずして、もと歌を「替え歌」にかえる中には、一つだけの「ものの見方」あるいは一つだけの「ものの考え方」を抜けだそうという働きがあるのです。なんとなく甘ずっぱい歌詞とメロディ、それをふっと、ずっこけた明るいコミック・ソングに変貌させることで、じつは、人間すべてに必要な自由な発想を暗示しているのです。
 『ポルの王子さま』に拍手をする理由が、これでわかってもらえるかどうか・・・。パロディには「ふまじめ」や「悪ふざけ」だけではなく、そうした仮面をかぶった「反まじめ」の精神が息づいているのです。

 『ポルの王子さま』の、できれば内容の紹介をした方がいいのかもしれません。しかし、「反まじめ」の説明として、この作品を分析紹介すると、掌の指の間から砂がこぼれ落ちるように、「おもしろさ」がこぼれ落ちてしまうでしょう。「意味」だけが残り、これは、変にかさかさした非ポルノ的作品に変貌するでしょう。第一、「おもしろさ」の大半は、「まじめ」な話を、性的興味にかこつけて、ころりとひっくりかえしてしまうところにあるのですから・・・。
 もし、「ポルノ」ということばに引っかかり、変にうすよごれた連想をする大人がいるといけませんから、ここには、「笑い」があるとだけ付け足しておきましょう。
 たとえば、柳田国男の賞賛した佐々木喜善の『聴耳草紙』の中に、『親譲りの皮袋』(第二〇番)という話が収録されています。これは、思わず吹きだすような猥せつな話です。いや、猥せつということばの持つ、あの変に「にやついた」イメージを、吹きとばすような話なのです。きわめてエッチな話が、きわめて明るく語り伝えられています。『ポルの王子さま』も、ほぼそれに近い明るさがある・・・といえばいいか。とにかく、人間を狭く閉じこめる発想を、みごとに否定しているのです。
 この作者は、ほんとうにフランス人が、それとも『家畜人ヤプー』がそうだったように、だれか日本のインテリのやったことではないか。その証拠に、「賭け」(カジノ)「解放」(リブ)「人間智」(モンテーニュ)をあらわす作者名が付いているじゃないか・・・など、せんさく好きな人は、ひねくりまわすでしょうが、わたしは、これが、『星の王子さま』に集約される「まじめ主義」への反措定であることで十分なのです。
 ヤッタナ・・・とは、多少思いましたが、まだまだ、この手のパロディは可能だろうと考えるのです。
 問題は・・・などいうと、急に開き直った感じがしないでもありませんが、この一冊の本を、子どもの本を選択し、推薦する大人がどうみるだろうか、ということです。
 もちろん、このことは、この『ポルの王子さま』を推薦しろ・・・ということではありません。『星の王子さま』を評価するその立場で、これはいかなる読み方をされるか。いや、そうではなくて、児童図書の推薦者や、ブックリストの作成者が、じぶんの図書選択のその基準の中に、こうした「開かれた発想」を常に受け入れる用意があるかどうか・・・ということです。
 児童図書推薦にしても、ブックリストにしても、それは裏がえしにすれば、推薦しない本、リストに入れない本を排除するものです。選別の論理、排除の発想といえばいいか。考えてみると、とてもおそろしい行為です。ナチスは、強制収容所へ囚人を迎えて、まず、ガス部屋行きか、強制労働向きか、人間の選別をしました。図書の選択は、そんなものではないという意見もありますが、さて、どんなものでしょう。「わける」「切りすてる」ということは、人間にとって、とても至難の仕事ではないのか。わたしもまた、ブックリストに加担する場合があるため、せめて、カジノ・リブモンテーニュ氏のことは忘れたくない、と思っているのです。

テキストファイル化上久保一志