フエフキドウジの話

上野瞭
『ネバーランドの発想』(上野瞭 すばる書房 1974.07.01)

           
         
         
         
         
         
         
    

 Kさんという人がいる。まだ一度も会ったことのない人だからイニシャルで書くだけである。カフカのように抽象の世界をここで語ろうというのではない。反対に、もっと日常的な世界の様子を話すつもりなのである。
 Kさんが葉書をくれて、その中におもしろいことばがあった。「交通整理的な児童文学の批評の氾濫」ということばである。「氾濫」ということばを使っていたわけではないが、内容はだいたいそういうことである。「交通整理的な」というところで、うまいことをいうなと笑ってしまった。実は、ぴたりと一言で、いらいらするような「評論」のあれこれをどう規定するか、頭をひねっていたところでもあるから、ああ、これこれと思ったのかもしれない。このことばに触れてから、黄色い帽子をかぶってピッピッと、笛を吹いている人間のイメージが抜けなくなった。
 さしずめ、もうひとりのKさんなんかもそうだな、と考えたりした。もうひとりのKさんというのは、「芸術的な児童文学」の創造を志している人である。「おそるべきライバルの出現」などと、「児童文学研究家」から塩を送られた人である。ほんきで塩を送ったのか、別の計算によるほめことばなのか、そこは不明なのだが、少くとも、まるで物の考え方が逆なのである。逆もまた真なりということばがあるから、A思考はB思考とパラレルな発想法を内に含めていたのかもしれない。しかし、ほめたりほめられたりしている間に、それが「評価」と呼ばれ、子どもに本を買って与える大人に、すんなり受け入れられるのは、「こわいな」と思った。
 交通巡査のいうことを聞いていれば、交通事故はおこらないものだろうか。ここを歩け、ここは歩いてはならないと、笛の音がピッピッと指示する。つぎつぎと車が疾走するから、横断歩道なんてものがつくられる。横断橋をエッチラオッチラのぼりおりしなければならない。交通整理の警官は、車の存在なり疾走を不問の前提条件として笛を吹いていればいいが、(いや、ほんとうは、ちらちらその存在の様態に疑問を抱くこともあるのだろうが・・・)児童文学の批評活動は、存在し疾走するもの自体を、まず首をかしげて見なおすべきではないのか。横断歩道や横断橋へ人を誘導するだけではおかしくはないのか。
 もうひとりのKさんと呼ぶその人の考え方の中に、まるでポルシェは競技場を走るものだというような固定観念を発見した時、「こわいな」と思った。白土三平と『ちょんまげ手まり歌』が、どうして一つに結びつくのだろう。まるで異質の発想をワラシベでひっくくるような頭脳の働きを、いくら児童文学の領域に『ワラシベ長者』の話があるからといって、にこにこしておれないような気がする。こういう交通整理の仕方を、にこにこほめる交通整理指導員のいることもこわい。こわいついでにいえば、その交通整理指導員と、交通整理批判者とを、おでんのように一本の串で刺して、児童文学批評ときめつける発想もこわい。「あれかこれか」ということばを知らないわけではないが、キェルケゴールじゃあるまいしと困惑してしまう。
 そういえば、イターロ・カルヴィーノの『マルコヴァルドさんの四季』では、主人公のマルコヴァルドさんが、常に交通整理のない状態を望んでいた。霧の深い夜、雪の降りつもった日、夏の避暑期には、生き生きしていた。この主人公を、ルンペン・プロレタリアートだとか、小市民だとか、大人の読者が議論しあったことも知らないわけではない。しかし、手ひどい失敗の痛みが待ちかまえているのに、胸を張って愚かな前進を繰りかえすマルコヴァルドさんに、交通整理員からは感じ取れない人間のぬくもりを感じてしまう。この人物も、交通整理員の手にかかれば、子ども専用の道を歩いてはいけないと、笛をピッピッと吹かれるかもしれない。
 中岡哲郎はそのすぐれた『人間と労働の未来』という本の中で、技術革新にともなう熟練工の崩壊ということを描き出していた。さしずめ、イタリアのみならずわが国でも、マルコヴァルドさんのような人間が、続々、誕生させられているわけだ。そして、マルコヴァルドさんのような人物が、これまた子どもに本を買ってやらねばならぬ立場に置かれているのだ。とてもじゃないが、子どもの本の選択まで手がまわらないだろう。つい笛の音につられて交通整理されたブックリストや評価におまかせ・・・ということになってしまうのだろう。じぶんでは、じぶんの道を自由に歩きまわりたいのに、心ならずも、じぶんの子どもには横断歩道だけを歩かせる。ほんとうに、道は、そことここの白線内だけにしかないのだろうか。児童文学の批評が、児童文学の交通整理に転化した時、その危険性はおこる。批評家はその時、『笛吹き童子』を批判するのではなく、笛吹き童子そのものなのである。もちろん、『笛吹き童子』などという作品は、はるか昔の放送劇であって、今は、ピアスやメインの作品が云々されているわけだが、ピッピッ、それにもかかわらず、なお、すこぶるひねこびた笛吹き童子がいるというのは、これはいったい、どういうことなのだろう。

テキストファイル化上久保一志