ネバーランドの発想

上野瞭
『ネバーランドの発想』(上野瞭 すばる書房 1974.07.01)

           
         
         
         
         
         
         
    
 ネクタイというものは、いらいらしている時、なかなかうまく結べないものです。ふつう、こういう時、大人とはどういうふうに、かんしゃくを起こすものでしょうか。ジェイムズ・マシュー・バリーは、それをこんなふうに書きました。
「言っとくがな、お母さんや、もしこのネクタイが、わしの首のまわりにおさまらなけりゃ、わしたちは、今夜、外へよばれていかんぞ。それで、今夜、外へよばれていかなけりゃ、わしは、二度と会社へいかんからね。それで、わしが、二度と会社へいかんけりゃ、おまえとわしは飢え死にをし、子どもたちは路頭にまようんだ」(石井桃子訳・福音館版によります。以下同じ。)
 なんともオーバーなセリフです。こういっているのは、株式相場にくわしい会社員のダーリング氏です。いうまでもなく、ダーリング氏は、バリーの作品『ピーター・パンとウェンディ』(1911)に登場するウェンディの父親です。このダーリング氏がオーバーなのは、なにもかんしゃくの立て方だけではありません。その行動においても傑出しているのです。じぶんの子どもたちが、ピーター・パンに連れ去られると、その責任はわれにありと、深く反省し、その結果、犬小屋にはいってしまうのです。犬小屋で寝起きし、犬小屋にはいったまま、馬車で会社に出勤するというのですから、これほどオーバーな反省の仕方はありません。ロンドンの人は、これをみて、大いにその父性愛を賞賛したと、バリーは書いています。
 いったい、バリーは、じぶんが大人のくせに、おなじ大人をばかにしていたのでしょうか。ダメな大人・・・という点をあげれば、このダーリング氏のこと以外にも、つぎのような指摘があります。
 ピーター・パンをリーダーと仰いでいる男の赤ん坊が出てきます。この連中が、ウェンディの誘いに応じて、ふつうの人間の家庭にはいります。すると、バリーは、つぎのように記すのです。
「かれらは、あなたがたや、私や、そこらの子どもと同様、ごくありふれた人間におちついてしまいました」
「男の子たちは、もうこのころには、みんな大きくなって、だめになっていました。ですから、この人たちについて、何も言うほどのことはありません」
 子どもたちは、別に、強盗や、飲んだくれになったのではありません。大人になって、ひとりは機関士に、ひとりは貴族に、別のひとりは裁判官に・・・というふうに、正業についているのです。それを、十把一からげにして「だめになった」というのですから、大人はすべてばかな存在だと、バリーは考えていたのでしょうか。事実、英米児童文学史の類には、大人であることに絶望し、バリーは、子どもの世界に郷愁を抱き、感傷的に物語の中で回帰した・・・などと評価されています。とすると、バリーの書いたピーター・パンなる「永遠の子ども像」は、生活に疲れた大人が、ふと逃亡するための「解毒剤的子ども像」だったのでしょうか。
 どうもバリーが誤解されるのは、そのあたりにあるような気がしてならないのです。大人を矮小化し、子どもを賛美する・・・といいますが、いったい、バリーが、どんなふうに子どもを賛美しているのでしょう。かれは、手ばなしで賛美するどころか、きわめて冷静に子どもをみているのです。
「子どもたちというものは、世界で一ばんの無常者のように、ぽんととびだしていってしまいます」
「子どもというものは、新奇なものが訪れる時、いつもさっさと、一ばん愛する者さえおいて去るのです」
 じつに気まぐれで、忘れっぽい存在だといい切っているのです。これは、一般的な子どもの規定です。しかし、この規定を、具体化し、それに形を与えたものが、ピーター・パンだ・・・とはいえないでしょうか。ピーター・パンは、文字どおり気まぐれで忘れっぽく、おまけに、うぬぼれの塊りのようないばりっ子なのです。インディアンと戦っている最中、ふっと気まぐれに、今からじぶんはインディアンになるといってみたりします。また、仲間の男の子に、「食事ごっこ」をさせて、それで、ほんとうの食事をしたのだと思いこませたりします、医者が要るとなれば、だれでもいい、手近の子どもを医者らしく振舞わせ、 それで治療は終わったと納得するのです。
「ぼく、えらいだろ?ああ、ぼくはえらいよ!」と、なんのためらいもなくじぶんをほめたたえられるピーター。そもそも、海賊のフックが、徹底してピーターを憎むのは、この 手ばなしの鼻持ちならないうぬぼれのせいなのです。
こうしたピーターの属性は、この主人公ひとりのものでしょうか。考えるまでもなく、これらの属性は、すぐ手近な子どもたちの中に、いつでもみつけられるものなのです。いってみれば、現実の子どもの持っている「ものの考え方」「生き方」そのものだとも考えられます。子どもの世界に謙譲の美徳は内在しません。それは、あとから、大人の手を通してもたらされるものです。子どもは、じぶんの力や持ち物を、なんの照れもなく自慢します。そして、常に、世界はじぶんを中心にして構成されると信じがちです。ピーターはこの子どもの発想法を、きわめて生き生きと具現した(あるいは集約した)そういう子ども像ではないでしょうか。
 バリーは、ピーターの住む国を、ネバーランドと名づけました。どこにも存在しない国だというわけです。
 たしかに、右手のかわりに鉄のカギをつけて、子どもを追いまわす海賊フック船長のいる国は、世界地図の中にはみあたりません。チックタックと、おなかの中の時計の音をひびかせて、フック船長の左手を狙うワニや、妖精や、人魚や、インディアンの美少女タイガー・リリの存在する世界は、バリーの物語の中にしかありません。しかし、この国が、「一つの冒険ともう一つの冒険のあいだ」のびっしりつまっている国であり、常に動きつづける心の地図にのっている・・・といいなおしてみるならば、(これは、もちろん、バリーの規定です)案外、これが、どこにでも存在する国であることが、わかるのではないでしょうか。子どもたちは、フックやワニのかわりに、変身忍者や怪獣を徘徊させ、じぶん自身のネバーランドをとびまわっているはずなのです。
たとえば、J・P・サルトルもまた、そうしたネバーランドの存在したことを、つぎのように記しました。
「私はベッドに走って行くと、お祈りをいい加減にすませ、シーツの間にもぐりこんだ。私の向こう見ずの剛勇を、できるだけ早くとり戻そうとした。暗闇の中で私は歳を取って、孤独な大人になった。父も母も、住む家もなく、ほとんど名前さえない大人に。私は、気絶した女を両腕に抱いて、焔に包まれて屋根の上を歩いた。下で群集が叫んでいた。建物が焼け落ちそうになっているのはあきらかだった。このとき私は、おきまりの言葉を口にだした。『続きは次号』(中略)つぎの夜、私は約束通りに、屋根と焔と確実な死とにまた出合った。昨夜気がつかなかった樋を急に見つけた。ありがたい、助かった!けれども、私の貴重な荷物を離さずに、どうして樋にぶらさがれるだろうか?幸いにして娘が意識を取りもどしたので背負うと、私の首に両腕でしがみついてきた。これはだめだ、と考え直して、私は彼女をまた失神させた。少しでも彼女が救出作業を助けたら、私の功績が減るからである」(白井浩司訳・『言葉』より)
 これは、六歳から九歳にかけて、サルトルの常住したネバーランドの一端です。毎夜、一群の悪漢を退治した・・・とも記してあります。そこには、フックにかわる悪の代表も用意されていたことも、いうまでもありません。「続きは次号」と、アリババの呪文のように呟くことによって確保される冒険の連続する世界。バリーは、まさに、そうした世界として、かれのネバーランドをつくりだしたのです。いや、つくりだしたというより、そうした子どもの発想に、形を与えたのです。
 もちろん、ネバーランドは、男の子の独占する冒険常在の国とは限りません。一方、バリーは、ウェンディを描くことによって、女の子の発想にも形を与えました。
「ああ、ウェンディおくさま、ぼくらのお母さんになってください」
 そう頼むピーターに対して、ウェンディが、どれほど有頂天になったかは、つぎの返事でわかるでしょう。
「なったほうがいいの?」(中略)「だって、あたし、ちょうどそういう子どもだと思うのよ」
 ウェンディは、男の子たちの母親となります。つくろいものをしたり、お話をして聞かせたりします。海賊船に捕らわれた時など、なんと、母親的ないい方をすることでしょう。
「かわいい子どもたち、これが、あたしの最後のことばです」
 そういって、男の子をはげますのです。
 ネバーランドには、子どもが「ごっこ遊び」とよぶものが、すべて実際の事柄として描かれているのです。ウェンディの言動、ピーターの言動、これらはすべて、そうです。「ごっこ遊び」というものは、見方をかえていえば、子どもが人生というものを、じぶんたちなりに組み立てる、その組み立て方のあらわれだと思うのです。それは、子ども独自の発想の所産であり、人間である限り、だれしもが一度は通過する世界だともいえます。
「チイグウの来たのは私が満三歳の冬のこと。彼は私の玩具箱の最初の主人となる名誉を担い、以後、私の遊びはすべて、彼の記念のために『チイグウごっこ』と呼ばれることになったのであった。(中略)私の毎日は遊びに明け遊びに暮れたから彼は日と共に私の世界の中で大きくふくれあがった。ついには実在の『人物』になってしまった。だから時が来て私が小学校へ通いはじめると、担任の先生は私を『ほんとうの現実』に連れ戻すのに少なからぬ苦心を払わねばならなかった」と、犬養道子も、その『花々と星々と』の中で記しています。
 たかが子どもの「ごっこ遊び」ではないか・・・というのは、その世界の充実した体験を忘れた大人のセリフです。子どもにとって、それは、遊びというよりも、一つの現実世界であったことは、いうまでもありません。J・M・バリーの功績は、この「もう一つの現実」に、はっきりした形を与えた点にあるのです。それは、ピーター・パンという独自の子ども像をつくりだしたということではなくて、子どもが共通して持つ発想法に、(あるいは、人生の組み立て方に)ピーターやネバーランドという形を与えた、ということなのです。この形象化のどこに、幼児退行的発想があるでしょう。かれは、ネバーランドという未形態の大陸の発見者でこそあれ、現実逃避の代表者といわれる筋合は、まったくないのです。かれは、いつの時代にも存在する子どもの内面的世界に形を与えたことで、その功績をたたえられるべき作家なのです。
 それにしても、ネクタイが結べないばかりに、一家が路頭に迷って餓死するぞ・・・とわめいたあのダーリング氏、そういえば、どこか、ピーターの気まぐれに似ていないでもありません。たぶん、これは、ダーリング氏もかつて、一度はピーター・パンであった名残ではないでしょうか。大人は、いらいらして、ネクタイに指をさしこむ時、おや、おれはまだ、ネバーランドの地図を持っているのかな・・・と呟いてみるのも悪くない話だと思うのですが・・・。

テキストファイル化日巻 尚子