「肩がわり」の発想

上野瞭
『ネバーランドの発想』(上野瞭 すばる書房 1974.07.01)

           
         
         
         
         
         
         
    
 古田足日に、『ぼくらは機関車太陽号』という作品がある。一九七二年の暮に出版された。サクラ第三小学校に、新しい校長が赴任する。従来のバス遠足をやめて、「歩き遠足」を提案する。それに反対する六年ロケット組の子どもたち。その子どもたちが、実際に「歩き遠足」の目的地を調べ、新しい道順を目的地を決定し、じぶんたちの手で「歩き遠足」を成功させる話である。

 ──『ぼくらは機関車太陽号』は、作者が今までに描いてきて、一連の現代児童生活ものと同系列に属する小説で、子どもたちみずからの知恵と行動によって、彼らの生活のなかに、あたらしい現実を創造させている。この作品でも、今までのものと同様に、子どもの発想の新鮮さと、創意のある行動力がつみ重ねられていく過程を、いききと明るく描いてみせている。この作者の同系列の作品にふれるたびに感じてきたことであるが、子どもたちの現実の生活のなかにある、生命的・本能的ともいえる、伸びる方向をむいた健康な渇望的なエネルギーといったものを、日常的な彼らの欲求や問題意識などのなかからさぐりあててきて、作中においてあざやかに再創造してみせているのに、わたしはこのたびもまた感心させられた。(渋谷清視『最近の少年少女小説』より/日本児童文学臨時増刊号現代日本児童文学作品論・載)

 これは、たまたま目についた評価である、引用すれば、もっと長くなる。ほかに同様の評価があるのかどうか、それは知らない。これはこれで納得できる。古田足日は、『宿題ひきうけ株式会社』から『海賊島探検株式会社』まで、子どもと現実の関わり方を描いてきた。この『ぼくらは機関車太陽号』も、その延長線上にあるすぐれた作品だ、という評価である。いうまでもなく、こうした賛辞は作中の子どもたちの自発的な行動にむけられている。校長の提案する「歩き遠足」に批判的に取り組んでいく子どもたち。それが、じぶんの問題として「歩き遠足」を認識していく過程。対立したり誤解しあったりしながら、相互に尊重しあうことを自覚していく姿。そこにむけられている。物語の終った時点で、子どもたちは、人間のあり方、いいかえるなら「連帯」の必要と「連帯の仕方」を身につけているようになる。別のことばに置きかえると、子どもたちは、自発性・想像力・他人への配慮の必要性を体得している。こうした「成長」(と呼べるかどうか、多少疑問がないでもないが)の有様が肯定的評価を呼ぶ。なぜなら、日本の教育は、こうした自立的人間の形成をその中心にすえているからである。この作品は、そうした教育の志向する「あるべき子ども像」を描いた。あるいは、描こうとした。
 わたしが、渋谷清視の評価を引用して、「これはこれで納得できる」というのは、右のような理解の仕方によってである。しかし、「これはこれで」という時、わたしは、これでは納得のできない一つの感想を抱いている。それは、いったい、こうした子ども像の提示は、子どもの文学にとって幸せなことなのか、不幸せなことなのか、という疑問である。
 マルレーン・ハウスホーファーに『犬のウォータンは同級生』という作品がある。一九六七年の作品だが、一九七一年に翻訳出版された。(訳者は国松孝二)寄宿制高等中学の寮生を描いたものである。四人組の少年が友情を結び、やがて一匹の犬を同室者として先生に認めさせる話である。わたしが、このオーストリアの作品を、ここに持ちだすのは、古田足日の作品と優劣を競わせるためではない。いわゆる「学校」という枠組みの中で子どもたちを描く場合、教育の志向する子ども像を形象化することは、果たして子どもの「人生」を描くことになるのかどうか、と考えているからである。『犬のウォータンは同級生』の子どもたちは、『ぼくらは機関車太陽号』の子どもたちのように「学校のあり方」に疑問を抱くことはない。また、学校行事を(遠足はそうだろう)自主的に遂行していく「社会的行動力」もない。枠組みとしての「学校」ないし「教育」は、無条件に受け入れている。これは、日本とオーストリアの教育条件、あるいは教育の占める位置や役割の違いかもしれない。それはそうとしても、この点だけ(子どもの学校の関わり方)に限っていえば、『ぼくらは機関車太陽号』の子どもたちの方が、ウォータンの仲間よりも、ずっと積極的である。いわゆる「建設的」あるいは「自主的」である。しかし、子どもたちの「人生」、あるいは子ども自身……という観点に立って物語をふりかえる時、はっきりした子ども像を提示するのは、それほど「社会性」のないウォータンの仲間なのである。いってみれば、マルレーン・ハウスホーファーは、「学校」という枠組みを批判することはないが、その中での人間そのものは、きわめてあざやかに浮ぼりするわけである。読者は、性格や立場の違う四人組の一人一人に、それぞれのよろこびや悲しみのあることを知る。また、よろこびうあ悲しみに対して、それぞれの反応を示す子どもたちに、共鳴したり反発したりする。それほど四人組の「人生」は細かく深く描かれている。
 わたしは、もちろん『ぼくらは機関車太陽号』の子どもたちに、さまざまな個性が皆無だ、といっているのではない。相互に意見の食い違いはある。そのことは記されている。しかし、古田足日の作品の場合、「歩き遠足」に取り組む子どもたちを、一人一人独自の「人生」として描くことよりも、「歩き遠足」そのものをいかにして成功させたか、その各人の接点である学校行事の遂行を描く方が、より大きな比重を占めていたように思うのである。このことは、遠足の価値に比重がかかっているということではない。そうした学校行事を媒介にして「子どもはいかにあるべきか」あるいは、「何をなすべきか」という現代日本の教育が要請する子どもの「当為」力点がかかっていた、ということである。想像力の大切さ。自発性の大切さ。さらに独断専行ではなく「話しあい」による集団参加の必要性。『ぼくらは機関車太陽号』の子どもたちは、それぞれの「人生」を生きるよりも、そうした「教育の志向するもの」を明確にする役目を背おっている。わたしは、この点を、「幸せなのかどうか」といっているのだ。
 『ぼくらは機関車太陽号』のおしまいに、子どもたちが校庭に池をつくる話がでてくる。子どもたちは、そこで使用する水のこと、いや、水道代の心配を洩らす。その時、子どもたちの信望をかちとったチョコレート校長はいう。それは大人の問題だ、と。このことばにならっていえば、古田足日がこの作品で描きだした「現代の徳目」は、それは教育の問題だといえないだろうか。文学の問題は、そうした「現代の徳目」に気づく子どもを描くことでは終わらず、それぞれの「人生」を描くことにありはしないか。自発性の大切さ。連帯の重要性。それを描くことが悪いのではない。そうした「人間の望ましいあり方」を描くことによって、子ども自身、あるいは、子どもの「人生」を描く文学の仕事を横に置いてもいいのだろうか、そう考えているのである。幸・不幸の問題にもどっていえば、現代の児童文学が、子どものさまざまな可能性を形象化するかわりに、本来、学校教育がになうべき仕事を、肩がわりしているその点を「幸か不幸か」と考えているわけである。こういえば、それが現実であり、一つの可能性に形を与えたものだ……といわれるかもしれない。しかし、子どもたちは、学校で、人間のあるべき行き方を教わる。その教わり方は、この作品に描かれたようにじぶんの体験を通して……という場合もあろう。そこで、家にもどって、もう一度、物語の中で、なぜ、あるべき生き方の学習をする必要があるのか。子どもの文学が、学校の副読本ならそれでもよかろう。しかし、文学は、子どもの場合でも、「徳目」学習の可能性を語るものではなく、差し替えのきかない人間個々のその生きざまを語るものではないのか。
 児童文学は成人の文学ではない「教育的」なものである……という狭い考えのあることを知らないわけではない。しかし、この時代遅れの文学観が、どれほど日本の児童文学の可能性や創造力をしばりつけてきたことか。すでに終わった「教育の時代」や「抽象的価値観の時代」を今一度……というのはならいざ知らず、現代において子どもの文学の必要性を考えるものなら、まず、この「肩がわり」できる文学観を否定しなければならぬだろう。幸か不幸か、『ぼくらは機関車太陽号』に、そうした肩がわりの発想を見る。それが、渋谷清視のように、わたしを手ばなしで納得させないということである。

テキストファイル化與口奈津江