「からだをはる」思想

上野瞭
『ネバーランドの発想』(上野瞭 すばる書房 1974.07.01)

           
         
         
         
         
         
         
    
 いったい「体(からだ)をはる」とは、どういうことなのだろう。ちかごろの子どもマンガにやたらろ「体をはる」ヒーローやヒロインが登場する。
 『男一匹ガキ大将』の戸川万吉。『あしたのジョー』の矢吹丈。『巨人の星』の星飛雄馬や『サインはV』の朝丘ユミ。それに、片目の銀次だとか、力石徹だとか、あるいは花形満やジュン・サンダース……。ぞくぞく起用されるわき役もまた、「体をはる」ことに生きがいを感じる連中ばかりなのである。もちろん、ここに『タイガー・マスク』や『赤き血のイレブン』なども加えていい。いったい、こうした子どものアイドルたちは、自分の「体をはる」ことによって何を提供しているのか。ぼくにはひどく興味深い事がらに思われるのだ。

 ひとことでいえば、このアイドルたちが、子どもの世界に提供しているものは、「実力主義」という名の「神話」なのだ。学歴や家庭環境などは問題ではない。野球でもいい、ボクシングでもいい。一つの技能に「体をはる」ものは、その実力によって報われる。貧乏やケンカ早いことはマイナスではない。むしろ、その逆境と粗暴性こそ最大の武器である。見よ、少年少女諸君。まことの人間とは、かくも貧しく、かくも乱暴であることから形成されるもであり、大人たちからは、時には「非行少年」と呼ばれることも、あえて甘受するものなのである。そんなふうに、このアイドルたちは主張しているように思える。

 なるほど、この主張には、いささか耳を傾ける必要である。「人間尊重」を説き、「民主主義とは話しあいだ」と、教訓をたれてきたぼくたち大人。このぼくたちが、「話しあい」によって何をし、どういう社会を保持してきたか。その点をふりかえってみると、「話しあい」を無視し、「腕力」に原点を置く『男一匹ガキ大将』の発想法もわからないでもない。実際の話、大人は、児童憲章をつくり、教育基本法をつくり、それにのっとって子どもに責任を持つ……などといったが、言葉とは裏腹に、大人の価値基準を乱す子どもには「非行」のレッテルをはり、放逐することもあえて辞さなかったからである。
 空文化した人間尊重を、かりに「民主主義という名の形而上学」と呼ぶなら、『男一匹ガキ大将』にシンボライズされる「体をはる」思想は、形而上学に対する形而下的な反駁といえるだろう。「体をはる」思想は、理念の空転から、必然的に生みだされた「鬼っ子」なのである。
 しかし、である。戸川万吉をはじめとするヒーローやヒロインたちは、どうしてあれほども、「体をはる」ことと「正義」や「善」を結びつけたがるのだろう。自己の能力や特技を絶対視することは、アイドルたちの自由であるとしても、それがそのまま「正義の具現」であるという点で、ぼくは首をかしげてしまうのだ。「体をはる」ことで、理念の不毛性を批判するのはいい。しかし、虚像の「話しあい」を否定することは、そのまま思考の不在を肯定していいということにはならない。「話しあい」そのものの可能性を否定することにはならない。その点を「正義のアイドル」たちは、もののみごとに忘れている。それだけではなく、『男一匹ガキ大将』という題名がいみじくも示しているように、「体をはる」思想は、「体をはらない」大多数の人間の価値を、まるで小道具のように見おろして成立する。戸川万吉は、一千人の子分を集める。日本全国からケンカのチャンピオンを結集して、二十八人衆をつくろうとする。この「男一匹」が、「体をはる」ことによって形成しようとしているものは、「力=正義」を頂点にしたピラミッド体制なのである。

 S・クラカウアーは、『カリガリからヒトラーへ』で、ワイマール共和国崩壊までのドイツ映画を分析した。そこに、ナチズム台頭の兆候をいくつか指摘した。それにならっていえば、この万吉一家の面々が、学生服とはいえ、制服の集団であることは何の兆候であろうか。クラカウアーは忘れずに、同じ本の中で映画『美と力への道』に触れている。体操やスポーツを奨励する発想法を検討している。このことは、『巨人の星』や『サインはV』が、また『あしたのジョー』が、現代日本の子ども版『美と力への道』に転落しないとはいい切れないものを感じさせるのだ。
 「非行少年」を描くことによって、大人の欺瞞性や社会の非人間性を逆照射したのは、アラン・シリトーである。しかし、シリトーの『長距離走者の孤独』の主人公は、その「走者」としての実力でマンガの「正義のアイドル」たちのように報われたであろうか。かれは、その実力ゆえに「孤独」であり、「孤独」であるがゆえに、人間としての自立性を確保できただけである。「体をはる」ことは、この「正義のアイドル」への道につながってはいない。現代社会の欺瞞性を告発することはあっても、それによって、このヒーローは何ものをも手に入れない。少なくとも懲罰と自由の意識のほかは……。かれは、その実力ゆえに、だれに奉仕するでもなく、だれからの称賛も評価も期待しないのだ。第一、このヒーローにとって、実力とは、それほどに絶対的な価値ではないのである。

 その点、マンガのアイドルたちは、なんと容易に報われることか。かれらは「体をはる」ことによって名声を博し、名声を博すことによって、そのまま「正義の味方」という絶対者の位置を占めるのだ。思考よりも特訓。自由の意識よりも勝負。体をはればはるほど報われるという発想。これが「実力主義の神話」でなくて何であろう。
 たぶんに、こうしたアイドルの生みの親たちは、『無知の涙・永山則夫獄中ノート』(雑誌『辺境』三号)を読んでみる必要があるのだろう。いうまでもなくこの筆者は、「連続射殺魔」と呼ばれた若者である。

テキストファイル化與口奈津江