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1 アルキ・ゼイの『ヤマネコは見ていた』(掛川恭子訳・岩波書店刊)を読むと、二人の少女が出てきて、その日一日が「しあわせ」であったか「不しあわせ」であったか、お互いに問いあう場面が出てくる。 「メリッサ。あなたは、エヴ・ポ、それとも、リ・ポなの」「ミルト。あなたは、エヴ・ポ、それとも、リ・ポ?」といった具合である。「エヴ・ポ」あるいは「リ・ポ」ということばは、「しあわせ」「不しあわせ」を意味する二人だけに通用する秘密語だが、わたしもまた、地底の国にはいる二冊の物語を前にして、これは「エヴ・ポ」か、それとも「リ・ポ」なのか、呟きたくなってしまった。 もちろん、地底の国にはいるからといっても、ジュール・ベルヌやルイス・キャロルの作品を指しているのではない。たまたまウィリアム・メインの『地に消える少年鼓手』(林克己訳・岩波書店刊)と、乙骨淑子の『こちらポポーロ島、応答せよ』(太平出版社刊)を同時に入手し、このいずれもが主人公たちを地底世界にいざなう物語だったことから、「エヴ・ポ」か「リ・ポ」なのかと、考えこんでしまった……ということである。 言いかえれば、わたしは、メリッサとミルトの秘密語を呟くことによって、島国イギリスと島国ニッポンの二人の現代児童文学者が、何に向いあって作品を書いているのか、何に向いあわねばならなかったか、そうしたことを思い浮べたのである。 W・メインの『地に消える少年鼓手』は、アーサー王伝説を踏まえている。医者の息子ディヴィッド・ウィックスと弁護士のせがれキース・ヘーゼルタインという現代っ子が、二百年前の少年鼓手に出会うところから事件に巻きこまれる。一見、奇想天外な大事件をメインは描き出していくのだが、その手法は、先のリアリズム作品『砂』(林克己訳・岩波書店刊)と同様、細部にわたって現実感の構築に向けられる。『砂』が、きわめて地味な、きわめて暗湿の世界を舞台にしていたにもかかわらず、そのひくくたれこめる暗い空、音もなく町を侵蝕する砂をはねかえして、(自然の重厚な圧迫を突き破って)人間の、それも少年たちのたくましい活躍ぶりを、吹き出したくなるような「遊び」の感覚を通して描きあげたのも、この濃密な現実感のせいである。そのメインが、死者(とも言うべき)アーサー王の地底世界に少年たちを誘導することによって、わたしたちに何を伝えようとしたのか。少くとも読者である子どもたちには、この作品から「ふしぎさ」あるいは「ふしぎさへの驚き」を受け取るに違いない。伝説はよみがえることによって、現実と交叉し、交叉することによって、わたしたちは一種の「神秘」に触れる。 作者は、明らかに「伝説」に向いあうことによって、少年たちの世界を押しひろげ、そうすることによって、可視的な領域(リアリズムの世界)だけではなく、不可視の領域(空想世界)もまた、作者(わたしメイン)の描き得る世界であると証明してみせたきらいがある。 しかし、『砂』を掘りかえすことによって化石を発見したと思いこみ、それがマッコウクジラの骨にすぎなかったと笑い出す少年たち。そこにあった爽快な充実感は、この『地に消える少年鼓手』の場合、どこへ消えてしまったのだろう。ある恐れとおののきが、地を圧し、少年たちを圧して、わたしの中に残る。これは「エヴ・ポ」なのか、「リ・ポ」なのか。いや、問題は、ウィリアム・メインが、『砂』から伝説再生の世界に移行したことにあるのではない。「エヴ・ポ」と 「リ・ポ」は、乙骨淑子の作品を横に置くことによって、はじめて呟きとなったものである。 乙骨淑子の『こちらポポーロ島、応答せよ』は、「国家」を踏まえている。踏まえている……と言うより、作者が国家に向きあった作品である。医者のトド先生。「ぼく」とモコ。この三人を中心にヤマトウ国のぽん太や、ポポーロ国の「ひょう六」やハルコさんといった人物が登場する。 「ぼく」は、高校卒の、四国の山中にある水力発電所につとめる事務員である。ふとしたことから、山中にヤマトウ国という小国家の存在することを知り、さらに、地底に深くポポーロ国のあることを知る。現実の国家は、ヤマトウ国を焼き亡ぼし、さらに、ポポーロ国を破壊しようとするわけだが、実際に、ヤマトウ国を知ったものは、「ヤマトウ国友の会」を結成し、ぽん太の味方になる。また、トド先生や「ぼく」やモコのように、地下のポポーロ国を見たものは、地上に、ポポーロ国のような世界を創り出したいと考える。 これは、大まかな骨組みの抽出であって、物語それ自体は、「ぼく」とモコの「愛」の発展に即して描かれていく。もし、「ぼく」とモコのあいだの、ほほえましい人間関係がなければ、この作品は、一転して現代状況への批判の書にしかならなかっただろう。状況批判の書をおとしめる気は、さらさらないが、児童文学とはならなかっただろう……ということだ。この作品が、児童文学作品たり得たのは、「ぼく」とモコという人間が描かれているからであって、その人間の、微笑を誘うような交流関係を通じて、はじめて、ポポーロ島に仮託された「現状況への告発」も成立し得たのだと言ってもいい。世界を敵にまわしても一人で戦う……と言ったトド先生が、結末近くで日和ってしまう姿を、わたしたちの世界の何にあてはめるかは自由だが、(そして、「ヤマトウ国友の会」の存在を、同じく何に擬するかも一つの興味を誘うが)そうした現実照応の読み方を離れても、ここに、作家の向きあわねばならなかったものが、現存の国家体制であり、国家の暴力的機構だったことは、はっきりする。 作者は国家に向きあうことによって、国家を超えた人間の在り方を提示し、そうすることによって、児童文学の世界のひろがりを同時に追求しようとした。ここには、ウィリアム・メインの開いてみせた「ふしぎな世界」はない。少なくとも、メインの「ふしぎな世界」は、国家にも超国家への願望にも結びつかなかったが、乙骨淑子の「ふしぎな世界」は、その一点に凝縮して行く。 いいかえるならば、メインの作品は、伝説を再生することによって、「ふしぎな世界」を開示し、「ふしぎな世界」それ自体を読者に享受させようとしたのに、乙骨淑子の作品は、「ふしぎな世界」を介在させることにより、「この世界」の不合理性・非人間性を享受させようとしていたようである。いったい、このことは、「エヴ・ポ」なのか「リ・ポ」なのか。 2 わたしは、『こちらポポーロ島、応答せよ』を指して、この作品が、作家の理想を語るために、「ふしぎな世界」を道具化している……といいたいのではない。理想を語らない児童文学者など考えられないし、理想と無縁の文学もまた、いささか想像しがたい。これは、マルキ・ド・サドの場合だってジャン・ジュネの場合だって当てはまる問題であって、もし、この言い方に抵抗があるとすれば、それは「理想」という日本語に押しつけられた過去のオプティミスティックな発想法に問題がある。 わたしの言いたいことは、多少とも「ふしぎな世界」を道具化する結果になっても、ポポーロ島の作者が、国家に向きあわざるを得なかった状況のあること。それを無視して、わたしたちの児童文学が成立しにくい事実を考えているのである。 これは、「リ・ポ」かもしれない。なぜなら、『児童文学論』(石井桃子訳・岩波書店刊)のリリアン・スミスのように、政治問題や同時代の社会的問題を児童文学は排除すべきだ……といい切るにはあまりにも「状況」の介入がわたしたちにはありすぎるからである。 児童文学とは何か……という問いかけに対して、わたしは、よく次のようにいう。一冊の子どもの本を閉じたあとに、なお、本の中から聞こえてくる声があるもの。そんなふうに語る。これは、ヴェーラ・パノーワの『大好きなパパ』(金光せつ訳・理論社刊)や、フィリパ・ピアスの『まぼろしの小さい犬』(猪熊葉子訳・学習研究社刊)を閉じたあとに、本の中から、ページを押しあけて、コロステリョフさんの声が、また、セリョージャの声にならない声が聞こえてきたり、ベン・ブリューイットの、「もうおそいよ、ブラウン、さあ家へかえろう」という一言が、激しく鋭く、読者の胸に突きささってくることをさしている。この中には、モルナールの『パール街の少年たち』(岩崎悦子訳・学習研究社刊)である(いや、あった)ネメチェク・エルネーの声もまじっているし、子どもの時間にさよならをするボカ・ヤノーシュの無言の叫びも含まれているのである。 これらの作品には、それこそ「リ・ポ」と呟く子どもたちが、無数に躍動しているわけだが、それが本を閉じたとき、思わず読者に「エヴ・ポ」と溜息をつかせる。先のウィリアム・メインの『砂』の中にだって、「リ・ポ」であるはずのボビー少年が登場したが、このボビーが、本を閉じたあと、どれほど、わたしたちを「エヴ・ポ」にしたことか。 わたしは、児童文学の本質を語るために、作品を挙げているのではない。これらのこどもの本の中には、一貫して子どもの世界の子どもだけの時間が、チクタク、コンコンと音を立てて流れていること……。いや、それにもまして、ポポーロ島の作者が、精魂かたむけて、その時間に肉迫しようとしながら、なおかつ、その一歩手前の「大人の時間」に向きあわなければならないことを語っているのである。 これは、作家が「伝説」に向きあうか、「国家」に向きあうか……という問題では片付けられない。もし「国家」よりも「伝説」に向きあうことが、より児童文学たり得るというのなら、それこそ児童文学は文学であることにおいて「リ・ポ」と呟かなければならないだろう。問題は、作家が「国家」に向きあおうが「伝説」に向きあおうが、その本を閉じたあと、読者に「エヴ・ポ」と呟かせることである。「エヴ・ポ」と呟かせるほどに、主人公たちを生き生きと息づかせることである。 ポポーロ島の作者を指して、これは「リ・ポ」かもしれない……と言ったことは、そこで、主題の問題から、主題を消化し、「ぼく」やモコの中でそれを反芻させる問題に移行する。「ぼく」とモコのほのかな愛情が描かれていなければ、ポポーロ島物語は、「ふしぎな地下の国」の魅力を喪失しただろう……と言ったが、そこに、「リ・ポ」の呟きが生まれる。ポポーロ島の作者は、「ぼく」とモコを描きつくすことによって「ふしぎな世界」を与えるべきであったし、また、「ふしぎな地下の国」を、ほんとうに「ふしぎな世界」として定着することによって、不幸な現存国家体制に対峙すべきではなかったのか。ウィリアム・メインの精緻な描写の世界は、「ぼく」とモコを、またトド先生を、それぞれ描きあげることによってしか乗りこえられないのではなかろうか。 3 それにしても、ウィリアム・メインの世界には、ポポーロ島の作者が、否応なしに向きあわなければならなかった問題が、皆無なのだろうか。これは、同じ島国といっても、アリスや水の子を所有しているイギリスでは、国家に向きあう姿勢が違うのだろうかということにもなる。 『こちらポポーロ島、応答せよ』を、仮に直接話法の児童文学ということが出来れば、わたしは、間接話法の児童文学として、ジョン・ロウ・タウンゼンドの『さよならジャングル街』(亀山龍樹訳・学習研究社刊)を思い浮べるのだ。 『ぼくらのジャングル街』では、ともすればミステリー仕立ての後半部分がクローズ・アップされたのに対し、『さよならジャングル街』では、子どもたちの冒険心をさえ打ちくだく冷酷な現実が提示される。メインが描いた子どもだけの世界は、このコブチェスター市ランのしげみ通りでは通用しない。メインの世界には、それぞれに保護者である大人がいたのに対し、(不幸なボビーだって、兄貴がいた)J・Rタウンゼンドの世界では、子どもの時間を否応なしに侵蝕してくる呑んだくれの大人がいる。「ぼく」(ケビン)と妹のサンドラが、ウォルターとドリスという大人を背負うようにして生きていかねばならぬ。「ぼく」はその中で、かすかに人を愛し、裏切られ、最後には大人たちが「人生」と呼ぶ苦渋にみちた世界の中に、歯をくいしばってはいって行く。ここに描かれているのは、「リ・ポ」そのものである。しかし、本を閉じたあと、わたしたちの中に、さわやかな一筋の風のように「エヴ・ポ」の声が聞こえる。牧師のトニーが、一席、人生論を述べ、それが敗北主義と諦念ではないかと頭の片隅で考えながらも、その説教をしのぐケビンの姿に、読者は溜息をついてしまう。この作品の中に、ディッケンズの世界の再生を見るのはやさしい。しかし、これが明らかに児童文学作品として、メアリー・ポピンズの国に存在することが、わたしに「エヴ・ポ」と呟かせる。ポポーロ島の作者ほど直截ではないとしても、これまた、結果として、作者は「国」に向きあっているのではないだろうか。そういえば、「エヴ・ポ」「リ・ポ」と問いあったメリッサとミルトの物語、この『ヤマネコは見ていた』も、ナチスと、それに迎合する国家ギリシャに向きあう児童文学作品であった。「リ・ポ」と呟きたくなるような状況の少年少女を描いていた。しかし、映画『いちご白書』のラスト・シーンが、「リ・ポ」そのものでありながら、わたしたちを「エヴ・ポ」と呟かせたように、これもまた「エヴ・ポ」の物語なのである。 「エヴ・ポ」「リ・ポ」……、これは単に、メリッサとミルトだけのことばではあるまい。 テキストファイル化杉本 恵三子 |
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