絵本を楽しむ

上野瞭
『ネバーランドの発想』(上野瞭 すばる書房 1974.07.01)

           
         
         
         
         
         
         
    

 机の上に、ぼくも一冊だけ絵本を置いている。ロナルド・サールの『おーい、どこへ行ったんだ、人間ども?』がそれである。子どもの絵本じゃない。(HELLO-WHERE DID ALL THE PEOPLE GO?=RONALD SEARLE)
 ぼくは、こいつを、「世界の子どもの絵本展」で買ってきたのだが、どうしてこれが、そこに並べてあったのか、いまだにわからないでいる。カタツムリの絵ばかりずらりと並んでいるから、子どもの絵本と思われたのか、子どもの絵本も、また、これほどの芸術性を持て・・・・・・ということなのか、展示者の意図のほどは全く不明である。
わかっていることは、この大型の絵本が、ひどくぼくの気にいっていることと、その理由くらいである。
 理由のほうは、いたって簡単だ。これには文字が、ほとんど使用されていないのである。以前に、ベッティナー・ヒューリマンの『世界の絵本』(Picture-Book World=BETTINA HURLIMANN)を買ったことがある。しかし、横文字を読むことのにがてなぼくは、絵を眺めただけで、本棚につっこんでしまった。この本のコメンテールのほうは、敬遠してしまった。つまり、きわめて怠け者の本性を発揮したのだが、その点、このカタツムリの絵本は、怠け者にうってつけなのだ。
 一枚、また一枚、ページを繰っていきながら、ぼくは自由なのだ。ぼくの空想をさえぎるコトバの壁はないし、ぼくの連想の飛躍を押しとどめる「既定の意味」のおもりもない。ぼくは、この絵本のどの絵に対しても勝手な説明を加え、勝手な意味づけができるのだ。ぼくは、そうすることによって、読者としての「誤解する権利」をフルに活用し、活用することによって楽しんでいるのである。(いうまでもなく、「誤解する権利」とは、鶴見俊輔さんの同名のエッセイ集のことばだ)
 たとえば、カタツムリの殻を見て、ぼくは、これを、人間における家だな。いや、この場合は思想や信条を表現しているんだな・・・・・・と考える。これは宗教。これは国家意識。これは観念。これは科学の重みだな・・・・・・とも考える。さまざまに、じぶんの考えを押しひろげていく。もちろん、殻だけではなく、カタツムリのほうだって、ああでもない、こうでもないと、私的理解の幅を拡げていく。
 こういえば、「理解」とか「考え」というコトバにこだわって、ぼくがまるで『哲学的省察』を書く前のデカルト・・・・・・あのオランダのアムステルダムへ、パリから逃げだしたデカルトのように、渋面をつくっていると思われるかもしれない。しかし、アランがそうであったように、「思索」とは本来しかめっつらからもっとも遠いものなのだ。このフランスの哲学者は、じぶんの思索を、楽しき『語録』として書き綴った。プロポ(Propos)は、いうまでもなく、談話であり無駄口でもある。謹厳実直の高尚な理論ではない。たぶんにぼくも、この絵本を前にして、じぶんなりの無駄口を叩くことを「理解」とか「考え」というコトバに置きかえているのだ。のんびりと、煙草などをふかしながら、カタツムリの絵を見て、じぶんの思考を解放しているのだ。
 この解放感の中には「遊び」の感覚がある。泥をこね、葉っぱを並べ、仮想のごちそうをつくる、子どものあの「遊び」の楽しさがある。子どもは、泥んこ遊びの中で、大人の用意した生活の仕方の「枠」を超え、じぶん自身の思考の可能性を発見する。ぼくもまた、カタツムリの絵を通して、ぼくを規制する日常的モラルや桎梏という「枠」を打ち破り、別の世界を発見しているのだ。
 もし、この絵本が、その一枚一枚の絵に、それを説明し、注釈するコトバをつけていたとすれば、ぼくの思考や空想は、どれほど窮屈な思いをしたことだろう。たぶん、ぼくは、そのコトバをなぞることによって、その絵の意味を教えられ、教えられることによってその意味する範囲を、一歩でもでることに、多少のためらいを感じたことだろう。その場合、絵本は、ぼくをしばりつけ、ぼくを教化する道具となり、ぼくの自由な解放感は、身を縮めたり、ついに、ぼくのものとはなりえなかったに違いない。
 一冊の絵本を通過することは、一冊の学校の教科書を通過することと同じではない。一冊の教科書は、ぼくに、無数の知識や社会的常識を与えてくれるかもしれない。そして、知識の堆積は、ぼくを「りこうな子ども」に仕立てあげることだろう。まだ、社会的な約束事の習得は、たぶん、ぼくを「いい子」にするだろう。しかし、ぼくは、じぶんを「りこうな子」や「いい子」につくりかえることによって、果して満足するだろうか。ぼくは大人だから、今さら「おりこうさん」でも「いい子」でもないけれど、子どもの場合、「りこうな子」と「いい子」だけで楽しいものだろうか。
 「おりこうさん」といい、「いい子」といい、それは、大人の構成する社会の価値基準に順応することにはならないのか。子どもは、背伸びして、大人になりたがるかもしれない。じぶんの世界を発見しにくい状況にあっては、子どもは、まわりの大人の世界に参加することを、唯一の誇りとする場合もあるだろう。大人に認められ、賞賛されようとして、子どもは、背伸びを試みるだろう。「りこうな子」や「いい子」になろうと努力もするだろう。しかし、この努力の結果、子どもの手に入れるものは、常に真面目で規則正しい「しゃちこばったじぶん」ではないのか。人さし指で、じぶんの鼻の下をこすりあげ、「ふふん」と満足感を示すあの「自己」は、片隅に追いやられるのだ。大人の賞賛に応えることによって、子どもは、じぶんの自由を縮小する。子どもは大人の予備軍に転化することによって、子どもの独自の楽しみを放棄する。
 一冊の教科書が、大人の世界を教え、子どもを「いい子」に仕上げようとするのは仕方がない。しかし、一冊の絵本が、どうして教科書と同じ役目を果さなければならないのか。一冊の絵本を通過することは、一冊の教科書を通過することによって、手に入れることのできないものを発見し、入手することではないのか。
 ぼくは、日常生活の中で流通している価値基準を確認するために、ロナルド・サールのカタツムリの絵を眺めるのではない。また、この一冊の絵本を開くことによって、カタツムリの習性を学ぼうとも考えないのだ。デフォルメされ、現実のカタツムリからうんと遠ざけられたその絵の中に、ぼくはじぶんの思考が、自由に展開できるそのことを楽しんでいるのだ。それは、「おもしろい」ということでもある。「役に立つ」とか「ためになる」ではなくて、とても「おもしろい」ということである。「おもしろさ」のない絵本など、どうして繰りかえし眺められるだろうか。生活でも真面目、本の世界でも真面目なら、谷岡ヤスジのマンガじゃないが、だれだって、「ブー!」と、鼻血をふきだす以外、手がないのではないか。


 いつだったか、ぼくは、あるマンモス団地の「文化講演会」というのに引っぱりだされたことがある。ぼくは、子どもを持つあかあさんの前で、「児童文学のおもしろさ」という話をした。モルナールの『パール街の少年たち』や、ヴェーラ・バノーワの『大好きなパパ』や、フィリパ・ピアスの『まぼろしの小さい犬』のことを話した。こうした子どもの本と、映画『いちご白書』の関係を、ぼくなりに話した。話というものは、まどろっこしいものだ。ぼくの中には、色彩豊かな映画全体が、はっきりしたイメージとなって定着している。だから、バフィ・セント・マリーの歌う『サークル・ゲーム』が・・・・・・という時、フィーリングのあるその声がよみがえってくる。しかし、映画ではなく、映画の話を聞くものにとっては、その歌声は聞こえないのだ。たとえ、映画『ソルジャー・ブルー』の主題歌を歌った人だ・・・・・・と付け足しても、それは、一片の知識としてしか残らないだろう。
 ぼくは、知識を伝達するために話をしたのではない。知識の媒介者も、時には必要だろう。だが、ぼくの伝達したかったことは、映画や子どもの本を、まず楽しむことである。真面目であればあるほど、人は「楽しみ」を軽蔑のまなざしで見るのではないか。まるで、「楽しみ」や「おもしろさ」が「真面目さ」の正反対の何ものかのように見えるのではないか。ぼくは、そうした二極分離的読書指導法を、暗に否定しているのだ。読書指導は、無意識のうちに、「よい本」と「よくない本」とを区別する。区別することによって、「よい子」を「よい本」でつくろうと努力する。その努力の内側で「たのしい本」の視点が、ともすれば軽視される。そのことが気になる・・・・・・と、いったわけだ。
 話のあとで、いくつかの質問がでた。その中で、気になったものを、一つだけあげておこう。

 ・・・・・うちの子どもは、本を読まない。どうすれば、本を読むようになるのか。(よくある質問だ)
 ・・・・・何のために、本を読ませたいのですか。(と、これは、ぼくだ)
 ・・・・・・よその子は、みんな、本をよく読んでいるのに、うちの子どもは、遊びまわっているから困るんです。(これもよく聞く説明だ)
 ・・・・・・なぜ、遊びまわっているんだと思いますか。(と、これもぼく)
 ・・・・・・さあ、落ち着きがないせいでしょうか。

 ぼくは、ここで、読書相談室のまねごとを紹介するつもりはない。だた、こんな例を持ちだすのは、変な神話を定着させたくないからである。変な神話・・・・・・といういい方は、適切でないかもしれない。しかしこの質問でわかるように、「本を読むことは、子どもにとって一ばん大切なことだ」という考え方を、ぼくは、そう呼んでいる。いや、そう呼びたくなる。これは危険な発想法だ。そう思う。本を読む・・・・・・というその行為だけが重視され、なぜ、教科書以外の本を読むのか、その効用性が無視されているからだ。そればかりではない。「本を読む」ということが、子どもの「遊び」と全く切り離されていること、いや、右の質問例でもわかるとおり、「遊びまわる」ことの上に置かれていることなのだ。
 遊びまわるのは、それが楽しいからだ。おもしろくて、のびのびとじぶんを解放できるからだ。楽しくない遊びなど想像できるだろうか。たとえば、「ためになる遊び」というものが、仮りにあるとすれば、それはもはや「遊び」ではないだろう。マス・ゲームや連想ゲームを指して、子どもの社会性や思考力の発達に役立つ・・・・・・という場合、それは、それらのゲームが本来「役に立つ遊び」だからではなく、「遊び」そのものであり、それが、子どもの育成に利用されたと考えるべきなのだ。ロジェ・カイヨワやホイジンガーの「遊び」の考察を持ちだすまでもないだろう。今日では、一般に、子どもの「遊び」は必要不可欠の行為だと評価されている。それにもかかわらず、本が登場する時、なぜ「遊び」は落としめられねばならないのか。
 絵本にしろ、長篇少年少女小説にしろ、本は、それだけの効用を持っている。効用といえば、即座に「塗り薬」か「飲み薬」しか連想できない貧困な想像力の持ち主もあるだろう。しかし、エーリッヒ・ケストナーは、その詩集の題名に『家庭薬局』というコトバを使用したのだ。(『人生処方詩集』と訳されているアンソロジーがそれだ)効用のない本など、クリープのないコーヒーより悪いだろう。しかし、なぜ、本の効用が「遊び」そのものの中で絶対視されねばならないのか。本を読まなくても、子どもは「楽しみ」を発見できるし、「遊びまわること」によっても、じぶんの想像力を押しひろげることはできるのだ。たとえば、マーク・トウェインの『トム・ソーヤー』や『ハックルベリィ・フィン』は、本を読んだだろうか。絵本も児童文学も読まなかったばかりに、この少年たちが、あんな乱暴者になったのだ・・・・・・という人は、よっぽど「いい子」だけを「人間らしさ」と取り違えている。トムもハックも、本らしい本は、たぶん読まなかったが、(トム・ソーヤーの中には、海賊譚や冒険物語の読書体験が生きているが・・・・・・)結構楽しいじぶんの世界を押しひろげ、それによって成長していったのだ。
 ぼくらのまわりには、あのミシシッピーの悠大な流れはない。子どもの空想を駆り立て、未知の世界に挑戦しようと思わせる大自然はない。しかし、団地の片隅の砂場や一本の木は、物理的・空間的にミシシッピーに及ばないとしても、子どもにとって、それと等質の大自然に変貌するものではないのか。もし、それが、ぼくら大人同様、せまっくるしい一坪の空間にしか見えないとしたら、どうして「遊びまわること」に夢中になれるだろう。ある子どもは、ぼくのように、一枚の絵の中に、果しない空想のひろがりを発見して、それを楽しむかもしれない。だからといって、それがすべてではなく、本に背を向けた子どもの世界にも、別の絵と別のページがあることを、ぼくらは忘れてはならないのだ。そうでなければ、「本を読むこと」にこだわって、本の向こうに何を見るのか、その点を落っことしてしまうだろう。その結果、本とは真面目なもの、遊びとは、むだな時間・・・・・・といった奇妙な神話をつくりあげ、子どもを、本の中に閉じこめようとすることになるだろう。
 一冊の絵本は牢獄ではない。自由への道である。そこを通過することは、唇をかみしめ、からだをしゃちこばらせることではない。反対に、早く通過することを惜しんで、立ちどまり、立ち戻りしたくなるような楽しい道のはずである。しかし、世の中には、一冊の本を、モジリアニやムンクの名画のように、子どもの前に立ちはだかせる人もいる。それを読まなければ、子どもの時間は不毛であるように指摘する人もある。いったい、そうした発想法は、精神の動脈硬化と関係はないのだろうか。
 ぼくは、一冊の本を楽しんで眺めている。しかし、眺めていない時は、その上に本を積み重ね、足のせにだってしている。こうした「文化的」な本の取り扱いは、ぼくだけかと思っていたら、そうではなかった。舟崎克彦と舟崎靖子の本『トンカチと花将軍』の中で、トマトという名のアライグマもまた、本を足のせにしていたのである。いや、そればかりか、このアライグマは、論文集を、日よけにも使っていたのである。りっぱな奴である。

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