やぶにらみ絵本論=レオニの「きのこ」

上野瞭
『ネバーランドの発想』(上野瞭 すばる書房 1974.07.01)

           
         
         
         
         
         
         
    

 ネズミを主人公にした絵本、ということだけでいえば、“Theodore and the Talking Mushroom”は、レオ・レオニの三つめの作品ということになります。『セオドアとものいうキノコ』とでも訳すのでしょうか。一九七一年に出版されました。
 『フレデリック』(一九六七)の詩人的ネズミ像に共感を覚えたわたしは、『アレキサンダーとねじまきネズミ』(一九六九)の、画風の変化にもさして抵抗を覚えず、そこに登場するネズミに親近感を抱いてきたのですが、この『ものいうキノコ』の場合、すこしばかり首をかしげてしまいました。それはつぎのような理由からです。
 古い木株の中に、トカゲとカエルとカメと、わが主人公ともいうべきネズミが住んでいます。この四人は(いや、四匹は)友だちということになっています。ところが、トカゲがまず自慢するのです。おれのしっぽは、切れても切れても新しいやつがはえるんだぞ。すると、カエルのいわく。おれは水の中だって泳げるぜ。カメもいいます。おれだって、自分のからだを箱みたいにぴったり閉じられるさ。そこで、おまえはどうなんだ。三匹は、ネズミに問いかけます。いつも、びくびくしているネズミは、答えます。ぼく、走れるよ。これを聞いて、三匹は、Ha! Ha! Ha! と哄笑するのです。(イヤーな感じ)
 ある日、木の葉の落ちるのに、ネズミはふるえあがります。フクロウだ、と思うのです。ものすごいスピードで、ネズミは、キノコのかさの下に逃げこみます。八月の空のように青いキノコのかさの下に、です。(レオニの描くキノコは、ふと、ベーラ・バラージュの作品『ほんとうの空色』の、あのふしぎな空を思いださせます)このキノコが、ものをいうのです。Quirp……。キノコは、ただ、このひとことを繰りかえすだけです。でも、ネズミにとって、キノコのこのひとことは天啓です。
 世界にただ一つものいうキノコ。そのことばを、ぼくは理解できるようになったぞ。そういって、トカゲとカエルとカメを、美しいキノコのそばまで連れていくのです。クェープしかいえないキノコのそのことばを、ネズミは、じぶん勝手に翻訳するのです。(わたしもまた横文字をじぶん勝手に翻訳して、そのでたらめさ、水素の数ほどあったことを、このあたりで赤面しつつ思いだしたりします)ネズミの翻訳は、こうです。ネズミは動物の中で一番尊敬されなければならん、キノコはそういっているのさ、というのです。
 このニュースはひろがります。トカゲもカエルもカメも、ネズミの頭に王冠をのせます。花輪を持って訪れる動物たち。(その花輪の、なんとなくホンコン・フラワーめいてみえるのは、わたしが「誤解する権利」を行使しているためでしょうか。セオドアは、「フレデリック」のように半眼を閉じていますが、その鼻は得意気に上を向いています)
 ネズミは、もう走ることも歩くこともいりません。どこへいくのもカメの背中にのっていけばいい。そんな立場になります。そして、一切の破局ともいうべき遠足の日がきます。けわしい丘の頂きにのぼったカエルは、谷間に意外な光景を発見します。おい、きてみろ。トカゲやカメに叫ぶカエル。谷間は、ブルー一色のものいうキノコにみちみちているのです。
 世界にただ一つのものいうキノコ。それは嘘っぱちでした。この無数のキノコを前にしては、トカゲもカエルもカメも、ネズミをののしらないわけにはいきません。うそつき! 
 ぺてん師! ほら吹き! かたり屋! ならず者! いんちき野郎! 三匹はカッカきて叫びます。ネズミは、王冠を投げだし、あっという間に逃げだします。二度とかれは友だちの前にあらわれませんでした。というのが、この絵本の結末です。(『木枯らし紋次郎』と違い、なんとみじめな姿の消し方か)
 わたしが首をかしげたのは、この物語に含まれている「ものの考え方」のせいです。明らかに、この筋書には「嘘をつくことはよくないことだ」「嘘はいつかその化けの皮をはがれるものだ」という「教訓性」があります。ここに、わたしは、ひっかかったのです。(もちろん、こういったからといって、わたしが、レオ・レオニを「非教訓的画家」あるいは「反教訓的絵本作家」として理解していた……ということにはなりません。『スイミー』(一九六三)にしても、『せかいいちおおきなうち』(一九六六)にしても、『アルファベットの木』(一九六八)にしても、それとなく弱者の団結の必要性や、欲ばりへのいましめや、あるいは反戦的行動の必要性が挿入されていました。それはそれで、作者の主張なのですから、何ら異議申し立てをしようとは思いません。問題は「教訓」の有無ではなく、「教訓」がはたして正当かどうか、という点にあります)
 『ものいうキノコ』の場合、一方的にネズミが悪者になっています。まるでネズミは、ほかの動物たちの面よごしというように罵倒されるのです。しかし、ネズミは、なぜ嘘をついたのでしょう。どこかの国の政府のように、おしかくすべき秘密(あるいは秘密協定)を持っていたのでしょうか。どこかの国の閣僚は、知られたくない事実を隠蔽するために、嘘をつきました。ネズミはしかし、なにをかくす必要があったでしょう。そもそも、嘘の一つもつこうという決心にかりたてたのは、友だちの自慢が原因ではありませんか。トカゲがしっぽの再生を自慢し、カエルが潜水力を誇り、カメが甲羅の所有をひけらかしたからなのです。トカゲもカエルもカメも、ある能力(ないし特性)を持っている。その「所有」の機能を自慢したことが、ネズミの嘘のはじまりでした。それで、おまえは何を持っている?(いや、何ができるんだ?)ネズミにむけられた三匹のこの質問ほど残酷なものはありません。何もない、ただ走れるだけのネズミに対して、ネズミ以上の特性を要求しているからです。「所有しているもの」の、「所有しないもの」に対する等質性の要求。こんなにむごい話があるでしょうか。
 ネズミは恥じます。恥じなくてもいいのに、恥じるようにしむけられます。じぶんが、何かを所有していないことは、友だちではない。そんなふうに思わされてしまうのです。嘘は、そこに生まれました。せめて友だちなみに、何かを持たなければならない。そう思いこまされてしまうのです。ふとキノコの呟きに嘘を思いついたのは、ネズミの責任でしょうか。
 もし、トカゲたちが自慢しなかったなら、このとっさの思いつきは生まれなかったでしょう。たぶん、ネズミは、嘘をつくかわりに、友だちを連れてきて、みんなして、そのキノコのことばの解読に興じたことでしょう。そのキノコを手がかりに、谷間のキノコ群のことばに、もっと別の意味をつけたり消したりして遊んだことでしょう。四匹は、それぞれ独自のキノコ語解読法を行使して、そこに四とおりのことば遊びの楽しさが生まれたと思うのです。しかし、レオニの絵本では、四匹のことば遊びや、キノコ研究(?)に物語が展開するかわりに、ネズミを永久追放者とする一つの落とし穴として、キノコや友だちが描きだされるのです。
 罰せられるなら、トカゲたちこそ、その「自慢」の罪で追放されるべきだった。そうではないでしょうか。悪いのはネズミ一匹。これでは問題のすりかえになりはしないか。あまりといえばあまりな結末です。子どもは、この絵本を読んで、嘘をつくことのおそろしさは知らされても、嘘をつかせるもののおそろしさには、まったく気づかされないでおわるのです。「嘘つきは泥棒のはじまり」このいいふるされたことばのかげに、じつに、いやな「正直者意識」が息づいています。


 わたしが首をかしげているのは、そうしたモラルのせいばかりではありません。『フレデリック』以来の「ひいき」のネズミが、不当な「教訓」の材料に転化されたこともさりながら、「ひいき」のレオニが、絵本を日常的価値観に帰属するものとして、この場合つくりあげている点にもあるのです。「日常的価値観に帰属する」とは、ひどく抽象的ないいまわしですが、これは、絵本を「閉ざされた世界」のために奉仕させている(あるいは、奉仕させているのではないか)ということです。
 子どもの文学が本来そうであるように、絵本もまた、「開かれた世界」だと、わたしは考えるのです。「開く」といい、「閉ざす」といい、これは比喩ではなく、人間の可能性に関わる規定です。
 「閉ざされた世界」とは、人間の可能性が抑圧されたこの日常的世界を指します。人間は、大人も子どもも含めて、出生と同時に無数の枠組みでしばりあげられます。家族もそうだし、国家もそうです。時代、場所、経済的条件、社会通念など、人間を閉じこめるものには事欠きません。選択不能な、この他律的拘束と共に、人間を「閉ざされた世界」の住人とするものにいま一つ、その存在の限定性があります。わたしたちは、一人一人、今、ここに、かく生きている以外に生きようがない、といえばいいか。ただ一回限りの、他人と差し替えのきかぬ有限不安定な存在こそ、わたしたち「人間」と呼称されるものだ、ということです。わたしたちは、ああも生きたい、こうも生きたい、と、さまざまな人生のあり方を望みながら、常に、ああでもなく、こうでもない、この今の生き方を唯一の人生として送ってきた、(あるいは送っている、送るだろう)ということです。子どもは、ハックルベリィ・フィンのように生きることもできるはずなのに、そうした生活からしめだされ、今日では道を横切るのでさえ自由ではない。まず右を見、左を見、手をあげて、それから、おびえるように走り抜ける現実があるのです。遊び時間も、遊び場も、極度に限定された日常性を持っています。なぜ、今、ここで、こういう形の子ども時代を持たなければならないのか。この疑問は、なぜ、今、ここで、こういう管理社会の一員として生きなければならないか、という大人の疑問に重なりあいます。あえていえば、大人・子どもを問わず、人間は人間として共通の限定性に生きているのです。この限定された人間に「閉ざされているもの」は、別の人生、多様な人間のあり方。まさに、そうあることもできるのに、という無限の可能性です。
 「閉ざされた世界」は、人間のこの可能性を排除するために、無数のマクシムを用意しました。「上を見ればきりがないから、下を見よ」ということもそうなら、「正直者の頭に神宿る」から、「早起きは三文の得」もそうです。「時は金なり」「猫に小判」一つ一つ考えていけば、人間を馬車馬のように一定の秩序・枠組みの中にかりたてる限定の思想ばかりです。人間は有能な存在だから無限の可能性を志向させる……というのではなくて、有限だからその限定性だけをみつめて生きよ……という発想法です。大人は、これを「分別」と呼び、そうでない飛躍・変身への願望を「子どもじみた夢」と嘲笑します。しかし、大人の嘲笑する「子どもじみた夢」の中には、じつは、人間が本来望んでいる多様な人生への可能性(あるいは、それへの願望)が息づいているのです。大人は、「子どもじみた」という侮蔑的なことばを口にすることによって、みずからの内に息づく可能性への願望を嘲笑することになるのです。これが、自己蔑視でなくてなんでしょう。
 レオ・レオニの『ものいうキノコ』を、「日常的価値観に帰属させるもの」といったのは、右の点と関わっています。トカゲ、カエル、カメ、ネズミを描くことによって、限定された人間の中の(子どもの中の……といわなくてもいいと思います)その無限の可能性に形を与える……(それこそ「開かれた世界」です)のではなくて、レオニのこの絵本は「閉ざされた世界」のマクシムに到達してしまったからです。
 「嘘をついてはいけない。嘘はすぐに化けの皮をはがれる」、それに加えて「嘘つきは友だちさえ失う」という帰着点。これが子どもの(あるいは、人間の)可能性に形を与えたものかどうか、少し考えてみれば、よくわかると思うのです。この「ものの考え方」の中には、嘘をつかない人間(=子ども)それは「正直者」(=いい子)という発想、すなわち、それこそ人間らしい人間(子どもらしい子ども)という考え方が生きているのです。これを裏がえしにしていえば、人間は「何々であらねばならない」という「……ねばならない」思想が潜んでいることに気づくはずです。「正直でなければならない」という考え方。子どもは「子どもらしくしなければならない」という限定的発想。人間を自由に解き放つより、狭く限る思想なのです。いったい、だれのために正直でなければならないのか。正直とは、何を規準にした人間のあり方なのか。その点はまったく欠落します。個人的信条で国家の好戦的要請を拒否しようとした場合、正直とは、個人のあり方に関わるものなのか、個人の意志を無視する国家に関わるものなのか。これはまことに微妙です。ゲシュタポに逮捕されたレジスタンスの戦士は、「正直にいえ」と命令されて、じぶんの仲間の名前を告白したかどうか。事は、これほど政治的次元に及ばなくても、先に触れたレオニのネズミの嘘で十分理解できると思います。嘘といい、正直といい、それは、状況、立場、相互の関係のあり方によって、さまざまな意味あいを持ちます。頭から一括して「善悪」の規定のできるものではなかったはずです。かりにもし、善悪の判断を加えるとするなら、嘘にしろ正直にしろ、それが人間をより自由に押しやるものか、また閉じこめるものなのか、そこの点を規準にしなければならないと思うのです。そうした人間への配慮を抜いて、「嘘をついてはならない」とか「正直でなければならない」などど「……ねばならない」思想を押しつけることは、それがどれほどりっぱなことばでも、人間を閉じこめる発想だといえます。「らしく」などということばは、その代表的な首かせです。「日本人らしく」ということばで、二十数年前わたしたちが、どれほどひどいことをやり、ひどい暮らしを是としたことか。人間に先行するマクシムや日常的価値観は、常に人間の無限なる可能性の芽を摘みとり踏みあらし、「閉ざされた世界」に人間をつなぎとめるものなのです。
 『フレデリック』を描いたレオニほどの絵本作家なら、それがわかっているはずです。絵本は逆に、日常的世界で限定される人間の、その内部に疼く無限の可能性に、形を与えるものだ、と知っているはずです。ネズミを描くことは、トカゲやカエルやカメたちに比較して、悪の存在を提示することではなく、それぞれのあり方を認めることか、それとも、まったく新しい別世界をつくりだすことでなければなりません。
 この日常的人間が、閉じこめられた一つの世界をつくっているのなら、絵本は、そこにさしかけられたもう一つの世界でしょう。それは、人間の可能性を「開くもの」であり、「閉ざすもの」であっていいはずはありません。子どもは一冊の絵本を開くことにより、人間の「閉ざされた世界」の諸規則を知るのではなく、それへの適応の仕方を学ぶのでもありません。この日常的世界の諸規則によって抑圧されている無限なる人間のふしぎさ、あるいは、多様な世界の深さとひろがりを楽しむのです。ここに今、こうして生きているじぶんのあり方だけが人間のあり方ではないこと。人間とは、こんなにもふしぎな世界を、これほどおもしろく思い描くことのできる存在であること。つまり、読み手自身の内なる可能性を、そこに発見するのです。絵本は、この意味で、わたしたちのもう一つの世界、ということができるでしょう。もし、絵本が、この本来の働きを軽視して、読者を日常的世界に連れもどすだけなら、なんと味気ない話でしょう。それは子どもの芸術と呼べるかどうか。いや、芸術などと高尚なことばを使わなくても、すでにそのたぐいの絵本の「遊び」とは、人間教化(あえて飼育とはいいませんが)の道具でしかないのです。


 わたしが、せな・けいこの『いやだいやだの絵本』をなんとなくうさんくさい目で眺めるのも、絵本のこの誘導性からきています。たとえば、その中の『にんじん』ですが、これはつまるところ「にんじん」を食べる子は「いい子」という絵本です。(そうじゃないという意見もあるでしょうが、あえて、そういっておきます)
 うまさんも「にんじん」好き。きりんさんも好き。おさるさんも、ぶたさんも、かばさんも「にんじん」好き。こう描かれていては、子どもとて、「にんじん」を好きにならないわけにいきません。もし「きらいだ」といえば、この動物たちからきらわれるのではないか。きらわれないまでも仲間はずれにされるのではないか。そう思ってしまいそうになります。この絵本は、一種の「しつけ絵本」で楽しく動物の絵を眺めるうちに、「にんじんぎらい」をなくすものだ。そういう考えもあるでしょう。わたしにしても、そういう意図がわからないではありません。たしかに「にんじん」には、ビタミンAやビタミンCが含まれています。「にんじん」の根の赤いのは、カロチンのせいで、カロチンは体内でビタミンAにかえられる。ビタミンAの欠乏は、夜盲症や、角膜乾燥症、あるいは、毛孔角化症を引きおこすこともわかります。子どもの健康な体をつくりあげるために、「にんじん」を食べさせようという、ここには栄養学的子どもの幸福論のあることも確かです。しかし、「にんじん」の原産地は、地中海沿岸だといわれ、それが日本に渡来したのは江戸時代初期だと聞いています。もし、この渡来説が事実とするなら、江戸時代以前の子どもは「にんじん」を食べなかったことになります。そこで、室町時代や平安朝の子どもは、ほとんど夜盲症にかかっていたのかということになりますが、まさか、こうした推論は成立しないでしょう。なぜなら、ビタミンAは「にんじん」の独占するところではなく、総体に緑葉類一般に含まれているからです。「にんじん」を食べない時代の子どもは、青い菜っ葉類を食べてその健康の保全を無意識のうちに計っていたのです。
 今日では、ビタミンAは、「にんじん」以外の肝油やバターからも摂取できます。もし、この絵本が、ビタミンAやビタミンCの摂取を意図しているのなら、「にんじん」オンリーの発想ではなく、「なんでもたべましょう」という形で、その栄養学的幸福論を提示すべきだったでしょう。「にんじんぎらい」の子どもを、ひょっとしたなら仲間はずれになるのじゃないかという形で、「にんじん好き」に持っていく点で、わたしは、さきに触れたレオニのネズミの場合と同様、なんとなく不安になるのです。
 それにしても、『にんじん』は、まだ食べものの話ですから、がまんするとして、『ねないこ、だれだ』になると、おそろしくさえなってきます。「とけいが、なります。ボン、ボン、ボン……」にはじまるこの絵本は、夜の九時を過ぎても起きているのは、みんな悪い奴ばかりという考え方なのです。ふくろう、みみずく。どらねこ。どろぼう。ねずみ。おばけ。寝ない子は、おばけになって、おばけといっしょに、とんでいけ……という結末なのです。いくら絵本が、もう一つの世界に読者を誘導するからといっても、これでは、追放といっしょではないでしょうか。これは、恐怖によって、子どもを眠らせようという発想であり、ひどく残酷な感じがします。この絵本は、「一歳半から」の読者を想定しているのですが、ここで、子どもがはじめて出会うのは、恐怖ということになるのです。まっ黒な背景に、白く描かれたおばけ。この印象は強く子どもの中に残るでしょう。絵本とは、こんな形で、子どもに関わるものなのかどうか。わたしは、人間の可能性に形を与えるものとして絵本の機能を考えてきましたが、ここにあるのは、悲しいことに反対の考え方です。早寝する子は「いい子」。「いい子」は「子どもらしい子ども」。それ以外は、ワルイコドモデスヨという、人間を「閉じこめる」思想です。
 おまえは絵本をそんなふうにしか眺められないのか。レオニにしても、せな・けいこにしても、その一枚一枚の絵のおもしろさがあるはずだ。そういう反論がないでもありません。すべては、子どもの「しあわせ」を考えての構成で、それに異議申し立てをするのは、おまえが「意味」を考えすぎるからだ。そうもいわれそうです。なるほど、子どもの「しあわせ」を願うということはわかります。しかし「しあわせ」とは何でしょうか。まだ、ことばを覚えるか覚えないあいだから、大人がすでに閉じこめられているこの日常的世界に、子どもを適応させることでつくられるものかどうか。わたしは、大人の、子どもへの配慮が、「閉ざされた世界」との関わりでなされる時、それがいかに美しくりっぱな意図であっても、首をかしげ続けないではいられないのです。
 「しつけ」や「知識」の絵本が不要だとはいいません。しかし、子どもが、はじめて出会う絵本によって、「閉ざされた世界」に組みこまれるか、「開かれた世界」の発見に胸をおどらせるか、これはばかにできない問題だろうと考えるのです。絵本が、人間の自由や可能性に関わるものなら、子どもに向って「ああしろ」「こうしろ」と規制するのは「いやだいやだ」……という方向で絵本もつくられる必要があるのではないか。そうでなければ、つまらないな、と思うのです。
 レオ・レオニは、ものいうキノコを描くことによって、キノコはものをいわないこの日常的世界に、別の世界の存在しうることを示しました。キノコの呟きは、まさにそのふしぎさと楽しさによって、わたしたちを、「閉ざされた世界」から解き放とうとしました。ところが、この楽しさは、ふいにネズミの嘘と放遂という形で打ち切られてしまいました。いま一つの世界は、開かれかけたまま、シャボン玉のようにしぼんでしまった、ということです。絵本を閉じることによって、一つの物語は終ったとはいえますが、読者であるわたしの中では、少しも物語は終っていないのです。行方知れずになったネズミのことも気にかかりますが、Quirp,Quirp,と呟きつづけるキノコのかさのあの青さが、なにかを訴えつづけているからです。その訴えは、とてつもなくおもしろい世界を語りかけようとしたものが、そのことを語りえず、ついに閉ざされたままに終ったというその悲しみかもしれません。しかたなく、わたしは、キノコにかわって、Quirpと呟いてみるのです。そのうちに、このキノコ語が解読できて、ふいに、ふしぎな世界に出会えるのではないかと、かすかに期待を抱いているのですが……。
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