戦時下の児童文学-小川未明の場合

上野瞭
『ネバーランドの発想』(上野瞭 すばる書房 1974.07.01)

           
         
         
         
         
         
         
    


 日露戦争の激戦記録である『肉弾』を書いた桜井忠温に、『哀しきものの記録』という本がある。
いうまでもなく晩年における回想記である。昭和三十二年(一九五七年)に出版された。『肉弾』の出版が明治三十九年(一九〇六年)だから、文字通り半世紀たっての戦争体験の反衡という性格を持っている。
 わたしが『肉弾』を読んだのは、もう七年くらい前で、たまたま古本屋で買ってきた『桜井忠温全集』全六巻(昭和五年〜六年刊・誠文堂)によっている。わたしの関心は、一冊の旅順実戦記によって明治天皇に異例の「謁見」をした青年将校にとって、その後半生と重なりあった「太平洋戦争」とは何であったのか。とりわけ、その青春が日露戦争と重なりあい、その晩年が日本の敗戦である一軍人にとって、自分の国・他人の国とはどう考えられていたのか。その「問いかけ」なり「問い直し」が行なわれたのかどうか、という点にある。
 もちろん、一軍人といっても、桜井忠温は敗戦前に退役している。退役将校にかかわらず占領軍の公職追放を受けている。八十六年の生涯の、ほぼ半ば以上が職業軍人であり、しかも『肉弾』が日本の軍国主義の進路に相即の関係を持っていたとすれば、桜井忠温個人の心情の問題は無視されざるをえない。
 『肉弾』は「奮戦記ではあるが、その底に人間のいのちをいたむヒューマニズムが感じられる」といった「天声人語』(朝日/昭40・9・19)。また、「その本質は人間愛で、徹底した平和主義であったと信じている」という中野実の談(読売/昭40・9・19『最後の古武士』)。こうした視点は無視されてしまう。その晩年が非常に不幸であったことも、洋画家・伊原宇三郎の投書で知るばかりである。(朝日『声』欄/昭40・10・7)しかし、桜井忠温個人は、その追放を是とするか非とするか、また、自分の半生の生き方なり、あるいはそこで組み立てた思想なり信条なりをどう思うか、再点検する機会はあったはずである。松山子規会の越智二郎という人が、「老来なお青年のごとく、いささかも衰えをみせす書きためた未発表の原稿も膨大なものがある」(朝日『桜井忠温氏故郷に死す』)と記していたが、たとえ、そこに右に記した自己検証があるとしても、それを読むことはできない。 わたしにとって桜井忠温の戦後を知ることは、『哀しきものの記録』一篇によってである。少くとも、ここには敗戦を介在させながらの五十年後の視点というものがある。旅順攻撃戦で血をたぎらせた「おのれ自身」を省みるには、それほど不足した時間ではない。わたしは『哀しきものの記録』をそうした期待とともに読んだわけだが、ここには文字通り、二重の「哀しさ」があった。
 その一つは、「流れるものは流れるのだ」(P・293)という過去に対する諦観であり、いま一つは、「お互い不幸なのである。戦争は国と国との戦争でお互い何の怨みがあったわけではない。止むを得ないのである」(P・268)という個人を規制した国家への「問いかけ」の放棄である。「戦争人間はいくさがあれば勝てばいいのである。負けるようなものはいらないのである。とに角、敗戦となっては、何かしらやって食って行かねばならなかったが、大かたは能なし猿である。それが当たり前である」(P・290)という。桜井忠温は、そういうことによって軍人である(あった)自己を否定したが、これはあくまで「戦争人間」全体を垂直につらぬく否定ではない。また戦争に関して「お互い何の怨みがあったわけではない」という時、桜井忠温は『肉弾』における白兵戦を想起していたと思うのだが、それは「戦闘」であって「戦争」ではない。戦闘は戦争の主要な部分ではあるが、戦争そのものではない。「止むを得ない」戦闘をその中に含む国家間の対立や係争が、なぜ晩年の主題にならなかったのか。「戦争人間」と「戦闘人間」を同一視することによって、しかも、それを「おのれ自身」の悲命に帰すことによって、その個体験自体を思想化しなかった点が「哀しい」のである。「わたしがこんな愚痴や泣き言をいうのはまちがっている」(P・293)として、愚痴や泣き言を問い直さない点が「哀しい」のである。
 このような話は「戦時下の児童文学」という主題から離れるかもしれない。しかし、桜井忠温が児童文学と全くの無関係でないこともまた確かで、その証拠に昭和十八年(一九四三年)の『少国民の友』(三月号)に『攻撃だましひ』という一文を書いている。両手を負傷し口で銃をくわえて立哨する兵士の話。両足を撃たれた兵士をおぶって前進する小隊長の話。日露戦争から太平洋戦争にかけての戦闘のエピソードがいくつか書き直されている。「鬼神も哭く」ということばが当時しきりに使われたが、ここにある話はそれである。わたしの「哀しさ」は、画家になるはずの人間が軍人になり、こうした戦意昂揚の児童読物を書いた点にあるのではなく、そうした自己を問い直す状況を迎えても、問い直しえなかった点にある。そしてこれは、単に桜井忠温ひとりの問題ではなく、「戦時下」に作品を書いた児童文学者の問題点であり、また、現代のわたしたちにも内在する問題だと思うのだ。
 わたしはその時、子どもであり「受け手」であったという視点は、一見正当性を持っている。しかし、わたしたちはピーター・パンでありえない以上、「受け手」であり続けることはできない。絶対無謬の視点は「戦時下の児童文学」を測定するにふさわしくない。国家権力の介入が、戦争時代ほど露骨強激にわたしたちの全体に及ばないとしても、今日すでに自主規制という形で「なしくずし」の転向さえ生まれている。「本から学んだ思想を風化させ、じょうはつさせてしまうようなくらしの形が、現代的な新しい転向の形態としてわれわれのあいだにある。ごうもんも弾圧もなく、何げない善意のしぎの回路をとおしなめらかにまわってゆくはてに転向が成就するという、屈伏も挫折も転向そのものさえないかのような転向の形である。このような転向を自覚的にとらえ、自覚的統制の下におくことができる道をさがすことが、今日の転向論の一つの道標となる」(『転向』下巻「転向研究グループについて」M・N、S・T/平凡社/昭32)この「思想の科学研究会」の発想は「思想」の可変性と有謬性の自覚の上に立っている。この視点は、一戦時下の児童文学」を検討する上でも最低限おさえておかねばならぬものだろう。殉国の思想を「与えられたもの」は、今、別の思想を「与える側」に立っている。子どものまま死ななかったものは、大人となって子どもの前に立っている。仮りにもし、この可変・動的な人間関係の中で絶対的なものを求めるとすれば、この人間の生が一回限りのかけがえのないものだということより他はないだろう。共同研究『転向』の視座は、自発的あるいは他律的に思想を変更していった「与え手」のプロセスに向けられている。思想の伝達者は誤謬を認めればそこから立ち直ればいい。「受け手」である(いや、あった)死者は、その時どうずればいいのか。わたしは、転向者の転向とは無縁に、無数の「受け手」が、転向さえ知らずに死者となったことを考えてしまう。
 桜井忠温は、つぎのように記した。「私自身、『戦争』という悲しい約束がありました。そのため多くの友人を失い、多くの兵士を殺しました。功名、心に燃えた一士官ではあったが、ただ土の上に徒らな血を流したに過ぎなかったのでした。その血の思出は五十余年の昔に去ったとしても消ゆるものでもありませぬ」(『哀しきものの記録』=「この著について」より)
 わたしは、これを誠実な告白だとは思う。しかし、そうだからといって、はじめに記した「哀しさ」は消え去らないのだ。たとえば『肉弾』の「第五・上陸の危険」章につぎのようなことばがある。「家屋の汚職と土民の不潔とは何とも御話にならぬ。土地馴れぬ我等はいつも鼻を掩はずにはみられ無かった。名こそ舎営だが、実は軒端の雨宿、浸み込むやうな異様の臭気は、到処から舞ひ上り、大蒜臭い大チャン小チャン豚の如くにゴロゴロ鎮座ましますに至っては、迎も堪へ切れぬ程であった」王家屯進駐の「日本人」の目から見た「中国人」である。青年桜井中尉は、日清戦争前後に定着した「チャンコロ」という蔑称、その蔑称に集約された「日本」の侮蔑的「中国観」から自由ではない。しかし、五十年という歳月は、(とりわけ敗戦という冷厳な事実は)その「日本的発想」を変えることはなかったのだろうか。『哀しきものの記録』の二七章に「馬賊」の話が出てくる。「このごろは村長までが馬賊になりましてね。こう馬賊にやられては食って行けんから、いっそ村じゆうで馬賊になったほうが早道というわけでしてね」と、U中佐が語る。それから十日ばかりして、馬賊がっかまる。「裁判も何もない。早速首を斬るのである。斬るものも斬られるものも至ってお粗末にできている。馬賊は一列に並べられ、その前に深い穴が掘ってある。死体をその穴へとばし込むのである」青竜刀で首を落とすのは日本人ではない。中国人である。この処刑を眺めている桜井忠温がいる。桜井忠温を含む「満州」の日本人がいる。そうした日本人を支える本土の日本人がいる。日本人の中には好んで「馬賊」の群れに身を投じたものもいるが、u中佐のことばどおり、「食えない」中国人が、やむなく掠奪者に落ちていった過程がある。この過程や原因を抜きにして、「満州はよかった。コセコセしないだけでもよかった」(同書P・210)という桜井忠温。ここにはすっぽり、同邦を「殺しあう側」「殺しあわねばならなかった側」の人間の視点が欠落しているのだ。
 日露戦争当時、軍事探偵であった石光真清の「手記」にはこう記されている。
「一市民として旅行して意外に思ったことは、戦時中にあれほど満州市民に対して協調的であった日本軍が、まるで満州占領軍であるかのように、満州市民を敗戦国扱いしていることであった。軍から身を退き軍から追われた今の境遇がこのように感じさせるのであろうか。駐屯部隊の傍若無人ぶりを各地に見て、心が痛んだ」(『望郷の歌』1「失意の道」三/竜星閣/昭33)とある。桜井忠温が「血の思出」という時、こうした当時の状況は、その視座にはいっていたのかいないのか。た」という五十年目の回想は、おのずからそうした状況の欠落を物語っている。
 本多勝一が『中国の旅』(朝日/昭46一8・26)で伝えようとする血の思い出は、桜井忠温のいう「血の思出」を、さらに下から支えていたのだ。
 わたしは、個人の誠実や善意で相殺されないものがあることを語っている。それは、桜井忠温の場合でいえば「支配される側」の視点であり、戦時下の児童文学の場合でいえば、常に「受け手」で心かなかった子どもの立場である。この関わりあいを抜きにして、戦中から戦後への児童文学者の思想のスライドを考えることはできない。もちろん、これは先にいったとおり、絶対的な視点から戦争協力者を裁くことではない。人間は、もろく弱いものである以上、そこには常に思想の流動がある。それが。フラスの方向であるにせよ、マイナスの方向であるにせよ、人間は苦悩する。しかし、この苦悩を「誠実」として固定的に評価する時、それによっては相殺しえないものが欠落していく。このことはすでに、桜井忠温でみたとおりである。それにもかかわらす繰りかえすのは、日本の児童文学のスライドの仕方を考えるからである。日本の児童文学といういい方が概括的すぎるというのなら、小川未明の場合といってもいい。小川未明の戦後の位置なり評価なりを考えるならば、日本の「戦時下の児童文学」が、どのように児童文学者によって拡散されたかはわかるはずである。
 小川未明は、戦争を推進する側に立っていた。それにもかかわらず、敗戦と同時に「民主主義」の旗手なみに迎え入れられたのである。




 昭和二十一年三月、(敗戦の翌年である)小川未明は、児童文学者協会が創立されると会長となった。「会を作るときに、小川未明さんとかいろんな先輩の意見を聞いてみたわけです。(中略)民主主義的な文学団体ということではいろんな人をみんな集めていいわけだったのですけれども、あの当時の時勢のなかでは、やはり戦争中あまりはっきりと軍国主義の片棒をかついだ人は積極的に誘わないというふうな申し合せを発起人会でしました」と、関英雄は語っている。これは菅忠道『日本の児童文学』(増補改訂版/大月書店/昭41/P・341-342)からの孫引きである。関英雄のこの発言は『近代文学』昭和三十四年二月号の座談会中のものである。昭和三十三年に発行された雑誌『日本児童文学』の九月号には、「聞きがき現代児童文壇史・1』が載っていて、そこでも小川未明を戦後の会の代表に持っていこうとしたエピソードが語られている。しかし、この匿名の『文壇史』は、事実誤認の理由で中断されている。小川未明が、敗戦直後の児童文学者協会の創立発起人になったことは、前記「日本の児童文学」にも記されているし、また、初代会長であったことは、昭和三十六年「日本児童文学」小川未明追悼号の酒井朝彦の『弔辞』にも語られている。「思えば、傷ましい終戦の荒廃直後、人心喪失のさ中に、昭和二十一年の早春三月、私ども児童文学者で志ざしを同じくする者四十数名は、児童の魂に光を掲げたいと考え、先生を中心として児童文学者協会を創立いたし、先生を会長に仰いで発足したのでありました」ここには多少の儀礼的表現があるとはいえ、その部分を差し引いて考えても、敗戦直後の児童文学者が、小川未明を「それ」ほど低く評価していなかったことがわかる。「低く」というのは、先の関英雄の発言にある「戦争中あまりはっきりと軍国主義の片棒をかついだ人」という意味である。しかし、それは、未明の戦時中の発言なり姿勢なりを知らなかったということではないだろう。その証拠に、前記の関英雄の発言の中にはつぎのようなことばがある。「しかしその線(筆者注・戦争協力者の規準)をどこにひくかということになると、ああいう戦争中のことで、ぜんぜんなにも協力しなかったというふうな人はほとんどないといってもよいくらいで、むずかしいことでした」ここに、二反長半のことばを加えてもいいだろう。「ところが児童文学者の中で、小林多喜二を見つけることは困難であった。いや、ついに小林多喜二なしに終戦を迎えたというのが真実であろう(『児童文学の展望』大阪教育図書/昭44/P・205)
 戦争協力か反戦抵抗か、こうした二者択一的発想は、絶対的視点からその価値規準に合致しないものを十把一からげで押し出す危険性がある。殉教者を出し得なかったことで、転向者の微妙な異質性を無視するという危険性を含んでいる。どこからどこまでが協力で、どこからどこまでが不本意な適応か、ボーダー・ラインを引きにくい。これは異常体制下の、常にかかえこむ人間の問題だとしても、小川未明の場合は、明らかにその中間流動層の作家ではなかったはずである。
 昭和十五年(一九四〇年) 六月に出版された『新日本童話』(竹村書店) の中で、小川未明は、はっきりつぎのようにいっている。いわゆる、「大東亜戦争」に先立つ一年前のこと、日中戦争開始から三年目、満州事変から九年目のことである。
「いま日本は、一面に戦い、一面に東亜建設の大業に着手しつつある。これは実に史上空前の非常時であろといわねはならぬ。それであるから老若男女の別を問わず、各々分に応じて奉公の誠をいたしつつある」(『日本的童話の提唱』より。以下、現代仮名づかいに改めて、アト・ランダムに引用してみる)「新しい日本が、自由主義を揚棄しても、独伊の全体主義と軌を一つにするものではない。そして肇国の精神に立らかえって皇道の何たるかを深く体得して、その実現を期するものと思われる。世界無二の有難い国体と精神は、自らにして人類を救済するに足りる」「今、自由主義時代の童話を省みるに、これには『愛』『自由』『同情』それらのものが取扱われているが、畢竟個人主義的な立場からであり、小市民的な思想に過ぎなかった」「今日ほど慌しい時代の変遷はない。(中略)もとより外国の場合とか、理論とかが役立つものでない。新しい現実は常に理論を飛躍する。破壊と建設の複雑な渦中にあっては、現実を直観して、伝統的精神の中から体系を見出し、新たなる建設的指導理論をつくるよりはかに道はない。この旗織の下に児童を動員する」
 もう少し引用しよう。
 「すでに、いまの日本は個人主義を許さない。全体の利益のために行動しなければならぬ。職能の別はあっても共に同じ陛下の赤子で、兄弟である」「先ず作家は唯物主義思想から生れたる文化を批判し、それを揚棄して、皇道精神の顕現を期さなければならぬ。文芸は一人一人の魂を浄化する作用である。そして児童らに報本反始の大義至誠と、弱きを助けて強きを挫く、すなわち日本精神を植付けなくてはならぬ」
 昭和十七年(一九四二年)四月に出版された二反長半篇の『少国民文学論』の中でも、小川未明は同主旨の小論を書いている。(『新しき児童文学の道』)また、同年五月刊の『新児童文化』(第四冊/有光社)の中の、「小川未明先生に訊く」という座談会でも「日本的精神」を語っていろ。すでに日中戦争の時点で表明された論旨を、未明は反芻しているにすぎない。天皇制国家は、異国に比べて「人類を救済するに足りる」唯一の国家であり、その国家的事業として今度の戦争は行なわれる。その戦争の意義は、「支那の無自覚なる、眈米に依存して東亜を危くしたためだ」(『日本的童話の提唱』)という点にあり、子どもは、このことを知らねばならぬし、この志の継承者である」(同書)と未明は唱く。また、「武士道」は、この日本的精神の一つの発露であるとも語る。(前記『新児童文化』座談会)小川未明が、こうした戦争肯定論を周囲の情勢によって仕方なしに説いているのでないことは、つぎの一文によっても明らかであろう。
 「少国民文化協会設立の会合などでしはしば目撃したところであるが、『われわれ日本人は、この非常時局にあたって…』と卓を叩かんばかりに愛国的情熱を吐露して少国民文化建設を叫んでいる氏の姿は、実に国民生活童話建設の先鰍者といった感銘を与える」
 昭和十七年発行の滑川道夫の『少国民文学試論』(帝国教育出版部)の中の、小川未明の項である。小川未明の姿に感銘を受けた滑川道夫もまた、同『試論』の「序」において、「少国民に与えられる読物としての文学は、『志』の志向において護皇の精神を育成する任務を分担する」といった。これは「ことばじり」をとらえて戦争推進の一翼をになっていたといいたいためではない。個人よりも国家の利害が先行する状況下では、いつかそのことについて敗戦は、未明の語ったこと、「いった」ことは、国家の利害より個への価値が先行する状況の中で「問い直す」必要があるだろうということがいいたいのである。日本のあるいは無数の未明的発想者の自己自身を問い直す曲り角だった。日本戦時下の児童文学名のもとに不定された個人の「変」や「自由」が、戦後には一つの価値尺度になったからである。小川水明は、ためらうことなく「子供たちへの責任』(『日本児童文学』昭21)を書いた。「戦争中はいかなる言葉をもって子供たちを教えたか。指導者らには何の情熱も信念もなく、ただ概念的に国家のために犠牲になれといい、一億一心にならなければならぬとかいって、形式的に朝晩に奉仕的な仕事を強制して来た。そして日本は一番正しいのであるし、敵は残忍であり醜悪であるということを言葉に文章に信せしめようとして来た。それが終戦後の態度はどうであるか。今までの敵を賛美しまちがっていたことを正しいといい、まったく反対のことを平然として語っている。子供は大人に対して抗議する力をもっていない。しかし批判力がないとだれが云い得よう」
 わたしは、未明が、『新日本童話』の発想とは、まったく正反対のことをいっていると指摘したいのではない。逆に未明は、昨日までの発言をまったく裏返しにするものについて、ひどく腹を立てているということがいいたいのである。戦中・戦後の 「指導者」(たいへん漠然としたことばである)は「何の情熱も信念も」なかった。しかし、小川未明は、情熱と信念を持っていた。だからこそテーブルを叩かんばかりにして「非常時局」が説けたのだといいたいのである。「形式的」に戦中の戦争推進者は「一億一心」を説いたが、わたし(未明)は「形式的」ではなかった。だから「まったく反対のことを平然として」語れない…という未明の姿勢を知ってほしいのである。おなじ一文の末尾でいう。「今日のこのこうした荒んだ状態から、子供たちを救うものは、何といっても指導者の誠実
であり情熱である。時代に迎合するというよりは当面した現実に新しい自己というものを発見して、子供たちと共に新しい日本を建設して行くという誠実がなくてはならぬ」この中の「時代に迎合する以下のことばは、先に引いた戦争時代の『新日本童話』の中の、つぎの一文と何と相似ていることか。
 「今日はど慌しい時代の変遷はない」「理論とかが役に立つものではない。新しい現実は常に理論を飛躍する。破壊と建設の複雑な渦中にあっては、現実を直観して」「新たなる建設的指導理念をつくるよりほかに道はない」わずかのことばを抜き、それを平易にいいかえるか、生硬に表現し直すかで、戦中の発言は戦後の発言にほぼ重なりあう。理論よりも当面する状況の中に、自分自身の在り方を探ろうという発想である。未明にとっては、そうした生き方は「時代迎合」ではなく「誠実」な人間の姿勢だったということになる。戦争時代、『僕も戦争に行くんだ』(『お話の木』昭12)を書いたが、「敵は残忍であり醜悪であるということ」は書かなかった。『少女と老兵士』(少年文芸懇話会編『現代少年文学選集』赤塚書店昭15)は書いたが、それは「文芸は一人一人の魂を浄化する作用」としてである…ということになる。
 はじめに、未明は、戦争を推進する側に立っていた、それにもかかわらず、戦後、民主主義を標榜する児童文学者協会の初代会長に就任したと書いた。しかし、未明においては、自分自身を戦争推進者の一人として自覚していなかったきらいがある。そうでなけれは、どうして『子供たちへの責任』を書くことができ、また、あの観念的な『兄の声』(『子供の広場』昭21)を書くことができただろう。「新しい現実は常に理論を飛躍する」という発想は、皇国史観に立脚する未明の誕生をうながしただけではなく、「戦後民主主義」の中に自己の存在理由を発見する場合の、未明的な、あまりに未明的な発想でもあったのだ。このことは反戦的作品として評価される「野ばら」や「血の車輪」を書いた時代(大正十年〜十二年頃)の未明、日本社会主義同盟(大正十年発会)に参加していく時代の未明の在り方にもかかわることであって、たとえば、乙骨淑子の指摘しているとおりである。「小川未明は社会主義への創造という事よりも、社会の純化への願いから社会主義へと傾斜していったから、この事はネオ・ロマン主義時代の頃に、社会の被害者へ全身でよせた同情や共感の同一線上の歩みであって、本質的には変化はないわけである」(『文学』昭和四十年五月号『小川未明ノート』より)未明にとってたいせつであったことは、自己と状況の関わり方を追求することではなく、自己の信条や理念を状況の中で生かすことであった以上、「常に理論を飛躍」して時代から時代へスライドしていけたのである。
 先にあげた戦争時代の座談会(『新児童文化』第四冊)の中で、未明は自分の文学者としての出発の仕方を語っているが、自然主義文学が「人生の暗黒面」を措くのに反駁して、「私はどうも文芸というものは美しくなければいけない」と考えたという。そこのところに、小川未明の「信条」が端的に出ている。「私はやはりこの世の中というものは正しくあり、そうして人間は真実があれば、それは必ず報いられて来るという気持が私の心から去らなかった。況んや正義というものが最後の勝利であるということ。正しいものは同時に美しいものであり、美しいものは同時に正義であるということは、私が文壇に出る時からの信念であったのです」一環していろのは、この固定観念であり、これが、社会主義的風潮の中では、その風潮にふさわしく形を与えられ、戦争時代には、その状況にふさわしく表現され、「戦後」には「戦後」で、それ相応の設定で表現されたということである。
 未明は戦前・戦中・戦後、毒して「資本主義」の「芸術商品化」を憤っている。しかし、それは資本主義機構の科学的分析を通じて(つまり「理論」を通過して)それの人間に及ぼす疎外感や収奪性を憤っているのではなく、自己の美学が正当に評価されないことを憤っているのである。「日中戦争」「大東亜戦争」に対するあれほどの肩入れは、この戦争が「報労必至」という自己の信条、「正義は美である」という自己の理念を具現化するだろうという「未明的読み取り」によって生まれたものであり、本来、日本資本主義にも内在する収奪性や非人問的ファクターは、一切、未明の目には、はいらなかったのだ。「新日本精神」ということによって、日本の国家機構に内在する経済的収奪性や政治に直結する戦争の悲惨さは欠落し、それを遂行するためのスローガンと未明の理念は癒着し、そのプロセスは一切視界から押しやられた。未明の理念なり美学なりが、「聖戦」のプロパガンダの中に、その正当なる位置をみつけたわけである。かれは「誠実」にそれを受け止めようとする。ここでは「現実」との関わりあいは一切消えて、未明の信念だけが光芒を放つ。生き死にする兵士や戦場に征く少年の姿は消え、それを「美しいもの」と考える未明の美学だけが明確になる。ここのところを読み違えると、未明は終始一貫「美と真実に生きた作家」として、近代児童文学の偉大な開拓者という評価を生む。未明と共に「戦時下の児童文学」に参加したものは、どうしてこの「誠実」だけを抽出して、戦後の未明評価を定着させたのだろうか。


 敗戦直後、小川未明が、日本の指導者をののしったことは先に引用した。『子供たちへの責任』には、掌をかえすように心て言動を改める大人への怒りがある。これはこれで未明のいうとおりである。しかし、それでは未明自身、何の恥じるところもなかったのだろうか。その時代その時代を精一杯情熱を傾けて生きてきたから、未明には何の問われるところもないのか。わたしは、桜井忠温の『哀しきものの記録』をあげて、そこに「哀しさ」をみろといった。小川未明の場合も、わたしは桜井忠温にまさる「哀しさ」をみるのである。未明の視座には、敗戦を境いにして言動を改めるものの姿ははいっているが、言動を改めなくてもいいという自分自身の姿ははいっていない。「愛」「自由」「同情」を「自由主義時代」の「小市民的な思想だといいきった自分の言動の検討が欠けている。敗戦翌年の作品『兄の声』の結末部で、「おまえは、真に自由と、正義と、平和のために、生命のかぎりをつくせ!」と、「兄」に叫ばせたが、この場合の「自由」や「正義」や「平和」は、戦中に否定した「自由」とは別のものだというのだろうか。一方を「個人主義的立場」の「小市民的」思想と呼ぶなら、戦後のそれは、いかなる立場のどのような発言のだろうか。未明はここで、同一の人間的価値を、正反対に使っているのではないだろう。むしろ先に記したように、本質的には不変の理念をさらに強調したにすぎないだろう。自然主義に反駁して内面的な価値(実は正義であり、正義は美である)を自己の信念として以来、小川未明は常に変動する状況の中で、それを唯一不動の規準として語り続けてきた。未明の「哀しさ」は、そうした自己の在り方を疑わないところにあり、そうした自己の実学が、他人をいかに傷つけるかを考えてみない点にある。二反長半は、『児童文学の展望』(前出)の中で、戦中の作品『少女と老兵士』(同・前出)をあげ、「しかし、小川氏は一面またあくまでヒューマニストであったことを忘れてはならない」といったが、『少女と老兵士』はヒューマニストの作品だろうか。
 幼椎園の少女たちが、陸軍病院に慰問に行く。その一人の兄が出征していて、傷ついた老兵士はそのことを知る。ひょっとして戦場で知りあった少年兵が、この少女の兄ではないかと思う。「その澄みきったかがやく眼の中に、相通ずるものを見ました。人間であって人間以上のものを感じたのです。『いったい、それは何であろうか』と、彼は考えました。そして、ついに、悟りました。生命というものは、はかないが、真実は何等かの形で永久に残るということでした。彼は次第に更けて行く、初秋の夜の空を仰ぎました。金色に、緑色にうす紅に無数の崖が輝いています。恐らく、どの一つにも烈々として炎が燃え上っているにちがいない。しばらくすると、それが、みんな人間の眼になって見えるのでした。寂然として、物こそいわないが、永遠に真実と正義とを求めている。その光りは、胸の底に深く浸み入って、魂をかきむしるのでした。『傷が癒ったら、早く戦線へ帰ろう』……」老兵士は、このあと、「人間は死ぬと、あの星になるってな」という戦友のことばを思いだす。物語は、このことばで終るが、ここで終らない問題が一つある。この作品の美しさ、すなわら、戦場での死と、人間の死と星の輝きの美しさを一つに結びつけた発想に、かりに感動した少年なり少女なりはどうなるのかということである。未明は、自分の美学をこうした設定で形象化し、それなりの満足や充実感を味わったかもしれないが、そこから先の問題は、読者が味わった感動の行方である。それは、死に直結する可能性がある。少くとも、この一回限りの生を、みずから問い直すこともなく、戦場に向ける(あるいは、向けた)可能性がある。かりに「可能性」と呼んだが、それは未明童話を直接の動機として、軍隊に志願していった少年があったかどうかは不明だからである。しかし、多数の少年兵が戦場におもむき、多数の少女が戦争の犠牲者となったことは、改めていうまでもない。国家は子どもを予備軍として育成することを目標にし、「校門は営門(軍隊)に通じる」と明言した。
「いまの日本は個人主義を許さない。全体の利益のために行動しなければならぬ。職能の別はあっても共に同じ陛下の赤子で、兄弟である」といった未明は、この国定に相即の発言をしている。「生命というものは、はかないが、真実は何等かの形で永久に残る」というが、敗戦後、わたしたちの知りえたのは『沖縄に生きて』(池宮城秀意/サイマル出版/昭45)や『朝鮮人強制連行の記録』(朴慶植/未来社/昭40)に集約される国家による人間の否定である。未明の死は昭和三十六年(一九六一年)だから、これらの告発には関係がない、とはいえない。たとえば…という意味でのアト・ランダムに書名をあげているにすぎないが、じつは、書名の識・不識の問題ではなく、未明の視座の問題である。戦争を肯定し、死を美化した発想のかげに、まるで家畜のように(あるいは、それ以下の形で)死んでいった人間がいたこと、それすら未明の視産にはいらなかったのだから、いわんや『支那の無自覚なる』という発言どおり、他民族の痛みは未明には無縁だったろうといいたいのである。かれは自分の情熱と信念に固執して、それを語り、それに形を与え続けていけばよかった。具体的な人間の死よりも、死を自分の美学の中で意味づければよかった。つまり不動の座標にいすわって、流動する状況に、形を与えていけばいいのである。そうした自己が、敗戦を契機にして「問い直されず」にすむことが「哀しい」し、また、それを「問い直す」児童文学者が、敗戦時に存在しなかったことも「哀しい」のである。
 わたしは小川未明を問いつめているのではない。戦時下の児童文学者が、戦後に向って、自己検証のあいまいなままスライドしていった「哀しさ」を語っているのである。その一例として、未明の場合を考えているのだ。桜井忠温が『哀しきものの記録』の「あとがき」で、述懐したはどの「血の思出」さえ、口にするものはなかった。未明の「誠実」を認めることはできないが、未明のいう「まったく反対のことを平然として語っている」ということは、そこに未明を含めて認めたくなる。今後も未明は評価されていくだろう。しかし、かりに未明を評価するものがあったとしても、その場合、個人の「誠実」や「信念」では相殺されないものがあることを、まず起点にすえてはしいのである。

  (付=はじめ「戦時下の児童文学」の概観をのべるつもりで、新村徹や岡田純也から、それこそドサッと 戦時中の単行本や雑誌を借りてきた。それを読めば読むほど、どの作家がこういい、どの詩人がこう書いたということを書き並べたくなった。また、乙骨淑子にも資料を借り、その時、戦争をなんとか避けてとおる作家や、その中で精一ぱいの受身の抵抗を試みる文学者のあることも話しあった。しかし、はじめに「取り組み」方を記したとおり、個々の児童文学者の発言を出来るかぎり避けた。小川未明については、『日本児童文学』の追悼号-前出-で、上笙一郎が、この自己検討の欠除を指摘している。また、佐藤さとるが、同じ号でまったくそのとおりだったなどと共感を呼ぶ発言をしている。なお、『哀しきものの記録』は、七年位前、上笙一郎が探してくれて送ってくれたものである。わたしは、この覚書を書きながら、戦争時代子どもであったが、まったくこうした児童文学者の影響を受けなかったことを考えた。その名前を知らず、その本すら読まなかった。わたしにとっての「戦時下の子どもの文学」とは、山中峯太郎であり、海野十三であった。そのせいで、今、『海野十三敗戦日記』を読んでいる‥)