まず、初期の作品である。作品の順序から言えば、『張紅倫』(昭4)だが、『張紅倫』は、その執事・脱稿の時期が、もっとも明らかな作品である。当時、半田中学の四年生であった新見南吉は、そのことを次のように記している。
 <四月二十二日(月)記憶すべきことでも、こんなものはなんでもないことだと思っていると、忘れてしまう。昨日『少佐と支那人の話』を書き出したことを、書き記すのを忘れてしまった>
 <五月三日(金)雨『少佐と支那人の話』を、書き上げた。『古井戸に落ちた少年』と改題。夜、弟にそれと、『紫の花』を読んで聞かせる>
 <五月四日(土)昨日脱稿した『古井戸に落ちた少年』を、彼は(久米という友人)非常に感心していた。彼は、余の作品を全部持っていった>
 これは、南吉の、昭和四年の日記の中から『張紅倫』に関係のある部分だけを抜き出したものである。これをみると、十六歳の南吉が、その作品の完成になみなみならぬ努力を払い、しかも、語らずして相当の自信を抱いていたことが解る。題名の変更は、『赤い鳥』掲載時、(昭6・11月号)編集者の手によってなされたものらしいが、(巽聖歌/「新見南吉の手紙とその生涯」による/英宝社/昭37)原題の示すとおり、これは、日露戦争の最中、日本軍の少佐が、古井戸に落ちて、張紅倫とその父の張魚凱に助けられた話である。
 戦い終って、歳月が流れ、その少佐が、会社の上役となり、彼を古井戸から救い出した張紅倫とめぐりあう。しかし、紅倫は、自分がそうだとは名乗らない。それは「軍人だったあなたが、古井戸の中から救われたことがわかると、今の日本では、あなたのお名前にかかわるでしょう」という配慮の結果だったという筋書である。
 南吉は、たぶん、こうした作品を書くことによって、そこに、民族や国境を越えた人間への思いやりを表現しようとしたのだろうが、(たぶん……と言うのは、この作品を、そうした「ヒューマニズム童話」ではなく、これは「大隊長青木少佐が古井戸に落ちた珍事件をシニカルに描こうとしたのが目的だ」という考え方もあるからである=西田良子/「赤い鳥」と新見南吉/赤い鳥研究/小峰書店/昭40)しかし、この「思いやり」は、十六歳にふさわしい抽象的な人間観に支えられていたとも考えられる。すなわち、張紅倫の目には、一人の人間の姿は映っていたとはいえ、その人間が、軍服を着て、なぜ、張紅倫の住んでいる土地にやって来たのか、また、そこで行われている戦争とは何かということが、全く、映ってはいなかったのである。日本の近代童話が、ともすれば国家の介在を無視し、それを肯定するにせよ否定するにせよ、国家意識を喪失した地点で、人間愛をとらえる傾向のあったことを考えてみれば、この南吉のインターナショナルな配慮もまた、そうしたかつての暗黙の伝統の上に立っていたとも考えられる。
 古井戸に落ちた少佐を救出するのが、張紅倫でなければならない必然性。また、張紅倫が、中国人でなければならない必然性。
 もし、これを、先の話に戻って、一日本軍人が、古井戸に落ちた珍事件をシニカルに描くことが目的であった……というのなら、この少佐を救出する者が、もっとも臆病な日本軍の一兵卒であってもよかっただろうし、そうする方が、もっとシニカルになったのではないかと考えられるのである。第一、古井戸に落ちて、大戦闘に参加できなかった少佐の狼狽を主題としているなら、もっと、少佐は自分の不明を恥じて、決して、その後、「少佐は、たびたび張親子を思い出して、人びとにその話をしました」などということにはならなかっただろうと思うのだ。作者もまた、そうした体験を作中の少佐に語らせることはなかったはずである。要するに、この作品は、国家について、また、人間について、未熟な考えしか持ち得ない十六歳の目がとらえた通俗的なヒューマニズムだったのである。
 すなわち、生硬で未成熟な掘り下げ方で、国境や民族を越えた愛を提示したこと……。
というよりも、国境や民族を、実は定かに描き切らないままに愛の価値を提示した、ということである。これが次の作品では、どうなったか……。
 南吉は、このあと、『正坊とクロ』や『ごんぎつね』、さらに『のら犬』を書くことによって、そのことを、もっと身近なものの中に提示する。
 『正坊とクロ』(昭6)においては、サーカスの熊と人間の間の愛、『ごんぎつね』(昭7)においては、孤独な人間と狐の間の交流、また『のら犬』(昭7)においては、やせた宿なし犬と人間の間の「愛」の交流となる。解散を余儀なくされたサーカスの少年が、動物園に入れられた熊のクロにめぐりあう話や、また、碁の好きな小心者の常念坊が、野良犬に宿を与える話は、後年の『花のき村と盗人たち』(昭17)や、『狐』(昭18)において提示される「美しいもの」……いのちあるものの美しさにつながっていく。一方、南吉は、意識的ではないにせよ、これまた後年の作品に登場する人間のパターンを、この時点で、無意識のうちに選択していたとも考えられる。
 出世も名誉も考えない、唯、別れた熊に会うことだけを喜びとしているサーカスの少年。妻をなくし、孤独であるお人よしの兵十。臆病で、自分の仕事よりも碁を打つことにだけ生き甲斐を感じている常念坊。つまり、「英雄」でも「名士」でもない、ごく普通の農民や子供。これが、後年の『和太郎さんと牛』の和太郎さんへ、『屁』の是信さんや『花のき村』の盗人たちへ、また、雲華寺の和尚さんへつながるというわけである。
 自分の生活している場を、自分の生活を、批判的にも否定的にも見ない人間。その狭い生活圏から脱出したり転出したりしようなど決して考えない人間。どこか、かたくなであって、そのくせ、間が抜けていたり、単純でありすぎたりする憎めない人間。
 南吉は、そうした土着的人間を、すでに、この初期の作品で提示したということである。しかし、もちろん、それは自覚的なものではなく、明確にこうした人間像が南吉の意識の中に入ってくるのは、ずっと後の話である。南吉は、昭和十五年、
 <僕は、どんなに有名になり、どんなに金がはいるようになっても、華族や、都会のインテリや、有閑マダムの小説を書こうと思ってはならない。いつでも足にわらじをはき、腰に、にぎりめしをぶらさげて、乾いたほこり道を歩かねばならない>と書いている。(日記/12月26日の項)
 こうした心境に至るためには、
 <空想は尊い。空想にめぐまれた私は幸いである>(昭4・10・30/日記)
 という手放しの自信が、いったんは崩れ去り、
 <私はなぜ、文章が、下手くそなんだろう、記事は、貧弱を極めているし、文章のリズムは
 <私はなぜ、文章が、下手くそなんだろう、記事は、貧弱を極めているし、文章のリズムは乱調子である。しかも、すこしするする書けると思うと、それは一つの気分に酔わされて、物を書いているのである。その気分というのも、大ていは人からお借りしたものか、あるいは、少年時代の安易な感傷ぐらいのものである。しかし、私は、あのころの感傷を、もういちど取り返えしたいと思う>(昭10・3・13/日記)
という時期を、経過する必要があったのだろう。
 しかし、ここでは、南吉の中に、すでに後年提示する人物の萌芽があったこと、その主題の原形がみられたことを指摘することにとどめ、今一度、『ごんぎつね』のことを考えてみたいのである。美しい愛の交流とか、思いやりとかいったものの、それは『正坊とクロ』や『のら犬』の話であって、『ごんぎつね』では、それとは同質の構成をとっているとは考えられないのである。この物語では、ごんぎつねは、報われることなく、善意を示した相手(兵十)の手にかかって、撃ち殺されていく。いったい、この悲劇の、どこに、正坊とクロとの間にみられる、また、常念坊とのら犬との間にみられる愛のコミュニケーションがあるのだろう。
 美しいもの……といえば、確かに、やもめ暮しの兵十の家へ、せっせと栗や松茸を運ぶごん狐の行為は、美しいものであった。しかも、それを自分がやっているのだということを、殺される間際まで、相手の兵十にいわなかった点で、読者の感動を誘い出すものがある。しかし、この『ごんぎつね』の美しさは、いうならば、善意の破綻の結果生み出された美しさであり、善意が、相互に通じてかもし出された美しさではないのだ。兵十が、その狐の善意を知ったのは、自分の火縄銃で相手に致命傷をおわせてからの話なのである。
 これは、南吉における小さな例外だったのだろうか。意識や誠意の報われていく『牛をつないだ椿の木』や『百姓の足、坊さんの足』の流れの中で、異質といえば異質といえる。しかし、『ごんぎつね』だけが例外でないことは、次の例を考えてみれば明らかであろう。
 『最後の胡弓ひき』(昭14)における木之助だって、その善意は報われることなく終るのであるし、また、努力に努力を重ねて、人のためになることを探し求めた『鳥山鳥右衛門』(昭17)も報われることのないままに発狂していくのである。あるいは、ここに、『いぼ』(昭18)における松吉・杉作兄弟の、克巳に裏切られる悲しみを付け加えてもいい。
 明らかに、南吉は、善意や愛情の凱歌をうたいあげることだけを、その主題としたのではなく、それが破綻をきたし、悲しみの歌に転化していく有様をも、その作品の中軸にすえていたのである。これら、相対立するかにみえる二つの価値観は、しかし、実はその「かなしさ」において一つのものだったといえる。報われるまでの、けなげな努力の美しさと、
報われないにしても、けなげに努力する美しさ、それらは、共に、かなしく人の心を打つものだった。
 「かなしさ」と「うつくしさ」……もう少し、作品をみてみよう。南吉は、『のら犬』や『ごんぎつね』のあと、多くの短篇幼年童話を書いている。その中に、次のような一篇がある。
 一匹のかたつむりが、ある日、ふと自分をふりかえってみて、「わたしの背中の殻の中には、悲しみがいっぱいつまっている」と気付くのである。どうしたらいいのか。かたつむりは、順々に友達のかたつむりの所をまわって歩いて、そのことを話す。
 「わたしは、なんという不幸せなものでしょう」
 すると、友達のかたつむりたちは、みな、自分も同じ悲しみを背おって生きているのだと答える。そこで、はじめてかたつむりは、
 「かなしみは、だれでも持っているのだ。わたしは、かなしみをこらえて生きていかなければならない」と考えるようになる……。(でんでんむしのかなしみ)
 これは、どういうことなのだろうか。わたしは、「かなしさ」と「うつくしさ」について考えようとして、この作品を持ち出したわけであるが、この「かなしみ」について、まず、考えてみなければならないだろう。
 単純に、この作品を割り切ると、これは「人生は悲しみにみちている」という比喩にすぎない。南吉は、かたつむりに仮託して、人生の悲哀を提示したのだといえよう。しかし、なぜ、南吉は、人生を「悲しみ」の面からのみ把握して提示したのであろう。人生は、これとは反対に、生命の喜びに満ちあふれているとも、また、希望に充満しているとも、書くことは出来るはずである。とりわけ、人生の何であるかを知らない幼児を対象にした作品ならば、大人のうらぶれた人生観を押しつけるよりは、もっと生き生きした人生提示の仕方もあるだろう、と考えられる。
 それを、「悲しみ」として持ち出したこと、「悲しみ」の面だけで語りかけたことに、南吉の特殊な心情がある。すなわち、南吉は、生き生きとした人生の一面を語りかけるには、あまりにも悲しい体験を背おいこんでいたということである。そうした体験が、自分の思想なり心情なりを表出する際に、無意識のうちに、(時には、意識的に)暗い一面を提示するようになった、ということである。
 たとえば、全集の編者・巽聖歌が、「家庭的に不幸なやつだった」「幼年時に母を失い、継母に苦しんでいる彼を見かねて」云々というように、(牧書店版全集/付録/第五号)家庭的な軋轢が、そうした心情をはぐくんだともいえる。
 大正六年、南吉、四歳の時、母りゑ死亡。翌々年、南吉、六歳の時、継母しん入籍。そのすぐあとに、異母弟益吉誕生。大正十年、南吉、八歳の時、実母の生家、新美しもの養子となる。半年たらずで実家に帰る。年譜は、簡単に、南吉の出入りを右のように片付ける。しかし、南吉の苦しみは、事ほど左様に簡単なものであったわけではない。
 「私はそのころ、肩あげのついた、染めすがりの袖を、いつも鼻汁で光らしている、十かそこいらのほんの小さい子どもであった」
という書き出しで始まる小説『雀』(昭9・11・4)を読んでも、そのことは明らかである。新しい母に愛されようとして、子どもなりに努力を重ねるのに、母は、死んだ自分の子を思い、この少年に心をかけない。偶然つかまえた一羽の雀をめぐって、あるいは新しい母の愛情が自分の方に流れてくるかもしれないと、母と一緒になって雀を可愛がろうとする少年が描かれる。
 「この雀は、私がつれてきた小雀である。母は、私がつれてきた小雀を愛しているのである」
と考えることによって、自分が、母に愛されているのだと思いこもうとする。
 この小説は、そうしたけなげな努力にもかかわらず、ついに、母から愛されることのない少年が、かなしみと腹立たしさのあまり、小雀を握り殺してしまう話を書いたものである。ここには、小説とはいえ、南吉の幼時の体験が、それなりに定着していると考えられるのである。
 「母親でさえ、いまいっしょにここまできた父親でさえ、さびしさのどん底で、子どもが、自分のかあさんは自分のとうさんはこうだと、心にえがいて、心にそのあたたかさを感じていたのとは、ちがっている。(中略)母親のそばにいながら、あきらかに住みなれたわが家にいながら、ひしひしと胸に孤独を感じる。(中略)それはどこまでゆくと、子どもの、ほんとうの村、ほんとうの家、ほんとうのかあさんがいるのだろう」という『家』(昭15・5・10)の心情。
 おばあさんの家にもらわれていって、遊び友達もなく、ようやく、お菓子で釣って出来た友達にも欺かれて水死していく少年の伸。(小さな魂/昭10・9・21)
南吉の小説には、このほか、『塀』(昭9)にしても『鞠』(昭10)にしても『しゃくやく』(同)にしても、「愛のかわき」といったものが、常にその中心になっている。『父』(昭9)における養母お蔦のしうち。『帰郷』(昭11)における青年の自殺。そこには、求めても求め得られぬ愛の嘆きが、愛の渇きが次々と表出されている。
 南吉は、そうした生活の中から、孤独な自分の生を知覚し、孤独な生を自分に知覚させる人生の「悲しみ」を自覚していったのである。それが、努力し、相手に善意を伝え、相手から愛のしるしをもって報われようとしても、ついに報われることのない『ごんぎつね』の姿となり、また、『でんでんむしのかなしみ』となり、『最後の胡弓ひき』や『いぼ』の悲哀となって流出していったとはいえないか。そしてまた、『正坊とクロ』や『てぶくろを買いに』(昭8)、あるいは、『狐』(昭18)の美しさ……その善意が相互に流通し、愛の交流が中心となる作品……つまり、現実において報われることのなかった南吉の、かくありたい、かくあるべきであるという祈念や、願望となったとはいえないか。これらの作品は、南吉の愛の渇きを埋めるための、かなしい努力の結果だったと、わたしは思うのである。ちょうど、スタンダールが、ファブリス・デル・ドンゴやジュリアン・ソレルを生み出したように「自己の投射」がある。
 (右の、愛の渇きを間接的に表示するものとして、たとえば、日記の一節を引いておこう。昭和十二年十二月二十一日の項の、おしまいに記されたことばである。「家へは当分帰らない決心した。そして、二十五日にもらう月給は、パッパと使ってしまう。愛してくれない腹いせだ」この時、南吉は二十四歳、鳥根山の畜禽研究所に住み込んでいる)

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