負け犬の美学=滝田ゆう論

上野瞭
『ネバーランドの発想』(上野瞭 すばる書房 1974.07.01)

           
         
         
         
         
         
         
    

 ファン意識というものはおそろしいものだ。滝田ゆうのファンであるぼくは、ここ何年か『ガロ』でその作品を見ているため、この作家が、『ガロ』の創刊号から作品を発表しているように思いこんでいた。山づみになった雑誌の底から、『ガロ』を一冊ずつ引っぱりだしてみて、今あらためて、ぼくと滝田ゆうとの出会いが、一九六七年『ガロ』四月号からであったことに気づいている有様だ。白土三平の『カムイ伝・28』の掲載されているその雑誌は、『ガロ』創刊以来三十二冊目にあたっている。 こんなこまかい話をまず一番はじめに持ち出すのは、ちかごろ『寺島町奇譚』によって滝田ゆうに対する評価がさかんになり、なんだかそれ以前の滝田ゆうが押しのけられた思いがするからだ。これは、ぼくの「やきもち」かもしれない。もともと魅力のあった女の子を、その魅力ゆえにひそかに眺め続けてきたのに、急にその子に色気が出たからといって、その袖を引っぱりあうやつが増えたことに対する不満といえばいいか。これをファン意識というのだろう。
 ゴシップ風に話をすすめるなら、今年(昭44)の四月、山下明生さんの家に行った時、話は児童文学のことより滝田ゆうのことになった。
 「どんな人ですか、滝田ゆうって……」
 「ちょうどあのマンガそっくりの人ですよ」
 これは山下さんのこたえ。山下さんは、そのあと、
 「あした連絡してみよう」
と、はじめての出会いの手はずを考えてくれた。この期待にみちた「出会い」は、しかし、成功しなかった。その場にいた子ども雑誌の編集長が、つぎの日、電話をしてくれるはずだったのに、ぼくが電話してみると、電話をしてくれたのかどうかも不明。本人が出社していなかったからだ。なにしろ、滝田ゆう否定論をとなえる今江祥智を真中に、山下氏の家であれこれ話しあったのは、深夜だったし、酒かウイスキーかが、相当量はいっていた時の話だから、かんじんかなめの連絡引き受け人がそのつぎの日、ダウンしていたことは十分想像できる。
 涙をのんでぼくは京都に帰った。
 会ってどうということはないのかもしれない。しかし、『ガロ』三十二冊目で『あしがる』を見たとたん、俗にいう「ひと目ぼれ」をしたことだけは告げてみたい気持ちがしていたのだ。
 どうして、ぼくは、『あしがる』(a poor man) に引かれたのだろう。
 『あしがる』は、甚次郎兵衛という身分いやしき男が、成績優秀につき御家老の指名を受けて、三百石のエリート侍に昇格させられる話だ。もちろん、三百石をポンと投げだす御家老のねらいは、この男を藩の代表に仕立てあげ、公儀役人の前で切腹させることである。どんな不正があばかれたのか、どんな大事が出来したのか、それは説明されない。しかし、だれかが腹を切らねばならぬ状況があって、それを、上司の侍たちがみな責任回避している有様である。そこで、三百石をダシに、足軽の甚次郎兵衛が腹切り役を押しつけられる。リハーサルにつぐリハーサルのあと、いよいよ本番となって、みにくくうろたえる甚次郎兵衛は腹を切らされる。ぶざまとしかいいようのない死に方をする。それをみて、上司の侍たちは、「やっぱり足軽はだめだ」といい、検死に立ち会った公儀の役人……じつは藩の重役たちは、舌打ちをする。つまり、甚次郎兵衛にとって本番の死は、藩の上司たちにとっては実験であり、リハーサルにほかならなかったという結末だ。
 これだけいえば、およそ筋書らしきものは、だれにだって納得できるだろう。そして小説のあらすじ紹介なら、これでも事たりるわけだが、マンガはそうはいかない。第一、ぼくが、滝田ゆうに引かれるのは、こうしたストーリーのおもしろさによるだけではない。着想のおもしろさもさることながら、なんといっても、そこに登場する人物の描き方、あるいは画面構成といったものに魅力を感じているからだ。
 主人公の甚次郎兵衛を見てみよう。
 およそこれほどしまりのない目の持ち主はいないだろうと思えるほど、まるく、くっつきあった「たれ目」である。ひたいの広さは皆無に近く、横に押しひしゃげたダンゴ型の鼻は、まったく均整を失って顔の下部を占めている。口は、いくら引きしめても引きしめたらぬ恰好で横ひろがりに鼻と等しい長さを保っている。ひょろりとした首。いうなれば三頭身のスタイルの侍が甚次郎兵衛である。ぴたりと畳についたはずの両手のしまりなさ。不骨な、野球のグローブのような手が、人間のおろかさを告げている。
 『あしがる』のこの一枚目の絵を見ただけで、ぼくらは、この男の愚直にして小心、悲劇的にしてかつ滑稽きわまりない生活の匂いを、ぷうんとかいでしまうのだ。甚次郎兵衛はカミシモ姿でハラキリをするおのれの悲劇を泣いている。ところが、ぼくらは、今にも溶けて流れ落ちそうなその目を見て、同情心を誘われるどころか、ふわふわと笑い出してしまいたくなるのだ。まるで蛙がはいつくばったような、それでいてエサを待ち受ける飼犬のような、そのみじめったらしい目つき。これはマンガだと、ぼくの心はかすかにおどり出す。
 ここにいるのは、そうした独特の描法で滝田ゆうが定着した下級武士であると共に、繁栄を誇る現代社会のメカニズムの中で、姿・形こそは違え、「飼い犬」化しているぼくらのコミックな姿なのだ。計算だかく、私利私欲のみを夢想し、常に認められ、いたわられることを期待して、シッポをふっている小市民が甚次郎兵衛なのである。
 切腹のリハーサルで、甚次郎兵衛の読む辞世の一句は、どうだ。
「去年の今夜はしらないどうし。今年の今夜は、ねぇアナタ……」
 へへへへへ……ドドイツでして……と、シナをつくってみせる甚次郎兵衛に、ぼくらは、しぶとく「生」にとりすがろうとする現代人のみじめさを見る。殿のおんため、藩のおんため、けつぜんと「死」を迎えるなどいう姿勢は、甚次郎兵衛にはない。
 「殿は刃をにぎらせて、腹を切れよしとおしえしや。腹をつついて死ねよとは、そりゃああんまりなごりょうけん」
と、甚次郎兵衛が目をたらし、そっ歯をむいて助命嘆願しても、
「問答無用!」
「出発進行!」
と、上司の侍はハラキリをせきたてる。この目、この鼻、この表情。ぼくは、滝田ゆうのおもしろさを、その目、その鼻、その表情の中に読みとるのだ。吹き出しに使われていることばは、一種の遊びだろう。『きみ死にたまふことなかれ』をもじったセリフはその一例だろう。しかし、ことばの遊びと、喜劇的な人物画が、より切実に現代の非人間的管理機構を浮出させる点、じつにすぐれたマンガだと、ぼくは思うのだ。死んでも死にきれぬ小市民の怨念が、吹きだしたくなるようなその頭の中に、適確に描出されていく。
 ぼくらは、ひっくりかえった三方(さんぽう)、血まみれになった甚次郎兵衛の体、それをやや上方の視点から描いてみせたラスト・シーンを、いくらことばで置きかえてにようとしても、 置きかえがたい思いにとらわれるのである。一枚の絵が、欲ぼけ正直者の最後をピタリと示している。体制の操作によって自由を剥奪されたものの姿を適確に示している。死体のまわりに無雑作に描きこまれた線描による影。この死を空白の画面に定着するペンの運び。ぼくは、ことばのかわりに、この一枚一枚を、ここにならべてみたい気持ちをおさえることができない。


 チョンマゲ・ストーリーは、『ガロ』35号の『赤飯』(こわめし)に引きつがれる。
 『こわめし』もまた貧乏侍の物語である。万年平社員ならぬ万年うままわり役のホクロのあるやもめ侍。女房をなくして、娘一人と長家ぐらし男が主人公である。娘は、おなじく三等うままわり役の平馬と恋仲になり、体も許した間柄である。ところが、相手の平馬に降って湧いたような良縁。家老の娘あやのむこ殿に……というわけだ。下級侍のたまり場で、のろけ話に目もとろけそうな平馬。それを聞かぬふりして、キセルをくわえている主人公のやもめ侍。どうして娘をきずものにした平馬が許せようか。いざ深夜待ち伏せして一刀両断にせんと空想をめぐらすが、空想の中で、バサッ!ムギィ!と斬り倒されてしまうのは、平馬ならぬおのれである。その口惜しさを、茶碗酒をあふりつつ娘にぶちまけるが、娘のいうことは、
 「もういいの。 みんな、わたしがいけなかったのです。あさはかだったのです」

というあきらめのことばである。
 「ムキーッ!」
 やもめ侍は腹を立てる。しかし、どうしようもない。涙ながらにセンベイ布団をすっかぶったつぎの日、なんと、平馬が落馬して即死したニュースを聞く。おくやみをすっぽかして、縄のれんをくぐる主人公。一人、酒をのみ歌をうたい、その帰りみち赤飯を買っていく。しかし、娘は、平馬の死をいたみ、赤飯どころではない。ふたをとった赤飯を前に、主人公が憮然としていると、娘の姿は音もなく消える。
 つまり、娘はすでに自殺していたというわけである。一人こわめしを前に涙を浮べる主人公。まったく甚次郎兵衛そっくりである。
 そっくりというのは、その目、その鼻、その表情ばかりいうのではない。小心翼々、常に「しあわせ」を夢見ながら、それを裏切られていく点や、規制のモラルの中で、それに忠実なるがゆえに犠牲となる点で、そっくりだというのである。
 チョンマゲ・オムニバスと銘うった『うわさの系譜』(ガロ・38)を見てみよう。

 第一話「星の流れ」は、女房を主君に寝とられる話であり、その見かえりとして殿の側室の降嫁を夢見て、それさえもかなえられぬ下級武士の悲哀が描かれる。
 第二話の「からまわり」は、あみだくじで、抗議文をさる大名屋敷に持っていく侍の話である。たらいまわしに、つぎつぎ別の大名屋敷の前にすてられていって、投げ出されるたびに全身きずだらけになっていく……。
 第三話の「幕尻」は侍という支配体制の責任転嫁ドラマであり、第四話の「まきぞえ」は、夜の巷の大殺陣に、夜なきそば屋のオヤジがショック死する話である。
 ぼくらは、これらの滝田ゆうチョンマゲ物語の中に、ぼくら自身のおろかさを見る。そのおろかさとは、もう一歩つきつめてみると、非行動的人間の、行動への願望……というようにさえ思えてくる。『あしがる』の甚次郎兵衛が、決然と君命を甘受して「死」を選ぶこと……をしなかった男であるとおり、『こわめし』のやもめ侍も、平馬の不倫をなじって斬りすてる……という「行動」をとらなかった。ただ想念の中で、自己を行動にかりたてた。夢想する怠惰なる人間。もちろん、ここには人生を受身ですごす悲しさがある。
 『昼下りの妄想』『皿右衛門失踪』(ガロ・39)に、この非行動的人間の悲しさは生き生きと提示される。いや、その前の『ふえぁ・ぷれい』(ガロ・36)の三九郎にしても、『風法師』(ガロ・37)の三九郎にしても、本来、葛藤を引きおこし、葛藤の中にとびこみ、かんぜんとして自己の生活を切り開く姿勢からは、あまりにもかけ離れているのである。『風法師』の三九郎は、それでも、剣をとり、人を打ち倒し、最後に、おのれの分身に打ち倒される。しかし、この「行動」は、自立的……というより、風法師の、「シャボーン!」とかきなでる琵琶の魔力の結果なのである。盲目の琵琶ひきが、あまりにも臆病な三九郎をみて、その音色であやつるだけである。
 この作品には、なんとなく『耳なし芳一』的発想と因果的構成がある。そのため、ぼくは好きではない。だが、それでも、自分の剣の冴えを、琵琶の魔力のせいだとは気づかずに、すぐさまうぬぼれるあたり、他の作品の臆病侍物語と同様、小心者のおろかさをよく出していると思う。閉鎖的で、まったく自信のない人間が、いきり立ったなら、かくやあるべき……というさまが、三九郎にはにじみ出している。
 非行動的人間の行動への願望……といったが、『昼下りの妄想』の侍は、城の石垣を一つ一つ取りはずし、自分を支配する城そのものを崩壊に導く白昼夢をみる。しかし、この侍の現実は、将棋盤の上で、将棋の駒をつみあげ、それをぶちこわすことくらいである。『皿右衛門』の方はもっとコミックで、大事な殿の皿、小鉢類を叩きこわすかわりに、お城の屋根がわらを何枚か叩きわって失踪するだけである。これを怯儒な小市民の悲しき抵抗と嘲笑することはやさしい。事実、滝田ゆうは、これらの作品の中で、怯儒な下級武士を描いているのだが、しかし、滝田ゆうは、怯儒な人間を嘲笑してはいない。むしろ心をこめて描いているふうがある。怯儒な人間のあわれな姿を描くことによって、そうした人間の価値を救いあげていると思えるのだ。
 はじめに、滝田ゆうの「諷刺とおもしろさ」ということを言ったが、えてして諷刺的視点というのは、作者の目に浮ぶ人物群を冷酷無惨に笑いものにしてしまうものだ。主人公なりバイプレイヤーなりが、「おろかさ」そのもの、「みにくさ」そのものを浮立たせる道具として利用される。さもなければ、まるで解説者のような人間、あるいは、第三者のような姿勢で諷刺すべき出来事の前に立ちはだかる。サトウ・サンペイの時事漫画のいくつかに、ふいに顔をだす「観察者」的姿勢。それもつまるところ、傷つくことのない被害者意識。いうなれば疑似被害者の相貌であって、一種の冷酷な嘲笑の視点なのである。ぼくらはそこに、気のきいた批判、シャープな着想、ぴりぴりとした人生裁断をみることはあっても、「フジ三太郎、それはわたしだ」という血のかよいあった内的連帯感を抱くことはない。おろかにして、常に犠牲を強いられているサラリーマンの姿をとっていても、サトウ・サンペイの主人公に内在するものは、エリートの視点であり、広く時代を見おろせる特別席の生活なのだ。滝田ゆうの人物たちは、その点、鋭く時代を見抜くことも、不合理を批判する力もない。ただのおろかものなのだ。身をもって、不合理を支え、その重圧の犠牲者となっていく。傷つき、倒れ伏すことによって、また終始一貫、小心者のエゴイズムを通すことによって、怯儒な立場を固守し、泣き、笑うだけである。おろかで、気が小さく、欲ぼけした狭い自分の道を歩きとおすことによって、不合理をきわだたせるだけである。滝田ゆうの諷刺のうまれでる点は、その一途な怯儒な人生態度からだ。笑うでもなく泣くでもないその溶けおちそうな目。そうした三頭身の男たちを、執拗に描き続けることによって、怯儒は諷刺性を生みだしていく。

 それにしてもぼくは、怯儒にこだわりすぎたきらいがある。主人公たちの生活態度ばかりあれこれいいすぎているようにも思う。そのために、滝田ゆうのファンではない未見の読者には、こすっからい、うじうじした人物のイメージを与えるのではないかと心配している。
 しかし、滝田ゆうの人物の中に、ぼくらの見るのは、そうした噛んで吐きすてたいような「イヤーナ」人物ではない。じっと見ていると、その愚直にして怯儒のゆえに、どうしても愛さずにはおれないような主人公たちなのである。変に気どった観念的な漫画の多い中で、ぼくらは息のかよった人間を見るような気がする。
 主人公たちが、何かしかめつらしく物を考えようとする。すると、かならず背後に、くろくろペン先をまわして描いた霧か雨のような幕がたれさがってくる。一駒全体がくらくぬりつぶされるのではない。一駒の上半分にペン先が暗雲をたれこめさせる。その中で、特徴のあるまるい目を真剣によせる人物の表情。これは、 主人公たちの悩みの程をあらわしているのだが、その真剣さが、ぼくらを微笑させる。
 滝田ゆうの構図のおもしろさは、そのペン画の独特の配慮にあるのだが、たとえば『昼下りの妄想』や『皿右衛門失踪』のタイトル・バック(こういういい方は映画くさくてピタリとしないが……)は、ぼくの好きなものの一つだ。
 大きい一枚絵の左に、しまりなく書かれたタイトル。この字のおもしろさもさることながら、全く塗りつぶされていない空間の右側に、拇指大の侍の姿が、まるで天からこぼれおちる粒子のように、いくつか描かれていくのだ。空間の天の右はしに、線描された太陽が輝いている。侍は、その光の中から振りおとされたように、くるくる体を勝手な方向にむけて描かれる。太陽の方へ行こうとするのか、太陽からこぼれおちてきたのか、ダルマおとしの小法師のような侍の姿。その目が、どれも所在なげに空間の広さにむけられている。『昼下りの妄想』という物語の内容にふさわしい広大な空間に浮遊する豆つぶの侍。その目は、あまりの広さに途まどっているようにも見えるし、定着すべき「場所」を喪失して困惑しきっているようにも見える。その驚きと途まどい……。
 (……ここまで書いて、ぼくは、記憶の中のその表題の絵を、もう一度たしかめようと、『ガロ』39号を開いている。なんと楽しげな侍の表情だろう。「驚きと途まどい」をかろうじて示しているのは、さかさになって両手をひろげている姿と、下から二番目の侍だけだ。ということは、ぼくは、いつのまにか、この豆つぶほどの侍を、ぼくなりに「妄想」してしまっていたことになる。憮然たる面持ちの侍はいても、白昼夢をみる侍たちは、みな楽しげである。ぼくは、つぎのように言い直した方がいいのだろうか……)
 あがれ、あがれ、天まであがれ。ふわふわと体ごと、侍よあがれ。鳥のように羽ばたくその五人目の侍の喜悦の表情。それはもう底ぬけに楽しげな小市民の束の間の「しあわせ」を夢みる表情だ。束の間の空想にも「現実」を忘却できるおろかなぼくら小市民の線描だ。このオプティミストの侍が、物語の中で、キッと刀をかまえたり、歯をむきだして城の石垣を取りはずそうと夢みるのだから、なんとも滑稽な話だ。城は一瞬にして傾き、砂けむりを四方にあげる。徹底的な破壊だ。画面は、しょぼくれた侍の、将棋盤の駒がさねで終るとしても、ぼくらは、この侍を愛さずにはおれない。社会諷刺、変革への志向性、そうした高次な意識と無縁の地点で、そうした志をさえ持ちえない人間が、ガラガラと音高く、城全体をぶっこわす夢にふける怨念のほどが、ぼくを引きつけるのだ。
 『皿右衛門失踪』もまたしかり。金づちと打ちくだかれたかわらのひとにぎり。そこから、トットッと、「く」の字型に画面の天まで足跡が走ると、あみがさ姿の皿右衛門が、口をとがらせて「失踪」の旅に出る小さな描写。この空間は、なんとのどかで楽しげなことだろう。まるで大事をなしとげた後のごとく、侍は立ち去っていくのだ。
 ぼくは、滝田ゆうの空間への配慮、嘲笑すべき小人の行為への共感、あるいは、悲劇をみごとに喜劇化してみせる発想の程に魅力を感じているのだ。しかし、チョンマゲ物語は所詮現代の課題にこたえ得ないのだ。そういう声もありそうだ。はたして、小人の怨念は、現代的課題を描きえないのか。
 滝田ゆうは、すでに、『しずく』(ガロ・34)においてヤクザの人間関係を、コミックに描いてきていたが、『ガロ』40号を境いにして、がぜん現代風俗を前面に押し出してくる。(テキストファイル化四村記久子

 『寺島町奇譚・ぎんながし』の掲載が一九六八年『ガロ』十二月号(54号)であるから、その間の約十余冊は、滝田ゆうにとってチョンマゲ物語から現代物語への移行の時期といえる。もちろん、『ガロ』41号において『長い道』を、また50号において『うわさの系譜・さんりんぼう』を掲載している。だから、ひとつのきっかけがあって、チョンマゲ物語を否定し、現代物語の漫画化に踏み出したように、截然と区切ることは危険だろう。「移行」ということばを使ったが、これは脱皮とか変貌と考えるよりも、すでに小市民的下級侍によって描かれた怯儒なる者の抵抗……いいかえるならば、「負け犬の美学」とでもいうものを、一歩進めたことになるのだろう。それにしても負け犬の悲哀と遠吠えが、常に、そうした負け犬を生みだす体制やカラクリを、マイナスの座標で告発するものであったのに、『市に急ぎの記録』(ガロ・40)では、一種のプラスの座標軸による批判に転換していくのだ。
 『しずく』では、死刑執行におびえる囚人が主人公として設定され、いかにも合法的殺人機構に翻弄される被害者の悲哀をコミックに描きだした。しかし、『死に急ぎの記録』では、その囚人の立場を裏返しにして提示する。かれは、死刑執行の幻影におびえるどころか、すっぱり殺されることを希望するのだ。被害者であるはずの主人公は、なんとしても早く殺されることを切望し、体制や秩序を代表する検事や教悔師をおびやかす。
 「死刑!」
と、判事。
 「さっそく上告の手続きを……」
と、弁護士。
 これにこたえて囚人「へ」の16番は、
 「ごじょうだんでしょう。うっかり上告なんてしてみろ。こんど判決がくだる頃にゃ、年寄りになっちまわい」
と憤然と拒否するのである。
 「死刑なんてもんは、とんとんはずみをつけてやるもんだ」
というのが、「へ」の16番の考え方である。
 ところが、新執行刑法三五六四(ミゴロシ)によって、
 「死刑囚は自宅において待機する。なお、執行日までの生活費その他は囚人もち……」と宣告され、シャバに放り出されるのである。一年間、「へ」の16番は待ち続ける。テレビによる死刑執行当選者の発表。「へ」の16番は、その抽選にはずれて落胆する。希望する死は、なかなか訪れてこない。お役所仕事を呪いながら町を行く「へ」の16番。そこへ突如、ダンプカーがつっこんできて、かれは即死する。その頃、ふたたびテレビによる死刑執行当選者の発表。「へ」の16番も、その中に含まれている。しかし、すでにかれは死体であり、「本日の交通事故者、死亡一名」に該当する。「交通事故者」の「死亡欄」から黒板消しで消されておしまいとなる。「あすのお天気。ハレ」と書かれた立札をあとに、黒板ふきをもてあそびながら立ち去る警官。『死に急ぎの記録』はここで終わる。
 これは皮肉な物語である。いや、皮肉きわまりないマンガである。すでにして『しずく』にみられた負け犬の悲しさは、払拭されている。負け犬は、遠吠えし、尻尾をたれることをやめて、ゆっくりと反撃に転じている。「負け犬」の立場にありながら、「へ」の16番は「負け犬」のみじめったらしさを蹴とばしている。常に怯儒な小市民は、巨大な支配体制の犠牲者となる……という「通念」は後足で一蹴されるのである。これは、価値転倒することによって痛烈に体制のメカニズムを嘲笑したものになる。死に急ぐことによって、死にかりたてるものを批判し嘲笑する仕組み。滝田ゆうは、怯儒な人間の抵抗権をここに確立する。
 脱皮、変貌ではなかろう……といったぼくは、この一作をみて、滝田ゆうの怨念のみごとな形象化を感じるのだ。滝田ゆうは、怯儒な人間の新しい生き方を『しずく』を裏がえしにすることによって開示しようとしている。ナンセンスの発見者として、自己を位置づけようとしている。そのおもしろさが、例のチョンマゲ物語の主人公に共通するすっとぼけた目玉の三頭身、(時には二頭身)の人物を通してぼくらに告げられるのだ。
 「へ」の16番の囚人の顔をじっと見てみよう。甚次郎兵衛の申し子のようなその表情は、愚かさはそのまま受けつがれているとしても、ずいぶん自信にみちている。この自信のほどは、もちろん体制の反人間的構造を見抜いた表情ではないにしても、愚直にして狡猾怯儒、にしてロマンチストたる人間が、そのマイナスのキャラクターをそのまま武器にした表情だ。理論も思想も、未来への展望も変革への意志も、まるで欠落している姿だとしても、その欠落のゆえに自己を確固たる原点として体得しているそれだ。くたばれ! 反体制! そうは言わないとしても、くたばれ! 人間もどきども! そう叫んでいる表情である。
 「キタカ、チョーサン、マッテタ、ホイ」と、鼻唄まじりに支配体制と対峙する。
 これをしも、未組織浮動的小市民の、「ひかれものの小唄」という人にワザワイあれ! 人は、確固たる理念によって生きるにあらず。エリートのあずかり知らぬ肌の思想がここには定着されているのだ。そして、肌身に感じる思想こそ、現代の、小市民の、怯儒にして、なおかつ、おのれを売り渡すことを拒否する生き方であることを、滝田ゆうは告げているのだ。
 (ぼくは、飛躍した発言によって、読者を困乱におとし入れることをこばまない。しかし、困惑の読者を、そのまま嘲笑う生き方を許容しない以上、いささかセーブした発言の仕方にもどりたいとは考えている)

 作品にもどろう。
 滝田ゆうは、『寺島町奇譚』の連作にかかる前に、次のような作品を書いている。
 『浪曲師、ベトナムに死す』 『長い道』(一九六八年/一月号/ガロ・41号)
 『三等陸尉凹山三助の憂鬱』(ガロ・42号)
 『おこつ協奏曲』(同・43)
 『ラララの恋人』(同・44)
 『すちゃらかちゃん』(同・46)
 『剥製の館』(同・48)
 『神父の休日』(同・49)
 『ワラッテ!』 『さんりんぼう』(同・50)
 『豆腐屋ブルース』 『諸行無常』(同・52)
 『後巻咲子の決断』 『彼女の世界』(同・53)
このあとが、『寺島町奇譚』である。
 「へ」の16番によって、ナンセンスへの志向性を開示した滝田ゆうは、この一年で多様な実験を試みる。『ラララの恋人』の、通念の世界に投げつける強烈な破壊生。うじうじ、おずおず、手も握りかねている幾組かの恋人……これこそ、かつてのチョンマゲの主人公たちの特性であった。そうした怯儒な小市民にむかって、CHU! と、人前はばからずキスしてみせるビートルズ・カットの若者とサイケでチンケな娘が登場する。愛や恋や、その他もろもろの約束事の世界を、この若きカップルは、つぎつぎと寸断し混乱に落とし入れていく。悩みも苦しみも悲しみも、このカップルの前には意味を持たない。思考し、意味づけ、やっと納得してから行動に移ろうかという既製の生活態度、あるいは一定の法秩序、モラル、合理性が足蹴にされる。 『死に急ぎの記録』の「へ」の16番は、意識して死を急いだが(そうすることによって既製の秩序を足蹴にしたが)『ラララの恋人』は、のっけから「へ」の16番のように自分たちを取りこむ法秩序や体制を意識しないのだ。ただ、「ラー、ラララ、ラー」と歌いまくり、手に手を取ってステージをかけおりる。「アイシテルッ」と抱きあい、唇を重ねあわし、またもやひたすらに町の中をかけめぐるだけである。だれかにみせるためのもでもなく、だれかにあてるけるためのものでもない。ただ二人は、二人の世界に没頭し陶酔するだけである。それをみて、思わず怯儒な自己を自覚し、さてそれでは自分たちも……とそのカップルの真似をするのは、怯儒な人間の勝手だ。第一、突如として、『ラララの恋人』の真似をしようとしても、どの恋人たちもうまくいくはずがないのだ。通念が、既製のモラルが、目に見えぬ鎖として男にも女にもまとわりついていて、その行動をギクシャクしたものに転落させる。
 『ラララの恋人』で、思わず吹き出す場面は、ゲバ棒を握った学生集団と機動隊がにらみあっている場面だろう。どちらも敵意にみちたまなざしで対峙している。その真中に『ラララの恋人』は腕を組みあって歌声たからかにあらわれる。「チャッ」と接吻。「アイシテル!」と肩を寄せ合う。次の瞬間、カーッときた集団は、あたかも『ラララの恋人』を叩きこわすように……いや、『ラララの恋人』によって火をつけられた自己の情念を叩き潰すように、警棒とゲバ棒をにぎって先の大乱斗をおっぱじめるのだ。そのすさまじさ。その激突するエネルギーのけたたましさ。目鏡はとび、プラカードは飛び散り、ヘルメットや下駄が空中に舞いあがる。よってたかって警官をなぐる学生。逃げる女子学生のスカートをひんめくって放さない機動隊員。投石の砂煙は画面をたちまち修羅のちまたと化してしまう。
 『ラララの恋人』は、そんなことにおかまいなしに、歌い、走り、くちづけをし、移動していく。まったく一切の規制に対して無関心である。二人が共有するものは、ただ「アイシテルッ」と自分たちの現在を謳歌することだけ。まさにナンセンスの面目躍如たるものがある。意味づけられた世界は、このイカレポンチの刹那的行動の前に、滑稽きわまりない世界に変貌するのだ。まったくナンセンスなカップルが、徹底的に肉感的刹那主義に踏みこむことによって、本来ならば、それを嘲笑し軽視し批判するぼくらの世界を、ナンセンスな世界に変貌させるのだ。この『ラララの恋人』によって、おのれのおろかさを知らされる自衛隊員が登場する場面がある。しめやかにテーブルをはさんで坐りあっているかれと娘。『ラララの恋人』は、その目の前で「チャッ」とやる。一杯のコークにストローを二本さしこんで、たのしげにすすりあう。これを真似ようとして、二本のストローをさしこんだコークのびんを、いそいそと娘のテーブルに運んでくる自衛官。次の瞬間、娘の手によってストローは折りまげられ、投げすてられたかと思うと、コークのびんは自衛官の頭にむかってとんでいる。なおも追いすがる自衛官にむかって、娘のみせる紙袋。それには「BE・HEI・REN」と印刷されている。娘の心を射止めんとすれば、ベトナムに平和が来なければならん……と思案する自衛官。かれは「ナントカ大使館」に出かけていって、結局、MPを前にすごすご引きかえしてくる。その次の場面では、射的屋で、ヤケクソにコルクの弾丸を乱射する姿が描かれる。
 滝田ゆうにおけるベトナム問題。これは、『浪曲師、ベトナムに死す』から明確に表面に押し出されてくる。しかし、その前に、『ラララの恋人』で、ぜひ触れておく必要があるのは、あの目玉だ。
 チョンマゲ物語で、ぼくの心をひきつけた怯儒な小市民の愛すべき相貌は、『ラララの恋人』において、嘲笑される側の人物につけられたことだ。『ラララの恋人』の目は、もう笑いっぱなしで、しまりなくたれさがり、にやけきって、瞳というものではない。デレデレとして、そのくせ、まあるく可愛く長髪の下に描かれる。口もしまりなく開かれっぱなしになる。あの、キョトンとした愚直と狡猾と夢想にみちた目は、この作品でバイ・プレーヤーの目に格下げされていることだ。『しずく』で、また『あしがる』で、共感と親愛の情をこめて描かれた、あの溶解寸前の主人公の目は、『ラララの恋人』の前では否定される側の目となる。ふたたびぼくらが、この特徴ある目玉の主人公に出会うのは、『寺島町奇譚』の少年キヨシまで待たねばならぬ。公定するにせよ否定するにせよ、『寺島町奇譚』のキヨシには、滝田ゆうの人物群の投影があるからだ。

「バカはとなりの火事よりこわい……。世界平和をさけびつつ、血で血をあらうおろかさよう……誤爆つづきのおそまつを……時間くるまで……つとめましょう……」
 劇場でうなっているのは桃中軒雨右衛門。汗をたらし、たれ目を閉じて、時事浪曲に熱中する男。これが、『浪曲師、ベトナムに死す』の主人公である。
 『死に急ぎの記録』で「へ」の16番を登場させ、体制のメカニズム、あるいは法秩序の非人間性を笑いとばした滝田ゆうは、この一編で、がぜん現実問題に批判のメスを入れる。マンガにおける批判のメスは、小才のきいた時事諷刺……つまり「チクリ一筆」式の傍観者的アプローチではない。もちろん、これは滝田ゆうの場合を言っているのであり、
『浪曲師、ベトナムに死す』のことを指しているのである。
 浪曲師・雨右衛門は、よくある諷刺マンガの主人公のように、現代風俗や社会の不合理を裁断するものとして登場してこない。チョンマゲ物語の主人公たちが怯儒な夢想家であったことを考えると、すばらしい行動家に転身している。権力支配の前に屈折することによって、ぼくらの内なる小市民性をくすぐった下級武士のドラマは、桃中軒雨右衛門の超えるところである。まったく客に受けない反戦浪曲をガンとしてうなり通し、劇場からしめ出され、女房にも逃げられても、かれはやり抜こうとする。酒場出入りの流しに身を落としても雨右衛門のうなる浪曲は、
 「どこまでつづくぬかるみぞェ……。ベトナム百年戦争の……」
である。水をぶっかけられ、街頭にほうり出されてもうなり続ける。
 「ああなげかわし、なさけなやァ……」
 国立パチンコセンターや、日の丸パチンコセンターのけたたましいパチンコ玉のうなりの中で彼はうなる。ある日、売れない浪曲家の雨右衛門は、自宅で新聞を開いている。ニュースをにらみ、ダシモノについて頭をひねっている。そこへコメナサーイ……と、反戦バッグをぶらさげたベトナム人がやってくる。ベトナム独立プロのスカウト屋である。雨右衛門は、ベトナム人に「いい線いってる」と評価されて、決然とベトナムへ渡ることを思い立つ。着いたところは、弾丸しきりに炸裂するベトナムの戦場だ。着物スタイルの雨右衛門は、ベトナム人の手引きで、ホー・チ・ミンルートのジャングルをとおり、非武装地帯にはいる。「サムライ・トーチューケン」を迎えてベトナムの民衆の拍手喝采すること。雨右衛門は熱演する。その時、突如鳴りひびく空襲警報のサイレン。一瞬にして姿を消すベトナムの民衆。雨右衛門はうろたえる。と、アメリカの爆撃機が来襲する。ポール爆弾の落下。無惨やな、雨右衛門はつぎにはボール爆弾の犠牲となり、病院にかつぎこまれている。手術。雨右衛門の体から摘出された小さな鉄の玉には、日の丸パチンコセンターのネームが入っている。
 「桃中軒雨右衛門、ベトナム非武装地帯にて興業中、昇天」
 これほど皮肉な話はない。たしかに手塚治虫も『人間ども集まれ!』において、ベトナム戦争を描いたが、滝田ゆうは、身をもって死を選んだ主人公を提示することにより、日本のベトナム戦争加担の犯罪性を、パチンコ玉にシンボライズして告発するのである。怯儒なこの市民は、最初、ニュース解説的浪曲をねらって、無意識の裡に反戦浪曲師となり、反戦浪曲をうなった。そのうちに、商業ペースをはみ出して、反戦的人間となり、死にいたったというオソマツ……。
 ぼくは、滝田ゆうが、理念やセオリーに背を向ける主人公を、ここまで持ち来たらねば収らなかった点を高く買うのだ。
 滝田ゆうは、理屈っぽい人間を描こうとはしなかった。また、理屈っぽい人間ではなかった。理屈を離れて、底辺の人間をいつくしみ、底辺の人間を描いてきた。その滝田ゆうが、非リクツ的人間に仮託して、非リクツ的人間の立場からベトナム問題に取り組んだ点を高く評価するのだ。滝田ゆうは、『浪曲師、ベトナムに死す』において、みずからの中なるチョンマゲ意識に、対峙する自己を確立したのだ。
 確立した……などといえば、不動の座標を築いたことになりかねないが、もともと不動のナニガシなどいう精神構造こそ、じつは疑うべき最たるものだ。また、不動の信念に泰然自若とあぐらをかく主人公こそ滝田ゆうから最も遠い存在なのだ。滝田ゆうは、主人公やワキ役の人物が困惑したり思案したり、あるいは苦悩する様を表現するとき、吹き出しの中に、奇妙な図形を描きこんだり、サレコウベやスパナや、その他、その人物の内面の動揺を如実に示す具象物を描く。たとえば『寺島町奇譚』の中のキヨシや、飼猫などは、どなりつけられた瞬間のその心情を、カナヅチや飯皿のこわれた絵として表現される、こうした人間の混乱動揺を描きつづける滝田ゆうが、「怯儒なる小市民」への愛着から「不動の美学」へ「脱皮」したり「昇華」したり……ということは出来ないだろう。だから、「確立した」とぼくがいうのは、怯儒なる小市民への愛着を切りすてることではなく、愛着する小市民性を、愛着しつつも批判の俎上にのせる視点を確立したといえばいいか。それがマイナスの座標軸で作品化される時、『ラララの恋人』をはじめとするナンセンスとなり、また、プラスの座標軸で作品化される時、『浪曲師、ベトナムに死す』のような鋭い諷刺作品となるわけである。
 『三等陸慰凹山三助の憂鬱』(ガロ・42)『剥製の館』(同・48)にみられる諷刺性と、『すちゃらかちゃん』(同・46)や『ワラッテ!』(同・50)にみられるナンセンス性は、滝田ゆうの人間美学の裏と表の表現である。『神父の休日』(同・49)にしても『豆腐屋ブルース』(同・52)にしても、すべてこれ、チョンマゲ物語の主人公と血縁の徒である。ただ、さきにものべたとおり、『死に急ぎの記録』を境いにして、その主人公たちは社会とのかかわり方を明確にし、押されてくじける姿勢から、怯儒なりに押しかえす姿勢を獲得するわけである。
 滝田ゆうは、愛すべき無名下層の人間を、いためつけ、押し潰す現代のメカニズムに対して、ただ押し潰されるだけではがまんならないと考え、かれらなりのシッペがえしを試みはじめたと考えられる。反戦、平和、マスコミ、オートメーション化、神聖……これらを、その一作一作において怯儒な小市民の立場から、支持するものは支持し、否定すべきものは否定して、笑いとばすにいたったのだろう、

ぼくは、今、『おこつ協奏曲』にしても、『神父の休日』にしてもそれぞれストーリーを紹介しながら、ぼくなりのコメンテールをつけてみたい気持ちがしている。しかし、そうすることは、その諷刺性と主人公の設定法について、果しなく同じことばを並べていくことになるような気がしてならない。『後巻咲子の決断』や『彼女の世界』における女性の描き方にしても、そこに、浮薄な小市民性を皮肉っぽく笑う滝田ゆうの顔と、同時に、その愚直狡猾さを愛する滝田ゆうの顔がダブってみえるように思えてしまう。しかも、一貫して、この怯儒な小市民をしめあげるものに対する拒否の姿勢の内在すること、それに対する笑いの糾弾があるのだ……。
 『ワラッテ!』(ガロ・50)の主人公に仮託された現代の人間否定への抗議。主人公は、つまりロボットでありましたと結末を語ることはやさしいが、そして、人間が個性を剥奪されていく現在の機構への批判でした……ということもやさしいが、この全編「笑い」を強要された人間たちの中で、どうしても笑うことのできない主人公の目を見ていると、わずか一行たらずの内容規定ではすまされないものを、ぼくは感じるのだ。この主人公の表情が、甚次郎兵衛の表情にかさなり、『寺島町奇譚』のキヨシの表情にかさなr、その悲哀にみちた、そのくせおちそうな愚鈍な目は、しゃれた諷刺マンガの目ではなく、愚直で怯儒なぼくの目であり、ぼくらの表情にほかならないという気がしてくるのである。ドブの匂い。「ぬけられます」という立看板。ベーゴマ。ぼくらは「文化」から程遠く、「安定」からもはるかに遠く、オヤジのゲンコと、口ぎたなくののしるオフクロとの中にあって、つねに「繁栄」から取り残され、うすぎたなく、すりむけたひざ小僧をむき出しにしていたこと……それが「日本」であったことに気づき、その日本が、今なお、ぼくらの目の前に「祖国」と「忠誠」の立看板を立てて、「ぬけられます」……いや、「通りぬけてください」といっているように思えてくるのだ。
 しかし、『寺島町奇譚』については、ぼくは、その作品内の絵のとおり、あっさりと「ぬけよう」とは思わない。通りぬけられますとは考えていない。チョンマゲ物語の主人公たちの目の原点が、また、ナンセンス・マンガの登場人物たちの目のそれが、少年キヨシの目玉に収約されてある以上、ぼくは改めて『寺島町奇譚』論を書くしかない。
 負け犬の美学……と、ぼくは記した。負け犬は敏感だ。獰猛な野犬の前においてはシッポをおしりの間にはさんで、低くうなり声を立てるだろう。しかし、負け犬は、その怯儒な性格からして、人の愛玩するところとはなり得ない。ということは、ダックスフントやブルドッグや、コッカースパニエルやコリーのように、つやつやした毛なみを誇り、そのゆえに鎖につながれて「飼犬」としての安穏な生を送り得ないということだ。
 食事、小屋つき囲いつきの生涯。それをうらやみながらも、負けおしみに遠吠えの一つもする駄犬の中に、実は、みずからの生を切り開く可能性が存在するのではないか。
 滝田ゆうは、そうした怯儒な野生に美を発見し、独自の世界を構築すると共に、現代社会に対して、「遠吠え」の価値を提示したのだ。飼犬であることの拒否。それは当然、ごみ箱をあさり、ドブ板の上に生活を構築することになる。こうした美学が、ぼくらの見せかけの民主主義や平和に、痛烈な反措定となることは、今さら言うまでもない。
 滝田ゆう。擬制の自由への底辺からの批判者。これが、ぼくのファン・レターのしめくくりの一句である。

テキストファイル化安田夏菜