高橋和己論

上野瞭
『ネバーランドの発想』(上野瞭 すばる書房 1974.07.01)

           
         
         
         
         
         
         
    



どうして高橋和己は、つぎつぎと人を死に追いやるのだろう。死ということがいいすぎなら、破滅といい直してもいい。高橋和己の描く主人公たちは、既定の事実のように破滅していくのである。『非の器』の正木典膳は権威の座から失墜するし、『邪宗門』の千葉潔は貧民窟のの片隅で餓死する。『憂鬱なる党派』の西村恒一も落魄の果てに窮死。『日本の悪霊』の村瀬○(獣偏に月)輔も『堕落』の青木隆造も、生きながら屍の道に足を踏み入れていくのである。『わが心石にあらず』の信藤誠もまた、軌を一にしたように破滅の道をたどっていく。いや、これら主人公の運命のみが陰々滅々としているのではなくて、主人公に関わる登場人物のほとんどが、同時に死か破滅か、まったく救済の閉ざされた道を歩まされるのである。
 このことは『邪宗門』の行徳阿礼や阿貴、植田克麿、『日本の悪霊』の落合刑事や山階初子、また『憂鬱なる党派』の藤堂や岡屋敷、日浦朝子や古在を思い浮かべてみるだけで充分だろう。こうした作中人物を見ていると、高橋和巳にとっての人間とは、頽落下降の一途をたどる以外、その道はないもののように思われてくるのである。人間とは、所詮そんなものなのだろうか。もし、そんなものだと割り切るなら、諦念にも満ちていようが、高橋和己の場合、滅びの歌の中には、諦念どころか、断念の心情がある。
時にはそれが、怨念にまで高まり、痛苦の声に満ちているのだ。
 いったい、人間の破滅を描くということは、壮絶な生の記念碑を建てようとすることなのか。それとも、挫折した人間の、その挫折に追い込んだものへの告発なのか、そのどちらなのだろう。
 わたしは、そうした問いかけのどちらも内在していることを認めながら、それとは別に、高橋和己が人間の破滅を描くのは、発想の視座というべきもの、創作態度そのものに関わるようにおもえてならないのだ。これは、高橋和己にとって文学とは何か、ということでもあり、かれが虚構の世界に仮託した何をしたか、ということでもある。
 わたしは、仮にそれを、「裁き」と呼び、「裁くこと」によって存立しているのが、高橋和己の世界なのだと考える。
「裁き」がどういう「視座」を必要とし、また、それがどのようにして人間の破滅提示に結びつくか。それは後で触れるとして、ここではまず、「裁き」というこの仮定の上に立って、高橋和己がなにを裁いてきたかーというそのことから考えてみたいのである。


 『非の器』の最終章に、主人公・正木典膳の次のような叫びが記されている。
「私は権力である。私は権力でありたい。天国の天使たち、天国に憧れる人間どもの上に跳梁し、人間どもの善行や悪行、人間どもの幸福や不幸、それら一切矮小なものときっぱりと絶縁し、平然と毒杯をあおりながら哄笑したい」
 独白は、ながながと続き、「さようなら、優しき生者たちよ」と、わたしたちに向き合う形でしめくられる。
 高橋和己が、ここで提示したものは、権力を内側から支える人間の姿である。権力への癒着によって(あるいは、癒着への志向によって)国家を内側から補強していく人間。そうした人間の論理や意識のひだに密着することにより、高橋和己は、内側から権力を裁こうとしたといえる。それは、ひるがえって、日本の知識人に対する裁きとなり、同時に、わたしたちの内なる正木典膳、あるいは、正木典膳になりうる可能性への裁きまでを含んでいたとわたしは考える。この幅広い裁きのフレームは、もし、正木典膳を、権力の発想解明のための道具として提示しただけなら成立しないものであり、糾弾すべき固定悪として仮想するなら、これほどの照射範囲を持たなかっただろう。あきらかに、正木典膳は、わたしたちと等質の個であることによって、正木典膳に退治する立場の人間をその裁きの中に取りこんだのである。
 裁かれているものは、国家や権力に癒着した仮想の一人物であるとしても、裁かれうるものは、一切の心情や価値観に癒着することによって、人間の個としての等質性を否定するもの、すなわち、現実の人間すべてなのである。
 『非の器』では、正木典膳が、「問われるもの」として描き出される。しかし、正木典膳を問い詰める米山みきも、弟の牧師・正木規典も、主人公の失墜過程で「問われるべきもの」として描かれるのだ。みじめな人間として描かれることによって裁かれるのである。
「問うもの」が「問われるもの」であり、不正を糾弾するものが、糾弾されるべきものであるという構図は、高橋和己の作品に一貫している。『憂鬱なる党派』の西村は、被爆者の記録を出版しようと駆けまわる。それを出版することによって、人間を圧殺するものを問いつめようとする。職をなげうち妻子を捨てて、その一事に現在の自己をかける。
しかし、結果は、こと志に反して窮死という形で裁かれるのである。この個の悲劇は、集団にも押しひろげられる。 『邪宗門』一篇は「ひのもと救霊会」を中心にした壮絶なドラマだが、かくあれかしと仮想構築された誓約共同体が、現実の国家に対峙されることによって、国家とその歩みへの裁きとなる。日本の歴史と国家構造が裁かれているだけでなく、日本の国家構造に集約化された形で、政体こそ違え、国家というものが大なり小なり含んでいる運命共同体の非人間的性格が裁かれるのだ。
『邪宗門』には「あり得ざりし歴史」という一章があるが、こうした架空の戦後の叛乱蜂起と解散地区の設定によって、「戦後民主主義」の欺瞞性への裁きも、同時に行われるのである。
わたしは、「個から集団へおしひろげられた裁き」といういい方をしたが、もちろん、この規定は曖昧である。曖昧であるというより、高橋和己の意図を裏切る。そこで集団という一般的な規定にかえて、人間の個と個の連帯による裁きと、いい直したほうがいいのかもしれない。『非の器』に見られるように、権力は、それに癒着する人間の個の在り方を通して裁かれた。当然、「ひのもの救霊会」という集団も、それに参加する個の在り方を通して提示される。個の視点を集積することによって国家への対峙が図られる。
誓約共同体は、人間の個々が、それぞれの自由な選択によって、自発的に形成した集団である。運命共同体が、個の自立よりも全体の平均的希望を、また、共同体自体の利益を、政治的に優先させる時、個の自立を優先させる誓約共同体は、存在するだけで、それは裁きの意味を持つ。それ故に、国家の弾圧を受け、「ひのもと救霊会」は、崩壊に追い込まれた。しかし、個に原点を置く誓約共同体が、その本質である個と個の自立的連帯性を否定して、政治的闘争に突入した場合、それはもやは、対峙すべき運命共同体と同一の集団にほかならない。この自己否定によって「神部解放地区」は崩壊する。
個は個として尊重されない以上、いかに正義への試みであっても、それは裁かれねばならないのだ。蜂起を決意した千葉潔に向かって、友人の吉田秀夫の語ることばに、そのことは集約されている。
「・・・救霊会が過去にも現在にも特色ある一つのまとまりを持ちえたのは、それが自然発生的な地域共同体に立脚していたからだと思う。人為的な、人工的な国家の権力に反抗する感情的地盤が自然にそなわっていた。だが同時にそれは救霊会が踏みこえてはならぬ限界をも暗示していると思うのだ。もし、君の計画が成功しても・・・この集団が国家的規模のものに拡張してしまっては、かえってその美点がくずれる。救霊会はあくまで地域集団であることにとどまり、資本家が牛耳ろうと共産主義者が主人になろうと、ひたすらに集中しようとするだろう国家権力に対する分散的な抵抗基体として、政治的には消極的な、しかし生活と精神の自由は断乎として売りわたすことのない団体として活躍するように助力するべきだ・・・」
『憂鬱なる党派』や『わが心石にあらず』の中に、「共苦の観念」とか「共苦の心情」ということばが使われている。高橋和己にとって「世なおし」とは「ひのもと救霊会」におけるように、人間が相互の個の自立性を犯さず連帯しあい、まさに「共苦」して生きるしかないということだった。しかし、人は石にあらず。非の器なる故に、この受苦の心情に耐えることが出来ず、苦を与えるものへの怒りにもえあがらないではいられないのだ。
怒りは戦いとなり、戦いは個の自立を侵犯する。虚構の共同体によって、現実の国家を裁いた時、その共同体は、他を裁こうとしたその行為によって、裁かれねばならなかった。
『邪宗門』の人々は、射殺され、孤立し、窮迫し、死滅する。これは、高橋和己の、みずからなる共同体幻想への裁きである。縮小した形で、繰りかえし、この問題を語ったのが、『わが心石にあらず』の「自由連合」の発想である。しかし、このとこは『邪宗門』一篇の発想をもって充分に理解できるのではないだろうか。
『日本の悪霊』における村瀬○輔も、『堕落』における青木隆造も、その目的は価値観こそ違え、『非の器』における正木典膳同様、個の自立性や等価性を踏みにじった故に、裁かれるのだ。


 高橋和己にとって、個の一回性がすべてである。天皇制も、戦後民主主義の理念も、変革の思想も、この個の自立性を侵犯する時、等質の裁きを受けねばならない。この人間観は、すでに『往生要集』の一語を、その題名として選び抜いた時点で明確にされていた。国家権力に癒着するにせよ対峙するにせよ、所詮、人間は深淵をかかえた不合理な存在である。それ故、裁きの性格も、二重の構造を持ち、個の自立性と等価性を侵犯するものを裁くと同時に、個の自立性と等価性を主張する原点としてその人間も、そうした心情ないし価値観によって生きる故に、裁かれることになる。一種の原罪意識である。
「・・・母の肉を食った彼自身がそうであるように、すべての人間があらかじめ罰せられた人間であることを、ある怨みをこめて判らせてやりたかっただけかもしれなかった」
これは『邪宗門』の千葉潔の内面を説明したことばだが、右の原罪意識を裏付けていると思う。人間は、特定の信条や価値観に従って行動する以前に、「罰せられるべき存在」としてある。特定の信条や価値観を選びとることが、すでに「罰せられるべき存在」としての自己を確認する第一歩だ、ということである。きわめてストイックな人間意識であるが、こうした個の原理があるゆえに、『非の器』は、「わたしたちの内なる問題」となった。
 このことは、正木典膳が性欲のわなにおちこんだということではない。また、性が、不合理な人間の中心にあるということでもない。たまたま性は、それを照射する一つの契機になっているにすぎない。裁くべきは、性に傾斜するその行為ではなく、性に傾斜せざるをえない人間の不確定性である。不確定な自己を、特定の信条と価値観によって、確定的存在と思いなすことである。個の自立といい、等価性といい、そこにはすでに存在肯定がある。人間は、個として存在しうるという確定性がある。存在確定のこの意識が、すでに倨倣ではないか。すでに、自己が「罰せられるべき存在」であることを隠匿することにはなってはいないか。
 高橋和己が個の原理によって、一切の個の自立性を抑圧するものを裁きながら、その原点である個それ自体を、裁きの対象にすえたことには、右のような原罪意識がるように思えてならない。そして、こうした原罪意識をその人間認識の基底にすえるに到った発想の根拠には、死の恐怖があるように思える。恐怖ということばが適当でないとするならば、一切の生を規定する「可死性」といいかえてもいい。
 『非の器』の正木典膳は、スキャンダルによって裁かれる以前に、すでにその、人間の死すべき条件によって裁かれていたと思うのだ。「静枝の手記」(『非の器』第三一章)として提示された次のような発想が、そのことをよく伝えている。
「今はもう、かつて背き去った子どもを許し、夫を、米山みきを許したように、わたしは、わたしにふりかかるどんな苦しみをも神のように寛大に許すだろう。わたしを蝕む癌組織をもわたしは優しい慈しみを以て許したい。神さま、いま、わたしはあなたの在り方が解ります。あなたが何故限りなく寛大であるのか。なぜ万人を等しく憐れむことができるのか。また何故に人を裁く権利を持つのかも。それはあなたがもう生きられないからです。退屈な永遠をお持ちになっても、クリストよ、あなたは、一回限りのとり返しのつかいない<己ひとり>のこの生をもうお持ちになることができないからなのです」
 死は一切に先行する。人間は死すべき存在である故に、憐れまねばならぬものである。正木典膳の病妻・静枝の日記には「許し」ということばが使われているにもかかわらず、それは「裁き」と同質の意味をもつ。静枝は、じぶんが二度と生きられない自覚において、夫の正木典膳を見直し、そこに、自己と等質の死すべき人間をみるのである。憐れなる夫よ。憐れなる男よ。憐れなる人間のあがきよ。静枝は、早かれ遅かれ、一切が無に帰することを、不治の癌故に見とおした。こうした深淵をのぞきえた時、人は何をもって絶対と考えるだろう。神の不在の精神風土において、絶対なるものは死以外、何もありえない。
個の自立の発想も、誓約による連帯も、可変動的な相対性価値観にすぎない。
それにもかかわらず、それを原点にすえて、国家悪を糾弾し、人間を手段・道具化する一切の信条や価値観に対峙しなければならぬ。それは、「死すべき存在」であり、「二度と生きることの出来ない存在」であるからこそ、この一度の生を、よりいつくしむためである。
 一回限りの生であるからこそ、この自立と等価性を原点とし、この命を押しつぶすものを裁く。裁きつつ、同時に、その不確定性によって裁かれる。
 高橋和己の「裁き」とは、こうした二重の裁きの構造を持つことによって、戦後思想を個の視点から把えなおすことだったと、わたしは思う。それは、人間の不確定性を導入することで、戦後民主主義のあげ底性をゆさぶるものであった。戦前とは政体こそ違え、されに分割され、再編成された集団と集団の論理にたいする存在論的な問いかけであった。その問いかけが、「裁き」の構造を持っている故に、ひどく倫理的に思えるのである。いや、見えるのである。


 『憂鬱なる党派』の中に「虚構の思想」ということばが出てくる。「虚構の思想」には三つのパターンがあって、それぞれの規定がある。主人公・西村恒一の不可解に見える行動を説明するためのものだが、その中に、絶対的なものは何もないという考え方が出てくる。
 すでに個の問題で、不確定性ということを考えた。それ故、この考え方は、高橋和己の思想と考えても間違いはあるまい。事実、高橋和己の作品の中では、繰りかえし「絶対的なるもの」の不在が語られてきたのである。そこで、冒頭の設問に戻って、「絶対的なるもの」の不在を語る「視座」とは、そのようの視座なのか。どのような視座を占めることによって、はじめて可能なのか、ということを考えてみたい。
 高橋和己は、これまで述べたように、さまざまな形で、個の自立と等価性を犯すものを裁いてきた。その裁きは、侵犯者を裁くだけではなく、侵犯者を糾弾するものをも、その不確定性で裁いてきた。こうした二重の裁きを通して、かれは、かれ自信をも問いつめ裁こうとしたに違いない。しかし、裁くものは、裁きうる位置、すなわち「絶対者の視座」を占める必要があった。そうでなければ、権力にせよ、人間の業にせよ、等しなみに裁くことは不可能である。作中の主人公たちは、いうならば、すべてをみそなわす神の前に立つ以外、裁かれうることはないだろう。高橋和己は、その全力をあげて、人の裁きに没入することにより、否応なしに、絶対者の視座に坐らなければならなかった。
 作家は、多かれ少なかれ、その描き出す諸人物に対して、神の位置を占める。たとえ、そうだとしても、それは、いつくしむための神でもありうるし、人間の復権や信条や理念を布教し伝導する神でもありうる。現に、野坂昭如はその『ゲリラの群れ』なる作品において、高橋和己の『邪宗門』同様国幻想は、千葉潔における「ひのもと救霊会」のように、その政治性において崩壊しない。裁かれ、追いつめられ、窮死することもない。文字通り、ぬけぬけとカンパイするところで終わるのである。野坂はカンパイ一党を創り出した神であるとしても、神であることによって、「裁き」はしない。裁きの神である前に、人間をいつくしむ神であり、人間の愚かさを何よりも賞揚する神なのである。それは「絶対者の視座」を占めるよりも、最初から「裁き」を放棄した視座に近く、おのれの虚しさと怒りを、そのまま放射する視座とも言える。それに反して、高橋和己は、常に裁き手としての視座を占めることにより、必然的に「絶対者」の位置を占めた。
 「絶対的なるものは何もない」と主張する人間にとって、これほどの矛盾はない。「絶対的なるもの」の不在を証明しようとするほど、「絶対者」の位置を占めねばならぬ自己撞着。かくて、この作家は、おのれを裁くかわりに、(というより、自己を裁こうとして)つぎつぎと、いとしむべき主人公を、死と破滅に追いやったのである。この意味で、高橋和己の主人公たちは、フローベルにおけるボヴァりー夫人の位置を占める。裁くべきおのれは、正木典膳に、西村恒一に、また、千葉潔や青木隆造や信藤誠に仮託され、おのれを裁くごとく、裁かれるのである。
 この「裁き」の回帰運動は、かれが文学を「裁き」としてわがものとする限り、続くだろう。虚構の世界とは、それに仮託して現実を裁断するものである。そうした信条と共に持続するだろう。
 わたしは、皮肉をいっているのではない。まさに高橋和己は、日本の知識人であることによって、その業を背おおうとした作家である。そのことが、いいたいのである。かれは、頽落下降した人間を描く。スラムを描く。しかし、かれが怨念のように描く頽落下降したスラムの人間は、きわめてはっきりしていることだが、かれの作品など読まないのである。

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