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ここで一つの考察対象として取りあげるのは、あるテレビ番組である。『夫婦善哉』である。そうはいっても今は亡き織田作之助の同名の小説ではない。視聴者参加番組と銘うって視聴率の高い公開番組、ミヤコ蝶々・南都雄二の司会による週一回の番組である。しかし、これは『夫婦善哉論』ではない。上方喜劇論でもない。いわんや「テレビ番組」の内容を批判するものでもない。あくまでこれらは一つの手がかりにとどまり、問題はテレビのブラウン管の外側、わたしたち自身の生活意識の検討にある。ジャン・カズヌーブは、その著『ラジオ・テレビの社会学』の中で「テレビはむしろ、われわれを、われわれ自身から強奪する」といったが、一つの興味ある番組(視聴率の高さを誇るもの)を分析することは、それが正鵠を得たものであれ得ないものであれ、「強奪された自己」を、今一度われわれ自身のものとする努力に関わるのではなかろうか。もちろん、これは番組そのものの分析ではない。テレビに強奪されたわれわれ自身の損益勘定でもない。しかし、どこかで「強奪された自己」……というより「喪失した自己」の問題に結ぴついている。 かってわたしは、現代に輩出する忍者小説・忍者映画を中心にして『忍者――それは時代のインデックスたりうるか』ということを考えたことがある。(日本児童文学/1964年6月号)そこで、わたしは、「プロセスの剣豪」とでも呼ぶべき刻苦修業型の武芸者に対比して、目的に向って精進する過程(プロセス)を喪失した武芸者……というより、そんなふうな「プロセスを抜きにした英雄豪傑」を描く現代の大衆小説が、実は現代の大人の「権威失墜」現象に支えられて生まれたものであること、つまり忍者は疎外された現代人の投影であるということを検討した。ここで取り扱おうという事柄も、そこから派生したものである。派生した……というより、忍者論を書く過程で、どうしても触れずにすませなかった事柄を、今一度ここで再考しようというわけである。結果は、同一の筋道をたどり、同一の図式を描くことになるかも知れない。一方が忍者、一方が『夫婦善哉』という素材の違いだけに終るのかも知れない。しかし、たとえ同一図式にたどりつくとしても、そのプロセスにおいて、わたしは、自分の発想の不分明な点、不確かな点を少しでも明確に出来るのではないかと、虫のいいことを考えている。 もちろん、R・デニーが大衆文化を考察した『ミューズのおどろき』の最後を、「未来が何をはらんでいるかを示すのは非常にむずかしい。明日、サイレンが(ホメロスの作中の海の精)どんな歌をうたうかということを述べるよりも、昨日、何がミューズを驚かせたかを示す方が、ずっとやさしいことなのである」ということぱで結んでいることを知らないわけではない。しかし、わたしにおいては、シシリー島の近くの小島まで船出して、サイレンの歌声に未来を予知するためには、まずミューズの驚きそれ自体を明確にする必要があるのではないかと思う。アメリカの大都会のコカ・コーラ自動販売機の紙コップには「機械は考えることができない。しかし、あなたにはそれができる」と刷りこんであるという。考えれぱ考えるほど皮肉きわまるこのアピールの仕方に、ミューズが驚いたことはいうまでもないとして、果して『夫婦善哉』なり、そこを通して考えられる現象なりに、ミューズは驚くものなのかどうか。それこそ神のみぞ知る……という気がしないでもない。 さて、第一章では『夫婦善哉』のポジティブな面を、第二章では、ネガティブな面を検討し、第三章では、あるテレビ・ドラマを中心に従来の労働観の変質を考え、第四章では「報労不必至」の経済的一面を、第五章では「遊ぴ」の中における大人の問題を「宴会」を中心に考えることにより、第六章『夫婦善哉』の意味にいたるつもりである。第七章は結論というよりも一種の問題提示と考えていただきたい。 1 『夫婦善哉』は、いうまでもなく、ラジオの街頭録音、お笑い街頭番組からブラウン管の世界に移しかえられたものである。ミヤコ蝶々・南都雄二という元夫婦の喜劇タレントが司会者をつとめている。毎週30分の番組の中で二組の視聴者夫婦を招いてインタビューする。「あなたは恋愛結婚ですか、それとも見合結婚ですか」「お知り合いになられたきっかけは、どんなことからですか」「好きだということは、どちらがいわれましたか」この番組の前半は、質問者の誘導によって、二人の男女が(二組の夫婦が)どんな風な恋愛をし、結婚するにいたったか……というあらましが紹介される。コマーシャルを中にはさんで後半は、この二組の夫婦の生活の断片が紹介される。「御主人から奥さんへの注文は。また、奥さんから御主人への注文を一言」と、夫婦間の希望・要求を視聴者夫婦に語らせる。出場の視聴者夫婦は最後に、夫婦茶碗と旅行の費用・金一封をスポンサーから頂戴し、公開録画会場につめかけた多数の視聴者の拍手に送られて退場、この番組は終るのである。 出場者夫婦の年令・結婚年数・職業は、それこそ各種多様である。新婚夫婦もあれぱ中年夫婦もあり、すでに還暦をむかえた夫婦あれぱ、再婚三婚の経験者ありといった有様である。(その上、相当の長期間にわたる番組であるから)出場夫婦の組数は、ある意味では日本の各階層を示し、「日本の夫婦」の断面を明示しているといえるのではなかろうか。武田泰淳は『日本の夫婦』(朝日新聞社刊・1963年)の「あとがき」で、「もしも日本に五百万組の夫婦が存在するとすれぱ、五百万種類の夫婦が、めいめい違った運命と性格によって生き続けていることになる」といった。このことは、たしかに、この視聴者参加番組の場合にも当てはまりそうである。 野球の阪急ファンである某劇場の支配人。この御亭主は試合の結果いかんによっては飯も食わないし、また、和歌山に所用で行く場合にも、南海はきらいだから南海電車にも絶対のらない。(64/11/13放送)ある奥さんは、夫の月給日、ビール半ダース・清酒一本・ウィスキー角瓶一本を平らげて、「もう少し家内が呑む方を慎んでくれるといいと思うのですが」と御主人から注文を受ける始末である。(64/9/25放送)落語の粗忽の夫婦のように、姉と妹とを取り違えて文通し、半年後に気がついた時には結婚せざるを得ない結果になってしまったというのもある。(64/11/20放送)このほか、風呂屋の番台をしている娘を好きになった警官……、逢い引きに、この娘は金庫をぷら下げてやってきたという話や、やくざから足を洗ってスタンド・バーの女と一緒になったが、家もないので新婚しばらくは橋の下で寝たという話もある。御主人の便所が長いので、奥さんが「さぞ疲れるだろう」と便所までお茶を運ぶ話。親父が無責任で次々と知人の娘を許嫁者に決めて、四人も許嫁者が出来た話など、それはさまざまである。 おそらく、この一見多様な夫婦の姿が、今日の一定の視聴率を保持しているのであろうし、夫婦の関係が多様なれぱこそ、東に西に公開録画の会場を移動させてこの番組は続いているのに違いない。しかし、この番組はそれだけのものであろうか。さまざまな生活を提示して、そこに視聴者が笑いながら「夫帰さまざま」の感慨を抱くだけのものだろうか……。 『幻影の時代』(The Image)を書いたダニエル・J・ブーアスティンは、現代を「ニュースの取材」の時代ではなく「ニュースの製造」の時代だと規定した。つまり、疑似イベントの氾濫(人間の手によって合成された出来事・現代人の推測や期待に応えるべく作り出されるニュース)を指摘したが、その中で「インタビューという形式は、複製(グラフィク)技術革命とともに生れたニュースを製造する新しい方法である」といっている。この『夫婦善哉』という一種のインタビュー番組も、(それが政治家や芸能人相手のいわゆるインタビューとは違った変種のものであるにせよ)そうした一種の疑似イベントということになるのであろうか……。 デニーは「テレビのアクチュアリティとインタビューの型(フォーマット)は、映画には扱えない素材を取りあげることができる。そうして、テレビが家庭内のコミュニケーションの質を多少は落す結果をみちぴきながら、なお10倍も質を向上させたということは否定できない事実なのである」と『ミューズのおどろき』第四章でいっているが、『夫婦善哉』もまた、一方に否定的側面を持つ番組であると共に、肯定されるべき側面があるのではないか……。 「人気番組――この秘密を探る――」といった週刊誌的発想を展開するのが、この小文の本意ではない。しかし、そうはいっても、番組それ自体のポジティブな面・ネガティブな面に触れないで済ますことは出来ない。とすれぱ、いったい、「お笑い」という点を除外して、この番組が、意図することなく含んでいるプラス面とは何だろうか。そのことを考えてみると、つぎのようになる。 第一にそれは、「オールド・グッド・デイズ」の思想、あるいは感情というものが無いことであろう。新婚若夫婦にはもちろん、そうした「古き良き時代」への郷愁や感慨はないだろう。それはいうまでもないとして、この番組に登場する老夫婦たちもまた、過去をなつかしむことによって現代を否定したり批判したりする姿勢が無い。(といって何百組という夫婦がすでに登場したことであり、そのすべてを見たわけではないから、決定的にいい切ることは危険かもしれない。しかし、わたしの見た限りでは、そういう老夫婦の出場は無かったし、また、この番組の構成それ自体に「現在の視点」とでもいったものがあり、過去によって現代を批判するといった性格はない)出場者夫婦は、それぞれに年令・職業をこえて、現在の生活を享受している。つまり、「昔は良かった。今の若い奴等は駄目だ」という現代の日本において消減していない思考が、ここにはないのである。第二に、(一番注目されていいことだと思うのだが)「夫婦」という観念にまつわる悲愴感、あるいは神聖観の附随していないことである。たとえぱ、木下恵介はその映画作品『喜びも悲しも幾歳月』において、灯台守の夫婦を主人公に年代記を描いたが、その日本の夫婦にまつわる雰囲気は一種の悲愴感である。猛吹雪の中の出産。戦争。それぞれ時代を示す典型的な事件が積み重ねられていく。それはそれで当時の日本を生き抜いた90パーセントの夫婦の姿であったといえる。しかし、同時にそこでは、庶民の「生きざま」ともいうべき「笑い」の側面がすべて切り捨てられ、悲しいまでの厳しさ、「かくも美しく」という夫婦の面だけが描かれたのである。松山善三の作品『名もなく貧しく美しく』もそうであったが、これらの映画にあらわれている悲愴なまでの美しい夫婦の寄りかかり、生活の中での夫婦の結束の神聖さというものは、われわれ自身の願望なのかもしれない。 たとえぱ、「壷坂霊験記」のおさと・沢市。「吉良の仁吉」と妻お菊。あるいは戦前の小学校教科書にものった山内一豊とその妻。これら浪曲・教材の主人公夫婦はそれぞれに悲愴である。悲愴である故に何か冒しがたい永遠の生活単位のようなものを夫婦という人間関係の中に持ちこんでいる。落語『芝浜の革財布』の中の夫婦だって、最後には亭主の方が、女房の手を取ってはらはらと涙を流すといった神聖さを見せてくれる。それが「教育勅語」に端を発する夫婦観であるにせよ、それ以前の封建道徳の中でつちかわれたものであるにせよ、あるいはまた、そうではない愛情中心発想からくるものにせよ、われわれは夫婦という人間関係を悲愴なまでに美しく思い描くことによって感動する。ところが、『夫婦善哉』にはこの悲愴感が無い。ここに登場する夫婦は「笑えてくる夫婦」であり、「笑わずにはいられない夫婦」なのである。「どうしてあんな夫婦がいるのだろう。いったい、あんな夫婦ってあるのか」という観察対象の昆虫のようにからりとしている。 もちろん、悲惨な結婚生活の紹介がないわけではない。しかし、この番組の世界では、出場者夫婦の悲惨な体験が、一般に「夫婦」というものにまつわりついている悲愴なまでの結束性や美しさとつながっていない。むしろ見世物(ショー)としての「おもしろさ」と結ぴついていくのだ。第三に、ここでは「夫婦」が誰にでも解る人間関係として提出される。誰にでも解る……ということは、「大人のことは大人にしか解らない」とか「夫婦のことは当事者だけに解るにすぎない」といった一種の固定観念と対立するということである。視聴者がたとえ子どもであっても、「ああ、あんなおもしろい夫婦がいる」と素直に理解できる関係だし、出場者夫婦の愛の告白の体験といったことも、(おそらく、これは個人の秘密に属することであったし、今もなお、多くの男女の間ではそうされているのだろうが)ここでは、全視聴者に示されることになっている。これは、第四のプラス面……一種のヒューマン・リレーションの成立、というより無媒介なむすびつきとも関係し合う。無媒介というのは、職業なり、趣味なり、気質なり、思想なり、その他もろもろの生活上の属性を介在しないむすびつきということである。しいていえぱ、そこにいる出場者と視聴者の関係は偶然的であるということである。両者の間にはテレビという媒体があるわけだが、この基本的要因を外して考えた時、出場者夫婦と視聴者の結ぴつきはとうてい考えられないという関係である。異質の条件・性格・思考を持った者が、同じく異質の次元の人々とテレビを介して「笑い」だけで結合する。親近感や生活の手本を与える。政治家や芸能人がその意見を出すことによって、視聴者に政見や芸能の評価法のモデルを与え、映画評論家が映画判断の規準や作品の優劣を与えると同じく、この出場者夫婦もまた視聴者に何かを与えている。エラリー・クインやフイロ・バンスといった名探偵は、われわれのかわりに考えてくれたし、『サンセット77』の探偵たちは、われわれの願望にそってスリリングな疑似体験を与えてくれた。とすれぱ、これらの出場者夫婦のわれわれに与えるものは、政見でも映画の優劣でも知的満足でもスリルでもないとすれぱ、もっと身近なもの、たとえば「夫婦の満足」とでもいったものに違いない。これは、次に取りあげようとするこの番組のマイナス面、あるいは、この小論の中心問題にも触れるものである。くわしい説明は後てするとして、ここでいえることは、新聞の「ひととき欄」といった小さな囲み記事の一投稿者に対してさえ、未知の人々から全く関係の無い手紙……たとえぱ「生き方が解らなくなりました。お教え下さい」といった手紙が舞いこむ時代である。この番組の視聴者は、その出場者夫婦の中に、(あるいは夫か妻の一方に)自分の姿を見出して、それなりの共鳴をしているのだろう。これは、「みんな同じだ」という自分の愚かしさを肯定する手がかりを与えられていることなのかもしれない。 リースマンはその『孤独なる群衆』の中において、「人目に立つということは現代における最大の悪徳である」(第三章・他人指向段階における同輩集団)といった。「かれは自分自身を操作して他人を変えるのではなく、他人と同じようにする努力をする」(第八章・内幕情報屋)と現代の自主性を喪失した人間を規定したが、このことぱは、ある点で、この番組の視聴者にもあてはまるのだろう。 第五に、この番組のプラス面の一つは、家父長的権威が無意識のうちに否定されていることである。たしかに出場夫婦の中には、その妻が夫の暴君ぶりを語る場合もある。しかし、それは話されれぱ話されるだけ、視聴者の痛憤や涙を誘い出すかわりに、逆に笑いを導き出すのである。夫の一方的権威や独断は、視聴者の笑いによって裁かれる。軽く一笑にふされる。それぱかりか、まさしく「笑いとぱされる」。笑いによって夫の専制はその時代錯誤性を突きつけられ、夫自身も、その笑いに同調して笑わなければならなくなる。これは、なかなか効果的な教育である。 だが、ポジティブなものと、ネガティブなものは、ここで同居する。この番組のプラス面として数えあげてみたものはほとんどそのまま、マイナス面に転化する。そこでつぎに、『夫婦善哉』のネガティブな側面を数え上げることにより、番組の外側のわれわれ自身のあり方に目を向けてみたい。 2 まずネガティブなものとして第一に考えられることは、「古き良き時代」の意識がないということを裏返せばどういうことか、ということである。一口にいえば、円満具足、現状肯定、これらが良きにつけ、悪しきにつけ出場者夫婦の共通項をなしているということだ。ひるがえって考えてみると、その事は結婚生活の無批判な継続ということにもなる。十年か二十年か、それぞれ夫婦により継続年数の差異はあるものの……また、それぞれの夫婦生活にはそれなりのトラブルや苦しみがあったとはいうものの、今日ここにこうしてあることの完全な肯定がある……ということである。昨日の暮らしぶりとは激しい格差があるとはいえ、それは経済的な面、家族構成の変動を意味するだけのもので、夫婦のあり方そのものの変動や格差ではない。要するに番組名の示すとおり『夫婦善哉』の単純な思想があるだけで、「夫婦とは何か」「日本の夫婦関係はこれでいいのか、良くないのか」という内省的側面はカットされている。番組の意図するところ、また性格、その進行の仕方が、当然そうした面をカットしてしまっているといえぱそれまでだが、それでは、この番組で「夫婦」として提示されているものは何だろう。 一口にいえぱ、それは「夫婦の全体」ではなく、ここに登場するものは「夫婦の断片」だということである。夫婦そのものが登場しているようには見えるものの、それは部分であり、番組の枠に適合するように自らの生活を取捨選択した部分化された夫婦である。夫の、あるいは妻の他の部分は、台所に、職場に、友人関係の中に、取り残されたままである。そういう形で登場する夫婦である。「お酒は呑みますか。どれくらい」「いつもデイトをなさった場所はどこですか」「子どもは何人くらい欲しいですか」司会者の質問も局部限定的である。一見、夫や妻のプライバシーに触れるとみられる質問も、出場者の「個としての内奥」までは決して達しない。達しないのではなく達してはいけないのであり、達する必要がないのである。ここで取り交される話題は一種のゴシップであり、噂語・気軽なのぞき趣味に近い。ゴシップの視点からは夫婦生活のシリアスな面は除去される。夫や妻の思想・感情は「お笑い番組」というフィルターで濾過されてしまう。 さらに、この番組の夫婦の中から消去されるのは性生活である。『ニューギニア高地人』(朝日新聞社刊)という興味深いドキュメンタリーを読むと、高地原住民はもっぱら夫婦の営みをジャングルの中や畑の中で行なう。人目につく家では行なわないということらしいが、この番組も「夫婦」とはいえ、性の問題をテレビ・カメラや「夫婦生活の話題」の中から、人目につかない領域に押しやってしまって取りあげない。現代は「性」の時代であると極言する批評家も存在するくらいに、映画や活字の世界ではセックス・アピールがなされているのに、お茶の間のメディアたちはその部分を僅かしか語らない。テレビにおけるセックスの隠蔽は、当然、視聴者・受け手を、娯楽の領域においても、諸体制の中で人間が分裂するように、分裂したものとする。この番組においては、出場者は終始にこにこし、自分たち二人を結ぴつけた「性」を忘れて、一種のパターンに適応していかねばならない。そうでなくては、このゲームは成立しない。ヨハン・ホイジンガーは、すべての人間的行為の基底に「遊び」を見いだしたが、一体、この視聴者番組はやはり一種の「遊戯」なのであろうか。 「遊戯とは、ある、はっきり定められた時間・空間の範囲内で行なわれる自発的な行為もしくは活動である、それは自発的に受け人れた規則に従っている。その規則は一旦受け入れられた以上は絶対的な拘束力を持つ。遊戯の目的は行為そのものの中にある。それは緊張と歓びの感情を伴い、また、これは日常生活とは別のものだという意識に裏付けられている」(ホモ・ルーデンス・第一章)という定義、あるいは、ギリシャ語のアゴーン(闘技)の中に遊戯を見る考え方からすると、この番組は「疑似遊戯」でしかない。ホイジンガーのいう「血腥い死さえ招く闘い」が「遊び」の発露であるという実例は、先頃封切られたドキュメンタリー映画『鎖の大陸』の中に如実に示されていた。奴隷を丘の上に点々と坐らせて、こちらから騎馬の戦士たちが槍を構えて疾走していく。それぞれの目標の奴隷に、傷つけない程度に最も近く槍を投げる遊ぴだが、これが客人をもてなすアトラクションとして行なわれていたことは、まさに「遊戯と危険、不安定なチャンス、冒険、これらはみんな密接につながりあっている」ことを示していたといえる。『夫婦善哉』には、一定の時間・空間はあっても「緊張と歓ぴ」がない。儀式化した固有の絶対的秩序のないのもいうまでもない。いわゆる「みずからの成熟を放棄してしまうような精神のあらわれ」(同・十二章)と呼んだ「小児病」現象なのかも知れない。 この番組のネガティブな第二の点は、ポジティブなものの指摘で「悲愴感・神聖観のまつわりついた夫婦意識がない」といった点にある。悲愴美が、ある意味で従来の「夫婦の思想」を支えるものであったということは、たとえば吉良の仁吉が、義理のために愛妻お菊を離縁するというような悲劇的な夫婦関係にみられ、そこには一つのシリアスな人間関係が強固にあったと考えられるのである。愛情の神聖視や夫婦間の神聖視は、長くわれわれの生活に附随してきたものである。しかし、この番組の「夫婦」に目を向ける時、われわれは全く「夫婦というもの」が神聖でもなけれぱ、また他の介在を許さぬものでもないことに気付くのである。ここでは、夫婦という存在が、その人間関係が、「おかしいもの」「笑いに値するもの」として示される。それは「笑い」の対象そのものではないとしても、「笑いに値する何かを持っているもの」であり、笑いを誘う人間関係なのである。当事者たちにとって真剣きわまる諸体験も、またシリアスな状況の中で行使された愛の告白も、それらはすべて「笑い」に転化されていく。提供されているものは「番組」なのではなく、「大人そのもの」「夫婦そのもの」の「笑い」なのである。ここでは、出場者夫婦を笑うことによって、視聴者自身が、みずからの「大人としての生活形式や内容」を笑いとぱすという自嘲作用さえ生まれてくる。誰にでも解る(夫婦は密閉された人間関係ではない)と先に第三の点で記したが、それは逆に未婚者や子どもたちにも「夫婦とはこんなものなのだ」という安直な観念を植えつける。それは、「笑いの種になるもの」という一面だけの「夫婦」が、納得され把握されるということである。これはサラリーマンを主人公にした映画、あるいはテレビ番組において、未就職世代が、サラリーマンのイメージをそれによって無意識のうちに作りあげることと似ている。ブーアスティンは、「われわれは現実ではなく、現実のかわりに置き換えたイメージに取りつかれている」といったが、それである。 問題は、出場者・視聴者を含めて、夫婦である当事者自身が、いかなる幻影に取りつかれるかということにある。前章において、いったいこれら出場者夫婦は、われわれに何を与えてくれるのだろうか……と記したが、その点が問題である。知的代理人、冒険の代理執行人、苦悩の慰撫者ではなく、それら夫婦の言動が、われわれに安らぎを与え満足感に似た感情を抱かせるというのなら、それはなぜか……ということである。 そのことをあるテレビ・ドラマを検討することから始めてみたい。 3 『男でありたい』……これは1964年度の暮近くにテレビで流された一時間ドラマである。主人公はごく平凡なサラリーマンで、永年の間、一つの会社に勤めている。いまだに係長以上の役職に起用されない。年に一度の定期移動発令にも常に見送りの悲哀を味わい、いつのまにか後輩の社員に追い越されていく。この主人公の特技は「さかだち」で、いつも会社の慰安旅行の時にそれを披露して拍手を浴びている。嬉しい時も悲しい時も、心にわだかまりのある時は、「さかだち」が彼の心を慰める。地球を、つまりこの大地を、自分の二本の手で支えているような気持ちになるから……と主人公は説明する。 ドラマは、この万年係長が、後輩を上役と仰がねぱならぬようになり、要するに、あいつは「さかだち」しか出来ない男……だと思われることに発憤し、自分だって「男でありたい」のだと、特技の「さかだち」をぷっつりやめることが中心になっている。ドラマの結末では、話の解った社長が、その功績を認めて昇進させてやり、それに感動して封じたはずの「さかだち」を主人公が社長室でやってみせる……という一種のハッピー・エンドである。このドラマは、いろいろなことを考えさせる。ドラマ自体は「めでたし、めでたし」で幕になったからいいようなものの、実際の社会生活ではこうもうまく運ぱないだろう。多くの場合は「さかだち」止まりで、それぞれ悲哀を秘めたサラリーマンたちは、自分の特技の中に逃亡しきったままで終る。それは、ある場合は酒であるし、ある場合は麻雀・パチンコの類であり、また日曜大工に励むことや、小鳥や小犬の飼育に生き甲斐を求めるわけである。要するに、人間として自らの生き甲斐を放棄しない限り、誰だって「さかだち」と同質のものが必要なのであって、僅かにそれで主体維持がなされるわけである。 このドラマは、こうした凡俗普遍のサラリーマンを設定することによって、一見、過当競争に充ちた実力中心社会の無カ者を描いているようでもある。また、人間の善意が流通性を失った現代杜会を描いているようでもある。意図するところは、それぞれどのようにも解釈できるし、また、これに類したドラマ・小説の類も多い。しかし、ここで問題なのは作品評価ではなく、ここに描かれたサラリーマンのあり方にある。 自分の生き甲斐を辛うじて支える「さかだち」は、つきつめると、今日のヒューマン・リレーションが、このようなものによってしか成立し得ないというその深い傷口の一端をのぞかせている点につながる。人間と人間を、同僚と同僚を、仲間と仲間とを結びつけ、つなぎ合わせ、一つの有機的な関係を作りあげていたものは、かつて各自の「思想・感情」を伝達する「言葉」であった。もちろん、ここに目くぱせ、愛撫、その他の人間の動作も加わって、人間関係は構築されてきた。しかし、多くの場合、人間同志の結合は言語を媒体としてきた。このコミュニケーションの手段としての言語の神話性は、今日においてもなお、最大のものであるという確信を失っていない。たとえ、それが、もはや仲間集団を結合していく唯一のものでなくなったとしても、それは、かつてと同じように唯一性を保っている。人間は所詮、思想、感情において結ばれるものであること、それを伝達し合うのは言語であること……この確信は、今日、すでにそうした努力を放棄した人々の間においても、なお根強く残っている信仰である。しかし、このドラマの主人公はどうであろうか。会社において、すでに仕事に誠実であるだけでは評価されない。評価されないぱかりか、そのことについて、言語を媒介として、同僚なり杜長なりに話しかけたり、話し合える場が、そこにはすでに喪失している。家庭にわおいて、彼は、同じ問題を、妻や子どもたちにも話しかけない。家庭には、妻の慰撫や子どもたちの思いやりが存在しているとしても、彼の仕事に賭けた情熱や男としての生き方を、誰一人として、そのとおり受け入れて理解してくれるものがないからである。彼は、仕事の世界においても他の人間から断絶し、家庭においても家族から断絶している。人々が、彼を受け人れ、迎え入れてくれるのは「さかだち」を通してである。「さかだち」をする時のみ、同僚は彼の存在価値を認め、その存在に気付くのである。家庭においては、一人のサラリーマンであることを中止し、一人の夫、一人の父親にかえった時にのみ、家族は、彼を受け入れ、彼を理解することが出来るのである。 この事実は、いくつかの意味を含んでいる。現代社会の多くの領域では、「さかだち」のような「遊ぴごと」以外では人間関係が成り立ち得ないのではないか……ということや、また現代の多くの大人たちが、多くの分野に自己を分割する以外には生き得ないことや、職場においても家庭においても、ある意味では疎外されざるを得ないことなどを示している。全人的……にというより、彼は彼のそのままを、今日では誰からも受け入れてもらえないということでもある。 ここで「さかだち」は、すでに生産的な人間行動とははるかに遠く、また逆に「なぐさみごと」と呼ぱれる余技そのものでさえもなくなっている。それは「生」を支えるもの……なのである。「さかだち」は、まさに従来の観念では思い及ばなかったような人間の主体保持法となっている。 さて、忠誠の分裂……会社への忠誠心や家庭への忠誠心、さらに自己の信念への忠誠や職階制度への忠誠心の分裂は、必然的に分裂以前の自己を求める。これは、このドラマの主人公だけではなく、このドラマの哀感を味わうことの出来る視聴者全体、今日の大人に大なり小なり共通する人間的要素である。ドラマの主人公のように、「さかだち」こそやらないが多くの現代人にとって「さかだち」に見合うもの、あるいは「さかだち」にかわるものがクローズアップされてくる。ここに、今日の大人の遊びの領域の問題が浮ぶ。しかし、果して、「遊び」において、大人は自らの疎外感を克服したり忘却したりすることが出来るのだろうか。この点に立ち入る前に、今少し、「仕事」の領域の問題を考えてみよう、それは「努力や誠実は必ずしも報われず」ということである。 4 「男でありたい」と願ったテレビ・ドラマの主人公が、会社に対して決して投げやりな態度を示していたのではないこと、むしろ逆に、誠実に自己の職分を果そうとしていたことは、すでに触れたとおりである。しかし、それにもかかわらず、彼は万年係長の悲哀をなめて屈辱の生活を送らねぱならなかった。このことはひるがえって、今日のサラリーマンの、いや、今日の多くの大人たちの胸中にわだかまる不満や不平と結びつく。かつて、われわれの生活の中には、たとえ、それが裏付けのない空手形のようなものであるにせよ、声高らかに、「末は博士か大臣か」という文句をうたいあげた時代があった。子どもたちは「ぼくは軍人大好きよ、今に大きくなったなら、鉄砲かついで剣さげて、お馬にのって、はい、どうどう」と歌ったし、旧制高校の生徒たちは、「清き心のますらおが、剣と筆とをとり持ちて、ひとたび起たば、何ごとか、人生の偉業、成らざらん」(ああ玉杯に花うけて)と歌ったし、有名な早稲田大学の『都の西北』の中にも「われらが日ごろの抱負を知るや(略)現世を忘れぬ久遠の理想、輝くわれらが行く手を見よや」とある。少くとも戦前に作詞された校歌・寮歌の類はほとんどすべて、「未来の約束」や「偉業の達成」の可能なことをその中に含んでいた。これは日本のエリートたちの歌であって、一般庶民は疎外されたままであった……ということが出来るかも知れない。(そして、その例証として『人情紙風船』や『生まれてはみたけれど』などの映画作品を提示することも可能だとは思う)たとえ、それがエリートの志向を示したものであるにせよ、そのエリートたちが、日本人の代表という位置を占めている限りにおいて、日本の志向、あるいは日本人の願望を表示しているものだったといってもいいだろう。子どもたちの場合も、そこに軍国主義のべールがまつわっているとしても、軍国化した社会状況の中では、「大きくなったら」偉い軍人になる、なれるのだ……という上昇の気運があったといえる。さらにまた、サラリーマン階級は、『東京ラブソディ』や『お茶を呑んでもニュースを見ても』という流行歌の内包しているムードのとおり、相対的にせよ安定した状況に身を置いていた。「月が鏡であったなら」とか、「ああ、それなのに」という歌詞の含んでいる安定した生活意識……それが女の立場、妻の立場から一種の愚痴をこぼした内容のものであるにせよ、その愚痴の対象である男性たちは、身分保証された世界に安住していたことが窺えるのである。 このことは、いいかえると、一定のコースをたどり、一定の努力を積み重ねさえすれぱ、それなりに「報いられるものである」、報いられる結果に到達するものである……という神話が生きていたことを意味する。事実、今日の政局担当者は、校歌・寮歌の表示するとおり、巨大なビュロクラシ一をのりこえて、今の位置に到達したのであるし、現代日本のオピニオン・リーダーたちの多くも、その内容がいかなるものであるにせよ、結果は「努力、報われるものなり」ということを、その立場において示しているのである。そうした「報労必至」の時代があった。中国のことぱに「天知る、地知る、われ知る」ということぱがあるが、誰かが、自分の努力と誠実を知ってくれるはずだ、それはいつか認められるものだ……という信念が生きていたことを意味する。全国の小学校に建っていた二宮金次郎の像もその信念の象徴であるし、また「忠臣蔵」を仇討話としてだけではなく、報復の物語、苦節十年、あるいは臥薪嘗胆の物語として共鳴した点も、われわれの前世代に生きていた「報労必至の精神」を明示している。 しかし、今日、誠実と努力はそれにふさわしい報酬を受けることが出来るのであろうか。いや、受けているのだろうか。 エリック・アンブラーのスパイ小説を引くまでもなく、日本の読書界で輩出した産業スパイ小説をほんの二、三冊も開くだけでよい。新発売の車をめぐって、あるいはモードの色彩をめぐって、体を張って、それぞれの秘密を探ろうとする主人公たちは、その仕事に忠実であれぱあるほど、自己解体をとげていく。非人間化していくのである。これは、フィクシヨンの世界の話だから現実とは違っている……といわれるかも知れない。しかし、産業スパィ小説こそ今日の日本の「報労必至」のイデオロギー喪失ぶりを、もっともティピカルに映し出しているのである。 いや、もっと別の面から「報労不必至」の現状を考えてみよう。 「芸能人で時間あたりにして一番稼ぐのは人気歌手だが、ちょっと人気とヒット曲があれぱ2〜30万円。トップ級になると6〜70万円。へんぴな場所での地方公演ともなったら100万円は軽い。だから1億円の家をたてたといって別に不思議ではない」 「ジャズ喫茶のギャラは、地方のドサ回りに比べて約半値といわれる。一例をあげるなら、守屋浩のぱあい、地方公演のギャラは一日40万円。ところが都内のジヤズ喫茶では、せいぜい15万円どまりである。(中略)格差の大きいところでは坂本九。地方行き一日300万円に対して、ジヤズ喫茶だと10万円台」 これは『ゴシップ10年史――日本人の好奇心10年――』(三一書房刊)の一節だが、今日のサラリーマンの所得を考える場合の一つの対照資料になる。「村田英雄、2,000万円の家」「フランク・水井、3,500万円」「春日八郎の4,000万円」「西田佐知子、2,000万円」芸能人の住居新築にふれた個所を見よ。著者たちは「ゴシップは所詮ゴシップである」「その真ぴょう性についていえぱ、マス・コミが今日ほど発達していなかった十年前、ウソとマコトの比率は七対三ぐらいだった。いまその比率は逆になりかねない」と「はじめに」断っているが、たとえ、この噂話の数字が三割方の真実性しかないとしても、決して僅少の金額ではない。たとえぱ、雑誌『ビジネス』(1965年1月号)は実態調査として『大学卒10年目の地位と月給――8万円課長から3万円平社員まで』を特集しているが、342社(全国の株式上場会社)685名の平均は49,233円である(月額)。上位20社で76,000円台(日本ナショナル金庫等)、70,000円台(東急不動産、キャノン等)、60,000円台(三和銀行、大正製薬、日本楽器等)は占められる。さらに、『京都市統計情報』(64年11月No.114)に従えぱ、35年「25,495円」36年「28,144円」37年「30,952円」38年「33,490円」という市内勤労者の平均給与額が解る。この『統計情報』には産業別平均給与額の明示もあり、金属・繊維・出版等の製造関係では、男平均「60,000円台」女「30,000円台」であり、食品・電気・ガス関係の給与は低い。 統計対比が目的ではないから、細かい図表の明示は割愛するとしても、これらの勤労所得と先の出演料、あるいは『ゴシップ10年史』が巻末に付録のかたちで掲載したタレントの35年度から37年度にいたるラジオ・テレビの出演料を一瞥してみるといい。今日、勤労者と呼ばれる大人たちが、一ヶ月間に努力をつくして稼ぐ以上の所得が、はるか年少の若者たちによって、わずか数回の出演で稼がれてしまうのである。(たとえぱ、一回のR・TV出演科が、坂本九では7,000円、村田英雄では22,000円、朝丘雪路では20,000円、雪村いづみでは150,000円、ザ・ピーナツでは40,000円――すべて35年当時だから、現在はその人気と共にギャラも上がっていることになる) これは何を意味すろだろうか。いうまでもなく、地道で着実な労働の報酬の低さをあらわしているだけではなく、努力や誠実が、それだけでは精神的にも経済的にも、それ相当に報われがたい……ということを示しているのだ。 さらに「努力・誠実」を「報労必至」の神話から引きずりおろすものとして、クイズがある。30分の番組で、いくつかの質問を切り抜けて報酬百万円が提供されたり、時にはお小遣い付きで航空機に乗せられてヨーロッパやハワイヘ行けたり、大は巨額の現金から小は相当の商品にいたるまでを、これらの「お遊び番組」はわれわれに与えてやろうというのである。 「自足」「知足」の観念は、もはや観念でしかない。消費を美化する大衆杜会において、そうした勤労感謝の精神は、祝辞・謝辞・訓話・説諭とはなり得ても、サラリーマンの生活原理とはなり得ない。現状を無視した報労必至の考え方は、生活の安定度の高い人間のことぱとはなり得るが、低所得者においては嘲笑の語でしかない。しかも、それは自嘲のことばなのである。今、誰が、声高らかに「撞くや時代の暁の鐘、文化の潮みちびきて」(明治大学校歌)と歌うのであろうか。 誰も、歌わない。 報労必至の神話の凋落は、無気力なサラリーマンを輩出するだけではなく、無気力な新世代を生む。『20代男性の生活レポート』(平凡パンチ/1964年1月4日号)において、ある社会学者が東京都内20代のホワイト・カラー2000名を調査した結果に、次のようなことが載っている。 「あなたは定年までに今の会社でどれくらいの地位になれそうだと思いますか」という質問に答えて「地位はあがらない。23.3%」「無記入22.7%」の結果のあることだ。「部長16.0%、課長14.4%、重役8.3%、杜長7.7%、係長7.7%」という未来の予測者のつつましい数に比べて、平社員に終るという未来予測者の数の大きさは、もっとも現代を端的にあらわしている。ここでは、すでに努力そのものが放棄されているのである。努力することによって自らの地位を高めようという神話自体が否定されている。誠実であるということは自分の欲望に誠実であるということであり、自分をおし包んでいる社会体制や職場に対してではない。そのことは、同調査の「定年まで今の会社にいるつもりか」という質問に対して「そのつもりだ、33.7%」しか無いことによって推測される。「貯金の目的は何ですか」「なんとなく、20.3%」「結婚資金、19.9%」「買物17.5%」「万一の災厄のため、9.5%」「旅行、4.9%」……なんとなく、そこには生活しているサラリーマンがいる。このことは、もう一段世代を下げて考えてみても同じである。『上を向いて歩こう』で賞をとった坂本九の『九ちやんのツンツン節』は、こんなふうに生活を表現する。ある高校生が女学生と知り合い結婚する。「たった六畳、二間だが、明るい日射しの新世帯」「会社帰りのお土産は、タンクに飛行機、乳母車」この歌詞のあと、もしも男の子が生まれたら、自分の母校に、女の子が生まれたら妻の母校に人学させようと続く。ここには愛し合う男女二人の夢だけがある。そして、会社員であることの意味も、生活を営むことの意味も、ホーム・スイート・ホームを維持することや、子どもを育てるためだけのものとなる。まさに『幸せなら手を叩こう』である。誠実・努力は対社会的・対人間的要因であることをやめて、われわれの台所や病院のベッドの傍にとどまる。 5 誠実と努力は、それ自体にふさわしい報酬を、精神面においても経済面においても生み出すものではないというこの現実は、それにもかかわらず、常に大人たちに対して忠誠を要求する現実でもある。仕事を放棄することは、個人の立場からしても、また、家族の養育の面からいっても不可能なことである。テレビ・ドラマの主人公は、その空白化した生き甲斐を「さかだち」において埋めようとしたが、もっと広範囲な「さかだち」の領域……すなわち、職場と家庭を離れた「遊び」の領域ではどうなのだろう。 ゴルフ、パチンコ、麻雀、囲碁、将棋、映画、スポーツ……。「さかだち」にかわって大人の生活の空白を理めるものは、すぐに幾つか浮んでくる。だが、これらと肩をならべて、時にはこれら以上に、生活の空白を支えようとするものは酒ではなかろうか。「国税庁の計算によると、日本人が一年間に飲む酒は、ざっと820万石。一人あたり約9升。これからあがる税金が一年間に1650億円。日本財政の二割近くは酒が生み出す勘定だ」(朝日新聞社会部編『日本人』)と書かれたのがもうざっと8年前の話。たとえぱ京都市の市民平均支出額の統計で「酒類」の項をみると、「35年/6,822円、36年/6,533円。37年/6,885円」と僅かにしろ支出増の傾向があり、これをみても解るとおり、その記事が書かれた頃に比べて一段と全国の酒の消費量・支出額は増していることが推定できるのである。支出統計には、純然たる酒類購入費目以外に「外食費」として別途支出の項目がある。これの一部も当然、飲食の「飲」にまわっているはずである。(ちなみに京都市の場合、外食費は、35年/11,354円。36年/12,928円、37年/14,953円である。これは月割りにすると、ほんのささやかなものになるが、要するに平均支出額であり、人によっては、月間これ以上の酒類消費があるわけである。なお雑費支出の「教養娯楽費」も、35年/26,286円。36年/26,321円。37年/31,251円と増加していることも、酒類消費支出の増加を推定する手がかりになるだろう)要するに、われわれは年間一人あたり約9升の酒を呑んだか、あるいは現在、それをややオーバーする平均飲酒量を持っている、しかし、それがたとえ一斗をはるかに上まわる酒量であるにしても、量が問題なのではない。われわれの生活の「余暇」の使途の中で、相当に大幅なスペースを酒は占めている。そして、酒が時には、そのまま日本の大人の「遊び」の主位を占めるのではないかということが問題なのである。今日の家庭では生活必需品視する晩酌用の酒はさて置いて、一人で、あるいは二人以上で、職場や家庭から雛れた世界で呑む酒が、それなりに「さかだち」の効用を持っているのではないか……。まずそのことをここで考えてみたいのである。 酒量・酔態は個人さまざまのものであるといえ、そこには明らかに二つのパターンがあると思われる。酒席、酒宴、酒盛りなどの呼ぴ名で通っている「宴会」形式の呑み方と、同類仲間を交えずに唯一人のむ呑み方が、それである。そして、多くの場合、唯一人の酒も、酒場やバーにおいて、未知の客を友人仲問のように自分のぺースにまきこもうとしだり、また相手方のぺースにまきこまれようとしたりする結果になりやすいものなのである。要するに、酒そのものにうつつを抜かす愛飲家はさて置いて、大半の大人は何らかの意昧において「仲間」(呑み友達)を求めるものである。この点、純粋に孤独の遊戯であるバチンコと違っている。(たとえぱ、晩酌の場合でも、妻や子どもが傍にいる方が落ち着いて呑めるという大人。ぼつんと一人で屋台店に坐っている場合でも、屋台の向う側にそこの親父がいるから気が安らぐという大人。そうした「観客」を必要とする大人は多いのである) 「仲間・同輩」は酒の肴のように酒席には必要物である。しかし、それは肴ではなく、呑み手にとって必要な「観客」であり「聞き手」であり、時には「相談役」(教師)でさえある。「うまい酒・たのしい酒宴」は、この二人以上の人間関係が円滑に進行することを意味する。ある意味では職場や家庭で円滑円満に進行しなかった意志の伝達が、ここではスムーズに進行したこと……コミュニケーションが疎外されることなく成立したことを示している。よくいわれることぱだが、「酒にわれを忘れる」すなわち没入無我の境地というものは、集団飲酒の場合、酒席にはべっている仲間との交流が完全に成立したことをいう場合が多い。(あるいは、完全に集団間の意志の交流が成立した……と考えた場合を指す)いわゆる同属への同化現象であり、隣人朋友を自己と同一視する現象である。ここでは、自他の区別が曖昧になる。酩酊のあまりに曖昧になるのではなくて、酩酊のいかんにかかわらず、積極的に曖昧化を志向するのである。職業、職責、職階、趣味、趣好、家族の有無も、時には問題でなくなる。要するに自己の属性と考えられているもの、それらすべてを曖昧化し、無視することによって他人と結ぴつこうというけなげな努力が、酒席・宴会には大なり小なりつきまとうのである。この同化性をさらに前進させ、完全なものにしようとして採用される方法が「歌」である。「かくし芸」である。放歌高吟と素人芸の披露は、宴席の人間関係を、あるいはコミュニケーシヨンを完成させるための重要な手段となる。とりわけ歌は、一つのものにすべてを結びつける強固な武器であり・同化の完成に拍車をかける道具となる。しかし、どこに同化するのか。どのような精神状態に同化すれぱいいのか。 酒席には必ずしも思想傾向において、また感情の反応度において、同質・同等の人間が列席するとは限らない。多様な個性を持った人間が多様な生活背景を持って、自発的に、また偶然に、その構成メンバーとなっているに過ぎない。ある場合には仕方なしに、義理や人惰のしがらみにとりつかれて、また、商談や必要事のために一座を構成する。とすれぱ、当然のことながら、そこには同化のグルンドが必要となってくる。思想傾向を問わないでいて同一化できる場……、それはいうまでもなく、パーソナリティを排除した場である。いかに生きるか。なにをどう考えているか。人生観はいうに及ばず、個別的な美意識、あるいは日常的な好き嫌いまでも時には排除した世界であることが必要になる。ということは、人間の全体参加、人格の全的な参加に制限を加える場である……ともいえる。制限を加えるものは、その一座の暗黙の要求であると共に、参加する個人の自発的要求でもある。自他の生活意識の区別を曖昧化することによってのみ、より完全な「楽しさ」が生まれる以上、これはどうしようもない必要なルールである。職場の機構の中に生きる自己、家庭の中における自己は出来る限り後退して、自己の本質から遠ざかったもう一人の自己が曖昧の化身として前面に立つ。当然、この非本質的自己は、それにふさわしい話題を見出す。話題というよりも、それ自体が同化のグルンドであるような心情の世界。猥談、あるいはゴシップである。猥談は、一見、人間の本質的な性の世界にタッチするようなふりを見せながら、実は、性の非性化した話である。ゴシップも同じく自分たちに関わりのあるように見える話題の相貌をとるが、要するに話し手の何一つ傷つくことのない無責任な放言である。非性化された性といい、噂話といい、それらは所詮、疑似セックスであり、無関心である。これらは、酒席に個々人が、人格の部分参加しかしていない故に、もっともふさわしい話題といえる。そして、これらが醸成するイムパーソナルなグルンドこそ同化のグルンドである。 ホワイトは、その『オーガニゼーション・マン』の中で、「集団への帰属には深い情緒的安らぎがある」「そこには(というのは集団の中には)常に人間が帰属しなければならず、またもし、彼が、なまじっか不完全にしか帰属していない時は不幸であるはずだ――という共通の論理がみられる」(第四章・帰属性)といったが、このことぱは酒席の論理にも当てはまる。もし誰かが、個性を放棄することを拒否して、その結果、同化の完成を妨げた場合には、また、一座の非個性的雰囲気に部分的にしか同化できなかった場合には、その人間に対して「話の解らない奴」「つきあいの悪い奴」という評価が下されるし、同化できなかった人間も自分で不安な気持ちにかられるのである。 およそ今日の大人の遊びの中には、多少なりとも逃亡意識があり、職場や家庭、あるいは国家体制、宗教その他の並行する諸集団の忠誠要求にはさまれて、主体性を保持しかねるところから志向されたものが多いことは、すでに述べたとおりである。酒は、その一つのサンプルであって、出来ればそれにアプローチすることによって、疎外された自己を僅かにでも取り戻したいと願っているわけである。すなわち受け入れられざる自己を「受け入れる場」、分裂した自己を「統一する場」……そうしたものが、酒、とりわけ酒の場に求められるのである。そうであってこそ「酒は涙か溜息か、心の憂さの捨て所」とも成り得る。たとえ、上司への忠誠、同輩への忠誠、自己の所信への忠誠、家族への忠誠、あるいは国家や宗教や本能への忠誠が、一人の人間の中で混乱をおこし、自己解体の現状にあるとしても、また、それを全的に酒が恢復させるものではないとしても、少くとも、そこにはその解体現象に苦しむ自己を慰撫するものが有るはずである。(と考える)しかし、酒の世界は、その期待に応えるものであろうか。残念ながら、それは「仕事」の世界で抑圧されたパーソナルな面を解放するものではなくて、より後退させるものであることは、同化のグルンドで見たとおりである。集団に同化することにより、酒に没入することによって大人が手に入れるものは、非個性的な自己に他ならない。悩む自己、あるいは考える自己は、傷ついたまま取り残されていく……。 しかし、酒は一人で呑むものだ……という考え方が、そこには、なお残っている。誰に気がねなく自分の金で一人呑む……という神話である。もし、このことぱどおり、酒そのものを味わうだけならぱ、すでに、この小論の論外である。それは食うごとく眠るごとく、呑めぱいいのであって、ここで「さかだちとしての酒」として考えていることとは別次元の問題になる。われわれの主人公は、「さかだち」の万年係長のように、一人で自らを慰め、救済するために酒場に出かけていかなけれぱならない。いや、出かけていく彼は、そこで何を発見するのか。孤立し、しかも分裂した自己を慰撫する女たちと酒なのか。 山口瞳の『江分利満氏の華麗な生活』を読むと、次のように書いている。 「乱世であった。ホステスなんてものはいなくて女給さんがいた。ママさんでなく、おかみさんだった。近頃のホステスとは、お嬢様である。お嬢様ならお嬢様らしく、客の煙草に火を点けたりしない方がよい。近頃のホステスは煙草に火を点けることの出来る『人間貸植木』である。自分の膝小僧ぱかり気にしている。自分の衣裳、自分の化粧にしか関心がない。客に遊ぱせて貰おうと思っている。面白い話をしてくれる客がいい客なのだそうである。美しくて坐っているだけなら、貸植木と同じではないか。貸植木なら8万円で済むが、人間貸植木は月給10万円も珍しくない」(続・大日本酒乱之会) 今日の大半の大人は、まず、こうした酒場に入るにも財布の中味と相談する必要がある。また、入ったら入ったで、そこでも二重の疎外感におち込んでしまう。精神面で慰撫されるどころか慰撫する役割にまわらなけれぱならない。それぱかりか、「遊び」を必要とする大人たちよりも、はるかに高給な使用人がそこには存在する。「ホステス新春大募集。収入の安定するオール固定給制です。6万円〜10万円支給」これは新聞広告の一例だが、たとえ、これが字面だけの釣り文句だとしてもこれを見る大人たちの心境は複雑である。芸能人のギヤラを前にして、自らの労働の報酬の少さに今さらながら思い到るのと似ている。(たとえぱ昨年度、朝日新聞の夕刊に囲みの連載記事として載つた『盛り場』のEには、大阪ミナミのあるバーの収支明細が報告されている。その中に「五人のホステスの日給は平均1,500円。週休制だから月26日として19万5千円。バーテンは月給制で3万円」というのが記されていたが、これを見れば一人当り約4万円の月収だから、さほど多くないようにも見えるが、前章で触れた『大学卒10年目の地位と月給』には3万円台の平社貝が底辺に沢山いるのである)ここでも大人たちは、職場での矛盾とは異相同根の矛盾にぶつかるのである。数年あるいは十数年にわたる地道な努力や誠実は、果していかなる価値があったものなのか……。「江分利満」に仮託された山口瞳の感慨にもあるように、そうした報労不必至の心境にもかかわらず、彼は「おもしろい客」にならなければならない。いい客たらんと、ある場合には勤めるのである。おもしろい話。ホステスを喜ばす冗談。それはまさしく「勤務」であり、職場での努力、家庭での奉仕と変わるものではない。すなわち「宴会」において同輩・仲間に同化するために、イムパーソナルな存在と化したように、ここでも、彼の個性を締め出さねぱならないのである。苦悩や空漠たる生活感情の慰撫・充実を求めつつ、逆に、それらをさらに胸中深く押し込み抑圧し保持しなけれぱならない。要するに、酒においては、自らを非個性化し、非個性に徹することによってのみ一時的救済は訪れるのである。そして、これは疎外感の克服・解決ではなく、それを克服し解決する時期を、少しずつ向うに引きのぱすことに他ならない。 6 さて、問題は、『夫婦善哉』のポジテイブ・ネガティブな検討にはじまり、テレビ・ドラマから今日の「報労必至」の喪失現象、さらに、酒席の内容にまで立ち入って考えてきたのはなぜか……ということである。それは一言でいえば、今日の大人が、その労働の場でも、また遊びの領域でも共に疎外されているということである。そして、その結果、そこから当然のことながら、自分の現在のあり方に深い疑問を抱き、(時には漠とした形で感じ)その不安定な心情を、そのまま肯定してくれるものを見出そうとすることである。『夫婦善哉』が、多くの視聴者を引きつける魅力の裏側に、こうした不安定な大人の状況があるということでもある。 しかし考えてみれぱ、今まで取りあげてきた大人たちは、すべて男性である。果して、女性においての疎外感は無いのかどうか。このことを端的に示したものとして二つの作品が浮びあがってくる。一つは羽仁進の演出した『彼女と彼』であり、今一つは、松山善三の書きおろした『おこりんぼ』(65/1/3放送テレビ・ドラマ)である。前者は団地を舞台にした物語であり、主人公は若い人妻である。そこでは自己の誠実や努力が体制の壁や「報労不必至」の壁にぷつかって分裂するかわりに、幸福とは何か……という問題になる。愛する夫を送り出した妻は、後片付けをやり、洗濯をやり、買物に行き、やがて夕餉の仕度をする。夫の帰宅。雑談。就寝。くる日もくる日もそれは続く。この単調な、しかも右も左も前も後も同じ壁に囲まれた「日常生活」の連続。いったい、これで幸せなのだろうか。そのやり切れなさに耐えかねた妻は、深夜、意味もなく隣との仕切りを作っている厚い壁を拳で叩く。物語は、主人公の妻が「日常性から脱出」しようとして、ルンペンのような男に近づき、それを夫が理解できない状況の中で展開するのだが、ここには、ある意味で女の疎外感が表現されている。(これとよく似たテレビ・ドラマが、NHKから藤田まことを起用して放送されたことがある。この場合には、妻が単調な生活をイコール幸福とは考えられないで、飼っている小鳥を逃がしてしまった。この行為は、先に紹介した『男でありたい』の「さかだち」と同じなのである) 『おこりんぽ』の方は、中年過ぎた女が主人公になる。息子も娘も一人前に成長し、結婚し、子どもを作り、家を出てしまった。夫は仕事が終ると、好きな酒を呑んで帰るのでいつも遅い。一人ぽつんと取り捨てられたような女の座。主人公は、そのやり切れなさをヒステリーとして表現する。少しのことにも腹を立て、夫や子どもたちの困り者となっていく。ドラマの結末は、主人公の夫が、「おまえには、おもちゃが必要だったのだな。どうだ、一つ働きに出ないか」ということで終るのだが、夫への献身、育児、それらが一切終ったあとにくる無目的な女の立場が、ここでは巧みに提示される。『彼女と彼』の場合も『おこりんぽ』の場合も、つまるところ、これでいいのか……という不安定な心情の表現である。そして、これら、いずれの人妻も、自らの力でそれを解決し得ないのである。前者の場合、その悩みを問いかけ、それ自体の追求にのり出すことが必要なのに、「壁を叩く」という別種の行為にすり替えられる。後者の場合も、娘の亭主の世話を、娘以上にやってやるという行為で埋めようとする。ドラマでは、それぞれにふさわしい解決の道が暗示される。しかし、現実の女たちは、このドラマの終った後においても壁を叩き、訳もなく怒りっぽくなったままなのである。夫婦とはこれでいいのか。こんなものなのか。その質問は心の中で繰り返される。出来うるならぱ、この不安定な状態が間違っているのではない、それでいいのだ、そんなものなのだという保証を手に入れたいと考える。いずれにしても現状を切り替えることは怖しい結果を生み出すものである。なにはさておき、この現状を肯定するものを見出したい。その探求が先行する。そして、この女たちの、いや、男たちを含めた大人たちの不安定な心情に、それをそのまま肯定するものとして現われるものが『夫婦善哉』なのである。 『夫婦善哉』の与えるものは、何となく生き抜いてきた夫婦たちの安心感である。保証であり肯定である。多くの男性たちが、酒宴たけなわにいたって「かくし芸」を披露し、歌を歌い、万座の拍手と笑いで支えられることに通じる。宴会における大人の自己表示とは自己の道化性を提供することであった。「お笑い」のまととなることであった。『夫婦善哉』もまた自らのシリアスな体験を、「お笑い」に転化することにより視聴者の拍手と笑いで支えられる。これらに共通するものは、パーソナルなものの放棄、イムパーソナルな面の徹底である。もし、『夫婦善哉』において出場者夫婦が、「夫婦とは何だろう。これでいいものなのか」と問いかけたり、自已の仕事の悩みや家庭での異和感などを語り出したならぱ、それはもう『夫嬬善哉』ではない。また「お笑い番組」ともなり得ない。 マイクの前に立っているのは、部分的人間である。夫にせよ妻にせよ、それぞれの仕事の場でエキスパートであることは、ここでは排除される。個性、あるいは特殊性は脱落して、唯の一組の大人である。社会的地位、仕事への情熱、現存諸集団内での忠誠の分裂、思想傾向、それらは一切、ここでは不要の属性である。唯「愛しあった」「愛している」部分化された人間として提供されるのである。それはことぱどおり「提供されている」。出場・登場・紹介されるというよりも「お笑いの対象」として提供される。しかし、これは、なにも、この番組固有の性格ではない。『おやじ万歳』というインタビュー番組も『アベック歌合戦』も、みな人間の、人間による人間のためのお笑い提供である。親子の関係が、 恋人同志の関係が、夫婦関係同様に「お笑い」の対象として提供されるのである。 職階制度の中で、政治的混乱の中で、また扶養義務や子どもたちとの世代的ずれの中で、不安定にしか自分たちの立場を維持し得ない多くの夫婦たちにとって、『夫婦善哉』の夫婦は、一種の安らぎを与えてくれるのだ。そこに出場している夫婦たちも、おそらくは自分たちと同じ矛盾の中に生活をしているに違いない。それなのに、そのことを問いかけたりはしない。僅かな給料であっても、小さなアパート暮らしであって、子どもが次々と離れていって今は二人だけの生活であるにしても、ともかく、それらを問いつめることなく、その生活を「夫婦よきかな」と肯定して立っているのだ。内省的な面を取り去った夫婦。個別性や特殊性を排除した夫婦。それが共感を呼び、共鳴に値する夫婦なのである。ホワイトは「個人は自由な選択という重荷を解決してくれそうな権威を無意識のうちに求める」(オーガニゼーション・マン/五章・一体性)といったが、それは「集団」に関する考察のことぱであるとはいえ、ここでも当てはまる。夫婦とは何か。これでいいのか。そうした内面の声に耳を碩けて自らの手で自らのあり方を考えてみることよりも、そこに在る自らに似たもののうちに自らをゆだねることの安らぎ。出場者夫婦は、多くの視聴者夫婦にとって、自分たちのあり方をうべなう代表選手というわけである。 7 夫婦・親子・恋人という人間関係が、権威・神聖意識・純粋性をそのうちに含んでいると考えられた時期は久しきにわたる。この価値観は、人間関係が見世物として成り立っものだと解った時から変質をはじめている。すなわち、夫婦・親子・恋人のショー的提供は、(夫婦善哉・おやじ万歳・アベック歌合戦などの)明らかに一つの価値転換である。それらはシリアスなもの・悲しみや感動を誘うものから、笑うことのできるもの・笑うべきものに変わってきたのである。マーガレット・ミードは、その移りゆく世界における両性の研究『男性と女性』の中で、男性の役割、労働の担当者、育児、結婚、女性のあり方などを未開人の生活構造の中にさぐり、それらの多くは社会的発明にすぎないことを論じたが、ここでいう価値観も、究極は特殊な社会構造の結果であろう。本来、先天的に内在していたものが質的変化をとげてしまった(あるいは、とげつつある)というものではないだろう。やがて、それらの人間関係も、さらに異質の認識対象となるか、それとも再び旧来の価値観に定着するか、いずれかであろう。しかし、ここには、今、従来の観念では見ることの出来なかった一つの変化があらわれている。地道な努力や誠実性の価値の下落。遊び自体が労働に数倍する報酬を受ける社会構造の現出。その格差を理めることが出来ずに遊びに逃亡する大人の増大。それは「レジャー」とよぱれることによって本来の慰安性や解放観を喪いつつある。 もちろん、それは大都会に集中的に現われただけの現象であって、日本の僻地やマス・カルチャーの浸透度の遅い地域では、まだまだ旧来の価値観が横行しているのかも知れない。たとえぱ『あの人は帰ってこなかった』(岩波新書・岩手県戦歿者の妻の記録集)などを読めぱ、そのことが解る。そこでの夫婦や親子は、「笑うべきもの」であるどころか、悲しむべきもの、痛ましいものとして報告されているからである。地道な努力と誠実さだけが地域社会を通行する手形として意味を持ち続けているのである。「遊び」の中でも疎外される前に、「遊び」そのものから疎外されているのである。だが視聴者参加番組と銘うった『アベック歌合戦』や『夫婦善哉』の類が、繰りかえし親子や夫婦や恋人たちを「お笑いの対象」として、また「遊びの素材」として提供することによって、より広範囲な地域に、気づかれざる価値転換をもたらしていくのではないか。それは夫婦や親子の上にのしかかった拘束的生活意識の解放であると共に、もう一つの不安な生活のはじまりとなるのかもしれない。 さて、「遊び」と呼ぱれるものの人間解放的機能の喪失、それにもかかわらず、そこに「遊び」を見ようとする今日の大人、その不安定性を正当化するために暗黙のうちに疑似代表を「お笑い番組」の中に見出そうとする夫婦たちと、ネガティブな面ぱかり触れてきたわけだが、そこには全くポジティブなものが無いわけではない。そこには……というのは、遊びの抬頭と夫婦のあり方の面で……という話である。たとえば、武田泰淳は30組以上の夫婦をインタビューした記録『日本の夫婦』(前出)の中で、次のような夫婦を紹介しているのである。 「貯金もせず、子どもも作らず、もっぱら遊びたいだけ遊んでいる一組の夫婦を紹介する。たまの休日をのんびりと楽しむといったそんななまやさしいものではない。彼らにとって、人生の目的は遊ぷことにあり、そのためにこそ、全精カを傾注して悔いないのである」 紹介されているのはヨットに生き甲斐をかけたある若夫婦の場合である。遊ぴを完全に実行するため、会社もやめ、女房の収入とフリーの仕事の報酬で、スキー、ヨットとフルに行動する。それは「まるで厳格な労働の変種のように思われてくる」くらい計画的で合理的な意識で貫かれている。この夫婦をポジティブな面として取りあげるのは夫婦生活を遊ぴと結びつけたというような、そんな表面的な理由からではない。「遊び」というものの意味を、自らの手で見つけ出したことと、夫婦のあり方をモデルやサンプルなしに自らの手で切りひらいた点にある。そこには右顧左眄して自分たちのあり方を保証してくれるもの、肯定してくれるものを求めようとする心情がない。疑似代表に自らを仮託して、不安定な状況に定着する後退性がない。遭難の危機が繰り返しおそいかかってくるにもかかわらず、ヨットに生き甲菱をかける姿は、まさしくホイジンガーが、遊戯の基礎因子として「闘うこと・挑みかかること」と数えあげていることに結ぴついている。 ブーアステインは、アメリカ社会の中で、理想が疑似理想にとってかわり、「価値」もまた「そのもの自体のために評価されるべきもの」という倫理的把握から、一定の集団・グループ内で「特別に、ことに好意的に見られている行為・習憤・制度」といった対人的価値にかわってしまったことを指摘しているが、(幻影の時代・5)この結果、人間行為の規準となって脚光を浴びた同調性の問題は、単にアメリカ社会の病根であるだけではなく、われわれの問題でもある。とりわけ、われわれの遊びの中にみる同化現象や、疑似代表に自らの保証を見いだす今日の大人の問題でもある。とするならば、このヨットのり夫婦にみられる同化性の否定、夫婦善哉的同調性の排除は、それだけで一つのポジティプな新しい価値となりうるのではなかろうか。 (注…これは1965年に書いたものである。それからほぼ10年の歳月が経っている。『夫婦善哉』の司会は、南都雄二の病死のあと、ミヤコ蝶々ひとりの手にゆだねられている。それだけではない。10年前には、ほんの数えるしかなかったこの種の視聴者参加番組が、今では『パンチでデート』『プロポーズ犬作戦』『ただ今、恋愛中』『新婚さんいらっしゃい』など多数ふえている。「人生」をショー化する傾向はますます強まっている。それはそれで考察に価する間題である。しかし、この10年前の小論は、そうした今日の現象とまったく無関係ではないだろう。ただ、当時の「サラリー」その他数字に大きな違いが生まれているとしても…) テキストファイル化富田真珠子 |
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